僕は更に深い階層にやってきた。
夜の校庭は、風ひとつ吹かず、
白線だけが月明かりに淡く浮かんでいる。
そこには当時の草薙先輩や、稲垣先輩たち今はK6と呼ばれる面々が集合しつつあるようだった。
『おい。香取はまだか? 移動に何時間かかっとんねん。このままやと夜が明けるんちゃうか? おい、中居! お前なんとかせえ』
草薙先輩が腕組みをしたままイライラとしている。
稲垣先輩たちも中居先輩も、草薙先輩の機嫌を伺うようにしつつも目を逸らしていた。
『えぇ、オレぇ? 稲垣たちが台車で運んでこいよ』
『嫌だよぉ、香取重いもん!』
『載せようとするだけで夜が明けますね』
その中心から少し離れた場所で、
木村先輩が腕を組んで、集まりつつあるK7の影を見ていた。紫の光が、瞳の奥でゆらりと揺れる。
そこへ、僕は近付いていった。
足音だけが、静まり返った校庭に落ちていく。
「……来たか、あきら」
振り返った木村先輩の目は、
どこか試すようで、どこか諦めているようで、
でもほんの少しだけ、期待が混じっていた。
「今のお前なら感じるだろ。
ここにいる全員の『意識』が混ざってる。
記憶も、欲も、境界も全てが曖昧になってる」
僕は息を吸う。
胸の奥に、まだ消えない痛みがある。
「俺たちK7は、七人で七つの欲を引き受けて、この学園の要となるはずだった……」
木村先輩は、ゆっくりと夜空を見上げた。
月明かりが、紫の瞳に淡く反射する。
その仕草が、過去の木村先輩と重なって見えた。
あの頃と同じ、眠たげで、どこか全部を見透かすような目。
白線の外側で、ぬるりと何かが動いた。
泥で形作られた人影が、地面を擦るようにして近付いてくる。
目も口もないのに、どこか『従うためだけに作られたもの』の気配があった。
泥人形は草薙先輩の横に立つと、
ぐしゃりと音を立てて草薙先輩の耳元へ顔を寄せた。
『小汚い小狐が死にかけの日本兵を連れて来たんやと、そんなんなんの価値もないやろ、捨てておいたらええ。今日は七つの欲を、俺たちが背負う大事な日なんやから』
草薙先輩の眉がわずかに動く。
泥人形は返事を待つこともなく、
来た時と同じように、地面に溶けるようにして消えていく。地面には、泥の湿った跡だけがぽつりと残った。
『まぁまぁ、見に行くぐらいは良いのでは?』
『そうそう、来年の新入生ぐらいにはなれるかもよ? すぐ消えるかもだけど』
『……まぁ、見といて損はねぇだろ』
『──どうせすぐ死ぬだろ。……見に行くくらいはしてやれば?』
『チッ……そんなん時間の無駄やろ。まぁええわ。ちんたら歩く香取がここまで来るには、まだ時間がある。死にかけのボロ雑巾の顔でも拝ませてもらうわ』
草薙先輩たちはぞろぞろと歩き始める。草薙先輩の足音だけが重く、他の先輩たちはそれに追随するように続いた。
「……欲ってさ、あきら」
木村先輩のその声は、いつもの眠たげな調子じゃなかった。
深いところで、何かを諦めて、何かをまだ信じている人の声だった。
「生きていくために必要なもんなんだよ。
食べたい、眠りたい、誰かを求めたい、守りたい……全部、生きるための力だ」
僕は息を呑んだ。
木村先輩は続ける。
「でも──強く持ちすぎたら『罪』になる。
誰かを壊すし、自分も壊す。
……俺たちK6は、その境界に立たされてる」
その言葉は、夜の空気に溶けていくようだった。
校舎の窓が、こちらを見下ろす黒い目のように感じられた。
『──兄ちゃん!?』
『なんや森、お前の兄貴やと?』
夜闇を透かして、森先輩の輪郭がくっきりと結ばれていく。
そこにいたのは、鏡を見る時にいつも見慣れている、僕と同じ顔だった。
けれど、彼は自分の制服が泥で汚れることなんて微塵も気にする様子もなく、ボロボロになった『彼の兄と小狐姿の僕』を、壊れ物を扱うような手つきで力強く抱き上げる。
『……君は、家にいてくれたお稲荷様だね。兄ちゃんをここまで連れて来てくれたんだ……ありがとう……』
森先輩は、大事なものを確かめるように、優しく抱きしめた。
