月と太陽

高校入学。
それは俺にとって、さらに高い壁を強要される合図でしかなかった。
医学部への現役合格。
親が敷いたレールは、もはや細い糸のように鋭く、踏み外せば足の裏から血が流れる。

__2025年4月7日
桜が散り始めた快晴の入学式。
俺は事前に声がかかり入学生代表の挨拶をすることとなった。
よくある定型文を用いて、壇上にたち、用意した文章を機械的に読み上げる。
壇上のマイクが、俺の無機質な声を増幅して体育館に響かせる。
拍手の音でさえ、俺を閉じ込める檻の格子が組みあがる音に聞こえた。
前を見渡すと俺が教えた通りに、俺の背中を追って同じ高校に来てくれた恭汰だけははっきりと目に入れることができる。
クラスは別だが廊下ですれ違う時、一瞬だけ合う視線。
恭汰の瞳は、出会った頃と同じように真っ直ぐで、濁りがない。
その光が眩しくて、俺は咄嗟に目を逸らしてしまう。
俺の影が、あいつの純粋な光を汚してしまわないように。
櫻井玲音の隣という重荷を背負わずに済むように。
あいつは自由だ。俺という鎖がなければ、もっと別の明るい世界に行けたはずなのに。
俺が恭汰をこの進学校へ、この窮屈な世界へ引きずり込んでしまったのではないか。
そんな後悔が、胸の奥で黒く澱んでいった。

入学式のあと、クラスで後ろの席だった中村と仲良くなれそうな感じだった。
普通だったらこの後みんなご飯食べに行ったりして親睦を深めると思うが、
俺は今日すら塾のため、解散後そそくさと教室を後にして通いなれた塾へ向かう。
塾の自習室。部屋の空気はいつも冷たくて、研ぎ澄まされた刃物の匂いがする。
イヤホンで耳を塞ぎ、外の世界を遮断する。
ペンを動かす音、ページを捲る音だけが俺の鼓動だ。
それ以外の音を聞くと、自分が櫻井家の最高傑作」 ではなく、ただ壊れかけの機械であることを自覚してしまいそうで怖かった。
親からのメール通知がバイブレーションで机を叩くたび、心臓が跳ねる。
「今日の進捗は?」「模試の結果はいつでるの?」
画面を伏せ、イヤホンを耳の奥まで押し込む。
俺は、思考を数式と英単語で埋め尽くし、自分という人間を消し去るように作業に没頭した。

