目を開けると真っ白壁と、
俺の横で頭をベッドに伏せてる中村が見える。
____俺は何をしてたんだ。
身体をゆっくり起こすと中村が気づき、
世界の終わりみたいた顔でこっちを見てくる。
「……高野くん。…その…大丈夫…?」
「…俺…なにが」
中村と目が合い、急に全てがフラッシュバックしてきた。
「…玲音…?あれ、俺玲音に触れなくて…」
「高野くん…」
中村が申し訳なさそうな顔をしながら俺の手を握った。
「高野くん、…櫻井の事は何も知らない?」
「玲音のこと…?よく知ってるよ。頭が良いけど意外と幼稚だったり、コーラ好きでアイスも好きだし、FPSは苦手だけどRPGは得意なんだよ。あと…」
「違くて!…櫻井の-今-を知らない?」
「いま…」
時計の音だけが響く部屋で、
中村が生唾を飲み込む音がはっきり聞こえた。
「…櫻井は……死んだんだよ」
死んだ。
そのフレーズだけやけに強調されて中村と目が合い声が再生される。
真っ白な部屋の中で頭も真っ白になる。
「…3月31日に亡くなったって俺は聞いたんだ。高野くんは何も知らなかったの…?」
その言葉が引き鉄だった。
脳内に張り付いていた「都合のいい幻」が、音を立てて粉々に砕け散る。
3月31日。その日付の引き出しが乱暴に開かれ、隠していた「色」と「匂い」が溢れ出した。
言葉が文字として浮かび上がり、
今まで記憶を改ざんしてたかのように、その日付の引き出しが脳の中で開かれた。
「…そうだ、その日だ」
____2026年3月31日
もう春だってのに、肌に当たる風は冷たくて、
見た目と寒さが反比例している。
桜が満開になり、風が吹く度に頭に花びらが着く。
俺は太陽の窓を全開にして空気を入れ替えた。
_____時刻は21:00
今日もあいつは遅いな。
木曜日じゃないからうちに来ないのはわかってるけど、
木曜日ですら最近玲音は全然うちに来なくなってしまった。
テストの結果悪そうだったから大丈夫かと連絡したら、
既読にもならず、返信もなかった。
学校で目線が合っても、瞳の奥は俺を見ていなかった。
それから毎日遅くまで塾で勉強して、帰ってきても夜中まで明かりはついたままだった。
邪魔しちゃダメなんだろうなと思いあまり連絡しないようにしたが、流石に心配で昨日部屋に入り込んだら小声で、怒られた。
まるで俺のことなんて最初から視界に入っていないような、底の知れない瞳で見つめて。
まぁ親いたからバレたらヤバいって俺もわかっててやったのが悪いんだけど。
結局大丈夫だからと追い出され、今に至る。
ここ半年くらいで玲音の顔つきが変わってしまった気がする。
綺麗で俺の好きな玲音って事には変わりないんだけど、辛そうで、やつれてて。見てられない。
俺はいつも助けて貰ってるのに、玲音は俺に助けられようとしない。
何にも言ってくれない。
好きって言えたら何か変わるかもしれないけど、今言っても逆効果になってしまいそうで怖い。
俺はただ、窓からあいつを見つめる事しか出来ない。
玲音の部屋にやっと明かりがついた。
窓を見つめていると、玲音は迷いなく窓に向かって歩き、窓から身を乗り出した玲音。
あいつは、俺を跨いでくる時のような迷いを一切見せず、ただ重力に身を任せるように、夜の底へ溶けていった。
「あ……」
声にならない悲鳴が、部屋の空気を震わせる。
スローモーションの視界の中で、玲音の白いシャツが、夜風に膨らんで大きな花びらのように見えた。
頭の中は物凄いスピードで今までの玲音との記憶が駆け巡って行く。
心臓の音がうるさく、耳から飛び出そう。
一気に出てきた冷や汗が流れるのを感じながら、
現実を見たくない恐怖心と見間違えじゃないか確かめたい検証心。
恐る恐る窓を開けゆっくりと下を除けば、
血だらけの玲音が地面に倒れている。
辺りは暗いはずなのに、
そこだけ月の明かりが差しているように、ヤケに鮮明に見えてしまう。
周りの草に血が飛び散り、赤黒く染まっている。