泥まみれの兄と、小さく震える小狐の僕。
その三人の姿がひとつの塊になって、夜の静寂の中に溶け込んでいく。
僕はそれを、少し離れた場所からただ見つめていた。
そこにある体温も、服が擦れる音も、知らないはずの記憶なのに、なぜか胸の奥がひりつくほどに熱い。
『──やっぱり、僕は憤怒の席に相応しくない』
『何をいきなり、気でも狂ったんか?』
草薙先輩の声には、純粋な苛立ちと、隠しきれない動揺が混ざっていた。
『そうだぜ』
『森は早い時期に死んで、学園での生活時間も長いっしょ』
『そうそう、下手したらボクらよりも強いじゃん』
『運命とか、神様とか、怒りを向ける先は沢山あるし』
自分たちが認めた森先輩という実力者が、土壇場でその根源を否定した。
彼らにとっては、自分たちの審美眼を、ひいてはK7という存在そのものを否定されたかのように、心外でならなかったのだ。
「『憤怒』の席は、お前なら埋められる。
その意味が今ならわかるだろ?」
胸の奥がざわりと揺れた。
その瞬間──
「──僕は、誰に対しても怒ってなんかいないよ」
『──僕は、誰に対しても怒ってなんかいないよ』
僕と、森先輩の声が重なった。
夜の冷たい空気が、震えたように感じた。
木村先輩は、ゆっくりと目を細めた。
嘲笑でも、怒りでもない。
ただ、事実を受け止める人の顔。
『何──』
草薙先輩が何かを言いかけたけれど、それを遮るように、森先輩の静かな声が夜の空気を支配した。
『でも、そうだな。ここでの生活は楽しかったから、兄ちゃんにも同じように過ごしてほしい』
『それに──ここで兄ちゃんを助けて消えかけている小さなお稲荷様にも、この学園での生活をプレゼントしたいんだ』
『そないなことしたら、お前が消えるぞ』
草薙先輩の鋭い声が、焦ったように裏返った。
いつも余裕そうに響いていたあの声が、余裕をなくして激しく揺れているのがわかった。
『そうだね。森あきらはいなくなる。でも、それならこのお稲荷様が「あきら」になればいい。優しい子だからきっと兄ちゃんを支えてくれる。兄ちゃんもきっとわかってくれる……』
死にかけの僕は、そんなやり取りをどこか遠い場所での出来事のように聞いていた。半分も理解できなかった。ただ優しく頭を撫でてもらった感覚だけが残っていた。
僕は木村先輩を見つめ返す。
「木村先輩は……誰よりも人の心が分かる人です。
だから分かってるはずだ。
僕が森先輩の代わりに座っても、それは『誰のためにもならない』って」
木村先輩は、ほんの少しだけ笑った。
「……そう。分かってるよ。
お前が今更『憤怒』を背負っても、誰も喜ばないってことも」
寂しさと、優しさと、諦めと、期待が混ざった笑い。
『──思い出したわね。彼のことを──「森あきら」……彼は誰より優しかった。そして貴方が大事に思っていた先輩の本物の弟は──彼。もう彼はこの学園にはいないわ。貴方に存在を受け渡して、還ってしまったから』
肩に乗ったままだった白猫の校長が、僕に優しく声をかけてくれる。
あの頃の僕にとって、『奇跡』は自分の命を削り出すのと同じ、たった一度きりの切り札だった。
祀られたばかりの幼い僕には、それを使うのが怖くてたまらなかった。
──僕はずっと、間違えていたんだ。
たった一度の奇跡を出し惜しみして、彼の弟を病から救うことだって出来た。火災から彼の親を守ることだって出来たのに──。
『落ち着いて。確かにそう選択をした。
でも今あなたがここにいるから、貴方の大事なあの人はこの学園にいるのよ』
『貴方と森あきらはまったく別のものだったから、馴染むまで時間がかかったの。だからあの人よりも入学が遅れた……』
「……じゃあ、あきら。
お前は『どんな欲』で生きるんだ?」
そう言い残して、木村先輩はふっと背を向けた。
その姿が夜の闇に触れた瞬間、紫の光が、まるで水面に落ちたインクみたいに薄く広がって溶けていく。
瞬きをした時には、そこにはもう、月明かりに照らされた無人の校庭だけが残されていた。
