雨上がりの紫の空、
雲の間から微かにオレンジの光が差し込む。
閑静な住宅街に今日も太陽が沈み、月が昇っていく。
俺の部屋には窓が左右に二つある。
左は太陽専用の窓。
右は月専用の窓。
二つの窓から互いに光が差し込み、
毎日が生まれ過ぎていく。
どちらも無くては、成り立たない。
…けれど、月は太陽を反射して光るだけの、ただの石に過ぎないことを、俺はまだ認めたくなかった。
俺は玲音がいなければ光ることの出来ない、冷たい石だ。
あいつという不動の太陽の周りを、ただ引力に引かれるがままに回り続ける、意思を持たない衛生だ。
その歪な関係が、俺たちの普通だった。
あの日までは。
____2026年6月4日
建売の家が並ぶなか、俺と玲音の家は隣同士。
同じ形の3階建て。
木曜日の21:00。
皆んなは人の姿が変わる瞬間を見たことある?
俺はあるんだ。
まさに今、目の前で。
幼なじみの玲音が目の前で落ちた。
俺と玲音の家の間に落ちた。
窓と窓の隙間は50センチ。
この50センチは、俺たちにとって世界で一番安全な、二人だけの秘密の通路だった。
今まで玲音は何回もこの間を渡って、俺の部屋に来ていた。
幼稚園の頃は親父に支えられながら、小学生の頃は探検家気取りで、そして高校生の今は、まるで自分の部屋のドアを開けるみたいに、当然の権利として。特別な事がない限り、落ちるわけがない。
でも、確かに、目の前で落ちた。
薄いカーテンはいつも留めてあるし、鍵も開けてある。
窓ガラスも透明。
俺の視界を遮るものはない。
なんで落ちたかは分からない。
いつも俺の部屋に入ってくる時と同じ体制で、まるで、そこにあるはずの橋が急に消えてしまったみたいに、下に落ちていった。
スローモーションの様なスピードで景色が変わり、
頭の中は物凄いスピードで今までの玲音との記憶が駆け巡って行く。
心臓の音がうるさく、耳から飛び出そう。
一気に出てきた冷や汗が流れるのを感じながら、
現実を見たくない恐怖心と見間違えじゃないか確かめたい検証心。
実は、予兆みたいなのはあったんだ。
ここ数ヶ月、玲音と話していると、時折あいつの輪郭が陽炎みたいに揺らぐことがあった。
真昼間の教室で、あいつの背後に真っ黒な闇が広がっているように見えることもあった。
俺はそれをたまたま見た幻だと、必死に自分に言い聞かせていた。
恐る恐る窓を開けゆっくりと下を除けば、
血だらけの玲音が地面に倒れている。
生温かい夜風が、鉄の錆びたような匂いを鼻腔の奥に押し込んできた。
辺りは暗いはずなのに、
そこだけ月の明かりが差しているように、ヤケに鮮明に見えてしまう。
周りの草に血が飛び散り、赤黒く染まっている。
どんどん血の海が広がり、このままだと玲音が溺れてしまいそう。
俺の大切な、大事な、大っ好きな玲音。
今日だって同じ教室で、
俺は対角線上にある後ろの席からずっと眺めていた。
窓側の席に座り少し伸びた黒髪を風に靡かせながら、
真剣に授業を受けている玲音の綺麗な横顔を俺はずっと見ていた。
隣に座る中村が何か話しかけても、玲音は薄く笑うだけで、決して心は開かない。その鉄壁のバリアの内側にいるのは、世界で俺一人だけ。その優越感が、俺の生き甲斐だった。
こんな一瞬で人は姿を変えてしまうのか。
信じられないくらい、ぐしゃぐしゃになり、
首が曲がっては行けない方向に曲がっている。
それは、俺が子供の頃に大切にしていた、腕のちぎれたぬいぐるみの無惨な姿に重なった。
人って落ちただけで、こんなに無残な姿になってしまうんだ…。
そして人っていざと言う時動けないのは本当なんだ。
部屋の窓から見ることしか出来ない。
「……玲音!玲音!!」
俺の声は、夜の静寂に吸い込まれ、隣の家の壁に跳ね返ってくるだけだ。
玲音の家は、死んだように静まり返っている。あいつの両親は、息子が血の海に沈んでいることなど知らず、今日も完璧な人生設計を練っているのだろうか。
どうしようか、どうしたら…。
頭を抱えて考えると後ろから声がした
「おい!何してんだよ」
「えっ…?」
そこにはいつもの綺麗な顔をした玲音が、
俺の部屋の定位置であるベットの上に座っている。
制服は皺一つなく、髪も整っている。下にあるはずの、あのぐしゃぐしゃの肉塊とは、あまりにもかけ離れた、完璧な「櫻井玲音」がそこにいた。
「だっ、だって!おま!いま落ちただろ!!」
状況が掴めず俺は夜ということを忘れ、
