ギィ……と、重い音を立てて第一音楽室の扉が開いた。
窓から差し込む月光が、埃の舞う室内を青白く照らす。
部屋の中央に鎮座するグランドピアノ。
その鍵盤の上で、無数の半透明な手首が、生き物みたいに重なり合いながら、のたうち回っていた。
「……う、うわぁ……手、手だけじゃねえか……」
御剣くんが、引きつった声を上げた。
ジャラン……ポーン……。
叩きつけられる不協和音。
それは演奏というより、何かを必死に掴み取ろうとする「足掻き」のようだった。
「……あの子、自分の『本当の音』が分かんなくて、パニックになってるわね……マジしんど〜!♡」
ジェーンさんが、羽扇子で口元を隠しながら呟いた。
……助けてあげないと。
僕はピアノへと歩き出していた。
「おい、あきら! 近寄るな! 危険だ!」
御剣くんが止めようとしたけれど、ジェーンさんがその腕を制した。
「……待って。あきらくん、何か感じてるみたい……」
僕はピアノの前に立つと、のたうち回る透明な手の中に、そっと自分の両手を差し出した。
冷気が、指先から心臓へと駆け抜けた。
その瞬間、透明な手たちが一斉に動きを止め、僕の手を包み込んだ。
「……っ!」
激痛。
まるで、両手の骨が一本ずつ砕かれ、再構築されるような感覚。
透明な手たちが皮膚の下に潜り込み、僕の「骨」と「神経」を使ってピアノを弾き始めたのだ。
……ポーン……。
澄んだ、ひどく美しい一音が響いた。
それは、これまで一度も聞いたことのない、完璧に調律された音。
「……あきら?」
御剣くんの声が、遠く聞こえる。
僕の意志とは無関係に、両手が鍵盤の上を滑らかに踊る。
奏でられるのは、物悲しくも温かい、忘れ去られた鎮魂歌。
僕の両手は、もう僕のものではなかった。
この音楽室の「孤独」を繋ぎ止めるための、『正しい鍵盤』へと作り変えられたのだ。
誰かの記憶が流れ込んでくる。
楽しくピアノを弾く横で、同じようにバイオリンを奏でる誰か。
一緒に曲を奏でるのが好きだったけど、ピアノを弾いていた『君』は理由があって死んでしまったんだね。
でもそれで誰かを恨んだり、悲しんだりはしていない。
君は静かに曲の練習をしながら、あの子のことをここで待っていたかったんだ。
「……あの子、やっと自分の音を見つけたのね。……あきらくんの両手を、『アンプ』にしちゃったみたい……マジイケてる〜!♡」
ジェーンさんがあきらの両手を覗き込み、閉じかけの扇子で口元をそっと覆った。
「……あ、アンプ?」
御剣くんが、震える声で聞き返す。
「そうよ。……あの子の寂しいメロディを、この世界に正しく響かせるためのスピーカー。……あきらくんが『一緒に弾こう』って差し出したから、あの子、アンタの両手を自分の特等席(VIPルーム)にしちゃったのよ」
「……特等席……」
僕は自分の手のひらを見つめた。
痛みは引いたけれど、指先にはまだ、ピアノの冷たい鍵盤の感触が、皮膚の内側からこびり付いている。
「……よかった。……あの子の音、ちゃんと届いたなら」
「……何が良かっただよ、あきら! お前の手、なんか変なアザ……これ、鍵盤の模様か……? 浮き出てんぞ!」
御剣くんが僕の手首を掴み、必死に擦る。けれど、皮膚の下に浮かんだ白と黒の紋様は、僕の脈拍に合わせて、まるで生き物みたいにトクトクと不気味に波打っていた。
「……それ、消えないわよ。……アンタ、その手で七不思議の『音』を拾っちゃったんだもん。……マジ、あーしもびっくりの神対応(神託)ね」
ジェーンさんの瞳には、茶化すような光の奥に、得体の知れない期待が宿っていた。
「いい?♡ その手はもう、ただの手じゃないわ。……この学園の、歪んだ『音』を調律するための鍵。……次に行く場所でも、アンタのその手が役に立つはずよ〜!♡」
音楽室を去ろうと扉に手をかけた時、背後で「ポーン……」と、一音だけ、今度は完璧に調律された優しい音が響いた。
「……サンキュー、って言ってるみたいだぜ」
御剣くんが、少しだけ照れくさそうに笑い、僕の肩を叩いた。その手の温かさが、鍵盤の痣が刻まれた僕の冷たい手とは対照的で、僕は少しだけ胸が締め付けられた。
音楽室を後にした僕たちは、静まり返った夜の廊下で立ち止まった。
自分の両手を見つめる。
鍵盤のような白と黒の紋様は、月明かりの下で脈打ち、ピアノの残響を刻んでいるようだった。
「……あきら。それ、本当に消えねえのか?」
御剣くんが、慎重に僕の手首を掴む。
けれど、西校舎の出口が見え、寮の明かりが近づくにつれて——
「……あ」
指先に宿っていた不気味な熱が、スッと引いていく。
それと同時に、皮膚の下に沈んでいたはずの紋様が、まるでインクが水に溶けるように薄れ、消えていった。
そこには、煤で少し汚れただけの、いつもの僕の手がある。
「……消えた? なんだよ、一時の気の迷いだったのか?」
御剣くんが、自分の目を疑うように僕の手をひっくり返して眺める。
「いい?♡ あきらくん」
ジェーンさんが、闇に溶けかける間際にニヤリと笑った。
「……それはね、アンタが『あっち側』に踏み込んだ時だけ開く、VIPルームの扉なの。……お天道様の下では、幽霊(あの子たち)だって恥ずかしくて出てこれないっしょ?♡」
「……夜だけ、現れるんだ」
「そゆこと!♡ マジ、シンデレラ的な? 24時間営業じゃないから、今のうちにたっぷり寝ときなさいよ〜!♡」
ジェーンさんはひらひらと羽扇子を振ると、今度こそ夜の闇に消えていった。
——静丘学園の夜が、さらに深く沈んでいく。
寮の明かりに照らされた僕の手は、昨日までと何も変わらないように見える。
けれど指先にはまだ、あの冷たい鍵盤の感触が、
呪い——あるいは守護の重みとして、深く刻み込まれていた。