__2025年6月12日
梅雨も本番。
空が暗い日が続き、太陽の顔を数日見ていない気がする。
夜も厚い雲が空を覆い、太陽と同じく月も陰って見える。
俺はいつも通り恭汰の部屋に向かう。
俺の月はいつもと変わらずここにあって、光輝いている。
「…玲音?なんか最近やせた?飯食ってる?」
部屋に入った俺の顔を見て話す。
「んー飯は家に用意されてるの食ってるけど、あんま美味しくないからあんま進まないかなー」
「なんだよそれ、お前のかあちゃん料理下手じゃないだろ」
「そうじゃなくて、なんか咀嚼がめんどうというか…」
「相変わらず人間味のねぇやつだな、ちょっとまっとけ」
そういうと恭汰は部屋をでて、階段を駆け下り、しばらくして戻ってきた。
咀嚼が面倒だ、という言葉に嘘はない。
家の食卓に並ぶ食事は、どれも栄養素の塊にしか見えない。
母親が丹念に作ったはずの料理も、俺の下の上では冷たい砂のように崩れていく。
「ほら、これ食えよ。家にあったやつだけど。あとお前これ好きだろ?」
恭汰の手には皿の上に乗った不格好なおにぎりと結露したペットボトルのコーラ。
「…ありがとう。コーラ好き」
受け取ったおにぎりは、まだ恭汰の手のひらで熱を持っていて、驚くほど柔らかかった。
一口食べると自分でもびっくりするくらいおいしかった。
ツナマヨの脂っぽさと、お米の甘味、そして恭汰が握ったという事実。
砂のようだった俺の世界に、一気に色彩が戻ってくる感覚。
喉の奥が熱くなり、詰まっていた感情が、そのおにぎりと一緒に胃の中に落ちていく。
「…死ぬほどうまい」
本当は、死にたいくらい絶望している今の俺を、このおにぎりだけが「生」に繋ぎとめてくれている気がした。
特別空いていなかったお腹も、食べ進めれば進めるほど空腹になって、その隙間をコーラが満たしてくれた。
がぶりついて食べる俺を見て恭汰はクスクスと笑っている。
「そんなにうまいか?ただのツナマヨのおにぎりだぞ」
「うん、めっちゃうまい。これ作ってくれたの?」
「おう、俺特製のツナマヨ。うまいに決まってる」
「うん。死ぬほどうまい」
二つあったおにぎりを食べ終えるころには俺のお腹も心も満たされていた。
生きている。俺は今、この部屋で、確かに息をしている。
「そういえば、明日郊外学習だろ?一緒に回れたりしないのかなー」
恭汰はしおりを見ながら俺に問いかける。
「…無理じゃないかー?どうせクラス行動だろ」
「そーだよなー、山登って、飯盒炊飯してって中学生みたいだな」
「まあ、親睦はかれってことだろ」
「なるほどな、玲音はクラスになんか仲良さそうな奴いるよな」
「あー中村?あいつ同じ大学志望だから一緒につるんでるだけだよ」
「そっか、…まあ友達いてよかった」
「なんだよ、俺だって人付き合いくらいできるわ、そーゆーお前は結構目立ってるし、つるんでる奴らも多いだろ」
「別に目立ちたくて目立ってるわけじゃねぇよ、見た目か?」
「見た目だな、中身赤ちゃんのくせに」
「赤ちゃんっていうな!お前食ったなら家帰れよ」
「ごめんて、…ごちそうさま。ありがとう。おいしかった」
「おう、んじゃ明日な。おやすみ」
さっきまでのツナマヨの味、恭汰の笑い声。
それらすべてが夢だったかのように急速に遠ざかっていく。
大きな月を背にして、俺は自宅へかかる橋をゆっくり渡って暗闇へ戻る。
一歩、自分の部屋に足を踏み入れるたび、身体が鉛のように重なっていく。
明日になれば、また「櫻井玲音」という仮面をかぶらなければならない。
次に恭汰の味を感じられるまで、あと何日、この息苦しい水底で耐えればいいんだろう。
暗い自室のベットに倒れこみ、俺はまだ微かに残るツナマヨの匂いを、自分の指先から探していた。

__2025年6月13日
久しぶりの太陽の光が部屋に差し込み、
まぶしいほどの太陽が、かえって疎ましかった。
窓の先には俺より早く恭汰が動く影が見える。
荷物をリュックサックに詰め、リビングに降りると、母親が朝食を用意していた。
夜勤明けの母親は目を赤く充血し、その視線は俺を労わるものではなく、ただ期待通りの成果を監視するセンサーのようだった。
出されたトーストを一口かじってみても、昨日感じた炭水化物の甘味はなく、
無機質に喉を通り過ぎていく。
恭汰の部屋で食べたおにぎりは、あんなに命の味がしたのに。
母親が焼いたパンは、まるでお供え物の石のように固く、俺の味覚を拒絶した。
「今日校外学習なんでしょ?…まったく意味あるのかしらねー?」
母親の言葉が、耳の奥に刺さる。
一分一秒を惜しんで問題を解くこと以外、俺の人生には価値がないと言われているようだった。
俺は「そうだね」と心の死んだ肯定を返した。
一秒でも早くこの場から去りたくて、口いっぱいに詰め込み、砂のような朝食を胃に流し込んで家を飛び出した。