声を大きく出してしまった。
「はっ?何言ってんの?、ついに頭おかしくなったんか?」
玲音は鼻で笑い、今回は正しい方向に首を傾げる。
その首筋が一瞬だけ白を通り越して、陶器のような血の気のないように見えた。
あぐらをかいて漫画を読み出す姿はいつも通り。
俺は震えながらもゆっくり両手を伸ばし玲音の肩に恐る恐る触れてみる。
指先が、玲音の熱を探しているような感覚。
一瞬、指が彼の肩を通り抜けたような錯覚に陥ったが、すぐにヤケに高い体温が伝わってきた。
それは、微熱がある時の、少し浮かんだような熱さだ。
玲音のいつもの匂いを感じることが出来るのに、
生臭い血の匂いが鼻から消えない。
「なに、お前今日変じゃね?」
「ごめん、、、なんでもない」
肩から手を離し
もう一度窓から下をみる。
確かにさっき見た光景はそこになくて、
いつもの三毛猫が草の間で寝ていた。
三毛猫は、俺と目が合うと、何か不吉なものを見たように、小さく鳴いて闇に消えた。
さっきのはなんだ。
幻覚…?リアルすぎる。
幻覚にしても俺はなんであんな最低な光景を見てしまったんだ。
玲音が死ぬところなんて、俺が一番見たくないものなのに。
その夜、玲音は0:00過ぎまで俺の部屋でいつも通り過ごした。俺がコンビニで買ってきたコーラを飲み、数学の宿題を俺に教え(俺は全く頭に入らなかった)、漫画を数冊読んで。
そしてなんともない顔でまた窓を跨いで、暗闇の彼方にある自室へ帰って行った。
「明日な」
その、毎日繰り返されるはずの言葉が、今夜はひどく頼りなく、空虚に響いた。
この日の夜はなんだか寝付けなく、
月の窓から差す明かりが、やけに鬱陶しく感じた。
まるで、下にある血の海を、いつまでも照らし続けているかのように。
***
俺と玲音は生まれた時から一緒。
細かいことをいえば俺が9月生まれで、
玲音が11月生まれ。
だから玲音が生まれたあとからずっと一緒。
幼稚園から高校生まで一緒の正真正銘の幼なじみ。
俺らが生まれる前に互いの両親が今の家に引っ越し、
挨拶の時に母親同士が仲良くなったらしい。
お互いお腹が大きくなってて気づいたんだって。
それから家族の時間以外はほとんど一緒。
昼間公園で遊んだり、互いの家で遊んだり、
皆で旅行に行ったり。
昔の玲音は、今みたいにクールじゃなかった。
もっとよく笑ったし、俺の後ろをついて歩く、泣き虫な奴だったんだ。
「恭汰、待ってよ」って、ちぎれそうなほど小さな手で、俺のシャツの裾を掴んでた。
俺はそれが嬉しくて、「俺が玲音を守ってやるんだ」って、根拠のない自信に満ち溢れてた。
いつからだろう。玲音の目が、感情を映さなくなったのは。
小学校の高学年になった頃からか、あいつの家から、母親の金切り声が聞こえるようになった。
「どうして95点なの? あとの5点は?」
「遊んでいる暇があったら、問題を解きなさい」
窓越しに聞こえるその声は、隣に住む俺の心さえも、冷たく凍らせた。
遊びに行っても、玲音のお母さんは「恭ちゃん、今日は30分だけね」と時計を指差す。
その時の玲音の、申し訳なさそうに、でもどこか諦めたような目が忘れられない。
玲音は、外で会う時は普通を装っていたけれど、二人きりになると、魂が抜けたような顔をして、俺の部屋のベッドに突っ伏すようになった。
昔は本当にずっと一緒だった。
でもある時から外で一緒に居ることは、
一切無くなってしまった。
____2021年4月
太陽の光が天辺に到達し、
穏やかなよく晴れた日。
桜の花が散り始め、風と共に吹雪が舞う。
庭に出ると暖かい空気とは反対に、
少し暗い顔で洗濯物を干しているお母さん。
俺は外用のサンダルに履き替え、お母さんの元に駆け寄る。
「お母さん?具合悪いの?」
「恭汰…。ううん。体調は大丈夫よ。心配かけてごめんね。」
いつもとは違う暗い顔に違和感を覚えつつ、
俺はお父さんに呼ばれ家の中へ戻る。
お父さんもお父さんでいつもと違い真剣な顔で俺に話す。
「恭汰はいま周りにいるお友達とずっと一緒にいたいか?」
「ともだち…?ハヤトとか、ショウとか?あと…玲音も?」
「うん、学校の友達もだし、もちろん玲音くんも」
お父さんは俺の肩に両手を乗せ、強く目を合わせて聞いてくる。
その目は、何か重大な告白をしようとしているかのように、微かに震えていた。
「そりゃあもちろん!学校の友達は中学行ったら離れるとかあるけど、玲音はずっと一緒だもん!俺玲音いなきゃムリ!」
