月と太陽

____2026年7月1日
夏の本番が近づき、教室には青葉の匂いと日焼け止めの匂いがまじる。
長かった日記を読み終えた俺は喪失感と無気力と少しの使命感でこの数日間過ごした。
学校では気づかれないように過ごしていたが、唯一中村だけは俺を心配して皆がいない時に話しかけてくれた。
玲音がいない毎日ってこんなにも残酷で虚しいものなのか。
俺はプールで思いを誓ったあと、必死に勉強した。
学校の喧騒も、蝉の声も、今の俺にはただのノイズでしかない。休み時間、誰もが学祭や夏休みの予定に浮き足立つ中、俺だけは机にしがみつき、玲音の解法をなぞり続けた。
少しは休めよと陸や涼に言われ、無理すなと直人にも言われるが、クラスメイトの声も、今の俺には届かない。
今出来る目の前の事は期末テストで玲音の名前に自分を重ねる事だと。
夜、自宅で勉強していると隣には玲音がいつも通り勉強を教えてくれている気がして、悲しい気持ちになりながらも自分を鼓舞した。
本当に分からない所は中村にお願いして、放課後自習室に入り浸り「櫻井なら、ここはこう考えるよ」と俺が欲してるアドバイスを的確に伝えてくれた。
玲音程ではないと思うが、この数日間本当に勉強漬けの日々を送った。
テスト初日。
解答用紙が配られ、開始のチャイムが鳴る。
ペンを握った瞬間、右手の先がじわりと熱くなった。
…あ、これだ。
スラスラと解ける。迷いがない。
まるで、玲音が俺の背後から手を重ね、一緒に導いてくれているような感覚。
俺の脳は俺のものなのに、導き出される答えは、俺の能力を遥かに越えている。
冷房で冷え切った教室内で、俺の右手だけが火傷しそうに熱い。
「お前ならできるだろ?」
隣で玲音が、あの生意気な笑顔で耳打ちしている気がした。
止まることのない筆致。それは、玲音がこの世界に刻みたかった、完璧な数字の羅列だった。

2日目、3日目も全く同じ感覚になり、詰まることなく、テスト期間を終えた。
テスト終了後、中村とファミレスに行き自己採点をし合った。
「……うん、高野くんすごいよ」
「……行けた…かな」
「記述系がどう採点されるかによるけど、今のところ俺とほぼ変わらない」
「マジか!っっっしゃ!」
周りに配慮しながらも小さくガッツポーズをした。
「……本当、よく頑張ったね」
「中村のおかげだよ、テスト前に何回も聞いて悪かった…もし中村の点数下がってたら俺のせいだ」
「ううん、そんな事ない。人に教えることが出来ないくらいなら本当に理解してないのと一緒だから、俺もいつも櫻井目指して頑張ってたから、一緒に頑張れるいいタイミングだった」
「……中村、ありがとな」
達成感と安堵で一筋だけ涙がこぼれた。
「ふふっ、高野くんって意外と泣き虫なんだね」
「ななな泣いてねぇし!」
慌てて袖で目を拭う。
その時、中村がポツリと呟いた「また笑ってくれて良かった」という言葉。
それが、3月31日から幻想を追いかけて狂気に染まっていた俺を、ようやく本当の「現在」へと連れ戻してくれた気がした。

週明け、廊下の掲示板の前に、俺と中村は立っていた。
1位:高野 恭汰
2位:中村 蒼空
「……俺はまた、2位か」
中村が少しだけ悔しそうに、でもどこか清々しそうに笑った。
かつて玲音が座っていたその場所に、今、俺が立っている。
それは、玲音を支配し、壊したあの親や世界に対する、俺なりの精一杯の復讐でもあった。