どんどん血の海が広がり、このままだと玲音が溺れてしまいそう。
信じられないくらい、ぐしゃぐしゃになり、
首が曲がっては行けない方向に曲がっている。
人って落ちただけで、こんなに無残な姿になってしまうものなのか。
ここまで血の匂いが上がってきそうで、吐き気がする。
人っていざと言う時動けないのは本当なんだ。
部屋の窓から見ることしか出来ない。
でもこのままでいる訳にはいかない。
警鐘を鳴らす心音が階段を駆け下りる音と合い、
玄関を開け、家と家の隙間を見る。
窓から見た景色と変わらずそこには確かに横たわる玲音。
俺の鼻を突いたのは、お風呂上がりの甘いシャンプーの匂いと、それを一瞬で塗りつぶす、生温かい鉄錆の匂いだった。
吐き気を抑えながら俺は横たわる玲音の髪の毛を触る。
芝生に染み込んでいく赤黒い液体。
「……玲音?……何してんの……?俺ん家いこうよ……」
触れた玲音の髪は、まだしっとりと濡れていて、けれどその下の頭蓋は、嫌な感触を伴って形を失っていた。
俺の手は、あっという間に玲音の「命だったもの」で真っ赤に染まり、温かいはずのそれは、夜風に吹かれてすぐに冷たくなっていく。
「恭汰…?すごい音したけど…」
親父が家から出てきて俺の後ろから覗き込んでくる。
「おおおおい!どういう事だ!きゅっ、救急車!櫻井さん家は!?連絡しないと!」
バタバタしている親父とは正反対に俺は全然動けない。
サラサラの髪を撫でているのに、
どんどん流れてくる血に浸り、束となって俺の手も赤く染っていく。
「…玲音?ほら、まだ夜は寒いよ?早く家に入ろう?」
「…恭汰!やめろ!!離れろ!!」
真っ赤に染まる俺の手を親父が掴み、俺を玲音と離そうとする。
「やめろよ!触るな!!俺と玲音の邪魔するなよ!!」
俺は必死で抵抗し、邪魔をしてくる親父を振り払い、玲音と近づく。
その時玲音の母親が来て俺の後ろで泣き崩れている。
多分俺は退かなくてはいけないんだろう。
でも今離れたら一生近づけないから、周りなんて気にしない。
俺はずっと玲音といるんだ。
遠くからサイレンが聞こえ、
明るい赤色で家の周りが染まる。
救急隊の人が俺を玲音から離そうとする。
「すみません、退いていただかないと運べないので」
「離せよ!邪魔すんな!!」
「恭汰!いい加減にしろ!!」
必死に抵抗するが、どうにもならないと思ったのだろう。親父に生まれて初めて殴られた。
そのまま俺は地面に溜まった血の海に倒れ、意識を失った。
あの時鼻についた、甘ったるいシャンプーと混ざった鉄錆の匂いが、今も医務室の消毒液の匂いの向こう側で、俺を呼んでいる気がした。
____2026年6月26日
記憶の一部が戻ってきて、思い出した途端強い吐き気に襲われる。
この二ヶ月半俺は何をしてたんだ。
ただの気持ち悪い奴だ。
「……中村…ごめん」
俺は全てを思い出した上で中村に頭を下げて謝る。
「なんで高野くんが謝るの…?」
中村は静かに涙を流している。
「俺と玲音の間に変に挟ませてしまった気がする…俺ずっと気持ち悪かったよな…ははっまじ申し訳ないわ」
乾いた笑いをみて、中村は更に泣いている。
「そんな…二人とも何も悪くない!…俺はなんもしてやれなかった」
人のために涙を流せるこいつは、本当に純粋で良い奴なんだろう。尚更申し訳ない気持ちと、俺を軽蔑しない目線に少し安心感を覚える。
「俺、ずっと自分がなりたかった自分といて欲しかった玲音を作り上げてただけなんだな…本当に気持ち悪い」
自分でも驚くほど冷めた声が出た。
俺が今まで「玲音」だと思って触れていたものは、俺の罪悪感と執着が作り出した、ただの透き通った孤独だったんだ。
中村は静かに涙を流している。
「…高野くん…」
「…現実見ねぇとな……俺親父にも謝んねぇと」
下を向いて話すが、身体中の水分が無く、涙も出ない。
中村が空気を変えるように、俺の肩に手をおき口を開く。
「高野くん…帰ろ?…東京に」