「そうだよな…ありがとう」
「なんでそんな事聞くの?」
「いや、気になっただけだよ」
お父さんは俺から手を離すと、庭にいるお母さんの元へ向かっていった。
家の中が糸で張り巡らされて、1本でも切れたら崩れてしまいそう。
そんな空気に耐えられず俺は玲音の家に行き、遊ぼうとインターホンを鳴らした。
今日は玲音のお母さんも穏やかで、遊ぶ事を許してくれた。
30分くらいして、お母さんが来て買い物に行ってくるとだけ言い、いつもはしないのに俺のことを強く抱きしめて出かけて行った。
お母さんの体は、驚くほど冷たく、そしてかすかに震えていた。
「恭汰のお母さんなんか今日変だね」
目線はゲーム画面のまま玲音が言う。
「なんか今日朝からお父さんもお母さんも変なんだよ」
「なんかあったの?」
「分かんない…でもお父さんに友達とずっといたいかって言われて、俺は玲音と離れるの嫌だって言った」
「俺ら友達なの?」
「そこ?」
二人してゲームから目を離し、
確かに友達と言うより家族に近いかもねと言い合いながら、目を合わせて笑った。
その笑顔は玲音が見せた、本物の笑顔だった。
その会話を聞いていた玲音のお母さんが、
少し慌てて家を出ていったのをみて、
次は俺ん家が変だなと玲音が笑う。
少し時間がたって玲音のお母さんが家に帰ってきて、
ゲームを辞めるようにスイッチを切られ、玲音は部屋に戻るように言われた。
俺はソファに座るように促され、隣に玲音のお母さんが座る。
いつもの俺の前では優しい玲音のお母さんとは違い、
冷たく、でも何処か悲しそうな顔で話し始める。
「恭ちゃん…。私ね貴方の事も自分の子供の様に思ってるの」
急になんだと戸惑いを隠しきれないが、
俺は静かに聞くことしか出来ない雰囲気。
時計の音だけが鳴り、息を詰まらせながらもお母さんは話していく。
「でもね……。櫻井家には、櫻井家の人生設計があるの」
母親の声は、感情が抜け落ち、まるで機械が喋っているようだった。
「玲音は、私たちが作り上げた、最高傑作でなければならないの。一点の曇りもない、完璧な存在。そのためには、あの子の時間を、1秒たりとも無駄にはできない」
小さい脳みそには処理を仕切れず、
受け止めきれない気持ちを表現出来ない。
「玲音にはお医者さんになって欲しいと言う私の願いもあるし、あの子になら出来ると思ってるの、だから誰にも邪魔して欲しくないの。それが例え恭ちゃんであっても」
「お……おれ別に邪魔してる訳じゃ……」
「邪魔なのよ」
母親の言葉が、俺の心臓を直接突き刺した。
「貴方といると、玲音は『普通の子供』に戻ってしまう。あの子に『普通』なんて必要ない。必要なのは、医学部に合格するための学力と、家を継ぐための品格だけ。恭ちゃんと遊ぶ時間は、玲音の未来を蝕む毒でしかないの」
はじめてみる玲音のお母さんの顔とオーラに負け、俺は何も話せなくなってしまった。
「分かってる、恭ちゃんは何も悪くないの。ほんとに恭ちゃんは悪くないの」
玲音のお母さんが泣いているところを、
俺はこの時はじめてみた。
けれど、その涙は、俺への申し訳なさではなく、自分の完璧な計画が、俺という不純物によって脅かされていることへの、悔しさと恐怖の涙に見えた。
訳が分からないまま、俺は何も言えず、この状況から逃げ出したい一心で立ち上がり、ゆっくりと玄関まで歩く。
「玲音の事は嫌いにならないであげて、嫌いになるなら私で十分だから」
後ろから玲音のお母さんにそう言われたが、
誰も嫌いになるつもりもない。
ましてや玲音に会えなくなるなんてありあない。
理不尽な現実を受け止めきれないまま、
俺は家に帰った。
家に帰るとお父さんから包み隠さず全てを聞いた。
今考えるとお父さんもそれどころじゃなく、
気が回って居なかったのだろう。
当時の俺には理解できない言葉がたくさんあった。
ただ【離婚】と【お母さんの浮気】と言うワードが残ってたのを覚えてる。
お母さんは、この家の「普通」に耐えきれず、別の男の元へ逃げたのだ。
サバサバして、いつもニコニコしていたお母さん。その笑顔の裏で、彼女もまた、この家という檻の中で、窒息しかけていたのかもしれない。
世間体を気にする玲音のお母さんに、俺と玲音を合わすなと言われたことも言われた。
セケンテイってなんだよって思ってた。
そんなモノのために俺と玲音は離れなきゃならないのか?