移動中のバスの中は退屈でずっと流れていく景色を眺めていた。
現地についてもクラス行動で、頭を白くしたまま一歩一歩山を登る。
山を登るほどに、空気が薄くなっていくのを感じる。
クラスメイトの騒がしい声が、遠い世界の出来事のように響くなか、俺は自分の足音だけを数えて歩いた。
山頂につく頃、普段の運動不足を感じるほど、足は鉛のように重くなっていたが、不思議と呼吸だけは家にいる時より楽だった。
お昼ご飯の飯盒炊飯は定番のカレー。
班ごとにブースに分かれ作業をしていく。
喧噪の中、隣のブースに恭汰がいると気づいた瞬間、俺の視界にだけパッと色がついた。
目が合うと口角を上にあげ、口パクで「俺のがうまい」笑う。
その子供じみた挑発が、どれほど俺のささくれだった心を撫でてくれるか、あいつは知らないだろう。
カレーなんて誰が作っても同じだろと思いながら、切った材料たちを火にかけようとすると、
コンロに火がつかないことに気づいた。
先生と現地の人に見てもらったが治る様子はない。
「しょうがないわね…、櫻井くんたちの分は隣のブースの班と合体して作りましょうか」
先生の提案で、恭汰の班の鍋に俺らの分も入れることになった。
コンロの故障。それは俺にとって、神様がくれた小さな奇跡のように思えた。
別のクラスの班ということもあり、少し気まずい空気が流れたが、
恭汰が仕切ってうまくやってくれた。
「あー、櫻井?カレーのルーいれてもらってもいい?」
「おっ、おう。これ全部だよな?」
恭汰から呼ばれる聞きなれない「櫻井」という名字。
周りに目を気にした余所余所しい呼び方が、逆に俺たちに秘密の共有を際立たせる。
ルーを鍋に入れる際、指先が微かに触れた気がした。
「よかったな、俺のカレー食えて」
小声でささやかれた言葉に、俺は平然を装って返す。
「食べようと思えばいつでも食えるだろ」
「わかんねぇぞ、一生食えないかもな」
恭汰の軽口が、心臓の奥に冷たい棘の様に刺さった。
一生。あいつは笑いながら言ったけど。俺にはそれが「いつか終わるこの時間へのカウントダウンのように、聞こえってしまった。
出来上がったカレーを各々さらに乗せ、テーブルに並んでみんなで食べる。
一口一口、口に運ぶ。
飯盒で炊いた少し焦げ臭いごはんと、恭汰が雑に切った不揃いな野菜たち。
それは食卓には並ばない、不完全な食事だった。けれどどうしてだろう。
のどを通るたび、体温が内側から上がっていく。
砂のようだった俺の身体に、恭汰の体温が溶け出したカレーが染み渡っていく。
また俺は恭汰に生かされた気持ちになった。
「うまいか?」と覗き込んでくる恭汰の顔を見上げながら、俺はただ「…普通」と噓をついた。
本当は、この一口を飲み込むのがもったいないくらい、自分という人間が満たされていくのを感じていた。

__2025年8月21日
アスファルトが陽炎で揺れ、セミの声が頭蓋骨を直接叩くような午後。
俺は、朝から夕方まで冷房の効きすぎた塾の自習室にいた。
自習室の空気は、外の酷暑とは正反対に、死体安置所みたいに冷え切っている。
目の前の参考書を解き続ける俺の指先は、感覚を失うほど冷えていた。
成績という数字だけが、俺の価値を証明する唯一の手段。
夏休み。
周りの奴らが海だ、祭りだと浮かれている間、俺の時計は4月から一歩も動いていない気がした。

「玲音、お前またそんなに冷たくなって」
塾からの帰り、いつもの21時、窓をまたいで恭汰の部屋に行くと、開口一番俺にそういった。
俺の手を取る恭汰の拳は、夏休みの太陽をたっぷり吸いこんだみたいに熱い。
「塾の自習室寒かったからかな」
「ほどほどにしとけよ…、マジ。ほら今日はこれ食っとけ」
恭汰が差し出したのは、俺が子供のころによく食べていたチョコ味の二つに割れるアイスだった。
プラスチックの断面が少し鋭くて、口に含むとチクリとした。
甘ったるいチョコの味、それが氷が解けるみたいに俺の凍り付いていた思考をゆっくりと溶かしていく。
温かい飲み物で手先を温めるより、昔の俺を覚えててくれてる事実が、心から温まる気がする。
「…うまい」
「夏と言ったらこれ食べてるイメージ」
恭汰も自分の分を食べながら床に寝っ転がった。
窓から入ってくる夜風にはかすかに誰かが庭でやった花火の火薬の匂いが混じっている。
俺の知らない外の夏の匂い。けれど、恭汰の隣でお揃いのアイスをかじっている今の時期こそが、俺にとっての夏だった。