中村のその言葉が、俺を繋いでいた細い糸を、現実という大地に引き戻してくれた。
そうだ、いつまでもここに居る訳にはいかない。
「そうだな…。ありがとな中村」
中村は首をぶんぶんと横に振り、俺の荷物を持って帰る支度をはじめてくれた。
先生に電話をして、もう合流する事は難しいから二人で直接空港に向かい、皆とは別便で帰ることになった。
帰りの飛行機の中で中村から玲音と出会ってから死ぬまでの話をずっと聞いてた。
俺も玲音と出会ってから死ぬまでのこと全部話した。
「…玲音の墓参り、行かねぇと」
「一人で心細かったら、俺も一緒に行くよ…?」
「ありがとな、決心ついたらちゃんと言うから」
俺とは違うベクトルでも中村もショックを受け、今立ち直ってるはずだ。
俺もいつか受け入れなければ行けない日が来るんだ。
空港に着くと、待ってくれている先生の隣に親父がいた。
泣きながら俺に近づき、ゴメンと一言だけ言いながら強く抱きしめられた。
目も合わせない親父はすぐ離れ、俺の荷物を取り、一人で駐車場へ向かってしまう。
俺は先生と中村に礼を告げて、親父を追いかける。
先に車に乗っている親父の助っ席に乗り、
「…ごめん」と一言だけ伝えた。
返事はなく、そのまま無言で家まで車を走らせる。
空の月は少し欠けて、薄暗く感じた。
家に帰り部屋に入ると、
修学旅行前に感じていた温かさは消え、
暗さとジメッぽさを強く感じる。
二つの窓のカーテンを全部開けて、窓も開けて部屋の空気を流す。
玲音の部屋を窓から覗いて見ても、前と何も変わってない。
俺は玲音の部屋の窓を開け、音を立てないように入る。
玲音の匂いがしっかりする部屋の中を見渡す。
主のいない部屋は、驚くほど冷え切っていた。
本棚には背表紙の揃った参考書ばかりが並び、高校生らしい遊びの痕跡は何一つない。
まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように整然としたその空間に、玲音がどれほど息を殺して生きていたかを知り、胸が締め付けられる。
クローゼットを開けてもいつも着てた同じような服が数着だけしまってあり、他は何にもなかった。
俺が知ってた以上に玲音は無機質な生活を毎日繰り返してたのかもしれない。
机の引き出しの中を開けてみると最低限の文房具と、
ダイヤル式の鍵がかかった黒い厚めのノートが出てきた。
なんとなく気になった俺はそのノートを持ち、家に帰り窓の鍵とカーテンを閉めた。
4桁のダイヤルを俺は答えを知ってるかのように回し、
一発で開いたその音が、静かな部屋に重く響いた。
____0722
ノートを開けると2023年7月22日から数文の短い日記のようなものが日々綴られてあった。
【2023.7.22、久しぶりに恭汰と話した。二人でルールを作った。これでもう寂しくならない。俺には恭汰がいる。】
綺麗な玲音の字で、定期的に書かれている。
「…これ」
気づくのに時間はかからなかった。
書かれているのは木曜日。
そう、俺と会った日に書いてある。
震える指でページを捲るたび、あの日、俺を助けてくれた玲音の、あの大きかった背中が蘇る。
「なんなんだよ……いまさら」
目に月明かりが反射して、視界が滲む。
俺が「太陽」だと思って縋っていた玲音もまた、俺という「月」の光がなければ、暗闇に飲み込まれてしまいそうなほど、震えていたのかもしれない。
____2026年6月27日
明け方まで日記を読み耽り、力尽きるように眠りに落ちた俺を叩き起こしたのは、無遠慮なまでに眩しい初夏の太陽だった。
頂点まで登り詰めた陽光が、窓から容赦なく差し込み、部屋の中の埃をキラキラと躍らせている。
「……はは、眩しすぎんだよ」
全部を読み切るには物理的に莫大な時間がかかるのと、
精神的に読み進めることもできない。
毎週木曜日の玲音の声は一文が短いながらも、想いと願いがたくさん込められている。
