山頂。
荒々しい岩肌の先、ついに雲を突き抜けた。
僕は全身の力を振り絞って、冷え切った空気を、肺いっぱいに深く吸い込んだ。
「……あ……っ」
氷のように冷たく、けれどダイヤモンドの破片を溶かしたように澄み切った、白鷹山の空気。
それが肺の最深部に届いた瞬間、僕の身体を借りていた「彼」が、魂の底から泣いているのが分かった。
──ヒュウ、……。
華爛寮の地下で、何十年、何百年もの間、誰にも顧みられずに溜まり続けていたドロドロの「溜息」。
絶望と酸欠に濁りきっていたその塊が、山頂を吹き抜ける神聖な風に触れた途端、真っ白な霧へと解き放たれ、高く、空へと溶けていく。
『……あ、……ありが、とう……』
胸の中から、微かな、けれどこの上なく満足げな声が響いた。
それはもう喘ぎ声ではない。愛する誰かの名を呼ぶような、穏やかな、最後の吐息。
両手の痣が、役目を終えたように静かに、羽毛のような優しさで鎮まっていった。
僕の肺から重苦しさが消え、代わりに信じられないほど軽い呼吸が戻ってくる。
華爛寮の「開かずの扉」は、もう、他人の人生を羨み、奪おうとする怪物などではない。
そこは、時折どこからか心地よい山の風が吹き抜け、誰かが大切にしていた「外の世界への憧れ」が静かに眠る、思い出の小部屋に戻ったのだ。
「……おったまげ〜!!♡ 見てあきらっち! 最高の景色じゃないのぉぉぉぉッ!!♡」
ジェーンさんが、雲海を背に真っ赤な羽扇子を高く掲げ、勝利のダンスを披露する。
そして、右肩に白鷹の加護を宿し、二つのリュックを背負ったままの御剣くんが、少し照れ臭そうに——けれど、震える僕を二度と離さないような力強さで、大きな手を差し伸べた。
「……ったく。……死ぬかと思ったぜ。……ほら、立てよ。……弁当、食うんだろ」
その手の温もりに触れながら、僕は山頂から広がる学園の全景を見渡した。
七不思議の四つ目。
僕たちはまたひとつ、この学園に塗り固められた「嘘」を剥ぎ取り、その下に隠されていた切実な「真実」を、光の下へと連れ出したのだ。
僕は目を閉じ、自分だけの空気を肺いっぱいに満たしてから、ゆっくりと吐き出した。
喉の奥に残っていた冷たさが、心地よい余韻となって消えていった。
──
白鷹山の山頂で、御剣くん特製の弁当を食べ終えた僕たちは、心地よい疲労感と共に下山を始めた。
「にしても、鏡宮と玉響はタヌ先輩たちとやり合って先に下山するってよー」
「一緒にお弁当食べられなくて残念だったわねー」
「しゃーない。保健室まで残った弁当を持っていってやるか」
御剣くんは、真っ白な鷹の羽が宿った右肩を、まだ慣れない様子で回しながらも、その足取りはどこか誇らしげに僕の前を歩いている。
「……そういえば、七不思議って、あとどんなものが残ってんだっけ」
不意に僕は、思いついたことをそのまま口にした。
「華爛寮の扉は終わったし……あとは、保健室の怪談とかだな。……知ってるか?」
御剣くんの声が、わざとらしく低く、湿り気を帯びた声になる。
「夜の保健室にはな……『寝たら最後、二度と起きねぇベッド』って噂があるんだよ。……そのベッドに横になった瞬間、誰かが耳元で、氷みたいに冷たい声で囁くんだ。……『好きなだけ眠っていいよ。――代わりに、わたしが、あなたとして起きててあげる』ってな」
「ちょ、ちょっと待ってよぉ!? それ、あーし絶対寝られないじゃないのぉ! 美容液より睡眠が大事なのにぃ!」
ジェーンさんが羽扇子を抱きしめて、大袈裟に身震いしてみせる。
僕は苦笑しながらも、その「入れ替わり」を唆すような言葉に、胸に小さな棘が刺さるのを感じていた。
「……でも、それも……もしかしたら『別の意味』があるのかもしれないね」
「は?」
御剣くんが足を止め、怪訝そうに振り返った。
「眠ったら起きられないんじゃなくて……
『起きたくても、起きる意識が戻らない誰か』とか……
あるいは、『眠っている誰かを見守りたい誰か』が、あの保健室にいるのかもしれないって」
御剣くんが、少しだけ眉をひそめる。
