静謐寮の医務室。
使い古された消毒液の匂いと重苦しい静寂が満ちた部屋に、僕たちは滑り込んだ。
御剣くんが手慣れた様子で予備のベッドのカーテンを引き、僕と一緒に先輩を横たえる。
シーツに投げ出された先輩の腕は、まだ微かに煤で汚れていた。
「……よし。……とりあえず、ここなら……」
御剣くんが、肩で荒い息をしながら周囲を見回す。
「……御剣くん。これから、どうしよう……」
「そうだな──まずは、先生を呼ぶか? でも、こんな時間にこんな状態で……なんて説明すれば──」
その言葉が終わるより先に。背後のドアが、ノックもなしにガラッと乱暴に開け放たれた。
「……来たぞ」
振り返ると、そこには白衣をだらしなく羽織った玉藻先生が立っていた。
彼女が動くたびに、消毒液の匂いを塗りつぶすような、ツンとしたアルコールの匂いと、重たいタバコの残り香が部屋に広がっていく。
「た、玉ちゃん先生! なんで……」
御剣くんが飛び上がる。
「……嫌な匂いがしたからだ。焼けた肉と、泥と、……それから、もっと性質の悪い『空腹』の匂い」
先生は吐き出すように言うと、ベッドに横たわる先輩を一瞥した。その瞬間、先生の眉間にはっきりとした不快の皺が寄る。
「……ああ……これ。……一番、面倒なやつじゃないか」
「あの、玉藻先生……。お酒を飲んでいらした時に、すみません……」
漂ってくる強いお酒の匂いに、夜中に来させてしまった気がして、思わず謝ってしまった。
けれど。
「……あきら、何言ってんだよ」
御剣くんが、引きつった顔で僕を振り返った。
「玉ちゃん先生は、いつだってこれだぞ。飲酒がデフォなんだよ、この人は」
「……えっ?」
「……うるさいな。静かにしろ……シラフじゃ、学園(ここ)の空気は『濃すぎる』んだ。……お前たちのせいで、また酒の量が増える……」
先生は酔拳のような足取りでベッドへ近づき、僕の横を通り過ぎようとして、不自然に足を止めた。
「……っ」
先生の指から、火のついたままのタバコが床に落ちる。
僕の顔を見ているはずなのに、先生の焦点は僕を通り越して、もっと奥にある「何か」を、何も考えずに見つめていた僕の背後を、凝視しているようだった。
……怖い。
先生の剥き出しの瞳に宿ったのは、嫌悪ですらなかった。それは、言葉の通じない獣が、自分より圧倒的に巨大な捕食者を前にした時に見せる、絶対的な「拒絶」と「恐怖」の色だ。
「……先生?」
僕が声をかけると、先生はびくりと肩を震わせた。
「……お前。……いや、いい。……何も言うな」
先生は震える手で白衣のポケットをまさぐると、何かを喉の奥に流し込むような仕草をして、無理やり僕から視線を逸らした。
僕がここにいること自体が、先生にとっては「あってはならないこと」であるかのように。
「それは預かる。お前たちはもう、帰れ」
「いや、でも──」
「部屋に戻れって言ってるの! ……死にたくなかったらな」
その声は、鋭く、悲鳴に近かった。
医者としての線引きというより、これ以上僕に関われば自分まで「取り返しのつかない場所」へ引きずり込まれる……そんな本能的な警告を、僕は肌で感じていた。
追い出されるようにして、僕たちは医務室の重い扉を背にした。
残された僕と、呆然とする御剣くん。
僕は自分の手のひらを見てから、御剣くんを見た。
「……どうしよう、御剣くん。僕……なんか取り返しのつかないこと、しちゃったのかな?」
「大丈夫だろ。あの行方不明の先輩も連れ帰れたんだから、一歩前進だって」
静まり返った廊下に、自分たちの荒い鼓動だけがやけに大きく響いていた。
「にしても、さっきの玉ちゃん先生……。あんな顔、見たことねーぞ」
御剣くんが、青ざめた顔で額の汗を拭った。