恭汰の部屋から自分の部屋に戻るとき、俺はいつもこのまま朝が来なければと願う。
窓を跨いで自分の部屋に足をつくと、足元から現実という冷気が這い上がってくる。
机の上に置かれたままの、親がチェックした模試の解答用紙。
赤ペンで書かれた『ケアレスミスに注意』という冷酷な赤い文字。
「…恭汰」
月明りだけが差す暗闇の中で、小さくあいつの名前を呼んでみる。
口の中に残ったかすかなチョコの味が、唯一の証拠だった。
俺は明日もまた、櫻井家の「最高傑作」を演じるために、冷たい歯車の一部に戻っていく。
この夏が終わるころには、俺の中の何かが完全に死んでしまうんじゃないか…。
そんな予感を、湿った夜風が連れ去っていった。

__2025年8月28日
建物の改装かなんかで、夕日が沈む前に塾を追い出された帰り道、中村と駅まで歩く。
彼は俺の顔を見て、少しだけ眉を下げた。
「なあ、櫻井って高一から詰めすぎじゃない?…たまには息抜きしなよ」
中村の言葉は正論過ぎて耳痛い。
息抜きの仕方なんて、恭汰の部屋に行くこと以外知らない。
俺はプログラムされたロボットみたいに「大丈夫だよ」と笑って見せた。
けれど中村の瞳に写る俺の顔は、自分で驚くほど生気がなく、どこか遠い場所を見つめている虚無の顔をしていた。
中村と別れ、虚無感を抱えたまま恭汰の部屋へ窓を跨ぐ。
恭汰はベットの上で、使い古した単語帳を枕にしながら天井を見上げていた。
「…玲音、夏休みもう終わるぞ」
恭汰が体を起こし、真剣な顔で俺を見る。
「宿題も終わったし、あとは模試の結果待つだけだ」
「そうじゃねぇよ、お前、この夏、塾と家以外でどっか行ったか?」
言葉に詰まる。
俺の夏は蛍光灯の明かりと、無機質な数字の羅列だけで埋め尽くされていた。
「…ここしか来てない」
「だと思った。よし、行くぞ」
恭汰は迷いのない動きでリュックをつかみ、俺の腕を引いた。