「……お前はそういうこと言うよな」
「だって、華爛寮の扉の彼だってそうだった。……『怪談』って、誰かの切実な願いが、悪い噂の泥をかぶって歪んだだけのものなんだと思うんだ」
あきらっち、と。
ジェーンさんが、少しだけ真顔になって、僕の横顔を覗き込んだ。
「……あきらっちのそういう、泥の底に沈んでる宝石を、汚れも気にせず拾い上げちゃうとこ。……あーし、ほんと……大好きよぉ♡」
夕暮れに染まり始めた白鷹山の斜面を、冷たい風が吹き抜けていく。
その時、僕たちはまだ知らなかった。
保健室で待ち受けているのが、単なる「噂」ではなく……。
僕たちの知っている「あの人」の、最も深くて甘い「絶望」に触れる入り口だということを──。
ふと見下ろした学園の校舎。その中で、保健室の窓だけが、夕闇に沈む世界で不自然に白く光っているように見えた。
──
学園に戻り、重い保健室の引き戸を開けた瞬間。
僕たちは、言葉を失ってその場に立ち尽くした。
「……え……?」
夕暮れの赤い陽が差し込む室内は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
入り口に一番近いベッドでは、鏡宮くんがシーツを指が白くなるほど強く握りしめたまま、倒れ込むようにして微動だにせず横たわっていた。
その向かいの壁際では、玉響くんが何かに激しく抵抗しようとしたのか、スマホを握りしめたまま壁にもたれかかり、糸が切れた人形のように首を深く垂らして眠りこけている。
そして、いつもなら鋭い言葉で僕たちを律してくれるあの玉藻先生までもが、開いたままのカルテの上に白衣の身を投げ出し、机に突っ伏したまま、底の見えない深い眠りへと沈んでいた。
……更に、保健室の奥の空気だけが、妙に『沈んで』いる。
まるで誰かが、そこに横たわっているのに、僕たちの目にだけ映らないみたいに。
全員が、まるで「同じ悪夢」を強制的に見せられているかのように、呼吸さえも不自然なほどに静かだった。
「……おい、鏡宮! 玉響! 起きろって! ふざけてんのかよ!」
御剣くんが血相を変えて駆け寄り、鏡宮くんの肩を激しく揺さぶる。けれど、返ってくるのは規則正しい、けれど体温を感じさせない寝息だけだった。
「……っ、……あ……」
その時。
壁際で倒れていた玉響くんの指が、かすかに、何かに抗うようにピクリと動いた。
「……き……む……ら……せんぱ……い……が……」
薄く開けられた彼の瞳は、焦点が合わず、どこか遠い場所を見つめている。
「……あきらくん、の……せんぱいの……夢に、入った……っ」
その言葉を最後に、玉響くんの首がガクリと落ちた。
再び訪れる、死のような沈黙。
「……玉響……? おい、嘘だろ……」
御剣くんの声が震える。
守護者である彼らまでもを一瞬で無力化し、この保健室を「夢の檻」に変えてしまった圧倒的な力。
「……一体、何が──」
その瞬間、保健室のベッドが『ギィ……』と軋む。
まるで僕たちを『招いている』ように。
──ギィ……。
静まり返った保健室に、一番奥のベッドのバネが軋む、耳障りな音がした。
それは単なる金属の悲鳴ではない。まるで僕たちを暗闇の奥へと「おいで」と手招きしているような、ねっとりとした意思を感じさせる音だった。
「ちょ、ちょっと待って! ……このベッド……なんか、あーしたちを、呼んでない……!?」
ジェーンさんが、血の気の引いた顔で自慢の羽扇子を抱きしめた。
御剣くんが、その「招き」に挑戦するように、鋭い視線で蠢くベッドを睨みつける。
「……これが『保健室の怪談』ってわけかよ。……ふざけやがって……!」
僕の両手の痣が、火傷のような熱を帯びて脈打ち始めた。
それに呼応するように、真っ白だったはずのシーツが、ドロリとした不透明な色に変色していく。
それは、まるで巨大な生き物の肺が『呼吸』をしているかのように、ゆっくりと、不気味に膨らみ、沈み、波打っていた。
「……このベッド……『眠りたい誰か』の、……あまりにも深すぎる願いで、……できてるのかな……だから、現実から……夢の中に、……引きずり込もうとしてる?」
