静丘学園異常事象記録


「放送室……放送室ねぇ」
「何かあるの?」
「いや、放送委員とかいねーじゃん? でも毎日適当にいい曲流してるなーって思ったから、どんな奴がいるんだろうと思ってさ」
「確かに。放送委員って聞いたことないね」
「だろ? 放送部みたいなのもなかったよな」
「僕らが知らないだけであるのかも?」
「かもしれないな……お、放送室……ここだな」
 御剣くんがドアをノックした。
「すみませーん……」
「特に反応ないね」
「ドアも……開かないな。鍵がかかってる……なんだよ太郎のやつ、ガセネタよこしたのか」

「御剣っち〜」
 猫耳パーカーを着た同級生──玉響くんがいた。

「んあ? 玉響、お前なにしてんだこんなところで」
「えぇ? あきらくんと教室でていくのに気付いてついてきた〜。もしかして放送室に用事だったの?」
「うん。放送室つかってる人と話したいことがあってさ」
「そうなんだ。うちの学校の放送はね、休み時間とかお昼の時間は有料放送にしちゃってるんだって」
 御剣くんがずっこける。
「有料放送って……」
「だから放送室には機材が置いてあるだけで、中には誰もいないよ。機材トラブルとかあれば先生が入ったりはするけど……」
 玉響くんがそう言った瞬間、僕は閉ざされた放送室の扉の小窓に目をやった。
 誰もいないはずの室内。けれど、コンソールの赤いランプだけが、見開いた眼球みたいにじっとこちらを捉え、不規則に明滅しているように見えた。
 それは、まるで誰かが僕たちの会話を盗み聞きしていて、その声の大きさに合わせてレベルメーターが跳ねているような、生々しい動きだった。

「生徒で入る人はいないんじゃないかな〜」
「そ、そうだったんだ。よく知ってるね」
「でしょー。ボク知らないことを知るのが好きなんだよ。ねぇ、校長のにくきゅうの色知ってる〜?」
 校長のにくきゅうの色? 昨日、副校長に抱っこされてすれ違った時のことを思い出す。
「ピンク! ピンク色だった!」
「そうなんだぁ。それって昨日の話? 昨日はピンク色だったんだね」
「どういうことだよ?」
「校長のにくきゅうの色は日によって変わるんだよぉ。黒かったりー。茶色かったりー。不思議だよねぇ」
「ねぇ、もしかして静丘学園の七不思議にも詳しい? 知ってるなら教えてくれないかな?」
「んー? 七不思議かー。それはまだ全部は知らないけど、第一音楽室のピアノは……よく部屋に誰もいないのにかってに鳴るって聞いたな〜」
「ありがとう!」
「おー。よく知ってるな」
 御剣くんが感心したように言うと、玉響くんはふふっと笑って、何も考えずに抱えていた僕のノートを、一瞬だけ、射抜くような視線で見つめた。
「……あきらくん、その『記録』、大事にしなよ。この学園では、覚えていることが一番大事なんだ」
 猫耳パーカーのフードを被り直して、玉響くんはにっこりと笑う。
「他にも何かわかったら教えてよ。ボクも気が向いたら情報集めてみるし。それじゃあ、まーたねー」
 玉響くんはそう言い残して、スキップするように廊下の闇へと消えていった。

「……にしても、肉球の色が変わるって、あいつ適当なこと言ってねーか?」
「……どうだろう。でも御剣くん、さっきから放送室の中で……誰かがずっと、こっちを笑ってる気配がするんだ」

 僕がそう言った途端、廊下のスピーカーから「プツッ……」と、電源が入るような乾いた音が響いた。

 ──

 懐中電灯の細い光が、誰もいない夜の廊下を白く切り裂く。
 僕たちの隣では、フリフリのミニスカートをなびかせたジェーンさんが、「夜道は肌が荒れるわ〜」なんて文句を言いながら歩いている。相変わらずの厚化粧だ。