向かったのは俺たちの通う高校だった。
暗くなり静まり返った校舎は、昼間の喧騒が嘘のように巨大な墓標みたいに立っている。
「おい恭汰、…捕まったらどうするんだよ」
「大丈夫だって、あそこのフェンス、鍵ガバガバなの知ってんだ」
心臓がうるさいほど跳ね上がる。
医学部を目指す優等生がやるべきことじゃない。
けれど、恭汰の背中を追ってフェンスを乗り越えた瞬間、俺を縛り付けていた透明な鎖が、音を立てて千切れた気がした。
俺たちは誰もいないプールの脇を抜け、屋上へと続く外階段を上がった。
「ほら、見てみろよ」
屋上の隙間から滑り込むと、そこには街の明かりが一面に広がっていた。
遠くのほうで、どこのものかわからない小さな打ち上げ花火が、音もなくパッと開いては消えていく。
「…綺麗だ」
「だろ?自習室の天井よりマシだろ」
恭汰は自販機で買ったぬるいスポーツドリンクを俺に差し出した。
二人でコンクリートの床に座り込み、足を投げ出す。
「なあ、玲音。お前が医者になってくそ忙しくなっても、俺のこと忘れるなよ」
「…忘れるわけないだろ」
「絶対だぞ。お前がどんだけ偉くなっても、俺は窓からお前が来るのを待つし、来なかったら俺から行ってやるからな」
恭汰の笑い声が、夜の風に溶けていく。
俺はその言葉と月と一緒に写る恭汰の姿を一生の宝物にするみたいに、胸の奥に深くしまい込んだ。
いま、この瞬間。俺たちは「櫻井家の息子」でもなく、「高野家の息子」でもなく、ただのどこにでもいる16歳の少年だった。
ぬるいドリンクの味が、これまでのどんな高級な料理よりも鮮烈に喉を潤す。
「…ありがとう、恭汰。最高の夏休みだ」
「なあ、玲音、もうちょっと遊ぼうぜ」
首をかしげる俺の手を取り恭汰は立ち上がり、ゆっくり登ってきた階段を下りていく。
「…プール?」
俺はプールに連れてこられた。
水面には月と俺たちの顔が反射し、小さく揺れている。
「そう。プールお前入ってないだろ?」
「えっ?入るの?」
「当たり前だろ!心配すんな、今日水泳部があったことは聞いてるから水は汚くない!」
「そういう問題じゃないだろ、着替えとか持ってきてないし」
「ああぐちゃぐちゃうるせえ。ほら行くぞ」
恭汰に手を再度取られ、重力から解き放たれる。
水面に叩きつけられた衝撃とともに、視界が夜の青に染まった。
一瞬、耳の奥でゴボリと泡が弾け、地上の喧騒も、親の小言も、模試の数字も、すべてが水に溶けて消えた。
水中で目を開けると、そこには月光を透かした揺らめく光の中に、恭汰がいた。
気泡を纏いながら笑うあいつは、まるで深海に迷い込んだ光の魚のようで、手を伸ばせば指先から溢れてしまいそうなほど、残酷にきれいだった。
水面に顔を出すと、夜気は驚くほど冷たく、けれど恭汰に掴まれた腕だけが、熱を帯びていた。
「夜は流石につめてぇ~」
頭を振って水を切る恭汰の飛沫が、俺のほほを叩く。
俺も顔についた水を手で拭い恭汰に近づく。
「お前ふざけんなよ、恭汰カナヅチだろ?」
「いいんだよ。お前がいればなんとかなるだろ」
恭汰の手が俺のおでこに伸び、張り付いた前髪を分けられる。
「葉っぱ、ついてる」
その指先が熱い。
校舎の影、プールの匂い、濡れたシャツの重み。
すべてが愛おしくて、叫びだしたいほどの衝動に駆られた。
俺は、自分を張り付けていたすべての理性を水底に沈め、濡れた体のまま、ダメだとわかっているけど、
感情は抑えられなくて、俺は濡れた体で恭汰を抱きしめた。
「おお、玲音?どうした」
「…俺何があっても生まれ変わっても忘れないから、恭汰も俺のこと一生忘れないで」
恭汰の肩に顔を埋めると、心臓の音が重なって聞こえる。
「そんなん当たり前だろ」
「……友達が増えても、恋人ができても、結婚しても、子供が生まれても、ずっと忘れないで」
それは、未来の恭汰を縛り付ける呪いのような言葉だった。
自分にはそんな未来が来ないかもしれないという予感。
あいつが誰かと歩むこれからの数十年のなかで、俺という依存が「ただの幼馴染」として薄まっていくことが、死ぬよりも怖かった。
この時はっきりと分かった。
いままで好きという気持ちがあるのはわかっていたが、
幼馴染として。親友として。なんなら家族として好きだと思っていた。
でもこの好きはきっとかけがえのない一つしかない気持ちだ。
この広い宇宙で、たった一人を、自分自身の命よりも、明日という未来よりも必要としてしまう。
__引き返せない恋だったんだ。

「当たり前だろ、俺らは月と太陽だって」
恭汰が笑って俺の背中をたたく。
その無邪気な当たり前が、今の俺には救いであり、絶望でもあった。
揺れる月が西へ傾き、群青色の空が少しづつ、容赦ない「朝」の気配を帯び始める。
明日からまた始まる地獄のような日々も、この夜の温度と体温があれば耐えられる。
ずぶ濡れの服のままで歩く帰り道。
アスファルトに残る俺たちの足跡がすぐ乾いて消えていくのを、見ないふりをした。
この二人の空間が、自転を止めた星のように永遠に続くものだって、疑いもしなかった。