当時は何も受け入れられなかった。
お母さんがいなくなった寂しさと、玲音と会えなくなった絶望。
二つの巨大な穴が、俺の心に空いた。
そして、その穴を埋めるように、俺の中で玲音への気持ちが、幼なじみとして好きという気持ちから、もっと歪で、もっと強烈な、何かに変わっていった。
あの日からしばらくして俺たちの関係は「窓」だけになった。
昼間、学校で会っても、玲音は俺を完全に無視した。俺も、あいつの完璧な仮面を崩さないように、他人の振りをし続けた。
それが、俺たちに課された、唯一の生存戦略だったから。
けれど、夜、21:00。
玲音の両親が夜勤で不在になる木曜日の夜。
そこは、俺たちだけの聖域になった。
俺の部屋の、右側の窓。
その窓から、玲音はやって来る。
50センチの隙間を飛び越えて、支配人の目を盗んで、俺の元へ。
***
____2026年6月11日
木曜日の夜だけ、夜勤で玲音の両親が居ない日、
太陽の窓から俺の部屋にやって来る。
玲音はいつも学校では真面目で口数少なくて、
クールで、でも人と話す時の口調はやさしくて、
学年順位もいつも1位で、運動神経も良くて、THE王道モテ高校生。
でも俺の部屋にいる時はゲームしたり、漫画したり、めちゃくちゃ喋るし、言葉遣いも悪い。やんちゃなTHE男子高校生。
今日も人のベッドに寝転びながら、
お気に入りの漫画をダラダラ読んでいる。
「恭汰ぁー、コーラのみたい」
目線は漫画のまま、猫撫で声でお願いされる。
「今ないんだけど」
「コンビニ行ってきてよー、ついでにアイスも!」
ここでようやく俺に目を向けて、
ニコニコ笑顔でねだってくる。
その笑顔に、俺はいつも負ける。学校でのあの鉄仮面が嘘のように、俺の前でだけ見せる、無防備な顔。
俺がいなきゃ、こいつはコーラも飲めないんだ。
その依存されているという感覚が、俺の存在意義(アイデンティティ)をかろうじて保たせていた。
はぁ、とため息をついて俺はスウェットで近くのコンビニに向かう。
月の明かりは今日は暗く、視界が悪く感じる。
6月4日のあの日から、俺は月の光が怖くなった。あの血の海を、鮮明に照らし出した、冷たい光。
歩き始めるとジメッとした空気の中、
街灯に照らされ仕事終わりの猫背のお父さんが向かいから歩いてくる。
「おぉ、親父おかえり。メシ冷蔵庫入ってるよ」
「…ただいま、ありがとうな。あんま遅くなんなよ…」
コンビニ!っと返事をして
家に向かいとぼとぼ歩く父親の背中をみる。
あんなに小さかったっけなぁ…。
母親が家を出て離婚したあと、
父親は多分軽い鬱状態だった。
サバサバした母親と優しい父親。
仲のいい家族だと思ってた。
いつもニコニコしてた母親に裏の顔があったなんて、
俺でも耐えられないんだから、父親はもっとだろう。
でも俺に支える事はできなくて、
仕事を頑張ってくれてる父親のために、
家の事を俺がやるしかない。
家の掃除、洗濯、料理。俺が母親の代わりをすることで、この家が壊れるのを必死に止めていた。
2人で住むには大きい家も、
ローンがあったり、
思い出があったりで手放せないんだろう。
だから俺は親父が守ってるものを俺も守るしかない。
おつかいを終え家に帰ると、
リビングで親父と玲音が話していた。
「あっおかえり〜、これうまいね」
俺が親父に作ったハンバーグをつまみ食いしてやがる。
「だー!勝手に食ってんじゃねぇ!お前にはこれ買ってきたから!」
コーラとアイスを渡し、自室へ戻るように促す。
親父は俺と玲音が仲良くしてても何も言ってこない、
俺が玲音と仲良しなのを1番知ってるから。
玲音は「へへっ、ありがと」と笑いながら、親父の皿からまた一口、付け合わせの野菜を掠め取った。
親父は、玲音がすぐ横で騒いでいるというのに、なぜか手元の箸を止めたまま、じっと俺の顔を見ていた。
その目は、何か言いようのない悲しみや、俺には理解できない恐怖を必死に堪えているように見える。
親父の視線は、玲音の方ではなく、俺の背後にある、何もない空間を彷徨っていた。
「……親父? 玲音に食われて文句あるなら言えよ」
俺がそう言うと、親父は一度だけ、玲音が座っているはずの何もない空間に視線を泳がせ、すぐに逸らした。
そして、絞り出すような掠れた声で言った。
「……いや。いいんだ。……恭汰、お前が作った飯は……いつも、少し多すぎるくらいだからな」
「んだよ、残すなよ!」
気持ちわりー親父だ!と捨て台詞を吐き、俺は自室に戻った。
俺は玲音の事が大好きだ。
一生一緒にいたいと思う。
でも俺の部屋で呑気に漫画を読んでいるコイツは、1ミリもそんなこと思ってないだろう。
俺のこの気持ちは、あいつにとって、医学部合格の邪魔になる毒でしかないかもしれない。
この気持ちを伝えたらきっと幼なじみには戻れない。
だからこの想いはずっと心に残しておかなきゃならないんだ。
部屋では玲音がコーラを飲みながら、さっきの漫画の続きを読み耽っている。
「なぁ、恭汰。来週のテスト、また教えてやろうか?」
「……おう。頼むわ」
俺は、ベッドの端に座る玲音の横顔を見た。
この時間がずっと続けばいい。
学校で他人のふりをするのも、窓からしか会えないのも、全部我慢できる。
俺の気持ちを伝えて、この平和が壊れるくらいなら、俺はずっと親友のままでいい。
6月4日に見た、あのぐしゃぐしゃになった玲音の姿。
あれが幻覚だとしても、俺は、あいつが俺の元から去ることを、死ぬほど恐れている。
太陽のいない世界で、月は生きていくことができないから。
俺たちは、この歪な窓越しの世界で、どちらかが燃え尽きるまで、回り続けるしかないんだ。
雲の間から微かにオレンジの光が差し込む。
閑静な住宅街に今日も太陽が沈み、月が昇っていく。
俺の部屋には窓が左右に二つある。
左は太陽専用の窓。
右は月専用の窓。
二つの窓から互いに光が差し込み、
毎日が生まれ過ぎていく。
どちらも無くては、成り立たない。
…けれど、月は太陽を反射して光るだけの、ただの石に過ぎないことを、俺はまだ認めたくなかった。
俺は玲音がいなければ光ることの出来ない、冷たい石だ。
あいつという不動の太陽の周りを、ただ引力に引かれるがままに回り続ける、意思を持たない衛生だ。
その歪な関係が、俺たちの普通だった。
あの日までは。
____2026年6月4日
建売の家が並ぶなか、俺と玲音の家は隣同士。
同じ形の3階建て。
木曜日の21:00。
皆んなは人の姿が変わる瞬間を見たことある?
