静丘学園異常事象記録


 御剣くんと『静謐(せいひつ)寮』の重い鉄扉をくぐる。
 一歩足を踏み入れた瞬間、駅前の喧騒が嘘のように掻き消えた。
 静謐寮。
 その名の通り、ここはいつも静かだ。
「それじゃ、また明日なー」
「うん。また明日」
 けれど、それは心地よい静けさではない。
 自分の足音や衣擦れの音さえも、壁の奥にある何かに吸い込まれて、二度と戻ってこないような……そんな乾いた静けさだ。
 廊下を歩いていると、数人の寮生とすれ違った。
 僕と同じ緑のネクタイ。あるいは二年生の赤。
 毎日この廊下で、あるいは風呂場や食堂で見かけているはずの顔だ。
 ……なのに、すれ違った瞬間に、その顔が思い出せなくなる。
 
 どんな目をしていたか。
 鼻の形はどうだったか。
 そもそも、本当に『顔』があっただろうか。
 名前すら、名簿を見れば載っているはずなのに、浮かんでは霞のように消えていく。
 みんな『静謐寮の生徒』という記号としてそこに漂っているだけで、確かな手触りがない。
 自室のドアを開け、鍵をかける。
 カチャリ、という金属音が、やけに遠くで鳴った気がした。
 机の上には、朝、登校する前に広げたままの教科書が置かれている。
 書きかけのノート。キャップの外れたペン。
 それだけが、僕がこの世界に存在している唯一の証拠のように見えた。
 僕は電気もつけず、窓際へと歩み寄る。
 カーテンを開けると、学園の広大な敷地の向こう側に、別の寮の灯りが見えた。
 あちらは『燐陽(りんよう)寮』。
 先輩が住んでいる寮だ。
 
 僕を呼んでくれたあの声。
 僕の頭を少し乱暴に、でも優しく撫でてくれた、あの手。
 そのすべてが詰まっているはずの場所が、今はひどく遠く、冷たい星のように瞬いている。
 先輩の部屋の灯りは、ついているだろうか。

 僕は窓ガラスに額を押し当てて、ぼんやりとその光を眺め続ける。ガラスに触れている額の冷たさだけが、今、僕が生きていると感じる唯一のしるしだった。
 そうしていると、いつの間にか僕自身の輪郭も溶けてしまいそうで──暗い窓に映る僕の顔は、背景の闇に溶けかかっていて、まるで僕自身も、名前のない『知らない生徒』の一人に混ざってしまいそうだった。

 電気をつけないままの室内で、僕は窓の外に広がる夜の校舎を眺めていた。
 静かだ。静かすぎる。
 数千人の生徒が寝静まっているはずなのに、寝息ひとつ、衣擦れひとつ聞こえてこない。
 ただ、窓枠をガタガタ揺らす風の音だけが、やけに大きく、強く響いている。
 その風は、どこか遠い場所から『何か』を運んできているような、湿った土の匂いがした。
 校庭の端。
 街灯の届かない闇の境界線に、うっすらと白い霧が立ち込めている。
 それは生き物のようにゆっくりと這い回り、校舎の足元を侵食していた。
 ——あ。
 ふと、視線を上げた。
 燐陽寮の屋根の上。
 尖った瓦の先に、小さな白い塊が見えた気がした。
 あの白猫だ。
 みんなが『校長』と呼んでいる、あの猫。
 猫は夜の闇の中で、それ自体が発光しているような不自然な白さで、じっとこちら——いや、僕の部屋を真っ直ぐに見ている。
 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
 見られている。
 あの金色の瞳に、僕の輪郭をなぞられている。
 何も考えずに窓に押し当てていた額が、不意に、ひどく熱を持った気がした。
「……っ」
 僕は思わず目をこすり、もう一度窓の外を凝視した。
 
 ……いない。
 屋根の上には、冷たい月光が当たっているだけで、動くものは何もなかった。
 霧も、いつの間にか校庭の奥へと引き去り、そこにはただ平坦なアスファルトが広がっているだけだ。
 見間違いだろうか。
 それとも、僕が『見てはいけないもの』を、自分から探そうとしてしまっているんだろうか。
 胸の奥のざわめきが、今度は喉の奥までせり上がってくる。
 
