「先輩から送られてきた地図? 先輩ってあの……あきらが言ってた?」
「うん。そう……」
「じゃあ行くしかないじゃん!」
「えっ!?」
「だってさ、少なくともそんな地図を送ってくるってことは来いってことだろ? 来るなっていうならわざわざ地図なんて送らないって!」
「それは……そうかも」
「地図、見せてみろよ」
「──これ、学園の中じゃないな。駅から二つ先の……トンネルを抜けた先の場所だ」
スマホの画面を指で広げて、細い線をなぞった御剣くんが、低く呟いた。
静丘学園から電車で数駅。かつては人の往来もあったが、今は古い集落と深い森だけが残り、地元の人でもあまり近寄らない場所だった。
「行くんだろ? 一人じゃ無理だぜ、こんな不気味な場所。……俺も行くよ。宿題なんてやってる場合じゃねーしな!」
御剣くんは、わざとらしく明るい声を出して僕の肩を叩いた。
「三分後に寮の裏口で集合な!」
彼の熱い体温が伝わってきて、凍りついていた僕の思考が、少しだけ解け出す。
三分後。カメラとノートを詰めたリュックを背負い、寮の裏口の非常階段の下に立っていた。
夜の空気は驚くほど重く、肺に入れるたびに微かな砂の味がする気がした。
「待たせたな! ……おいおい、なんで制服なんだよ……せめて学年バレしないようにネクタイは外しておけよ」
闇の中からひょいと現れた御剣くんは、スニーカーの紐を締め直すと、不敵に笑った。
彼はどこから持ってきたのか、少し古びた懐中電灯を一本握っている。
「駅まで走るぞ。念のため終電がわかるようにタイマーはセットしてっと……」
静丘学園を囲む高いフェンスを背に、僕たちは夜の坂道を駆け下りた。
街灯がまばらな歩道。
僕らの足音だけが、不自然なほど大きく夜の街に響く。何も考えずに走っているのに、自分たちの音だけが世界から浮いているみたいだ。
ふと見上げた寮の窓。カーテンの隙間から、誰かがこちらを見ている気がした。
緑のネクタイを締めたままの、顔のない『生徒』たちが。
——行っちゃダメだ。
風の音が、そんなふうに聞こえた気がして耳を塞ぎたくなった。
けれど、前を走る御剣くんの背中だけが、暗闇の中で唯一確かな道標(みちしるべ)だった。
僕たちは寮を抜け出し、夜の駅へと向かった。
「あ、待て。あきら、交通系の電子マネー……持ってきてるよな?」
御剣くんが改札の前で急ブレーキをかけた。
「……え? でんし、まねー?」
僕は足を止めて、首を傾げる。
「ほら、カードだよ。チャージしてピッてやるやつ! 切符買う気だったのか? 今の時間、窓口も閉まってるし、買い慣れてないと券売機も面倒だぞ」
「あ……ええと、確かお財布の中に……これ?」
僕が取り出したのは、入学した時に渡されたまま、一度も使っていない綺麗なカードだった。
「それだよそれ! ……ってお前、これ残高いくらだよ。確認したことあんのか?」
「……わからない。いつも、気がついたら誰かが……あ、違う。どうすればいいの?」
御剣くんは「マジかよ」と言いたげに天を仰いだけれど、すぐに僕の背中を押して券売機の前へ連れて行った。
「いいか、ここにカードを置いて。で、この画面のここを押すんだ。ほら、やってみろ」
「こう……?」
僕がおぼつかない手つきでカードを置くと、画面に『残高:0円』という無慈悲な数字が表示された。
「やっぱりな! ったく、お前は俺がいないと野垂れ死ぬぞ」
御剣くんは文句を言いながらも、自分の財布から手慣れた様子で千円札を取り出し、僕の分までチャージの操作を代行してくれた。
「よし、これで千円分入ったぞ。帰りの分も足りるはずだからな、大事に使えよ?」
手に取ったカードは、機械の温もりがわずかに残っていて、手のひらで微かに脈打つように感じた。
「……ありがとう、御剣くん。詳しいんだね、こういうの」
「普通だよ! お前が浮き世離れしすぎなんだって」
御剣くんが笑いながら改札を抜ける。
『ピッ』
軽やかな音が響く。
続いて僕が恐る恐るカードをかざすと、同じ音がした。
ようやく辿り着いた駅のホーム。
そこには、誰もいなかった。
ガランとしたコンクリートの床に、白い紙切れがカサカサと乾いた音を立てて転がっている。
カン、カン、カン、と。
踏切の音が鳴り響き、闇の奥から、二つの鋭い光が僕たちの目を射抜くように近づいてきた。
ホームに滑り込んできた電車は、窓硝子が酷く汚れていて、中の様子がよく見えなかった。
プシュー、という湿った音を立ててドアが開く。
吐き出されるように降りてきたのは、やはり『緑』や『赤』のネクタイを締めた、見知らぬ生徒たちの群れだった。
彼らとすれ違いに、僕たちは無人の車両へと乗り込む。
ガタン、と大きく揺れて電車が動き出すと、車窓の外を流れる学園の灯りが、またたく間に闇に吸い込まれていった。
車内の蛍光灯が時折チカチカと瞬き、そのたびに御剣くんの影が不自然に長く伸びた。
「……なあ、あきら。この電車、こんなに冷房効いてたっけな?」
御剣くんが腕をさすりながら、首をすくめた。
確かに、車内の空気は刺すように冷たい。
それだけじゃない。