昨日まで、俺の隣には玲音がいた。ドライヤーの熱、コーラの炭酸が弾ける音、そして、少しだけ低くなったあの声。けれど、日記の文字を一文字ずつ指でなぞるたび、それらがすべて、俺の壊れた脳が投影した残像に過ぎないことを突きつけられる。
俺は3月31日から今日まで架空の玲音を見ていた。
想いが通じあった玲音は俺の幻覚が作り上げた偽物。
結局俺は玲音に何も伝えられていない。
これから伝えることもできない。
ゆっくりと一文字一文字を指でなぞりながら、
玲音の声で再生して読み上げていく。
そこにある言葉は、俺の幻覚が喋っていた優しい言葉よりもずっと、トゲがあって、重くて、暗い。
あの日から、俺は一歩も前に進んでいない。進んだつもりで、死体を引きずって踊っていただけだ。
結局、俺は本物の玲音に、何一つ返せていない。
日付が変わる頃。俺は家を抜け出し、吸い寄せられるように高校へと向かった。
昼間の熱気がまだアスファルトに残っている。
フェンスを乗り越え、立ち入り禁止の立て札を無視して、プールサイドへと足を踏み入れる。
ここは去年の夏、勉強でいっぱいいっぱいだった玲音を引き連れて、一緒に忍び込んだ場所なのだ。
月明かりを反射した水面は、黒いインクを流し込んだように静まり返り、プールの底は見えない。それはまるで、3月31日に玲音が落ちていった、あの夜の闇そのもののようだった。
「……玲音、見てるか」
俺は靴を脱ぎ、服を着たまま、ゆっくりと階段を降りていった。
冷たい水が足首を掴み、ふくらはぎを浸し、やがて腰を包み込む。
ジーンズが水を吸って重くなり、俺を底へと引きずり込もうとする。
喉まで水が満ちた時、一度だけ空を見上げた。
あの日と同じ月。玲音が見た最後の景色も、こんなふうに冷たくて、他人事みたいに綺麗だったんだろうか。
俺は、肺の中の空気をすべて吐き出し、そのままゆっくりと沈んだ。
耳元で泡が弾ける音が遠ざかり、世界から音が消える。
塩素の匂いが鼻腔を突き、水圧が眼球を圧迫する。
死は、もっと劇的なものだと思っていた。けれど、水底に広がるのは、ただ圧倒的な静寂と、凍りつくような孤独だけだった。
____このまま、息を止めれば。
あいつと同じ場所へ行ける。
真っ白な泡になって消えて、あの夜の底で、本物の玲音に会える。
意識が白濁し、身体の力が抜けていく。重力から解放された身体が、プールの底に横たわる。
その時。
暗闇の向こう側に、玲音の顔が見えた気がした。
でも、それは俺の幻覚が見せていた笑う玲音じゃない。
血を流し、首が曲がり、絶望を湛えた瞳で、俺をただ、じっと見つめている本物の玲音。
その瞳が、俺に問いかけてくる。
「お前、それで満足なのか?」
「……っ!」
激しい動悸が胸を打つ。
そうだ。俺はまだ、何も伝えていない。
手紙を読んだことも。日記の一文字一文字に、どれほど救われたかということも。
玲音がどれほど孤独で、どれほど俺を愛してくれていたかを知った今、俺がただここで無責任に消えることは、玲音を二度殺すことと同じじゃないのか。
「……っ、げほっ!!」
俺は狂ったように水面を叩き、這い上がった。
塩素混じりの水を吐き出し、冷たいコンクリートの上に崩れ落ちる。
肺が焼け付くように痛み、酸素を取り込もうとして身体が激しく痙攣した。
夜風が、びしょ濡れの身体から体温を奪っていく。
「まだ死ねねぇ…」
震える拳で、床を何度も叩く。
あの日、アスファルトの上で冷たくなっていく玲音の髪に触れた時の、あの生温かい鉄錆の匂いが蘇る。
幻覚じゃない。逃避じゃない。
俺は、本物の櫻井玲音という人生を、この胸に刻み直さなきゃいけない。
そして、あいつが眠るあの場所へ行って、俺のすべてを伝えなきゃいけないんだ。
俺は夜の静寂の中で、一人、声を上げて泣いた。
その涙は、プールの水よりもずっと熱く、俺の頬を伝ってコンクリートに滲んでいった。
俺はこの夜、幻覚の玲音を殺し、本物の玲音を抱えて生きていく覚悟を決めた。