俺はあるんだ。
まさに今、目の前で。
幼なじみの玲音が目の前で落ちた。
俺と玲音の家の間に落ちた。
窓と窓の隙間は50センチ。
この50センチは、俺たちにとって世界で一番安全な、二人だけの秘密の通路だった。
今まで玲音は何回もこの間を渡って、俺の部屋に来ていた。
幼稚園の頃は親父に支えられながら、小学生の頃は探検家気取りで、そして高校生の今は、まるで自分の部屋のドアを開けるみたいに、当然の権利として。特別な事がない限り、落ちるわけがない。
でも、確かに、目の前で落ちた。
薄いカーテンはいつも留めてあるし、鍵も開けてある。
窓ガラスも透明。
俺の視界を遮るものはない。
なんで落ちたかは分からない。
いつも俺の部屋に入ってくる時と同じ体制で、まるで、そこにあるはずの橋が急に消えてしまったみたいに、下に落ちていった。
スローモーションの様なスピードで景色が変わり、
頭の中は物凄いスピードで今までの玲音との記憶が駆け巡って行く。
心臓の音がうるさく、耳から飛び出そう。
一気に出てきた冷や汗が流れるのを感じながら、
現実を見たくない恐怖心と見間違えじゃないか確かめたい検証心。
実は、予兆みたいなのはあったんだ。
ここ数ヶ月、玲音と話していると、時折あいつの輪郭が陽炎みたいに揺らぐことがあった。
真昼間の教室で、あいつの背後に真っ黒な闇が広がっているように見えることもあった。
俺はそれをたまたま見た幻だと、必死に自分に言い聞かせていた。
恐る恐る窓を開けゆっくりと下を除けば、
血だらけの玲音が地面に倒れている。
生温かい夜風が、鉄の錆びたような匂いを鼻腔の奥に押し込んできた。
辺りは暗いはずなのに、
そこだけ月の明かりが差しているように、ヤケに鮮明に見えてしまう。
周りの草に血が飛び散り、赤黒く染まっている。
どんどん血の海が広がり、このままだと玲音が溺れてしまいそう。
俺の大切な、大事な、大っ好きな玲音。
今日だって同じ教室で、
俺は対角線上にある後ろの席からずっと眺めていた。
窓側の席に座り少し伸びた黒髪を風に靡かせながら、
真剣に授業を受けている玲音の綺麗な横顔を俺はずっと見ていた。
隣に座る中村が何か話しかけても、玲音は薄く笑うだけで、決して心は開かない。その鉄壁のバリアの内側にいるのは、世界で俺一人だけ。その優越感が、俺の生き甲斐だった。
こんな一瞬で人は姿を変えてしまうのか。
信じられないくらい、ぐしゃぐしゃになり、
首が曲がっては行けない方向に曲がっている。
それは、俺が子供の頃に大切にしていた、腕のちぎれたぬいぐるみの無惨な姿に重なった。
人って落ちただけで、こんなに無残な姿になってしまうんだ…。
そして人っていざと言う時動けないのは本当なんだ。
部屋の窓から見ることしか出来ない。
「……玲音!玲音!!」
俺の声は、夜の静寂に吸い込まれ、隣の家の壁に跳ね返ってくるだけだ。
玲音の家は、死んだように静まり返っている。あいつの両親は、息子が血の海に沈んでいることなど知らず、今日も完璧な人生設計を練っているのだろうか。
どうしようか、どうしたら…。
頭を抱えて考えると後ろから声がした
「おい!何してんだよ」
「えっ…?」
そこにはいつもの綺麗な顔をした玲音が、
俺の部屋の定位置であるベットの上に座っている。
制服は皺一つなく、髪も整っている。下にあるはずの、あのぐしゃぐしゃの肉塊とは、あまりにもかけ離れた、完璧な「櫻井玲音」がそこにいた。
「だっ、だって!おま!いま落ちただろ!!」
状況が掴めず俺は夜ということを忘れ、
声を大きく出してしまった。
「はっ?何言ってんの?、ついに頭おかしくなったんか?」
玲音は鼻で笑い、今回は正しい方向に首を傾げる。
その首筋が一瞬だけ白を通り越して、陶器のような血の気のないように見えた。
あぐらをかいて漫画を読み出す姿はいつも通り。
俺は震えながらもゆっくり両手を伸ばし玲音の肩に恐る恐る触れてみる。
指先が、玲音の熱を探しているような感覚。
一瞬、指が彼の肩を通り抜けたような錯覚に陥ったが、すぐにヤケに高い体温が伝わってきた。
それは、微熱がある時の、少し浮かんだような熱さだ。
