静丘学園異常事象記録


 熱い。肺が焼けそうだ。
 背負った先輩の体は、さっきまでの冷たさが嘘みたいに、炎の熱を吸って、じわりと熱を帯び始めている。
 
「あきら、足元見ろ! 崩れるぞ!」
 御剣くんが叫び、燃え落ちる鴨居を間一髪で避ける。
 僕たちは爆ぜる火の粉の中を潜り抜け、真っ赤な空の下へと飛び出した。
 
 振り返ると、さっきまで静まり返っていた料亭は、巨大な生き物の口みたいに火を噴き上げ、闇夜を真っ白に照らしていた。

「あきら、走れ! 止まるな!」
 御剣くんの叫びが、何重にも重なる悲鳴に掻き消される。
 料亭を飛び出した僕たちの目の前に広がっていたのは、もはや僕たちの知る「街」ではなかった。
 
 防火頭巾を被り、もんぺ姿で赤ん坊を背負った母親。
 真っ黒に煤けた顔で「お父ちゃん、お母ちゃん!」と泣き叫び、炎の中をさまよう子供たち。
 
 彼らは、すぐ目の前にあるはずの駅舎もレールも、まるで見えていないようだった。
「……あ、危ない! そっちは火が!」
 目の前を駆けていく子供に、僕は思わず声を張り上げた。
 けれど、僕の声は透明な壁に弾かれたみたいに、誰の耳にも届かない。
 何も考えずに伸ばした指先は、泣き叫ぶ母親の肩を、煙のようにすり抜けていった。
 
「水だ! 水のあるところへ!」
「川へ行け! 川なら助かるぞ!」
 
 誰かが叫び、黒い波のような群衆が僕たちを押し流そうとする。
 彼らが向かう先は、業火が渦巻く川筋だ。そこへ行けば、待っているのはさらなる地獄でしかないのに。
 
「どけ! どいてくれ!」
 
 御剣くんが群衆をかき分け、道を作る。
 僕は背中の先輩がずり落ちないよう、感覚の無くなった腕に力を込めた。
 
 熱い。熱風が皮膚を刺し、吸い込む空気は火の粉そのものだ。
 逃げ惑う人々の影が、僕たちの体を透けるようにすり抜けていく。彼らは、この場所で何度も死んだ影なのだと、本能が告げていた。
 
「あきら、見ろ! 駅だ! 電車が来てるぞ!」
 
 御剣くんが指差す先。
 燃え盛る民家の屋根越しに、不自然なほど白い光を放つ駅のホームが見えた。
 そこだけが、この真っ赤に染まった世界で唯一の『出口』のように浮き上がっている。
 
 プォォォォォォン————!!
 
 地獄の底から響くような、重苦しい警笛。
 
「……っ、う、うあぁぁぁぁ!!」
 
 僕は声を上げ、喉を焼く煙を吐き出しながら走った。
 背中の先輩の重みが、今は何よりも愛おしい。
 
 背後では、巨大な爆発音と共に、街がさらに深い赤へと沈んでいく。
 泣き叫ぶ人々の声が、サイレンと混ざり合って、巨大な渦となって僕たちの背中を追いかけてくる。
 
 ——死にたくない。先輩を、死なせたくない。
 
 振り向かず、ただ一点の光——僕たちにしか見えない『駅』を目指して、僕は泥のような闇を蹴り抜いた。


 僕は先輩を抱えたまま、駅の階段を駆け上がった。

 焦げ臭さがまだ鼻の奥に残っている。
 それなのに、駅は普通だった。
 何も考えずに見上げれば、照明も、掲示板も、いつも通り。

 電車は先ほどと同じようにホームで乗車客を待っていた。

「乗れ!!」

 御剣くんが僕の背中を押した。

 電車のドアが閉まる。
 僕は先輩を抱えたまま、座席に崩れ込んだ。

 先輩は目を閉じている。
 呼吸はある。
 でも、何も言わない。

「……御剣くん」
 御剣くんは、何か言いたそうに僕と先輩を見た。
 何かを確認するように目を細め、でも、結局は口を閉じたまま視線をそらす。

「……大丈夫だよ。あきらは無事だし」
 それだけ言って、黙り込んだ。

 電車は静かに走り出す。
 窓の外の闇が流れていく。

 僕は先輩の手を強く握った。

 ——なんだったんだろう。

 答えは、どこにもなかった。


 ほどなくして静丘学園の最寄りの駅まで着いた。
 寮の門限の時間を過ぎているから、生徒の姿は一人もいない。
「どうしよう……御剣くん」
「一旦、静学に帰るしかないだろ。先輩の肩俺も支えるよ──」
「……うん、ありがとう」
 僕は御剣くんに、先輩の左肩を預けた。二人で支えると、先輩の体がいっそう細く、壊れそうで胸が締め付けられた。

 
 改札を通る時、僕のカードが『ピッ』と鳴った。
 あの火の海を越えてきたのに、電子マネーの決済音だけは無慈悲なほどいつも通りだ。
「……なあ、あきら。さっきの、あれ……」
 坂道を登りながら、御剣くんが重い口を開いた。
「……夢、じゃないよな」
「……わからない。でも、僕の服には、まだ煙の匂いがついてる気がする」
 見上げる丘の上。
 静丘学園の巨大な校舎が、夜の闇を切り裂くような黒いシルエットでそびえ立っている。
 
 門限を過ぎた学園は、すべての気配を失った巨大な墓標のようだった。
 警備員もいない。見回りの教師もいない。
 ただ、閉じられた校門の横にある街灯だけが、チカチカと不規則なリズムで瞬いていた。

「寮の裏口から入るぞ」
「うん──」
 僕が言いかけた、その時だった。

 ──チリン。

 小さく鈴の鳴る音がした。
 音のした方を見ると、一匹の白い猫。
「あれって、校長?」
「かもな。でも副校長がいないからセーフセーフ!」
「そういう問題じゃ──」
 もう一度白猫のいた方を見ると、姿は消えていた。
「御剣くん! 校長が消えた……」
「あきら、そりゃお前……猫は神出鬼没な生き物だからな。こんな時間の猫なんてパトロールモードで更に機敏に動くだろうよ」
「そうなの?」
 まだ見られている気がして、白猫の姿を探したけれど、濃密な闇が広がるばかりで生き物の気配は感じられなかった。

「……早く行くぞ。これ以上ここにいたら、本当に見つかっちゃう」
「うん。そうだね」
 僕は先輩の腕を握り直し、御剣くんと一緒に寮の裏手へと急いだ。
 
 校門の街灯がチカチカと明滅するたび、僕たちの影がアスファルトに長く伸びたり、消えたりした。
 さっきの白猫の視線が、まだ首筋に張り付いているような気がして、僕は何度も振り返りそうになった。
 
「……あきら、こっちだ」
 御剣くんが、生い茂る植え込みの影にある勝手口の扉に手をかけた。
 本来なら施錠されているはずの重い鉄扉。
 けれど、御剣くんが軽く引くと、それは僕たちを招き入れるみたいに、あっさりと口を開けた。
 
 扉の向こう側からは、外の熱気とは対照的な、ひんやりとした古い石の匂いが漂ってくる。
 
 僕たちは音を立てないように、先輩を抱えて中へ滑り込んだ。
 
 静謐寮。
 昼間ですら静かなこの場所は、深夜の今、完全な真空状態にあるようだった。