すべてを伝えるために。
俺の横で頭をベッドに伏せてる中村が見える。
____俺は何をしてたんだ。
身体をゆっくり起こすと中村が気づき、
世界の終わりみたいた顔でこっちを見てくる。
「……高野くん。…その…大丈夫…?」
「…俺…なにが」
中村と目が合い、急に全てがフラッシュバックしてきた。
「…玲音…?あれ、俺玲音に触れなくて…」
「高野くん…」
中村が申し訳なさそうな顔をしながら俺の手を握った。
「高野くん、…櫻井の事は何も知らない?」
「玲音のこと…?よく知ってるよ。頭が良いけど意外と幼稚だったり、コーラ好きでアイスも好きだし、FPSは苦手だけどRPGは得意なんだよ。あと…」
「違くて!…櫻井の-今-を知らない?」
「いま…」
時計の音だけが響く部屋で、
中村が生唾を飲み込む音がはっきり聞こえた。
「…櫻井は……死んだんだよ」
死んだ。
そのフレーズだけやけに強調されて中村と目が合い声が再生される。
真っ白な部屋の中で頭も真っ白になる。
「…3月31日に亡くなったって俺は聞いたんだ。高野くんは何も知らなかったの…?」
その言葉が引き鉄だった。
脳内に張り付いていた「都合のいい幻」が、音を立てて粉々に砕け散る。
3月31日。その日付の引き出しが乱暴に開かれ、隠していた「色」と「匂い」が溢れ出した。
言葉が文字として浮かび上がり、
今まで記憶を改ざんしてたかのように、その日付の引き出しが脳の中で開かれた。
「…そうだ、その日だ」
____2026年3月31日
もう春だってのに、肌に当たる風は冷たくて、
見た目と寒さが反比例している。
桜が満開になり、風が吹く度に頭に花びらが着く。
俺は太陽の窓を全開にして空気を入れ替えた。
_____時刻は21:00
今日もあいつは遅いな。
木曜日じゃないからうちに来ないのはわかってるけど、
木曜日ですら最近玲音は全然うちに来なくなってしまった。
テストの結果悪そうだったから大丈夫かと連絡したら、
既読にもならず、返信もなかった。
学校で目線が合っても、瞳の奥は俺を見ていなかった。
それから毎日遅くまで塾で勉強して、帰ってきても夜中まで明かりはついたままだった。
邪魔しちゃダメなんだろうなと思いあまり連絡しないようにしたが、流石に心配で昨日部屋に入り込んだら小声で、怒られた。
まるで俺のことなんて最初から視界に入っていないような、底の知れない瞳で見つめて。
まぁ親いたからバレたらヤバいって俺もわかっててやったのが悪いんだけど。
結局大丈夫だからと追い出され、今に至る。
ここ半年くらいで玲音の顔つきが変わってしまった気がする。
綺麗で俺の好きな玲音って事には変わりないんだけど、辛そうで、やつれてて。見てられない。
俺はいつも助けて貰ってるのに、玲音は俺に助けられようとしない。
何にも言ってくれない。
好きって言えたら何か変わるかもしれないけど、今言っても逆効果になってしまいそうで怖い。
俺はただ、窓からあいつを見つめる事しか出来ない。
玲音の部屋にやっと明かりがついた。
窓を見つめていると、玲音は迷いなく窓に向かって歩き、窓から身を乗り出した玲音。
あいつは、俺を跨いでくる時のような迷いを一切見せず、ただ重力に身を任せるように、夜の底へ溶けていった。
「あ……」
声にならない悲鳴が、部屋の空気を震わせる。
スローモーションの視界の中で、玲音の白いシャツが、夜風に膨らんで大きな花びらのように見えた。
頭の中は物凄いスピードで今までの玲音との記憶が駆け巡って行く。
心臓の音がうるさく、耳から飛び出そう。
一気に出てきた冷や汗が流れるのを感じながら、
現実を見たくない恐怖心と見間違えじゃないか確かめたい検証心。
恐る恐る窓を開けゆっくりと下を除けば、
血だらけの玲音が地面に倒れている。
辺りは暗いはずなのに、
そこだけ月の明かりが差しているように、ヤケに鮮明に見えてしまう。
周りの草に血が飛び散り、赤黒く染まっている。
