翌日。昼休みに飲んだお茶は、拍子抜けするほど普通の味だった。
あんなことがあったのに、何も変わらないんだな……と、少しだけ不思議に思った。
消灯後、薄い布を被せて光量を抑えた懐中電灯を手に、僕たちは学園内を歩いていた。
「……なあ、あきら。知ってるか? 西校舎三階の、突き当たりのトイレの話」
御剣くんが声を潜めた。
「……トイレの、怪談?」
「そう。通称『西校舎トイレの太郎さん』。……昔、いじめられてた男子生徒がさ、誰にも見つからないように、お昼休みにあそこの個室で一人で弁当食ってたらしいんだ」
御剣くんの言葉に、僕は自分の胸の奥がチリりと痛むのを感じた。
一人で、鍵を閉めて、静かに食事をする。
それは僕にとって、どこか他人事とは思えない光景だった。
「──でも、ある日突然、その個室の鍵が壊れちまったんだ。……内側から、どうしても開かなくなって。……西校舎の端なんて誰も来ねえ。……あいつ、数日間ずっと扉を叩いて叫び続けたらしいぜ。……結局、誰にも気づかれないまま、最後はお弁当箱を抱えて……」
「……御剣くん、もういいよ」
「……それ以来、あそこの個室を三回ノックして『太郎さん、助けに来たよ』って言うと、中からガリガリって扉を掻きむしる音がして、中から──」
「もういいって!」
「なんだよー。ちゃんと対応方法知らないと、太郎さんが出た時に引きずり込まれるぞー」
僕らはもう西校舎の階段を上がっていた。
三階の廊下は冷たい湿り気を帯びて、奥へと続く闇が口を開けている。
「……本当に、行くの?」
「おう。……案内人がいるっていうなら行くしかないだろ」
西校舎のトイレ……この校舎には移動教室で使うような部屋しかないから普段から人の出入りが少ない。
御剣くんがゆっくりと、あの突き当たりの個室のドアを静かにノックした。
「……なーんだって感じだったよなー」
翌日、校庭での体育の授業中。御剣くんが頭の後ろで腕を組みながら言った。
「そうだね」
結局、個室のドアを何度ノックしても、声をかけても反応はなかった。人によっては風の音とか物音が、そういう幽霊みたいな不気味な音に聞こえたのかもしれないけど……
──でも、真っ暗な西校舎のトイレで、一人寂しくいるような幽霊なんていないんだってわかって良かった。
「うん? どうした? なんか面白いことでもあったか?」
「え? 何が?」
「いや、今ちょっと笑ってただろ?」
「そう?」
「なんだよ教えろよー」
「いや、なんでもないって」
そんな会話をしている時に、視界に入ったのは西校舎の例のトイレがあるあたりだった。
「あれ?」
「ん?」
「いま、窓の奥で金色の何かが……ゆらりと、生き物みたいに動いたような……」
「なんだそれ?」
「気のせい……かな」
ちょうど短距離走の順番が来て呼ばれた。
なんだったんだろうと思う間もなく、日常の慌ただしさに紛れていった。
「やっとお昼だー! 見てくれ!! このデラックスツナサンド!! 購買限定品だぞ!!」
御剣くんが見せてくれたツナサンドには、キラリと金色に光る猫の形のシールが貼られていた。
まずは記念撮影と、机の上に牛乳のパックと共に並べて写真を撮っている。
「いやー、これの噂を聞いてから何度もトライして、今日やっと買えたんだ〜。食べるのが楽しみで楽しみで……」
僕はその横で、食堂で淹れてきたお茶を一口飲んだ。
いつもと同じ味……のはずなのに、今日はほんの少しだけ甘く感じた。
机の上に置かれたツナサンドに興味を持つ白猫がいた。
──校長だ。
「……あ」
あむとツナサンドの袋を口にくわえて、飛び降りると恐ろしいほどの速さで廊下に向かって走っていった。
「俺のデラックスツナサンドーーー!!!」
「早く追いかけないと! 人間が食べるものは、味が濃いし猫の健康に良くない!」
「そっちー!?」
校長の後を二人で追いかける。
途中、鏡宮くんに「廊下は走るな!」と怒られた。
僕たちが追いかけているからか、校長はツナサンドを口にくわえたままひたすら走って逃げ続けている。
「うおぇっ、空腹でこの容赦ない全力疾走……吐きそう」
「御剣くん! 頑張って!!」
西校舎の階段を駆け上がる。
階段を駆け上がった先には──副校長がいた。
「……お前たちか」
副校長の腕の中には、僕たちが追いかけていた白猫の校長がいる。
「あまり、彼らを揶揄わないでください。ほら──」
校長が口にくわえていたツナサンドが、副校長から返される。
「良かったー。副校長ありがとう」
副校長は御剣くんと僕を一瞥すると、校長を抱いたまま階段を音もなく降りていった。
「さて、帰るか。それともここで食ってくか? 食いながら帰るか……」
むむと悩んでいる御剣くんを尻目に、僕は西校舎のトイレが気になっていた。
「ねぇ、ちょっと見に行ってみない?」
「見に行くって、西校舎のトイレに? いま昼間だぜ?」
「怪談のスタートもお昼にお弁当を食べていたって話だったし、もしかしたらお昼に太郎さんがお弁当食べてるかもしれないなって思って」
「なるほど、あきら鋭いな!」
三階の男子トイレの一番奥の個室をノックすると、
中から甲高い声が返ってきた。
「ちょい待ち〜♡ 今メイク直してんの〜!」
「「は?」」
思わず顔を見合わせた次の瞬間、御剣くんがドアを開けた。
「なに開けてんのよ。待てって言ったっしょ!?」
金髪の巻き髪にド派手な盛りメイク、肩パッドが主張するボディコン姿の、時代錯誤なギャルが立っていた。小さな鏡を手にメイクを直していたらしい。
でも、声はやや低い。
よく見ると──男の子。
「……太郎さん?」
「ちがうちがう〜♡ あーし、ジェーン♡
おったまげーでしょ? 男だけどギャルなの〜♡」
御剣くんが固まる。
「おま……男だよな?」
「ギャルだって言ってんじゃん〜♡
てかお前、昭和のバブル知らないの? おったまげ〜♡」
ジェーンさんは僕の顔を覗き込んだ。
「七不思議、探してんでしょ?