その時だった。
「……御剣。君はまた、問題を起こしたな?」
低く、抑揚のない声が廊下の闇を割った。
壁に背を預け、腕を組んで立っていたのは鏡宮くんだった。
彼は眼鏡の奥の冷徹な眼差しで、僕たちが今出てきたばかりの医務室の扉と、煤で汚れた僕たちの制服を交互に見つめた。
「ヒィッ! か、鏡宮……! な、なんでお前がここに……」
「風紀を守らなければならない立場だというのに、門限を破り、あまつさえ上級生(先輩)を担いで騒ぎを起こすとは。……弁明の余地はあるのか?」
「そ、それは……っ」
御剣くんが言葉に詰まり、情けなく肩を震わせる。
僕は思わず、彼の前に一歩踏み出した。
「ち、違うんだ、鏡宮くん! 僕が……僕が無理を言って、御剣くんに助けてもらっただけで……彼は悪くないんだ!」
僕の必死の訴えに、鏡宮くんは、眼鏡のレンズに廊下の灯りを冷たく反射させながら、わずかに口角を上げた。
その瞳は、僕を責めているようでも、憐れんでいるようでもなかった。ただ、深い霧の奥を覗き込むような、底知れない好奇心だけが揺れている。
「……君は──」
鏡宮くんはふっと、眼鏡のレンズに廊下の灯りを反射させながら、わずかに口角を上げた。
「……まあいい。これからどうしたらいいかも、迷っているんだろう?」
「えっ……」
「……仕方がないな。ついてこい。……君たちの行く末を、少しだけ『整理』してやろう」
鏡宮くんは反論を許さない足取りで歩き出した。
「嫌ならここで宿直の教師に見つかるまで待っているがいい。……もっとも、今の君たちに憑いている『影』の正体を知りたいなら、僕の部室に来るのが最短ルートだと思うがね」
鏡宮くんの背中が、暗い廊下の奥へと吸い込まれていく。
僕たちは顔を見合わせ、逃げるようにその後を追った。
案内されたのは、特別校舎の隅にある『占い研究部』の部室だった。
重い扉を開けた瞬間、異国の香料のような、甘く、それでいて鼻の奥を刺すような独特の匂いが僕たちを包み込んだ。
特別校舎の奥、重厚な扉を潜ると、そこは外界から切り離された『異室』だった。
揺れる蝋燭の炎。壁一面を埋め尽くす怪しげな古書。そして、部屋の中央に置かれた円卓。
「……ちょっと待ってろ。準備がある」
鏡宮くんはそう言い残して、衝立の奥へと消えた。
残された僕と御剣くんは、鼻を突くお香の匂いにむせながら、所在なく立ち尽くす。
「……なぁ、あきら。やっぱりこいつ、変だぜ。こんな時に占いなんて……」
御剣くんが耳打ちしようとした、その時だった。
「——お待たせ。儀式の準備が整ったよ」
衝立の向こうから現れたのは、さっきまでの制服姿ではない、『何か』だった。
頭には星を散りばめた深い紺色のフード付きローブ。首元には巨大な水晶のペンダント。
暗闇の中で眼鏡を怪しく光らせるその姿は、どう見ても「本格的すぎる占い師」だった。
「……ぶ、ぶふぉっ!!」
静寂を切り裂いて、御剣くんが耐えきれずに吹き出した。
「あ、ハハハ! お前、鏡宮! なんだよその格好! 魔法使いのオーディションかよ!」
「……笑うがいい、無知な凡俗め。形式を疎かにすれば、運命の歯車は容易に狂う。これは精度の高い結果を得るための『義務』だ」
鏡宮くんは厳かに円卓に着くと、カードの束を僕の前に置いた。
「まずはこのカードをよく混ぜてくれ」
「混ぜるって……」
「こうする」
裏返しのままのカードを机に広げると、鏡宮くんは両手で円を描くように、ぐるぐるとカードをかき混ぜた。
まるで大きな鍋をかき混ぜるみたいに、カード同士がぶつかり、乾いた音を立てて机の上を滑っていく。
見よう見まねで僕も同じようにカードを混ぜる。
「自分が知りたいと思っていることを、よく考えながら混ぜてくれ」