____2026年7月15日
もうすぐ夏休みということもあり、昼休み中周りは浮かれモード。俺のイツメンも一緒だ。
「恭汰ー?みんなでプール行こうぜー」
陸が涼と直人と肩を組み、椅子に座ってる俺に声をかけてきた。
「プールはヤダ。俺泳げねーし」
「んだよノリ悪いなー、夏といったらプール!海!プール!だろ!」
陸の明るさにはいつも助けられるが、今年の夏はついていけない。
「陸やめとけよ、最近恭汰体調悪いだろ、別のなんか探そうよ」
真面目な涼は俺の事よく見て考えてくれてる。
「涼は優しーな、俺体調は全然大丈夫だけどまじ水が無いとこにしてくれ、無理すぎ」
「んじゃみんなで花火しよーよ!うちの屋上で!」
直人が目をキラキラさせながら提案してくる。
「うちの屋上バーベキューもできるし、夜ならあんま暑く無いんじゃない?親に聞いてみるよ!」
直人はめちゃくちゃ裕福な家庭で、家も近所で目立つくらいに大きい。
屋上で花火にバーベキューって豪華すぎるだろ。
「めっちゃ楽しそう!恭汰も文句ねーだろー?皆でお前の学年1位祝ってやるよ」
陸にジト目で言われ、俺は首を縦に振った。
「んじゃ折角だし、なんかの縁だし、中村も呼ぼうよ」
涼の提案にみんなも、もちろん俺も賛成をし中村に声をかけて、みんなでグループチャットを作り、連絡を取り合うことにした。

学校が終わり家に帰ると直人からグループチャットに連絡が来ていた。
直人「親いつでもいいって!好きな時おいで〜」
陸「んじゃ7/21は?終業式の日!」
涼「夏休みじゃないじゃん」
陸「いいじゃん、バーベキューしながら夏休みの作戦練ろうぜ!」
直人「いま親に聞いたら大丈夫だって!んじゃ終業式終わって1回家帰ってからうち集合で!」
涼「おい!とんとん拍子すぎるだろ、そもそも恭汰と中村は来れんの?」
俺「いけるよー、中村はー?」
中村「うん!大丈夫!いきまーす」
陸「よし!決まりー夕方くらいに行って皆で買い出しでいいよな?」
直人「そうだね!準備出来ることはしとくね〜」