「……なぁ、あきら。さっきクラスの連中から聞いたんだけどさ」
 御剣くんが、わざとらしく声を低めて僕の耳元で囁いた。
「第一音楽室のピアノ。あれ、ただ勝手に鳴るだけじゃないらしいぜ……」
「……またそういう話?」
「おう。……夜中にあの部屋の前を通るとさ、誰もいないはずなのに『エリーゼのために』が聞こえてくるんだ。……でもな、その曲が最後まで終わる前にドアを開けちまった奴は……ピアノの蓋に首を挟まれて、そのまま……」
「……御剣くん、もういいよ」
「……しかも、そのピアノ、弾いてるのは『手』だけなんだってさ。……手首から先だけの透明な幽霊が、鍵盤の上を猛スピードで走り回って……」
「ちょっと待ったぁ〜! ストップストップ〜!♡」
 ジェーンさんが、バサリと羽扇子を広げて御剣くんの顔を遮った。
「な、なんだよジェーンさん! いいところなんだから邪魔すんなよ!」
「アンタの話、マジ古臭いっていうか、センスなさすぎ〜!♡ ピアノの蓋に首? 昭和のギャグ漫画じゃあるまいし、そんな物理的な攻撃、今時は流行らないのよ。……大体、今は『エリーゼのために』なんて誰もリクエストしないわ! 今はもっとこう、バブルが弾けるようなアゲアゲな曲じゃないと、音楽室の霊だってノってこないっしょ!♡」
「……怪談に流行とかあんのかよ」
 御剣くんが呆れたように肩を落とす。
「あるに決まってんじゃん!♡ ……いい? あきらくん。第一音楽室のピアノが勝手に鳴るのは、あれは『寂しさ』の反響よ。……誰もいない部屋で、忘れ去られた旋律が、自分を弾いてくれる指を探して空回りしてるだけ。……でも、今夜はちょっと違うみたいね……」
 ジェーンさんの言葉が途切れた瞬間。
 廊下の突き当たり、第一音楽室の重い扉の向こう側から、微かな音が漏れてきた。

 ——ポーン……。

 それは、調律の狂った、ひどく不協和なピアノの一音だった。
 御剣くんが息を呑み、僕の前に一歩踏み出す。
「……あきら、大丈夫だ。……ただのピアノだ。……幽霊だろうが手首だろうが、俺がぶっ飛ばしてやるからな」
 御剣くんはそう言いながらも、懐中電灯を握る手には少しだけ力が入っていた。
 扉に近づくにつれ、湿った木材と、長年調律されていないピアノ特有の金属の錆びた匂いが強くなっていく。それは、どこか玉藻先生の診察室で嗅いだアルコールの匂いと似て、神経を逆なでするような冷たさがあった。
「……行こう。……何かが、あそこで僕たちを呼んでる気がするんだ」
 御剣くんは、音の主が待つ音楽室の扉へと、ゆっくりと近付いた。

 懐中電灯の光を足元に落とし、僕たちは第一音楽室の扉の前で立ち止まる。
 重厚な木製の扉の向こうから、どこか聞き覚えのある物悲しい旋律が漏れていた。
 ……けれど、何かが決定的に「狂って」いる。

 ポーン……ジャラン……。

 鍵盤が沈むたびに、調律の合っていない弦が不協和音を立てる。まるで、泣き出しそうな声を無理やり押し殺して響かせているような、歪なメロディ。
「……うわ、気味悪りぃ。……よし、あきら。一気に開けるぞ。……中に誰がいようが、俺が——」
 御剣くんがドアノブに手をかけ、一気に踏み込もうとしたその時。
「待って」
 僕は思わず、彼の制服の袖を掴んだ。
「なんだよ、あきら。……怖いのか? 大丈夫だって、俺が——」
「違うんだ。……どんな曲を弾くのか、最後まで聞こうよ」
「え……?」
 御剣くんが面食らったような顔で僕を見る。
 僕は扉に耳を寄せ、その不確かな旋律に集中した。
「だって、もし本当に誰かが……あるいは『何か』が、弾きたい曲があって弾いているなら。……どんな曲を弾くのかで、相手が誰なのか、何を伝えたいのかがわかると思うんだ」
 僕の言葉に、隣で羽扇子をパタパタさせていたジェーンさんが、パッと目を見開いた。
「あきらくん、あったまいい〜!♡ あーし賛成〜!♡」
 おどけて言ったジェーンさんだったけれど、その瞳は笑っていなかった。
 彼女もまた、この「調律の狂った音」の中に、自分たち怪異が抱える共通の悲しみを感じ取っているのかもしれない。
「……ジェーンさん?」
「そうよ。……怪異(あーしたち)にとって、表現っていうのは『遺言』みたいなもん。……何を奏でているかを知ることは、その子の正体(名前)を当てる近道なのよ。……やるじゃん、あきらくん! マジ尊敬〜!♡」
 ジェーンさんは感心したように頷くと、御剣くんの肩をポカポカと叩いた。
「アンタも少しは見習いなさいよ。……力任せにドア開けるなんて、バブル崩壊後の地上げ屋じゃあるまいし、マジ時代遅れ〜!♡」
「……地上げ屋ってなんだよ……分かったよ、聞けばいいんだろ、聞けば」
 御剣くんは不承不承ながらも、ドアノブから手を離した。
 