どんどん血の海が広がり、このままだと玲音が溺れてしまいそう。
信じられないくらい、ぐしゃぐしゃになり、
首が曲がっては行けない方向に曲がっている。
人って落ちただけで、こんなに無残な姿になってしまうものなのか。
ここまで血の匂いが上がってきそうで、吐き気がする。
人っていざと言う時動けないのは本当なんだ。
部屋の窓から見ることしか出来ない。
でもこのままでいる訳にはいかない。
警鐘を鳴らす心音が階段を駆け下りる音と合い、
玄関を開け、家と家の隙間を見る。
窓から見た景色と変わらずそこには確かに横たわる玲音。
俺の鼻を突いたのは、お風呂上がりの甘いシャンプーの匂いと、それを一瞬で塗りつぶす、生温かい鉄錆の匂いだった。
吐き気を抑えながら俺は横たわる玲音の髪の毛を触る。
芝生に染み込んでいく赤黒い液体。
「……玲音?……何してんの……?俺ん家いこうよ……」
触れた玲音の髪は、まだしっとりと濡れていて、けれどその下の頭蓋は、嫌な感触を伴って形を失っていた。
俺の手は、あっという間に玲音の「命だったもの」で真っ赤に染まり、温かいはずのそれは、夜風に吹かれてすぐに冷たくなっていく。
「恭汰…?すごい音したけど…」
親父が家から出てきて俺の後ろから覗き込んでくる。
「おおおおい!どういう事だ!きゅっ、救急車!櫻井さん家は!?連絡しないと!」
バタバタしている親父とは正反対に俺は全然動けない。
サラサラの髪を撫でているのに、
どんどん流れてくる血に浸り、束となって俺の手も赤く染っていく。
「…玲音?ほら、まだ夜は寒いよ?早く家に入ろう?」
「…恭汰!やめろ!!離れろ!!」
真っ赤に染まる俺の手を親父が掴み、俺を玲音と離そうとする。
「やめろよ!触るな!!俺と玲音の邪魔するなよ!!」
俺は必死で抵抗し、邪魔をしてくる親父を振り払い、玲音と近づく。
その時玲音の母親が来て俺の後ろで泣き崩れている。
多分俺は退かなくてはいけないんだろう。
でも今離れたら一生近づけないから、周りなんて気にしない。
俺はずっと玲音といるんだ。
遠くからサイレンが聞こえ、
明るい赤色で家の周りが染まる。
救急隊の人が俺を玲音から離そうとする。
「すみません、退いていただかないと運べないので」
「離せよ!邪魔すんな!!」
「恭汰!いい加減にしろ!!」
必死に抵抗するが、どうにもならないと思ったのだろう。親父に生まれて初めて殴られた。
そのまま俺は地面に溜まった血の海に倒れ、意識を失った。
あの時鼻についた、甘ったるいシャンプーと混ざった鉄錆の匂いが、今も医務室の消毒液の匂いの向こう側で、俺を呼んでいる気がした。
____2026年6月26日
記憶の一部が戻ってきて、思い出した途端強い吐き気に襲われる。
この二ヶ月半俺は何をしてたんだ。
ただの気持ち悪い奴だ。
「……中村…ごめん」
俺は全てを思い出した上で中村に頭を下げて謝る。
「なんで高野くんが謝るの…?」
中村は静かに涙を流している。
「俺と玲音の間に変に挟ませてしまった気がする…俺ずっと気持ち悪かったよな…ははっまじ申し訳ないわ」
乾いた笑いをみて、中村は更に泣いている。
「そんな…二人とも何も悪くない!…俺はなんもしてやれなかった」
人のために涙を流せるこいつは、本当に純粋で良い奴なんだろう。尚更申し訳ない気持ちと、俺を軽蔑しない目線に少し安心感を覚える。
「俺、ずっと自分がなりたかった自分といて欲しかった玲音を作り上げてただけなんだな…本当に気持ち悪い」
自分でも驚くほど冷めた声が出た。
俺が今まで「玲音」だと思って触れていたものは、俺の罪悪感と執着が作り出した、ただの透き通った孤独だったんだ。
中村は静かに涙を流している。
「…高野くん…」
「…現実見ねぇとな……俺親父にも謝んねぇと」
下を向いて話すが、身体中の水分が無く、涙も出ない。
中村が空気を変えるように、俺の肩に手をおき口を開く。
「高野くん…帰ろ?…東京に」