あーし、知ってんよ? 案内してあげよっか?
だってあきらくん、優しいオーラ出てんのよ〜♡
そういうオーラ、マジ癒し〜!」
僕の腕に絡んでくる。
「……おい、離れろよギャル」
御剣くんが眉をひそめる。
「ギャルじゃなくてジェーン♡
てかお前、気安く話しかけないで?
あーし、お前はムリ寄りのムリ〜」
「はあ!? なんでだよ!」
「お前ってさ〜、空気読めない男子の代表って感じ〜。
マジしんど〜♡」
「俺、霊感とかねーのに、なんでこんなに嫌われてんだよ!」
二人の勢いあるやり取りに、僕はつい笑ってしまった。
「……ジェーンさん、御剣くんは悪い人じゃないよ」
「知ってるよ〜♡ あきらくんが言うなら信じるし〜。
でもあーし、こいつは認めない」
妙に最後だけドスのきいた低い声で、僕と御剣くんは引き攣った笑顔を浮かべたのだった。
「ねぇジェーン、七不思議を解くにはどうしたらいいの?」
僕が真剣に尋ねると、ジェーンさんは「お安い御用よ〜♡」と、どこで手に入れたのか分からないキラキラの羽扇子をバサリと広げた。
「まずは第一のコース! 『本館三階、階段の踊り場にある鏡』をまず見つけなさい!」
「……はぁ? 本館なんて、北館のこと? 西館東館南館……どこの階段にも鏡なんてねーよ。もしかしてそれ、別の学校の怪談じゃねーの?」
御剣くんが冷静にツッコむと、ジェーンさんは「あらやだ♡」と厚化粧のまぶたをパチクリさせた。
「……あ、ホントだ。それ、隣街の市立中学のやつだったわ〜♡ メンゴメンゴ、あーしたち怪異ってさ、ネット社会のせいで情報の境界線がマジ行方不明なのよね〜。全国の『花子さん・太郎さん』のグループチャット、今未読1000件超えてて超カオスだし〜」
「グループチャットとかあんのかよ……」
絶句する御剣くんを無視して、ジェーンさんは人差し指を、僕の唇に触れそうな位置まで近づけた。
「いい? あきらくん。あーしは『案内』はできるけど、今のルールは、アンタたちが自分たちで集めてこなきゃダメ。『噂』が形を作るのが、この学園の七不思議の鉄則(マナー)なのよ。
今の生徒たちが何を怖がって、どんな尾ひれをつけてるか……それを正確に掴まないと、あーしも正しい扉を開けてあげられないわけなのよ」
「噂を……集める?」
「そゆこと♡ 学校裏サイト、掲示板、あるいは女子のヒソヒソ話……アンタたちが『正しい静丘学園の七不思議』を特定して、あーしのところに持ってきなさい。
そしたらあーしが、その深淵までエスコートしてあげるわ〜♡」
ジェーンさんはウインクすると、個室の奥にスッと吸い込まれるように消えかかった。
「あ、そうだ。ヒントをひとつあげる! 『放送室』そこには必ず情報が集まるわ! まずは行ってみなさい!
じゃ、あーしはお色直しの時間だからバイナラ〜♡」
バタン、と個室の鍵が閉まる。
「あきら。あいつ、マジで当てにしていいのか?」
「……わからない。でも、僕たちが『噂』を集めることが、先輩を助ける近道なんだと思う」
残されたのは、ツナサンドの袋を握りしめた僕たちと、異様に甘い香水の匂いだけだった。