みんなで了解のスタンプを送り合い、俺はスケジュールにBBQと入れた。
いまは余計なことを考えずに、前を向いて、今を楽しもう。そう思った。

____2026年7月21日
一段と強くなった日差しの中、終業式を終え俺らは予定通り一度帰宅して直人の家に向かった。
結局直人のお母さんが色々準備してくれてて、足りない飲み物と花火を買いに行くことになった。
「では役割分担をします」
涼が気合いをいれエプロンをつけて話し始める。
「直人のお母さんと俺はバーベキューの下準備、直人と陸は飲み物調達、恭汰と中村が花火調達、異論は受け付けない!」
陸が手を挙げ、異議あり!と申し立てる。
「なんで涼が直人のお母さんと料理して俺と直人は力仕事な訳?」
「まずこの中で料理出来るのは俺か恭汰しかいないけど、恭汰この辺の地理詳しいから花火買いに行って欲しいし、恭汰と中村は力無さそうだから残り二人で飲み物係。異議ある人!」
「はーい、ありませーん」直人がいい返事をし、陸はブツブツ文句を言いながら各々動いていく。
中村と話したかったからちょうど良い。
直人の家を出て歩きながら俺は話はじめる。
「中村?明日さ暇?」
「明日?うーん、夏期講習は来週からだし、特に予定はないけど、どうかした?」
「……墓参り、一緒に行ってくんねぇかな」
中村は無言で俺を見つめながら優しく頷く。
「場所は親父に聞いたんだ…。昔近くに行ったことあって、玲音のばぁちゃん家の近くなんだ。湘南の方だからちょっと遠いんだけどさ……行ってくれるか?」
「もちろん!…俺で良ければだけど」
「いや、お前以外誘えないし、…一人だとちょっと怖い」
「…いく、絶対いく!」
力強く中村が返事をしてくれてちょっと安心した。
明日13:00に東京駅で待ち合わせをした。
俺らは花火を買うミッションをこなし、直人の家に帰った。
戻ると完璧にバーベキューの用意がされており、あとは焼くだけ。
直人のお母さんも気を使って俺らだけ屋上に残し、部屋に入って行った。
「さぁ、んじゃ皆様コップを持ってください」
陸が皆の前にたち音頭を取る。
「俺たちの夏休み開幕、そしてテストお疲れ様、ついでに恭汰学年1位おめでとー!かんぱーい!!」
「おい!俺はついでかよ!」
全員で笑いながら紙コップを合わせる。
肉が焼ける香ばしい匂いや、皆の笑い声が屋上に響くたび、一瞬だけ玲音の存在を忘れてしまう自分が居そうで怖い。
この先「楽しい」という感覚を味わってしまっていいのだろうか。
口の中に肉の味が広がるほど、俺の中の罪悪感が大きくなっていく。
その後はみんなでわいわいとバーベキューをし終え、
花火の準備をはじめた。
一つ目に火をつけた陸が俺らに馴染んできた中村に話しかける。
「そーえば中村って下の名前なんて言うの?」
「あー、ちょっと恥ずかしいんだけど、蒼空って書いてソラって言うんだ」
「えー!蒼空!かっけぇ!これから蒼空って呼ぶわ」
本当に陸のコミュ力はすげぇなと思う。
「んじゃ俺も蒼空って呼ぶわ、俺の事も恭汰でいい」
俺は蒼空の肩を叩き微笑みかけたら、蒼空の目が少し涙ぐんできた。
「あー、恭汰が蒼空泣かしたー」
「おい直人何言ってんだよ!俺何もしてない!」
「…ごめんごめん!なんかみんなと仲良くできて嬉しくなっちゃって」
「んだよ!嬉し涙かよ!可愛いかよ!」
確かに、中村もとい蒼空が馴染むとは思ってなかったから感慨深い。
このまま卒業までみんなで仲良くしていたい。
そしたらきっと玲音も笑ってくれるんじゃないか。
そう思いながら、空に登った月を眺めた。
「さぁそろそろ片付けるぞー」
涼の号令と共に俺らは片付けを進める。
「陸、ありがとな」
「なんだよ恭汰、急に気持ち悪い」
「いや、なんでもない」
陸の明るさと涼の観察力と直人の穏やかさが無ければ、俺はきっと心から笑えなかったと思う。
直人のお母さんにお礼を告げ、俺らは各々帰路に着く。
帰り際、蒼空に明日よろしくなと口パクで伝え、皆と別れた。

明日はついに行くのか。
まだ決心はついていない。
月が綺麗に見える空の元、俺は家に帰り、もう一度玲音の日記を開いてみる。
読み終わった時は気づかなかったが、ノートの一番後ろ、表紙の裏側に小さなポケットのような隙間があった。そこには、何度も丁寧に折り直されたであろう、四つ折りの紙切れがひっそりと眠っていた。
震える指でそれを取り出し、ゆっくりと広げる。
日記で見慣れたはずの玲音の字は、そこではひどく乱れていた。ペン先が紙を突き破りそうなほど強く、あるいは消えてしまいそうなほど弱く、彼の感情の波がそのままインクの跡になって刻まれている。