中村のその言葉が、俺を繋いでいた細い糸を、現実という大地に引き戻してくれた。
そうだ、いつまでもここに居る訳にはいかない。
「そうだな…。ありがとな中村」
中村は首をぶんぶんと横に振り、俺の荷物を持って帰る支度をはじめてくれた。
先生に電話をして、もう合流する事は難しいから二人で直接空港に向かい、皆とは別便で帰ることになった。
帰りの飛行機の中で中村から玲音と出会ってから死ぬまでの話をずっと聞いてた。
俺も玲音と出会ってから死ぬまでのこと全部話した。
「…玲音の墓参り、行かねぇと」
「一人で心細かったら、俺も一緒に行くよ…?」
「ありがとな、決心ついたらちゃんと言うから」
俺とは違うベクトルでも中村もショックを受け、今立ち直ってるはずだ。
俺もいつか受け入れなければ行けない日が来るんだ。
空港に着くと、待ってくれている先生の隣に親父がいた。
泣きながら俺に近づき、ゴメンと一言だけ言いながら強く抱きしめられた。
目も合わせない親父はすぐ離れ、俺の荷物を取り、一人で駐車場へ向かってしまう。
俺は先生と中村に礼を告げて、親父を追いかける。
先に車に乗っている親父の助っ席に乗り、
「…ごめん」と一言だけ伝えた。
返事はなく、そのまま無言で家まで車を走らせる。
空の月は少し欠けて、薄暗く感じた。
家に帰り部屋に入ると、
修学旅行前に感じていた温かさは消え、
暗さとジメッぽさを強く感じる。
二つの窓のカーテンを全部開けて、窓も開けて部屋の空気を流す。
玲音の部屋を窓から覗いて見ても、前と何も変わってない。
俺は玲音の部屋の窓を開け、音を立てないように入る。
玲音の匂いがしっかりする部屋の中を見渡す。
主のいない部屋は、驚くほど冷え切っていた。
本棚には背表紙の揃った参考書ばかりが並び、高校生らしい遊びの痕跡は何一つない。
まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように整然としたその空間に、玲音がどれほど息を殺して生きていたかを知り、胸が締め付けられる。
クローゼットを開けてもいつも着てた同じような服が数着だけしまってあり、他は何にもなかった。
俺が知ってた以上に玲音は無機質な生活を毎日繰り返してたのかもしれない。
机の引き出しの中を開けてみると最低限の文房具と、
ダイヤル式の鍵がかかった黒い厚めのノートが出てきた。
なんとなく気になった俺はそのノートを持ち、家に帰り窓の鍵とカーテンを閉めた。
4桁のダイヤルを俺は答えを知ってるかのように回し、
一発で開いたその音が、静かな部屋に重く響いた。
____0722
ノートを開けると2023年7月22日から数文の短い日記のようなものが日々綴られてあった。
【2023.7.22、久しぶりに恭汰と話した。二人でルールを作った。これでもう寂しくならない。俺には恭汰がいる。】
綺麗な玲音の字で、定期的に書かれている。
「…これ」
気づくのに時間はかからなかった。
書かれているのは木曜日。
そう、俺と会った日に書いてある。
震える指でページを捲るたび、あの日、俺を助けてくれた玲音の、あの大きかった背中が蘇る。
「なんなんだよ……いまさら」
目に月明かりが反射して、視界が滲む。
俺が「太陽」だと思って縋っていた玲音もまた、俺という「月」の光がなければ、暗闇に飲み込まれてしまいそうなほど、震えていたのかもしれない。
____2026年6月27日
明け方まで日記を読み耽り、力尽きるように眠りに落ちた俺を叩き起こしたのは、無遠慮なまでに眩しい初夏の太陽だった。
頂点まで登り詰めた陽光が、窓から容赦なく差し込み、部屋の中の埃をキラキラと躍らせている。
「……はは、眩しすぎんだよ」
全部を読み切るには物理的に莫大な時間がかかるのと、
精神的に読み進めることもできない。
毎週木曜日の玲音の声は一文が短いながらも、想いと願いがたくさん込められている。