 夜の静寂の中、僕たちは扉一枚を隔てて、その「狂ったピアノ」に耳を澄ませる。
 途切れ途切れに響く、切ない旋律。

 ピアノの音が外れるたびに、何も考えずに聴いていた僕の胸の奥も、チリりと痛んだ。
 これは、寂しさだけで鳴っているんじゃない。……何かを必死に思い出そうとして、でも思い出せなくて、もがいている響きだ。

 それは、かつて誰かが愛し、そして今は誰も弾かなくなった——学園の忘れ去られた記憶の欠片のようだった。

「これ、もしかして……ピアノの調律が上手くいってないんじゃないかな? どう思う?」

 御剣くんが、きょとんとした顔で僕を見た。
 扉の向こうでは、依然としてポーン……ジャラン……と、音程のズレた不協和音が、夜の廊下に冷たく響き渡っている。
「……なぁ、あきら。調律って、あのピアノの音を直すやつだろ? それが上手くいってないって……幽霊が練習不足だってことか?」
「違うよ。練習不足とかじゃなくて……弾きたいのに、思うように指が動かないみたいなさ。どう思う? ジェーンさん」
 僕は、扇子をあごに当てて考え込んでいたジェーンさんに問いかけた。
「……あきらくん、それマジで鋭いかも〜!♡」
 ジェーンさんが、バサリと扇子を閉じて僕を指差した。
「いい? 怪異が奏でる音っていうのは、その子の『心臓の鼓動』と同じなの。……外れて聞こえるってことは、このピアノを弾いてる子の『心』がバラバラに壊れちゃってるってこと。……無理やり音を出そうとしてるけど、自分の感情(音)がどこにあるか分かんなくなってるのよ。……マジしんど〜!♡」
「……心が壊れてるから、音が外れるのか」
 御剣くんが、神妙な面持ちで扉を見つめた。
「そう。……だからこれ、ただの怪談じゃないわ。……あの子、泣いてるのよ。……誰かに、自分の本当の音を見つけてほしくて、必死に鍵盤を叩いてる……でも、調律が狂いすぎてて、自分でも何が正解か分かんなくなっちゃってるのね」
 ジェーンさんの言葉と重なるように、ピアノの音が激しさを増した。
 激しく、叩きつけるような打鍵音。
 けれど、その音はどれも濁り、悲鳴のように廊下を震わせる。
「……よし。……分かったよ、あきら」
 御剣くんが、ゆっくりとドアノブに手をかけ直した。
「……幽霊だか何だか知らねえが、自分の音も分かんねえくらい泣いてるってんなら、放っておけねえ。……俺たちが、その『本当の響き』ってやつを一緒に探してやろうぜ」
 御剣くんの瞳には、さっきまでの恐怖心は消え、真っ直ぐな決意が宿っていた。
「……開けるぞ。……大丈夫だ、俺がついてる」

 ——ギィ……。

 重い扉が、ゆっくりと、拒絶するように開き始める。
 その隙間から溢れ出してきたのは、心臓まで凍りつくような冷気と、そして──。