あきら、と。
御剣くんが僕の肩を、砕けんばかりの力で掴んだ。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの、野性味溢れる覚悟が宿っている。
「だったら、行くしかねぇだろ! ……鏡宮も、玉響も、……あの消えた先輩も……! ……全員まとめて、……俺が連れ戻してやるよぉッ!!」
「……あきらっち、手ぇ貸しなさい! ……あーしが、あんたの背中、支えてあげるわよぉッ!♡ 悪夢なんて、あーしのラメで全部吹き飛ばしてやるんだからっ!!♡」
ジェーンさんが僕のもう片方の手を、震えながらも力一杯握りしめた。
その瞬間、ベッドの怪異が爆発するように膨張し、僕たちの足元の視界が、真っ黒な夢の靄のような霧に包まれた。
ドクン、と心臓が跳ね、次の瞬間には重力を失っていた。
床も、壁も、天井も。
保健室という現実が紙細工のように崩れ去り、僕たちは奈落の底──色のない「深層心理」の世界へと、真っ逆さまに落ちていった。
闇の底で、木村先輩の笑い声が聞こえた気がした。
──
落下の衝撃が、綿菓子のような柔らかい暗闇に変わる。
目を開けた瞬間、そこに広がっていたのは、僕たちが知っている「静丘学園」のようでいて、その実、あらゆる生命感と色彩を吸い取られた『色の抜けた裏側』の世界だった。
一歩踏み出した瞬間、僕は気づいた。
──この世界には、匂いがない。
風も、土も、木も、誰の気配すらも。
まるで『生』という概念だけが、最初からこの世界には「許可」されていないようだった。
視界が、セピア色の古い写真のようにひび割れている。
見慣れたはずの学園の廊下は、まるで熱に浮かされた病人の網膜が映し出す景色のようになだらかに歪み、壁の輪郭が生き物のようにうねっている。
ふと見上げた時計塔の針は、カチカチと耳障りな音を立てながら、恐ろしい速さで「過去」へと逆回転を続けていた。
──……あ……きら……。
隣にいるはずの御剣くんやジェーンさんの声が、まるで深い水の底から響くように、絶望的に遠い。
窓の外には、空も太陽も存在しなかった。ただ、どろりとした墨汁をぶちまけたような「濃すぎる闇」が、校舎の隅々から溢れ出し、足元にまとわりついてくる。
一呼吸吸うごとに、肺が濡れた砂を詰め込まれたように重く、鈍い痛みが走った。
その、歪んだ廊下の真ん中に。
「……あー……もう来ちゃったか……」
木村先輩が、欠伸をしながら立っていた。
現実で感じた気配よりも、その存在感は遥かに鋭利で、毒々しい。髪の間から覗く瞳は、このモノクロームの世界で唯一、強烈な紫色の光を放ち、周囲の「影」を従えるように揺らめいている。
保健室のベッドの怪異が膨張し、僕たちが夢に引きずり込まれた直後。
薄い霧の中、ぼんやりとした輪郭が揺れている。
眠たげな声。でも、その影がゆっくり顔を上げた瞬間──
無造作に髪をかきあげる。その指先の動きだけが、色彩を失った世界の中で異様に生々しく、艶っぽい。
「……ちょ、待てよ。そんな勢いで深層まで来られると……こっちも準備ってもんがあるんだけど?」
御剣くんが眉をひそめる。
「……誰だテメェ」
木村先輩は、眠そうな目を細めて笑う。
「俺は木村。夢を食べるのが仕事でね……『色欲』は、深層に潜るための鍵なんだ」
ジェーンさんが羽扇子を落とす。
『ちょ、ちょっと待って!? 色欲って何よ!?』
木村先輩は、また髪をかきあげる。
「『色欲』ってのはさ……自分の『虚(うろ)』を、何がなんでも満たそうとする渇きだ。
他人の熱を奪ってでも、その空洞を塞ぎたいっていう……救いようのない飢え。
慈しみも、独占欲も、死に損ないの執念も。全部、夢の底に沈んでいく澱(おり)みたいなもんだ」
そして、僕をまっすぐ見つめる。
「君の『先輩』が呼んでるぜ」
御剣くんが、僕の腕を千切れるほどの力で引き寄せた。「あきら!! そいつの言葉を聞くな!!」
「──深いところで、ずっとな」
その瞬間、夢の世界がぐにゃりと歪んだ。