 僕は震える手で、机の上のスマホを掴んだ。
 画面を点灯させても、先輩からの通知はない。
 でも、画面の隅に表示されている日付が、ほんの一瞬だけ。
 ——見たこともない数字に化けた気がした。
 僕はそれを確かめるのが怖くて、すぐにスマホを伏せた。
 暗い部屋の中に、自分の荒い呼吸だけが、場違いなほど大きく響き続けていた。

 暗い部屋の中、僕は吸い寄せられるようにベッドに腰を下ろした。
 指先ひとつで点いたスマホの画面が、容赦ない青白さで僕の視界を奪う。
 開くのは、いつも同じ場所。
 先輩とのトーク画面だ。
『ちょっと行ってくる』
 最後の一行。
 たったそれだけの、素っ気ない、けれど先輩らしい言葉。
 その文字の隣には、あの日からずっと、空白が横たわっている。
 『既読』の二文字が刻まれるはずだった、冷たい空白だ。
 僕は、震える指でフリック入力をする。

『どこに行ったんですか』

『明日には帰ってきますか』

 打ち込んでは、数秒見つめ、また一文字ずつ消していく。
 送ったところで、届く保証なんてどこにもない。
 先輩から届いた最後のメッセージが、僕がメッセージを送ることでどんどん過去のことになってしまうような気がして怖かった。

 いや、本当は届いているのに、先輩が「見ていない」だけだとしたら。
 その想像の方が、僕を鋭く抉るからだ。

 ——先輩。

 最後には、履歴だけが残った。
 それすらも送信できずに、僕は画面のカーソルが点滅するのを眺め続ける。
 
 ドクン、ドクンと。
 暗闇の中で、画面の光が僕の顔を白く塗りつぶしていく。
 この光だけが、今の僕と先輩を繋いでいる唯一の細い糸のように思えて、スマホを置くことができない。
 ふと、画面の端に反射した自分の目が、ひどく虚ろに見えた。
 
 湯気のように揺らぐ記憶。
 薄れていくお茶の味。
 知らない顔ばかりの駅前。

 
 すべてを先輩に話したい。
『変だよな』と、いつものように笑い飛ばしてほしい。
 
 でも、画面は無機質な沈黙を貫いたまま、ただ僕の手のひらを熱くさせていくだけだった。
 
 僕は膝を抱え、消えゆく画面のバックライトが落ちるのを静かに待っていた。

 手に持っていたスマホが震える。

「──え?」

 見開いた瞳が映したのは、先輩とやり取りしていた画面。

(既読が、ついてる?)
 何も考えずに見つめていた画面の隅。
 不意に、生温かく浮かび上がった文字は……文字化けしていた──。
 
 それだけじゃない。
 何か、ひどく重いデータを追加で受信しているようだった。

 スマホが震えた。
 先輩とメッセージのやり取りをしていた画面。

 そこに並んでいたのは、
 文字ではなかった。

 英文字、記号、数字。

 一見、意味のわからない羅列。

先輩:
 ka□ru ba※yo ha m0u nak……ta
 (添付:IMG_0515)

 そして、その下に
『IMG_0515』
というファイルが添付されていた。

 開くと──地図だった。

 見たことのない印がついている。

 胸がぎゅっと縮む。

 指先が氷みたいに冷たくなって、自分の心臓の音だけが、耳の奥でどんどん大きくなる。
 画面のノイズが、生き物みたいに動いて、僕の目を塞いでいく気がして。

 どうしよう。
 どうすればいいのか分からない。

 その時、
 部屋のドアがノックされていることに気付いた。

 びくりと肩が跳ね、呼吸が止まる。
 もし、ドアの向こうにいるのが『人間』じゃなかったら──。
 そんな妄想が、喉の奥までせり上がってくる。

「あきらー? いないのか?」

「御剣くん?」
 聞き慣れた声にドアを開けようとした。
 鍵を外す指が震えて、うまく回らない。
 扉を開けた瞬間、廊下の光が目に刺さって、一瞬だけ眩暈がする。

「宿題わかんねーとこあってさー。
 ……んん? どした?」
 御剣くんは不思議そうに僕を覗き込んだ。
「あの──」
「……なんか困ってる?」
「……うん」

 先輩から送られてきたのは一枚の地図データ。
 それを見ても僕にはどこの地図なのかも、何もわからなかった。