遠い昔、いきなり家族と引き離されて見知らぬ場所で暮らすことになった。
そんな僕を一番に気にかけてくれたのが『先輩』だった。
『俺も同じだ。家族がここに店を開くっていうから、最近引っ越してきたんだ。仲の良かった友だちとも離れ離れだ……寂しいよな。わかるよ』
──
駅前のカラオケ店は、
夕方になるといつも混んでいる。
「ほら、あきらは部屋からいつものポテト頼んどけ。俺はドリンクバー寄ってから行く!」
部屋番号の書かれた小さなバインダーを僕に押し付けて、御剣くんはドリンクバーに走っていった。
ふと、カラオケの廊下を歩く人たちの声が聞こえた。
知らない顔。でも、静丘学園の制服を着ている。
……誰だろう。
クラスメイトでも、同じ学年でも、寮の誰かでもない。
でも、
『静丘学園の生徒』としてそこにいる。
部屋に入ってフライドポテトを注文し終えると、室内のテレビで新人アイドルがデビューした、という内容の映像が流れていた。先月もそんな内容を見た気がするなと眺めている。
別の部屋にいる人々の声が、
壁越しにかすかに聞こえる。
笑い声。
話し声。
歌の練習。
全部『静丘学園の生徒』の声なのに、
誰の声なのか分からない。
まるで、録音された音を再生しているみたいに、どこか血が通っていないように感じた。
聞いたことがあるようで、ないようで、でも確かにそこにいる。
たくさんのドリンクをトレーに乗せて御剣くんがやってくる。
御剣くんはテンション高く部屋に飛び込むと、リモコンで最新曲を次々に予約していった。
ほどなくして山盛りのフライドポテトが届くと、いつもの光景が完成する。
僕はソファに座って、ポテトを口に運びながら、手元のタンバリンを何も考えずにぽん、ぽん、と叩いていた。
最新の曲はよく分からない。
歌番組もあまり見ないし、
流行りのアーティストの名前も覚えられない。
御剣くんが歌っている曲、サビだけは聞いたことがある気がする。
でも、どこで聞いたのか思い出せない。
テレビだったのか、廊下で誰かが口ずさんでいたのか、それとも──静丘学園のどこかで流れていたのか。
僕はそういうのを、いつも覚えられない。
だけど、
御剣くんが楽しそうに歌っているのを見るのは好きだ。
「ほらあきら! サビ来るぞ、タンバリン強めに頼む!」
「えっ、ここ?」
「そこそこ! はい、いけー!」
言われるままにタンバリンを叩くと、
御剣くんは満足そうに笑った。
彼には迷いがない。
いつも前に進む。
何かを断ち切るみたいに、
勢いよく。
その明るさに、
僕はいつも助けられている。
僕は笑い返しながら、
無意識にスマホを開いてしまう。
先輩とのトーク画面。
既読はついていない。
スマホの画面を閉じると、胸が少しだけ重くなる。
先輩がいたら、
この曲、どう思っただろう。
そんなことを考えてしまう。
ポテトの湯気が、画面の上でゆらりと揺れた。
カラオケ店を出ると、駅前はすっかりオレンジ色の夕闇に沈んでいた。
自動ドアが開いた瞬間に流れ込んできた空気は、どこか埃っぽくて、ひどく乾いている。
「あー、歌った歌った! やっぱ最新チャート制覇するとスッキリするぜ!」
御剣くんが両手を大きく広げて、伸びをする。
「今日も楽しかったなー! なあ、あきらもそう思うだろ?」
「うん。御剣くんの歌、今日も上手だったよ」
駅前のロータリーには、溢れんばかりの制服姿があった。
電車を待つ列、コンビニの前にたむろする集団、笑いながら横切っていくグループ。
そのどれもが、見慣れた静丘学園のネクタイやリボンを身につけている。
一年生は瑞々しい緑。二年生は燃えるような赤。三年生は静かな青。
僕と同じ一年生の証である『緑』が、視界のあちこちでチカチカと動いている。
入学してから数ヶ月。同じ講義を受け、同じ食堂で食事をして、同じテストに頭を悩ませているはずの、数百人の仲間たち。
……なのに。
笑いながら僕の横をすり抜けていく『緑』の誰一人として、見覚えがない。
一年生のフロアはまだ限られているはずだ。
それなのに、この駅前にいる『緑』の集団は、まるでどこか別の場所から湧き出してきたかのように、見知らぬ体温を放っている。
──やっぱり、知らない顔ばかりだ。
マンモス校だし、寮だけで五つもあるから。
そう自分に言い聞かせれば、この「数千人の見知らぬ同級生」という異様な光景も、日常の一部として溶けていく。
すれ違う生徒たちの話し声は、風に乗ってバラバラに砕け、意味をなさないノイズとなって通り過ぎていった。
「あ、そうだ。明日の昼、購買の限定パン買おうぜ。俺、早めに行くからさ」
御剣くんが楽しそうに明日の予定を話している。彼の胸元で揺れるネクタイも、僕と同じ緑だ。
その鮮やかな色を見ていると、少しだけ現実の手触りを取り戻せる気がした。
——でも、あの視線。
振り返った先、街灯の下にいた『知らない生徒』。
その胸元に結ばれていたのは、何色だっただろう。
思い出そうとすると、霧がかかったように輪郭がぼやける。
赤だったか。青だったか。
