静丘学園異常事象記録


 ──どうしたらいいかなんて、初めから決まっていた。
 ただ僕は過去の罪に怯え、ずっと逃げていただけだったんだ。

 先輩の弟の森先輩、あきらさんは……僕なんかより、ずっと優しくて、素敵な人だった。

 校長に案内されて辿り着いたのは、音のない小さな部屋だった。
 壁も床も淡い光に包まれていて、現実とも夢ともつかない。

 その中心で、先輩は深く眠っていた。

 夢の中でまで眠っているのはそれだけ弱っているということらしい。

 先輩の顔がすぐそこにあった。
 眠っていて、苦しそうで。
 胸の奥がぎゅっと痛くなった。

「……先輩」

 そっと、口を近付けた。
 僕の中に残っていた『あきらとして存在するための力』を、先輩に渡すために。

 触れたのかもわからないくらい、かすかな熱が伝わった。
 僕の中の『あきら』が解けて、彼の中に流れ込んでいく。瞬間、足元から溢れ出した柔らかな光が、波紋のように夜を揺らした。

 ──その次の瞬間、世界から音が消えた。

 心臓の音さえ、どこか遠くて。
 自分が立っているのか、浮いているのかも分からない。

 何か大切なものが抜け落ちたはずなのに、不思議と、怖くはなかった。
 ただ──少しだけ、寒かった。

「……君は……?」

 先輩がゆっくりと目を開けた。
 その薄茶色の瞳に、僕の姿が映る。
 声を聞いただけで、喉の奥が震えて、涙が出そうになった。

「よかった……先輩……」

 言葉はそれだけだった。
 でも先輩は、弱く笑ってくれた。

「──無茶をするな。君は……」

「──あきら!!」「あきらっち!!」
 勢いよく駆け寄ってきたのはジェーンで、
 その後ろから御剣くんも飛び込んできた。

「ちょ、ちょっと!? 今のって……
 まさか、あきらっちが消えるってこと!? そんなの嫌よ!!」
「おい……お前……何やってんだよ……!」
 ふたりとも、泣きそうな顔で僕にしがみついてきた。

『──消えないわ』
 校長が静かに言った。

『だってその子は、もう七不思議を引き受けているじゃない。
 この学校の校則を忘れたの?』

「……校則?」

『知らないことを知らないままでいるのは、勿体ない』

 校長は少しだけ笑った。

『可能性の話だけれど──
 もし彼らが『七つの欲』を諦めていたら、
 森あきらはこの学園にとどまれていたかもしれないわね』

「──そんなの……」

『想像力は、時に行動を慎重にして、命を守るものよ。
 でもね──
 時には大胆に、幽霊騒ぎだって笑い話にしてしまった方が、ずっと面白いでしょう?』

「……そんな発想、校長だけですよ……」
 僕は呆れた声で言った。


 僕らの様子を少し離れたところで見ていた先輩が、静かに歩み寄ってきた。
 月明かりの下で、その影がふっと揺れる。
 そして、僕たちの前で深く頭を下げた。

「……すまなかった」
 あまりにも突然の謝罪に、僕も、御剣くんも、ジェーンも息を呑んだ。

「夢の中で、君のことを見ていた」
 先輩の声は震えていた。
「俺は……君のことを誤解していたんだ」

「どういうことだよ」
 御剣くんが眉をひそめる。

 先輩はゆっくりと言葉を探すように、胸の前で拳を握った。

「俺は……ずっと、弟が学園で『生きている』なんて思ってはいなかった。
 弟は病気で死んだ。それはちゃんと分かっていた。
 でも……この学園には、死んだはずの者が普通に歩いているだろう?」

 先輩は苦く笑った。

「だから……どこかで思ってしまったんだ。
 『弟の魂も、この学園のどこかにまだいるんじゃないか』って。
 そう思うこと自体は、ただの願いだったはずなんだが──」

 先輩の表情が陰る。

「……ある時から、『この学園は危険だ。留まると弟の魂まで飲み込まれる』って囁く声が聞こえるようになった。
 誰の声かも分からない。
 でも、その声は……俺の弱いところを正確に突いてきた」

 ジェーンが息を呑む。
「……黒幕、ってこと?」

『弱っている心ほど、そういう声に触れやすいの。
 弟さんを想う気持ちが強かったからこそ、狙われたのでしょうね』
 肩に乗ったままの校長がぽつりと言った。

「誰かが……先輩を外に誘導した?」

 御剣くんの言葉に、先輩は小さく頷く。

「俺はその声に怯えて……学園を離れた。
 そうする事で『弟を守れる』って、そう思い込まされて。でも──」

 先輩は僕を見た。
 その目は、痛みと後悔、そしてようやく掴んだ真実で揺れていた。

「夢の中で見ていたんだ。
 泥だらけになって俺を救ってくれた、小さな狐の姿を。
 ……そして、弟が『あきらという未来』を、笑って君に託した、あの日の景色を」

 胸が、焼けるように熱くなった。
 ああ……先輩は、ちゃんと見ていてくれたんだ。
 僕が誰で、何のためにここにいるのかを。

「俺は……君が弟の姿を奪った『何か』だと思い込んでいた。
 ──でも違った。

 弟が選んだ『未来』が、君だったんだな」

 先輩はもう一度、深く頭を下げた。

「君を疑って……本当に、すまなかった」

 その瞬間、部屋の光がふっと揺れた。
 夢の底で張りつめていた何かが、静かにほどけていく。


 窓から差し込む昼の光が、やけに眩しくて、目が潤む。
 頬に触れるシーツの感触も、遠くから聞こえる生徒たちの声も……夢じゃない。
 僕は、ここにいる。

「……おかえり」
 すぐそばで、鏡宮くんが静かに言った。
「戻ってきたね、あきらくん」
 玉響くんも、ほっとしたように微笑んでいた。

「じゃあ……残りの弁当でも食べるか」
 御剣くんが言った瞬間──

「保健室は飲食禁止だ」
 玉藻先生に保健室を追い出されて、僕たちは食堂へ移動した。

「ほら」
 御剣くんが渡してくれた、温かいお茶をひと口飲んだ。
 ただそれだけなのに、胸の奥がじんわりと満たされていく。

 先輩がいて、御剣くんがいて、ジェーンさんがいて、鏡宮くんがいて、玉響くんもいて、少し離れたところにK6の面々も座っていた。

 ああ……生きてるって、こういうことなんだな。

「お茶、おかわりもらっていい?」
「もちろん!……次は、なんか甘いものでも付けてやろうか?」
「御剣、それは君の弁当の残りだろ」
 鏡宮くんのツッコミに、誰からともなく笑いがもれる。
「せっかくだから記念に写真撮らなーい?」
 玉響くんがスマホを片手に立ち上がった。

 静丘学園の日常は、今日も続いていく。