昨日まで、俺の隣には玲音がいた。ドライヤーの熱、コーラの炭酸が弾ける音、そして、少しだけ低くなったあの声。けれど、日記の文字を一文字ずつ指でなぞるたび、それらがすべて、俺の壊れた脳が投影した残像に過ぎないことを突きつけられる。
俺は3月31日から今日まで架空の玲音を見ていた。
想いが通じあった玲音は俺の幻覚が作り上げた偽物。
結局俺は玲音に何も伝えられていない。
これから伝えることもできない。
ゆっくりと一文字一文字を指でなぞりながら、
玲音の声で再生して読み上げていく。
そこにある言葉は、俺の幻覚が喋っていた優しい言葉よりもずっと、トゲがあって、重くて、暗い。
あの日から、俺は一歩も前に進んでいない。進んだつもりで、死体を引きずって踊っていただけだ。
結局、俺は本物の玲音に、何一つ返せていない。
日付が変わる頃。俺は家を抜け出し、吸い寄せられるように高校へと向かった。
昼間の熱気がまだアスファルトに残っている。
フェンスを乗り越え、立ち入り禁止の立て札を無視して、プールサイドへと足を踏み入れる。
ここは去年の夏、勉強でいっぱいいっぱいだった玲音を引き連れて、一緒に忍び込んだ場所なのだ。
月明かりを反射した水面は、黒いインクを流し込んだように静まり返り、プールの底は見えない。それはまるで、3月31日に玲音が落ちていった、あの夜の闇そのもののようだった。
「……玲音、見てるか」
俺は靴を脱ぎ、服を着たまま、ゆっくりと階段を降りていった。
冷たい水が足首を掴み、ふくらはぎを浸し、やがて腰を包み込む。
ジーンズが水を吸って重くなり、俺を底へと引きずり込もうとする。
喉まで水が満ちた時、一度だけ空を見上げた。
あの日と同じ月。玲音が見た最後の景色も、こんなふうに冷たくて、他人事みたいに綺麗だったんだろうか。
俺は、肺の中の空気をすべて吐き出し、そのままゆっくりと沈んだ。
耳元で泡が弾ける音が遠ざかり、世界から音が消える。
塩素の匂いが鼻腔を突き、水圧が眼球を圧迫する。
死は、もっと劇的なものだと思っていた。けれど、水底に広がるのは、ただ圧倒的な静寂と、凍りつくような孤独だけだった。
____このまま、息を止めれば。
あいつと同じ場所へ行ける。
真っ白な泡になって消えて、あの夜の底で、本物の玲音に会える。
意識が白濁し、身体の力が抜けていく。重力から解放された身体が、プールの底に横たわる。
その時。
暗闇の向こう側に、玲音の顔が見えた気がした。
でも、それは俺の幻覚が見せていた笑う玲音じゃない。
血を流し、首が曲がり、絶望を湛えた瞳で、俺をただ、じっと見つめている本物の玲音。
その瞳が、俺に問いかけてくる。
「お前、それで満足なのか?」
「……っ!」
激しい動悸が胸を打つ。
そうだ。俺はまだ、何も伝えていない。
手紙を読んだことも。日記の一文字一文字に、どれほど救われたかということも。
玲音がどれほど孤独で、どれほど俺を愛してくれていたかを知った今、俺がただここで無責任に消えることは、玲音を二度殺すことと同じじゃないのか。
「……っ、げほっ!!」
俺は狂ったように水面を叩き、這い上がった。
塩素混じりの水を吐き出し、冷たいコンクリートの上に崩れ落ちる。
肺が焼け付くように痛み、酸素を取り込もうとして身体が激しく痙攣した。
夜風が、びしょ濡れの身体から体温を奪っていく。
「まだ死ねねぇ…」
震える拳で、床を何度も叩く。
あの日、アスファルトの上で冷たくなっていく玲音の髪に触れた時の、あの生温かい鉄錆の匂いが蘇る。
幻覚じゃない。逃避じゃない。
俺は、本物の櫻井玲音という人生を、この胸に刻み直さなきゃいけない。
そして、あいつが眠るあの場所へ行って、俺のすべてを伝えなきゃいけないんだ。
俺は夜の静寂の中で、一人、声を上げて泣いた。
その涙は、プールの水よりもずっと熱く、俺の頬を伝ってコンクリートに滲んでいった。
俺はこの夜、幻覚の玲音を殺し、本物の玲音を抱えて生きていく覚悟を決めた。
すべてを伝えるために。