それとも、この学校には存在しない『別の色』だったか
「ん? どうしたあきら。忘れ物か?」
数歩先で御剣くんが不思議そうに首を傾げている。
「……ううん。なんでもない。誰か知り合いがいたような気がしただけ」
「なんだよ、お前も顔広いな。ほら、暗くなる前に寮に戻るぞ!」
御剣くんが笑って僕の背中を叩く。
重たい掌の熱が、僕をこの場所に繋ぎ止めてくれる。
その感触で、さっきの視線の冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
僕はもう一度だけ、誰もいない街灯の下に目を向けた。
路上の隅に、ちぎれたおみくじみたいな白い紙切れが、カサカサと乾いた音を立てて転がっている。
その紙切れはまるで、誰かが残した『記録』の成れの果てのように見えた。
——先輩、今どこにいるんですか。
ポケットの中のスマホは、一度も震えなかった。
駅前のロータリーは、まるで巨大なアリの巣をひっくり返したような騒がしさだった。
視界を埋め尽くすのは、緑、赤、青のネクタイやリボン。
数えきれないほどの『静丘学園の生徒』たちが、そこかしこで固まり、あるいは一人でスマホを見つめている。
五つもある巨大な寮の、一体どこの住人なのか。
数百あるクラスの、どの教室に座っている者なのか。
誰にも分からない。
踏切の音が鳴り、ホームに電車が滑り込んでくるたびに、その光景は塗り替えられる。
吐き出されるように降りてくる知らない生徒。吸い込まれるように乗り込んでいく知らない生徒。
いくら入れ替わっても、そこに残る「制服の密度」だけは変わらない。
まるで、最初から決められた『数』を維持するために、誰かが裏側で調整しているかのように。
「……ねえ、御剣くん。あそこにいる人たち、誰かわかる?」
僕は、コンビニの前で談笑している一年生の集団を指さした。僕らと同じ緑のリボンをつけた女子生徒たちだ。
「んー? 知らねえ。まあ、静学(しずがく)はデカいからなー! 全員把握してたら超人だぜ」
御剣くんはポテトの最後の一片を口に放り込み、ケラケラと笑う。
デカいから。
マンモス校だから。
その言葉は、確かに正論だ。
でも、それだけで説明がつくんだろうか。
降りてくる生徒たちと、乗っていく生徒たち。
その視線が一度も交わらないことに、御剣くんは気づいていない。
同じ制服を着ていながら、彼らはまるでお互いがそこに存在しないかのように、淡々と、無機質にすれ違っていく。
そこに漂っているのは、活気ではなく、ただの『ざわつき』だ。
意味を持たない音が重なり合って、膜のように駅前を覆っている。
御剣くんの声でさえ、時折その膜の向こうへ遠ざかっていく。
「ほら、ボサッとしてると無料バス行っちまうぞ! 急げ急げ!」
御剣くんに腕を引かれ、僕は歩き出す。
胸のざわめきが、また少しだけ大きくなった。
駅へ向かう『緑』の波。
その中に、一瞬だけ、誰とも違う歩調で歩く影が見えた気がした。
でも、御剣くんの背中を追う僕の視界からは、すぐにその影も雑踏に紛れて消えてしまった。
——先輩。
そう呼びかけそうになった唇を、僕は強く噛んだ。
「なああきら! 今年の文化祭、俺バンドやるかも!」
無料バスを降りて、寮へ続く並木道を歩きながら、御剣くんが身振り手振りで語りだす。
「ギターの新譜、さっきカラオケで練習してたやつな。あれ完璧にコピーして、体育館のステージでぶちかましてやりたいわけ!」
文化祭。
本来なら、胸が高鳴るような響きのはずなのに。
「あきらもなんかやろうぜ! 裏方でもいいし、なんなら一緒にステージ立つか?」
「僕は……いいよ。人前に出るの、あんまり得意じゃないから」
曖昧に濁して、地面の枯れ葉を避けるように歩く。
文化祭があるということは、秋が来て、冬が来るということだ。
でも、僕の感覚の中では、学園の時計の針は、先輩がいなくなったあの日から、一秒も進んでいない気がしてならない。
「なんだよ、勿体ねーな! せっかくの学園生活なんだから、楽しまなきゃ損だぜ?」
御剣くんは豪快に笑って、僕の肩を組んだ。
彼の体温は熱い。
迷いも、疑いも、一滴の淀みもない。
お茶の味が薄いことも。
知らない生徒が溢れていることも。
彼にとっては「そういうもの」でしかないのだ。
その迷いのなさに、僕は救われる。
もし僕一人だったら、とっくに自分の正気を疑って、『静丘学園異常事象記録』をつける指も止まっていただろう。
——でも。
御剣くんが笑えば笑うほど、僕の脳裏には先輩の静かな横顔が浮かぶ。
先輩なら、この騒がしい文化祭の話をどんな顔で聞いただろう。『楽しみだな』なんて、そんなありふれた言葉を吐いてくれただろうか。
それとも、あの夜明け前の空のような瞳で、僕を黙って見つめたのだろうか。
僕の緑のネクタイが、夕風に吹かれてパタパタと揺れた。
一度も震えないポケットの中のスマホが、不意に、鉛のような重みを増す。
その沈黙したままの重みが、早く気づけと急かす「誰かの鼓動」のように、胸の奥に響いた。