「……なんだよ、これ」

____恭汰へ
きっとこの手紙を恭汰が読むことはないと思う。
でも書きたいと思ったから今の気持ちを素直に書いて、俺の心を整理するね。
俺ら生まれてからずっと一緒にいるな。
離れた時もあったけど、ずっと一緒。
これからもずっと一緒にいたい。
恭汰に恋人が出来ても、結婚しても、子供が産まれても、ワガママを言うのであれば一緒にいたい。
俺は最速で医者になって、この家を出て恭汰と家を借りて一緒に住みたい。
そしたら仕事以外一緒に居れる。
恭汰に恋人が出来ても同棲はダメ、俺がする。
結婚したら…隣に住む。
子供産まれたら………俺も育てる。
気持ち悪いと思われるかもしれないけど、俺は恭汰がいないとご飯の味もしないし、生きてる実感が無いんだ。
月と太陽なんて照れ隠しで言ったけど、本当はただずっと一緒に居たいだけなんだ。
直接言ったらこの関係性が崩れる気がして、言えない。
恭汰の事が好きだよ。
ずっとずっとずっと。死んでもきっと好き。
いつか伝えられるように、願いを込めて。
2026年3月30日 玲音____

読み進めるほどに、心臓を直接掴まれるような痛みが走る。
玲音の未来には、俺しかいなかった。
俺が常に一緒にいる生活。
彼が必死に勉強し、親の期待に応え、医者を目指していたそのすべての原動力が、俺というたった一つの依り代だった。
「……俺が…ちゃんと言ってれば……」
言ったらお終いと思ってた自分の思いを早く伝えていれば今が変わってたかもしれない。
言葉が口から漏れた瞬間、視界が歪んだ。
玲音。お前、一人でどんな重いものを背負って、どんな顔をして俺の隣に座ってたんだよ。
いつもみたいに、余裕そうな顔で「月と太陽」なんて笑ってた裏で、どれだけ必死に俺に手を伸ばしてたんだ。
そう思うと涙は留まることを知らず、手紙にたくさんの粒が落ちていく。
____玲音。俺もずっとずっとずっとずっと…好きだよ。
俺は窓から指す月明かりの元、手紙を抱きしめながら眠りについた。

____2026年7月22日
朝日が部屋に差し込み眩しさで目が覚める。
頬に残る涙の跡を拭ってからリビングに行き、
親父が仕事に行く前に俺は話した。
「今日、玲音の墓参り行ってくる」
「……そうか。気をつけてな」
親父は少し驚いた顔をしながら静かに微笑んだ。
「……今までごめん」
「なんだよ、改まって」
「だって、俺が受け入れてないことを知ってて付き合ってくれてたんだろ?」
俺は散々親父の前では玲音と話してるつもりで会話してた。
傍から見たら気持ち悪い光景だっただろうに…。
何も言わずに付き合ってくれていた。
親父は仕事用のネクタイを締めながら一瞬だけ手を止める。
「いや…俺も悪かった、本当の事早く言ってやれば良かったんだ、ただお前があまりにも必死で、言ったらお前も消えてしまうんじゃないかって心配だったんだ…」
「……ううん、今までありがとう」
「湿っぽくすんなよ、これから仕事なんだから」
「そうだな!ごめん!行ってらっしゃい!」
親父を笑顔で見送り、俺は家の事を一通り済ます。
家を出る時、玲音の日記と手紙をリュックに詰め、
部屋の二つの窓の鍵を閉めてカーテンを閉じた。
ジリジリと夏の太陽がアスファルトを照らし、
道路には陽炎が見える。
あの日と同じ。
電車に乗り東京駅に少し早めにつき、蒼空との待ち合わせ場所に向かう。
____すれ違う人達の顔を見て、今でも玲音が居ないか、無意識に探してしまうんだ。
居ないって分かってても。

