沢山のベッド、寝かされている子供たち。
消毒液と、わずかに血液の鉄錆びた匂いがこもる場所。
一人の白衣を着た人物が、子供たちの様子を窺うように歩いている。
──眠ることが怖いという子がいた。
友だちも、そのまた友だちも……。
眠ったら帰ってこなかったから──。
『大丈夫。身体を休めるには眠った方がいいんだ』
そんなことを言っても、怖い気持ちは収まらない。
怖い。眠りたくない。起きていたい。
──生きていたい。
『それなら私が、あなたの代わりに起きているよ。
必ず目覚めさせてあげるから……』
『私は気休めの言葉をかけるぐらいしか出来なかった。
昔はずっと死に近い場所にいたんだ。
……君はいいね。この学園に馴染んでいる。
眠っても必ず──起きることが出来る』
白衣を着た誰かの表情は見えない。
それでも、僕に向かって話しかけている事がわかる。
回想の光景が薄れていくにつれ、胸の奥に奇妙な確信が芽生えた。
「──これを見せたかったんだ」
思わず口に出していた。
「え……? あきらっち?」
ジェーンさんは驚いたように瞬きを繰り返した。
「この怪異が望んだのは、僕たちをただ眠らせることじゃない。『眠りと目覚めを見守る』という、かつての役目を思い出させたかったんだ」
言葉が自分の中で自然に繋がっていく。
「深い場所に潜るには、眠りと目覚めの境界を誰かが管理しなきゃいけない。
木村先輩がやってるみたいに……『深層に潜るための仕組み』が必要なんだって」
ジェーンさんが息を呑む。
「じゃあ……この怪異は、あきらっちをあえてここに呼んだってことね」
「うん。僕の『意識』を使えば、眠りと起きるのスイッチを怪異がちゃんと扱えるようになる。
そうすれば……もっと深い場所まで潜れる。
先輩のところまで、行ける」
自分で言いながら、胸の奥で何かが静かに噛み合った。
「……だったら」
喉の奥がひとりでに震えた。
「僕が……僕の意識を貸すよ」
そう決めた瞬間、怪異が歓喜したように脈打ち、足元の景色が底なしの沼みたいに沈み込んだ。
その沈み込みが、深い場所への『入口』になっていると直感した。
「──ここよりもっと、深いところへ行くんだね」
ジェーンさんの声は震えているのに、どこか背中を押してくれるように温かい。
「うん。深いところまで潜る。
先輩を助けるために」
そう言った瞬間、視界の端で何かが揺らめいた。
──木村先輩だ。
モノクロームの廊下の奥、紫の光を引きずりながら、さらに深い闇へと歩いていく。
「……待って!」
思わず駆け出していた。
木村先輩の背中に手が届きそうになる。
「へぇ……なかなかやるじゃん」
振り返りもせず、木村先輩の声だけが落ちてくる。
「でもさ──人の深層に潜るには、自分のことが分かってないと無理なんだよ」
その言葉が落ちた瞬間、足場が消えた。
視界がぐにゃりと歪み、熱い湯に浸したみたいに『僕』という輪郭がほどけていく。
──あれ……僕……?
意識が迷子になり、どこか別の場所へ引きずられる。
次に見えたのは、知らないはずの景色。
胸の奥がざわりと揺れた。
──心当たりなんてないはずなのに、この「僕」を、僕は知っていた。
赤い鳥居がたくさん並ぶ場所で、僕は生まれた。
生まれたばかりで幼くて弱い。
──それが僕。
上に言われて、ある家族に貰われることになった。
きっと、美味しいものが食べさせてもらえるよなんて言われたけど……。
特別美味しいとも思わなくて、退屈だった。
でも──。
『俺も同じだ。家族がここに店を開くっていうから、最近引っ越してきたんだ。仲の良かった友だちとも離れ離れだ……寂しいよな。わかるよ』
そんな風に話しかけてくれた男の子がいた。
その子には歳の離れた弟がいて、弟の面倒をよくみている。
自分にも身体があったなら、あんな風に話したり遊んだり出来るのかなと、あんな風に世話をやいてもらえるのかなとそんなことを夢見ていた。
──
チリンという鈴の音。
──『意識を強く保ちなさい』
その澄んだ声を聞いて、僕は意識を取り戻した。
「校長……来てくれたんですか?」
『ここはもう貴方の慕う彼(先輩)だけの夢ではないわ。在校生たちの無意識が絡み合う、迷路の淵よ』
白猫の校長が、ひらりと僕の肩に乗った。
雪みたいに軽くて、でもそこだけが少し冷たい。
『ここには貴方の知りたい事が全てある……どの真実を受け入れ、どんな結末を選ぶのかは貴方次第』
「……先輩は、無事なんですか?」
真っ先に口に出たのは、やはり彼の安否だった。
でも、その言葉が『本心の全てじゃない』と気づいた瞬間、胸の奥が冷えた。
──『あきらにとってさ、先輩ってなんなん?』
御剣くんの言葉が蘇る。あの時、僕は「優しくされるのが嬉しい」と答えた。
けれど、その「嬉しさ」さえも、誰かの記憶をなぞっているだけの「借り物」だとしたら?
……先輩の無事を祈る僕の自身の心さえ、本物じゃないかもしれない。
その疑惑が、何よりも恐ろしかった。
「……校長。先輩が無事なのは、信じます。でも、今の僕のままじゃ、あの人の隣に立つ資格なんてない」
「僕がこの学園にいる『本当の理由』を教えてください。……そうじゃないと、僕は、ただの『空っぽな器』のまま、誰かの影を追いかけることしかできなくなってしまうから」
『──良いでしょう』
──春の光。
真新しい制服。
そして、見上げるほど背の高い『彼』の影。
『……先輩!』
呼びかけると、彼はゆっくり振り返った。
逆光で表情は見えないのに、
声だけは驚くほど優しくて、胸の奥が温かくなる。
『──先輩だなんて、気恥ずかしいな。入学おめでとう』
『…………』
ただ、当たり前のように僕の頭に手を置き、
ずっと前から僕を知っていたみたいに微笑んだ。
『静丘学園はいいところだよ。広いし……なんでもある』
『なんでも?』
『うん。君が探しているものも、きっと』
その続きを、彼は言わなかった。
でもその沈黙が、なぜか胸に引っかかった。
『……僕、ここで何をすればいいんだろう?』
『何をするかも、これから見つければいいんだ』
差し出された手を、僕は迷わず握った。
その瞬間の温もりが、
今も右手の奥に残っているような気がした。
『──さあ。君の「新しい居場所」を案内するよ』
桜の花びらが空に舞い上がる。
あの日の出来事が逆再生されていく。
──時が更に巻き戻る。
──
ある日、家に赤い紙が届いた。
その家の男の子は万歳されて家を後にした。
僕の力なんて、なんの役にも立たない。
ただただ悲しくて、僕はめそめそと泣いていた。
そんな時、僕のいた家が、町が、火で燃えた。
何もかもがなくなった。
縛りがなくなって、僕は家を出ていった男の子を探した。
男の子は異国の地で見つけた。
片腕が動かなくて、足が少しなくなっていたけど、まだ生きてた。
身体は治せても、心が死んだらそれでおしまい。
僕は必死に彼を助けようと思った。
──そうして、静丘学園にたどり着いた。