玲音のいつもの匂いを感じることが出来るのに、
生臭い血の匂いが鼻から消えない。
「なに、お前今日変じゃね?」
「ごめん、、、なんでもない」
肩から手を離し
もう一度窓から下をみる。
確かにさっき見た光景はそこになくて、
いつもの三毛猫が草の間で寝ていた。
三毛猫は、俺と目が合うと、何か不吉なものを見たように、小さく鳴いて闇に消えた。
さっきのはなんだ。
幻覚…?リアルすぎる。
幻覚にしても俺はなんであんな最低な光景を見てしまったんだ。
玲音が死ぬところなんて、俺が一番見たくないものなのに。
その夜、玲音は0:00過ぎまで俺の部屋でいつも通り過ごした。俺がコンビニで買ってきたコーラを飲み、数学の宿題を俺に教え(俺は全く頭に入らなかった)、漫画を数冊読んで。
そしてなんともない顔でまた窓を跨いで、暗闇の彼方にある自室へ帰って行った。
「明日な」
その、毎日繰り返されるはずの言葉が、今夜はひどく頼りなく、空虚に響いた。
この日の夜はなんだか寝付けなく、
月の窓から差す明かりが、やけに鬱陶しく感じた。
まるで、下にある血の海を、いつまでも照らし続けているかのように。
***
俺と玲音は生まれた時から一緒。
細かいことをいえば俺が9月生まれで、
玲音が11月生まれ。
だから玲音が生まれたあとからずっと一緒。
幼稚園から高校生まで一緒の正真正銘の幼なじみ。
俺らが生まれる前に互いの両親が今の家に引っ越し、
挨拶の時に母親同士が仲良くなったらしい。
お互いお腹が大きくなってて気づいたんだって。
それから家族の時間以外はほとんど一緒。
昼間公園で遊んだり、互いの家で遊んだり、
皆で旅行に行ったり。
昔の玲音は、今みたいにクールじゃなかった。
もっとよく笑ったし、俺の後ろをついて歩く、泣き虫な奴だったんだ。
「恭汰、待ってよ」って、ちぎれそうなほど小さな手で、俺のシャツの裾を掴んでた。
俺はそれが嬉しくて、「俺が玲音を守ってやるんだ」って、根拠のない自信に満ち溢れてた。
いつからだろう。玲音の目が、感情を映さなくなったのは。
小学校の高学年になった頃からか、あいつの家から、母親の金切り声が聞こえるようになった。
「どうして95点なの? あとの5点は?」
「遊んでいる暇があったら、問題を解きなさい」
窓越しに聞こえるその声は、隣に住む俺の心さえも、冷たく凍らせた。
遊びに行っても、玲音のお母さんは「恭ちゃん、今日は30分だけね」と時計を指差す。
その時の玲音の、申し訳なさそうに、でもどこか諦めたような目が忘れられない。
玲音は、外で会う時は普通を装っていたけれど、二人きりになると、魂が抜けたような顔をして、俺の部屋のベッドに突っ伏すようになった。
昔は本当にずっと一緒だった。
でもある時から外で一緒に居ることは、
一切無くなってしまった。
____2021年4月
太陽の光が天辺に到達し、
穏やかなよく晴れた日。
桜の花が散り始め、風と共に吹雪が舞う。
庭に出ると暖かい空気とは反対に、
少し暗い顔で洗濯物を干しているお母さん。
俺は外用のサンダルに履き替え、お母さんの元に駆け寄る。
「お母さん?具合悪いの?」
「恭汰…。ううん。体調は大丈夫よ。心配かけてごめんね。」
いつもとは違う暗い顔に違和感を覚えつつ、
俺はお父さんに呼ばれ家の中へ戻る。
お父さんもお父さんでいつもと違い真剣な顔で俺に話す。
「恭汰はいま周りにいるお友達とずっと一緒にいたいか?」
「ともだち…?ハヤトとか、ショウとか?あと…玲音も?」
「うん、学校の友達もだし、もちろん玲音くんも」
お父さんは俺の肩に両手を乗せ、強く目を合わせて聞いてくる。
その目は、何か重大な告白をしようとしているかのように、微かに震えていた。
「そりゃあもちろん!学校の友達は中学行ったら離れるとかあるけど、玲音はずっと一緒だもん!俺玲音いなきゃムリ!」
「そうだよな…ありがとう」
「なんでそんな事聞くの?」
「いや、気になっただけだよ」
お父さんは俺から手を離すと、庭にいるお母さんの元へ向かっていった。
家の中が糸で張り巡らされて、1本でも切れたら崩れてしまいそう。