「ごめん!待った?」
蒼空が小走りで近寄ってくる。
「ううん、さっき着いた。まだ時間前だし大丈夫」
「そっかならよかった。電車こっちかな?」
ここから小一時間、電車に乗り藤沢駅で乗り換えて鵠沼海岸まで向かう。
電車の中は空いていて、二人で隣同士で座る。
「……蒼空、良かったらコレ読んで欲しい」
俺はリュックから玲音の日記を出し、蒼空に渡す。
「ノート…?」
蒼空は1ページ目を開きこっちの顔を見る。
「…これって、櫻井の…?」
俺は静かに頷き、蒼空は黙々と読み進める。
小さい頃も俺と玲音とお母さん達で電車に乗って玲音のばぁちゃん家に行ったことがある。
あの時は二人で靴を脱いで、椅子に乗り、後ろを向いて窓の外を眺めてた。
同じ景色と新しい景色が流れていき、ビルが段々低くなっていく。
蒼空が日記を読んでいる間の、気まずいくらいの静寂。窓の外で、灰色や茶色の都会のビル群が、白やクリーム色の住宅街に変わり、やがて緑と青の山と海の景色に変わっていく。
藤沢駅に着く頃、蒼空は日記をほぼ読み終えていた。
「…やっぱそうだったんだね」
「ん?やっぱ?」
「…ごめん、憶測で二人はきっとただの知り合いじゃないって思ってたから」
「…そっか。蒼空が今日居てくれて良かった。ありがとう」
「ううん、俺も櫻井の事もっと知ってもっと関わってれば良かったって思ってる。今まで学校は勉強する所で、友達なんていらないって深く関わっても意味ないって思ってたけど、それは間違いだったって気づいたんだ……今更遅いけどね」
苦笑いする蒼空の目は少しだけ潤んでいた。
俺らは電車を乗り換え、目的地である鵠沼海岸に着いた。
メモをしていた住所を地図アプリに入力し駅から歩いて向かう。
海の匂いと夏の風に煽られながら地図の線を辿り、
途中の売店でお花とコーラを買ってゆっくりと歩き進めて行く。
10分程歩くと目の前に霊園が現れた。
中に入り玲音のお墓を二人で探す。
「……これだ」
櫻井家と記載された墓石の横にはしっかりと玲音の名前が刻まれていた。
お花とコーラをお供えし、線香に火をつけて置く。
線香の匂いに包まれながら二人で手を合わせて目を閉じる。
話したいことがたくさんありすぎて、いざ目の前にすると何も言えない。
思ってる事を全て言ったらもう俺の前に玲音が現れない気がする。
幻覚でもいい。もう一度だけ、『会いたい』。
「…櫻井ってやっぱコーラ好きなんだね」
「ん?そこ?」
「うん、前に一回だけファミレスに一緒にいって、ドリンクバーですごい楽しそうにはしゃいでコーラ飲んでたんだよ」
「ははっ、なんだそれ、ガキみてぇ」
「その時に、俺になんかあったら恭汰のことよろしくねって言われたんだ」
「そんな事言ってたんか…」
「うん、すごい真剣にね。…愛されてるね、櫻井に」
「…そうかもな」
否定はしなかった。
恥ずかしい気持ちもあるけど、それ以上に俺も同じ気持ちだから。
俺も同じ立場だったら言ってるかもしれない。
俺になにかあったら玲音をよろしくって。
多分蒼空の人柄がそうさせんだろうな。
墓参りを終え、来た道をまたゆっくり歩いてく。
鵠沼海岸の駅に着き、改札に入る前俺は足を止めた。
「…恭汰?」
「ごめん、俺から誘っておいて悪いんだけど俺もうちょいここに残る」
「えっ?なんで…?」
「…折角だし玲音のばぁちゃん家久しぶりに行こうかなって、駅から近かったはずだし、記憶あやふやだけど多分大丈夫!」
「……本当に?」
「本当だって、嘘つかねぇよ。一人で帰らすのは悪いけど、これ以上付き合わす方が悪いしな」
「…なんかあったら連絡して?」
「うん、わかった」
「絶対だよ」
「わかったって、ほら電車くるぞ」
少し疑う顔をしている蒼空を見送り、俺は町の中をまた歩き始める。

