静丘学園異常事象記録


 静丘学園、校長室。
 一見主のいない執務机、その椅子の上では、陽だまりを吸い込んだような毛並みの白猫が、優雅に丸くなっている。
「校長。この学園の転移条件に設定していた『特定生物の一定数以上の死滅』を確認しました。……第二次世界大戦の悪化。その結末は、人類の歴史としてはあまりに呆気ない幕引きでしたね」
 報告を終えた副校長が、重い溜息とともに書類を閉じた。窓の外では、学園の景色が陽炎のように揺らぎ始めている。
 白猫はぴくりと耳を動かし、ゆっくりと立ち上がった。前脚を突き出し、背中を高い弧を描くように伸ばしてから、再び椅子の真ん中に座り直す。その瞳は、人間の愚行を憐れむような、あるいはただ眺めるだけのような、透徹した金色をしていた。
「──そう。人は何故争い合うのかしら」
 鈴を転がすような、凛とした女性の声が静寂に響く。
「私には、人の心の闇まではわかりかねます」
「次はどんな世界がいい?」
 校長の問いに、副校長は深く頭を下げた。
「貴方とならば、私はどんな世界であっても──」
 その言葉を遮るように、白猫が喉を鳴らして笑う。
「そういう答えもいいけれど……次に同じ質問に同じ答えを返したら鼻に噛み付くわよ。面白くないから」
 副校長は反射的に、自分の鼻を両手で覆った。
 校長の「遊び」が冗談ではないことを、彼は長い年月をかけて身をもって知っているのだ。
「……肝に銘じます」
「世界が変われば、また新入生がやってくるわ。
 ……あの子たちのように」
 白猫の視線の先。誰もいないはずの校庭に、かつてここにいた子供たちの幻影が、一瞬だけ蜃気楼のように浮かんで消えた。

 ──

 ふと、ジェーンが空を見上げた。
「なんーか……今日は霧が深いわねぇ」
「ホントだ……校舎の壁も……なんか赤黒いような……」
 風が吹いて、霧が揺れた。
 次の怪異が、すぐそこまで来ているみたいな気配を感じる。

 霧に包まれた静丘学園……。

「ぎゃー!? いやー!! なんか変な化け物がわいてるー!?」
 ジェーンさんは御剣くんに抱き付いている。
「ちょっと待て!! しがみつくな!!」
「これは大変だ……早く逃げないと!」
 僕は先輩の手を掴んだ。
「逃げるってどこに!?」

「何しとんねんお前ら。今日は休校、寮から出るなって放送あったやろ」
 泥人形で化け物を片っ端から潰しながら、草薙先輩と稲垣先輩たちが霧の中から現れた。
「今日は特別清掃の日だよぉ。
 タヌ先輩、ほら、そっちまだ残ってる」
「放っとくと学園の質が下がりますので……。
 タヌ先輩、もうちょい右です」
「お前らな……少しは真面目にやらんかい」
 草薙先輩が眉をひそめる。

「じゃあタヌ先輩、あの子らにも手伝わせたらぁ? 人数は多い方がいいし」
「……勝手に巻き込むな。こいつら一応、まだ一般生徒扱いや言うとるやろ。いや、待てよ? 太郎にならやらせてもええんちゃうか」
 草薙先輩は拳を顎に当て、獲物を見定めるような鋭い眼光でジェーンさんを凝視した。
「ちょっとー!? あーしを戦闘要員にカウントすんのやめなさいよ!!」
 ジェーンさんは御剣くんにしがみついたまま、モデルのようなポーズで片足を跳ね上げる。
「見てよこの、絹のように繊細なマシュマロ肌! こんなプリティでキュートなエンジェルを戦場に立たせるなんて、国際法違反もいいところよ! あーしの美貌に傷がついたら、この学園の資産価値が暴落しちゃうんだからね!?」
 霧の中でギャーギャーと喚くその声は、怪異の咆哮よりもよっぽど騒がしく響き渡った。
「お前なに言うとんねん! 筋肉ダルマみたいに変身して俺らのこと殴り飛ばしたやろがい」
「あらやだ、何のことかしらぁ?」
 ジェーンさんは、御剣くんにしがみついていた手を離すと、わざとらしく人差し指を頬に当てて小首を傾げた。
「あーし、か弱いレディだから、そんな野蛮なことした記憶なーい。……あ、でもぉ、もしかしたら『美の女神』が降臨して、ちょっとだけおイタしちゃったかも? てへっ」
 長い睫毛をバサバサと瞬かせ、ペロッと舌を出してウィンクしてみせる。
 あまりにも清々しいその「てへぺろ」に、背後で霧を裂きながら化け物を潰していた泥人形たちが、一瞬だけ困惑したように動きを止めた気がした。

 その時、校舎の扉が開いて、鏡宮くんと玉響くんが顔を覗かせた。
「外にいると危険だぞ」
「こっちこっちー」


 ──静丘学園では、学年も時間も、あまり意味を持たない。
 彼らは今日も、好きな場所から学び直す。

 静丘学園は、いつでも入学希望者を待っているという。


 校長が、満足げに喉を鳴らした。
 途端、空気が、空間が、因果のすべてが震え、形を持たぬ「鈴の音」が学園を包み込んだ。
 人がその神聖を模倣せんと、古来より作り続けてきた器物の音——その源流とも呼ぶべき、世界による純粋な肯定の響き。

 その音に導かれるように、静丘学園に刻まれた一つの記録が、静かに頁(ページ)を閉じた。


静丘学園異常事象記録 終幕