そんな空気に耐えられず俺は玲音の家に行き、遊ぼうとインターホンを鳴らした。
今日は玲音のお母さんも穏やかで、遊ぶ事を許してくれた。
30分くらいして、お母さんが来て買い物に行ってくるとだけ言い、いつもはしないのに俺のことを強く抱きしめて出かけて行った。
お母さんの体は、驚くほど冷たく、そしてかすかに震えていた。
「恭汰のお母さんなんか今日変だね」
目線はゲーム画面のまま玲音が言う。
「なんか今日朝からお父さんもお母さんも変なんだよ」
「なんかあったの?」
「分かんない…でもお父さんに友達とずっといたいかって言われて、俺は玲音と離れるの嫌だって言った」
「俺ら友達なの?」
「そこ?」
二人してゲームから目を離し、
確かに友達と言うより家族に近いかもねと言い合いながら、目を合わせて笑った。
その笑顔は玲音が見せた、本物の笑顔だった。
その会話を聞いていた玲音のお母さんが、
少し慌てて家を出ていったのをみて、
次は俺ん家が変だなと玲音が笑う。
少し時間がたって玲音のお母さんが家に帰ってきて、
ゲームを辞めるようにスイッチを切られ、玲音は部屋に戻るように言われた。
俺はソファに座るように促され、隣に玲音のお母さんが座る。
いつもの俺の前では優しい玲音のお母さんとは違い、
冷たく、でも何処か悲しそうな顔で話し始める。
「恭ちゃん…。私ね貴方の事も自分の子供の様に思ってるの」
急になんだと戸惑いを隠しきれないが、
俺は静かに聞くことしか出来ない雰囲気。
時計の音だけが鳴り、息を詰まらせながらもお母さんは話していく。
「でもね……。櫻井家には、櫻井家の人生設計があるの」
母親の声は、感情が抜け落ち、まるで機械が喋っているようだった。
「玲音は、私たちが作り上げた、最高傑作でなければならないの。一点の曇りもない、完璧な存在。そのためには、あの子の時間を、1秒たりとも無駄にはできない」
小さい脳みそには処理を仕切れず、
受け止めきれない気持ちを表現出来ない。
「玲音にはお医者さんになって欲しいと言う私の願いもあるし、あの子になら出来ると思ってるの、だから誰にも邪魔して欲しくないの。それが例え恭ちゃんであっても」
「お……おれ別に邪魔してる訳じゃ……」
「邪魔なのよ」
母親の言葉が、俺の心臓を直接突き刺した。
「貴方といると、玲音は『普通の子供』に戻ってしまう。あの子に『普通』なんて必要ない。必要なのは、医学部に合格するための学力と、家を継ぐための品格だけ。恭ちゃんと遊ぶ時間は、玲音の未来を蝕む毒でしかないの」
はじめてみる玲音のお母さんの顔とオーラに負け、俺は何も話せなくなってしまった。
「分かってる、恭ちゃんは何も悪くないの。ほんとに恭ちゃんは悪くないの」
玲音のお母さんが泣いているところを、
俺はこの時はじめてみた。
けれど、その涙は、俺への申し訳なさではなく、自分の完璧な計画が、俺という不純物によって脅かされていることへの、悔しさと恐怖の涙に見えた。
訳が分からないまま、俺は何も言えず、この状況から逃げ出したい一心で立ち上がり、ゆっくりと玄関まで歩く。
「玲音の事は嫌いにならないであげて、嫌いになるなら私で十分だから」
後ろから玲音のお母さんにそう言われたが、
誰も嫌いになるつもりもない。
ましてや玲音に会えなくなるなんてありあない。
理不尽な現実を受け止めきれないまま、
俺は家に帰った。
家に帰るとお父さんから包み隠さず全てを聞いた。
今考えるとお父さんもそれどころじゃなく、
気が回って居なかったのだろう。
当時の俺には理解できない言葉がたくさんあった。
ただ【離婚】と【お母さんの浮気】と言うワードが残ってたのを覚えてる。
お母さんは、この家の「普通」に耐えきれず、別の男の元へ逃げたのだ。
サバサバして、いつもニコニコしていたお母さん。その笑顔の裏で、彼女もまた、この家という檻の中で、窒息しかけていたのかもしれない。
世間体を気にする玲音のお母さんに、俺と玲音を合わすなと言われたことも言われた。
セケンテイってなんだよって思ってた。
そんなモノのために俺と玲音は離れなきゃならないのか?