どれくらい歩いただろうか。
記憶にあるはずの玲音のばぁちゃん家には辿り着けず、
ただ生温かい潮風に背中を押されるようにして、俺は砂浜へ導かれていた。
辺りは濃いオレンジに染まり、空と海の境界線が溶け始めている。
打ち寄せる波の音だけが響く静寂の中、波打ち際にポツンと立つ、見慣れた影を見つけた。
何度も、何度も、俺を狂わせるほどに見た、見慣れた横顔。
____玲音だ。
「……玲音?」
俺の声に、その影がゆっくりとこちらを向く。
夕陽を背負った玲音の輪郭は、眩いほどに発光しているように見えて、それでいて透き通るほどに希薄だった。
近づくほどに、心臓が耳の奥で警鐘を鳴らす。
「これは俺が作った幻だ」と叫ぶ自分と、「やっと会えた」と泣き崩れる自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
「……怖くないの?」
玲音が口を開く。その声には、生きていた頃のような重みがなく、まるで風が言葉の形を成したかのように、真っ直ぐに俺の脳を揺らした。
視線を落とせば、玲音が立っている砂の上には足跡が一つも無かった。
「怖いよ……。お前が本当に居るのか、俺が都合よく作り出した幻想なのか、それとも……。全然分からないからな」
一歩、砂を踏みしめて近づく。俺の足跡だけが、無様に深く刻まれていく。
「お前が会いたいって言った」
玲音は、困ったような、でもどこか満足げな笑みを浮かべた。
その表情に、俺はたまらなくなって手を伸ばす。
「俺が会いたいのは、本物の玲音だ。怒ったり、笑ったり、俺にドライヤーをかけてくれたり……コーラを美味そうに飲む、生きてるお前だ」
「……俺は本物じゃない?」
玲音の顔が、ほんの数センチ先に来る。
俺は縋り付くように、玲音の両頬に手を添えた。
掌に伝わってきたのは、温もりではない。
夏の夕暮れにはあり得ないような、芯まで凍りつくような冷たさ。
そして、抵抗のない、虚空を掴んでいるような頼りない感覚。
「うん、……触れない」
確かに見える玲音に触れることは出来ない。
あの日、アスファルトの上で血に染まった髪を撫でた時と同じだ。
指の間を、さらさらと玲音の存在が零れ落ちていく気がした。
俺の右目から一筋の涙が流れ、玲音はそれを拭うように指を伸ばしたが、指先は俺の肌をすり抜け、涙の粒はそのまま渇いた砂の上に吸い込まれていった。
「恭汰…好きだよ」
玲音の唇が動き、その言葉が鼓膜を震わせる。
それは、手紙に書かれていた執念の告白であり、一生涯かけて俺を縛り付ける呪文だった。
今まで感じていたすべての恐怖が、その一言で消え去り、代わりに真っ黒で心地よい幸福感が全身を支配していく。
「……俺も好き、ずっと…好き」
重ならない影と近づく顔と顔。
重なり合わない唇の代わりに、俺たちは魂の深いところで交わった気がした。
ふと顔を上げれば、水平線の向こう側、地球の丸さがはっきりと分かるほどに視界が開けていた。
太陽が完全に沈み、深い紺色の夜が幕を開ける。
交代するように昇ってきた月が、海面に一筋の煌めく光を投げかけた。
それは、玲音の部屋と俺の部屋を繋いでいた「自分たちだけの橋」そのものだった。
「……行こうか」
玲音が、実体のない手を差し出す。
俺は迷うことなく、その冷たい闇を掴んだ。
不思議と、今はもう玲音の温度が分かる気がした。
月が反射して作った一本の橋。
俺たちはその上を、地平線の果てまで、二人でゆっくりと進んでいく。
親父も、蒼空の声も、ここまでは届かない。
俺の身体が波に呑まれ、静寂の中に沈んでいく感覚を、俺は「救い」だと笑いながら受け入れた。

太陽のない世界で、月は生きていくことができない____。