ふと見上げた網棚の隅に、ちぎれた白い紙切れがカサカサと震えながら張り付いているのが見えた。
——先輩。
地図に記された、赤い目印。
そこに先輩がいるのかな……。
電車がトンネルへと突入し、視界が完全な闇に塗りつぶされた瞬間。
窓硝子に映った自分の顔の後ろに、
誰かが立っているような気がして、僕は思わず息を止めた。
電車を降りた駅には、場違いなタッチ式の精算機がひとつ、改札の脇に置かれていた。
ホームのコンクリートはひび割れ、そこから這い出した蔦がベンチを飲み込もうとしている。けれど、僕も御剣くんも、それを「古い駅だから」としか思わなかった。
駅から一歩外に出ると、底なしの闇が広がっていた。
街灯がひとつもなく、まるですべての光が吸い上げられたあとのような空虚な暗がりに道が続いていた。
「家に明かりがついてないね。みんなもう寝てるのかな……」
僕が呟くと、隣を歩く御剣くんは前を向いたまま、短く「……かもな」とだけ返した。
いつもの軽快な返事はない。彼もまた、この闇の深さに同調するように、言葉を失っていく。
スマホの地図が指し示す場所は、駅から少し歩いた丘の麓だった。
目の前に現れたのは、広大な敷地を持つ平屋の日本家屋だ。
立派な門構え。手入れの行き届いた庭木……に見えたのは、最初だけだった。
中へ足を踏み入れると、足元で乾いた音がした。
割れたガラスの破片。剥がれ落ちた漆喰の壁。
そこは一般の民家ではなく、かつて客を招いていたであろう料亭の成れの果てだった。
「……ここ、お店だったんだね」
僕は懐中電灯の光を壁に這わせる。
そこには、色褪せたお品書きの札がぶら下がっていた。
お茶。御膳。
けれど、その文字はどれも墨が滲んでいて、何も考えずに見ていると、まるですすり泣いているような形に歪んで見えた。
御剣くんが奥の座敷を照らした。
そこには、豪華な装飾が施された襖があったはずだが、今はただ黒く焦げた木枠だけが、骸骨のように立っている。
——焦げている?
その時、鼻腔を突いたのは、古い埃の匂いではなかった。
生臭い、焦げ付いた肉と油の匂い。
御剣くんが足を止めていた。
「御剣くん?」
小さく声をかけながら近付くと、
「──誰かいる」
唇の前に人差し指をかざしてから、その指先を暗闇に向けた。
薄暗い料亭の奥──あの……神棚の前で、僕らに背を向けてじっとしている。
「……先、輩?」
反応はない。
でも、あの後ろ姿は間違いない。
吸い寄せられるように一歩踏み出そうとした瞬間、御剣くんに強く肩を掴まれた。
「待てって!」
小声で、でも強く、御剣くんが僕を制した。
「離して! 先輩だよ。……あそこの、神棚の前にいるの」
あの頃みたいに。
「神棚なんて、どこにあるんだよ……あきら、落ち着け。……よく見ろよ。あいつ、さっきから一度も動いてねえぞ」
御剣くんの言葉に、僕の視界が、ぐにゃりと音を立てて揺れた。
暗がりに浮かぶ、先輩の後ろ姿。
月の光がわずかに差し込んでいるけれど、その輪郭はまるで切り絵のように平面的で、奥行きがない。
「……でも、あの耳の形も、立ち方も。先輩だよ。ねえ、先輩?」
「……おい、あきら。……あいつ……呼吸してるように見えるか?」
御剣くんの声が、微かに震えている。
言われてみれば、肩が一度も上下していない。
冬の夜のように冷え切った料亭の空気の中で、先輩の口元から白く流れるはずの吐息が、どこにも見当たらない。
「……暗いから、見えないだけだよ。……先輩、こっち向いてよ。……僕だよ!」
「……。やめろって。……なんか、……。匂いが、おかしいんだ」
御剣くんが鼻をひくつかせる。
「……。お茶の匂いじゃねえ。……。もっと、……。古い、……。焼け焦げたような……。」
その言葉が、胸の奥に沈めていた「触れたくない記憶」をかすかに揺らした。
目の前にいるのは、大好きな先輩なのか。
それとも、何かが作り出した、精巧な偽物なのか。
ウウウウゥゥゥゥ————ン…………!!
鼓膜を突き破るような重低音が、足元からせり上がってきた。
「な、なんだよこれ、急に!?」
御剣くんが叫ぶのと同時に、部屋の温度が跳ね上がった。
襖の隙間から、ドロリとしたオレンジ色の光が溢れ出してくる。
「先輩、危ないっ!」
胸の奥が、昔もこうして先輩を守ろうとした時みたいに、どうしても放っておけない感覚でいっぱいになった。
僕は何も考えずに、瞬きをするのと同じくらい当たり前に、先輩を抱きしめていた。
抱き寄せたその体は、驚くほど冷たい。
でも、確かな重みがあった。
「御剣くん、逃げよう! 火事だ!!」
「クソッ、マジかよ! こっちだ、あきら!」
背後で、パチパチと乾いた音が爆ぜる。
火の粉が雪のように舞い、さっきまで静まり返っていた料亭が、一瞬で「火の海」へと姿を変えていく。
僕は意識を失ったようにガクリと項垂れる先輩を、必死に背負い直した。
熱い。痛い。
喉が焼けるような煙の味。
それでも、腕の中に感じる先輩の体温だけが、僕をこの絶望的な『過去の記憶』に繋ぎ止めていた。
「……絶対、連れて帰るから」
火の粉が舞う廊下を、僕は無我夢中で駆け出した。