当時は何も受け入れられなかった。
お母さんがいなくなった寂しさと、玲音と会えなくなった絶望。
二つの巨大な穴が、俺の心に空いた。
そして、その穴を埋めるように、俺の中で玲音への気持ちが、幼なじみとして好きという気持ちから、もっと歪で、もっと強烈な、何かに変わっていった。
あの日からしばらくして俺たちの関係は「窓」だけになった。
昼間、学校で会っても、玲音は俺を完全に無視した。俺も、あいつの完璧な仮面を崩さないように、他人の振りをし続けた。
それが、俺たちに課された、唯一の生存戦略だったから。
けれど、夜、21:00。
玲音の両親が夜勤で不在になる木曜日の夜。
そこは、俺たちだけの聖域になった。
俺の部屋の、右側の窓。
その窓から、玲音はやって来る。
50センチの隙間を飛び越えて、支配人の目を盗んで、俺の元へ。
***
____2026年6月11日
木曜日の夜だけ、夜勤で玲音の両親が居ない日、
太陽の窓から俺の部屋にやって来る。
玲音はいつも学校では真面目で口数少なくて、
クールで、でも人と話す時の口調はやさしくて、
学年順位もいつも1位で、運動神経も良くて、THE王道モテ高校生。
でも俺の部屋にいる時はゲームしたり、漫画したり、めちゃくちゃ喋るし、言葉遣いも悪い。やんちゃなTHE男子高校生。
今日も人のベッドに寝転びながら、
お気に入りの漫画をダラダラ読んでいる。
「恭汰ぁー、コーラのみたい」
目線は漫画のまま、猫撫で声でお願いされる。
「今ないんだけど」
「コンビニ行ってきてよー、ついでにアイスも!」
ここでようやく俺に目を向けて、
ニコニコ笑顔でねだってくる。
その笑顔に、俺はいつも負ける。学校でのあの鉄仮面が嘘のように、俺の前でだけ見せる、無防備な顔。
俺がいなきゃ、こいつはコーラも飲めないんだ。
その依存されているという感覚が、俺の存在意義(アイデンティティ)をかろうじて保たせていた。
はぁ、とため息をついて俺はスウェットで近くのコンビニに向かう。
月の明かりは今日は暗く、視界が悪く感じる。
6月4日のあの日から、俺は月の光が怖くなった。あの血の海を、鮮明に照らし出した、冷たい光。
歩き始めるとジメッとした空気の中、
街灯に照らされ仕事終わりの猫背のお父さんが向かいから歩いてくる。
「おぉ、親父おかえり。メシ冷蔵庫入ってるよ」
「…ただいま、ありがとうな。あんま遅くなんなよ…」
コンビニ!っと返事をして
家に向かいとぼとぼ歩く父親の背中をみる。
あんなに小さかったっけなぁ…。
母親が家を出て離婚したあと、
父親は多分軽い鬱状態だった。
サバサバした母親と優しい父親。
仲のいい家族だと思ってた。
いつもニコニコしてた母親に裏の顔があったなんて、
俺でも耐えられないんだから、父親はもっとだろう。
でも俺に支える事はできなくて、
仕事を頑張ってくれてる父親のために、
家の事を俺がやるしかない。
家の掃除、洗濯、料理。俺が母親の代わりをすることで、この家が壊れるのを必死に止めていた。
2人で住むには大きい家も、
ローンがあったり、
思い出があったりで手放せないんだろう。
だから俺は親父が守ってるものを俺も守るしかない。
おつかいを終え家に帰ると、
リビングで親父と玲音が話していた。
「あっおかえり〜、これうまいね」
俺が親父に作ったハンバーグをつまみ食いしてやがる。
「だー!勝手に食ってんじゃねぇ!お前にはこれ買ってきたから!」
コーラとアイスを渡し、自室へ戻るように促す。
親父は俺と玲音が仲良くしてても何も言ってこない、
俺が玲音と仲良しなのを1番知ってるから。
玲音は「へへっ、ありがと」と笑いながら、親父の皿からまた一口、付け合わせの野菜を掠め取った。
親父は、玲音がすぐ横で騒いでいるというのに、なぜか手元の箸を止めたまま、じっと俺の顔を見ていた。
その目は、何か言いようのない悲しみや、俺には理解できない恐怖を必死に堪えているように見える。
親父の視線は、玲音の方ではなく、俺の背後にある、何もない空間を彷徨っていた。
「……親父? 玲音に食われて文句あるなら言えよ」
俺がそう言うと、親父は一度だけ、玲音が座っているはずの何もない空間に視線を泳がせ、すぐに逸らした。
そして、絞り出すような掠れた声で言った。
「……いや。いいんだ。……恭汰、お前が作った飯は……いつも、少し多すぎるくらいだからな」
「んだよ、残すなよ!」
気持ちわりー親父だ!と捨て台詞を吐き、俺は自室に戻った。
俺は玲音の事が大好きだ。
一生一緒にいたいと思う。
でも俺の部屋で呑気に漫画を読んでいるコイツは、1ミリもそんなこと思ってないだろう。
俺のこの気持ちは、あいつにとって、医学部合格の邪魔になる毒でしかないかもしれない。
この気持ちを伝えたらきっと幼なじみには戻れない。
だからこの想いはずっと心に残しておかなきゃならないんだ。
部屋では玲音がコーラを飲みながら、さっきの漫画の続きを読み耽っている。
「なぁ、恭汰。来週のテスト、また教えてやろうか?」
「……おう。頼むわ」
俺は、ベッドの端に座る玲音の横顔を見た。
この時間がずっと続けばいい。
学校で他人のふりをするのも、窓からしか会えないのも、全部我慢できる。
俺の気持ちを伝えて、この平和が壊れるくらいなら、俺はずっと親友のままでいい。
6月4日に見た、あのぐしゃぐしゃになった玲音の姿。
あれが幻覚だとしても、俺は、あいつが俺の元から去ることを、死ぬほど恐れている。
太陽のいない世界で、月は生きていくことができないから。
俺たちは、この歪な窓越しの世界で、どちらかが燃え尽きるまで、回り続けるしかないんだ。