「……もういいだろう」
鏡宮くんの声で、僕は手を止めた。机の上には、無造作に散らばったカードが重なり合っている。
「その混沌(カオス)の中から、君の心に触れたものを一枚ずつ、表に返すといい」
僕は唾を飲み込み、何も考えずに、重なり合ったカードの山から一枚を指で弾くように表に返した。
現れたのは、片足を縛られ、T字の木から逆さまに吊るされた男の絵。男の頭の周りには、皮肉なほど柔らかな後光が差している。
「……それは今の君だ、あきら。『吊るされた男』の正位置。逆さまに吊るされ、身動きも取れず、ただ時間が過ぎるのを待っている。……『停滞』という刑木に縛られ、視界は逆転し、何が真実かも分からなくなっている」
「さぁ、もう一枚選んでくれ」
促されるまま、僕はさらに隣り合ったカードを指先で弾くように返した。
灰色のローブを纏った老人が、暗い雪山のような場所でうなだれている。手に持った六角形のランタンは、重力に逆らうように逆さを向き、その灯火は今にも消え入りそうだった。
「そのカードは現状を示す。『隠者』の逆位置。……暗闇を照らすランタンの灯が消えているな。……君には、今この状況を打破するために必要な『光(確信)』が決定的に足りない。……盲目なままでは、先輩の元へ辿り着く道筋すら見えないだろう」
「次のカードが現状を打開する鍵になる」
最後の一枚。僕は意を決して、山の一番上にあったカードを勢いよく表に返した。
これまでの静かな絵柄とは一変し、二頭の異形の獣を引き連れた若き王者が、黄金の戦車に乗り、こちらを射貫くような眼差しで見据えている。その胸元には、誇らしげに星の紋章が輝いていた。
「『戦車』の正位置……停滞を破る鍵は、もしかしたら、この数字『七』にあるのかもしれないな。……暴走する二頭の獣を御し、自らの意志でこの閉ざされた世界を突き進む。……目の前に現れる七つの歪み」
「七つの歪みぃ? なんだよそれ」
「七つ……なな……」
考え込んでいると、室内に白い毛並みの美しい猫がいた。
「──あ」
「あぁ、時々遊びに来るんだ」
鏡宮くんが白猫を見てふと微笑む。
白猫……校長……学園……。
「七不思議……」
「七不思議?」
「なるほど、良い着眼点かもしれないぞ……『静丘学園の七不思議』を解明する……そのハンドルを握ることだ。……さもなければ、君は永遠に逆さまのまま、干からびていく」
鏡宮くんは更にカードの中から何枚かカードを表にして、何か読み解いているようだった。
「……解きたまえ、あきら。七つの謎を。
それを終えるまで、君の先輩が目覚めることはない……」
鏡宮くんは追加でもう一枚カードを開いて確認した。
「……まずは西校舎三階、男子トイレに行くといい」
「──え、トイレ?」
「そこに、君たちを待っている『案内人』がいるようだ。案内人に会わなければ、七不思議の幕は上がらない」
突きつけられた『七不思議編』の開幕。……けれど、その緊張感をぶち壊したのは、隣にいた御剣くんの大きな欠伸だった。
「ふわぁぁぁ。……なぁ、あきら。悪いけど、続きは明日からにしようぜ……。俺、もう限界……」
「えっ、でも先輩が──」
「玉ちゃん先生が診てくれてるんだ、今は信じるしかねーだろ。それより……あっ!!」
御剣くんが、弾かれたように自分の頭を抱えた。
「宿題! 数学の宿題やってねーわ! 門限破りの上に宿題忘れとか、マジで死ぬ! 悪いあきら、俺、走って部屋帰るから! じゃあな! また明日!」
さっきまでの地獄の火の海も、占い師の予言も、すべてを置き去りにして、御剣くんは夜の廊下を猛スピードで駆けていった。
——静丘学園の夜は、あまりに異常で、呆れるほど日常だった。
