静丘学園異常事象記録


 華爛寮の一階、豪華な調度品が並ぶ廊下の突き当たり。開かずの扉と呼ばれるドアの前に立った時、僕の両手の痣は、かつてないほど刺すような熱を帯びていた。

 耳元で鳴り響くのは、金属の軋みではない。
 扉の向こう側から漏れ出してくるのは、喉の奥がべったりと張り付くような、必死に空気を求めて喘ぐ「誰か」のひび割れた呼吸音だった。

「……苦しい、んだね」
 僕は吸い寄せられるように、冷え切ったドアの木肌に掌を当てた。
 
 御剣くんが言っていた「選ばれなかった者の溜息」なんて、そんな冷たい言葉じゃ足りない。ここにいるのは、ただ、一度でいいから胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込みたいと願う、あまりにも細い命の残響だ。
「僕の……僕の呼吸を、使っていいよ。……だから、一緒に外の空気を吸いに行こう」
 その言葉が唇を離れた瞬間。
 
 ──ギィィィィィィィッ!!
 痣が、悲鳴のような鋭い音を立て、僕の視界は爆ぜるような白光に飲み込まれた。
 
 扉の向こう側にいた「何か」が、氷の塊を無理やり飲み込まされたような衝撃。それが僕の喉を焼き、肺の最深部へと冷たく沈み込んでいく。
 
「っ、……ぐ、……ぁ……っ!」
 
 胸の奥が、鉛を流し込まれたように急激に重くなった。
「あきらっ!?」
 思わず膝をついた僕を、御剣くんが支えてくれる。

 肺胞のひとつひとつが泥水で満たされていくような、絶望的な酸欠の苦しみが僕を襲う。
 自分の肺なのに、自分のものではない。僕の胸の中で、見知らぬ誰かが必死に、震える呼吸を繰り返している。

『……おったまげー!!♡ ……あきらっち、見て! ……開かずの扉が開いたわよぉッ!』
 ジェーンさんの叫びが、遠く霧の向こうから聞こえた。
 
 数十年もの間、一度も鍵が開くことのなかった重厚なドアが、僕の「呼吸」を鍵代わりにして、ゆっくりと、嗚咽をもらすように解き放たれていく。
 古い蝶番が、泣き出すように震えた。
 
 扉の向こう側から溢れ出したのは、埃っぽく、けれどどこか懐かしい、誰かの「生」の残り香だった。

 ──

 翌朝、学園の敷地内に聳え立つ「白鷹山(はくようざん)」の登山口に、僕たちは立っていた。

「──特別に許可しましょう。……その子に、本物の風を教えてあげなさい」
 副校長がさらさらと淀みのない筆致で書面に文字を走らせると、その腕の中にいた白猫の校長が、うにゃ、と短く鳴いた。
 副校長の手によって、校長の前足の柔らかな肉球に朱肉が押し当てられる。
 
 シュターンッ!!
 
 あまりにも見事な手際で、書面には真っ赤な「肉印(にくきゅういん)」が母印として刻まれた。
 副校長はすぐさま、使い古された、けれど清潔な布を取り出すと、校長の汚れた足先を恭しく拭き上げている。その徹底した「管理」と、校長のどこか誇らしげな様子に、僕は少しだけ気圧された。

 こうして学園上層部の奇妙な許しを得て、僕たちは「肺の怪異」を連れ出すための強行軍——白鷹山ピクニックを開始した。

「ほら、あきら。……しゃきっとしろ。……俺が作った弁当、山頂で食うんだろ。楽しみにしてろよ」
 御剣くんが、青白く震える僕の顔を覗き込み、自身の倍ほどもある巨大なリュックの肩紐をぐいと締め直した。
 
 僕の肺は、今も扉の向こう側の「彼」と共有されている。
 一歩踏み出すごとに、一歩踏み出すごとに、肺の奥で「彼」が溺れているのを感じる。酸素を求めてもがき、僕の肺胞を内側から掻きむしるような痛みに、視界が白く明滅した。
 
「……ごめん、御剣くん。なんだか、急に空気が薄くなってきた……みたいで……」
 足が縺れ、膝をつきそうになった僕の背中を、御剣くんの大きな掌が支えた。

「おいおい、まだ三合目だぞ。……仕方ねーな、……貸せ。……お前の荷物も俺が持つ」
 御剣くんは文句を言いながらも、強引に僕のザックを奪い取ると、自分の胸側に抱え込むようにして背負った。前後を大きな荷物に挟まれたその姿は、お世辞にもスマートとは言えなかったけれど。僕を助けるために迷わず不格好を選んでくれた彼の体温が、すぐそばにあるだけで、肺の痛みが一瞬だけ和らぐ気がした。

「……ありが、とう……」
「……礼を言うのは山頂で絶景を見てからにしろ。……いいか、あきら。……俺から離れるなよ」
 一方、鏡宮くんと玉響くんは、『K6』の動向を探るべく、別のルートを進んでいる。
 
 白鷹山の冷たい風が、僕の「貸した肺」をヒリヒリと冷やす。
 僕の両手の痣は、苦しそうに呼吸を繰り返す「彼」の鼓動に寄り添うように、静かに、けれど確実に熱を帯び始めている。

 山肌を撫でる風は、どこか祈りのように澄んでいた。

 ──

 八合目。
 木々が疎らになり、剥き出しの岩肌を噛むように吹き付ける風が、急激に冷たさを増す。
 風の音が、どこか人の声に似ていた。
 泣いているような、笑っているような、判別のつかない響き。

 僕の肺は、限界を迎えようとしていた。
「……はぁ、……っ、……く、……空気が……薄い……」
 膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。肺の奥が焼けるように熱く、意識が遠のく。
「あきらっち!? 顔色が真っ青よ、大丈夫なの!?」

 僕の肺の奥で、「彼」が暴れた。
 ──苦しい、苦しい、苦しい。
 視界が白く弾け、膝が崩れ落ちる。

 その時、僕の視界を遮るように、黒い影が落ちた。

「おっと、待ってたぜー? 白鷹山なんて、身の程知らずな場所で、何をしに来たんだか……」
 風の中に混ざる、ドロリとした嫉妬の闇。その広がる闇は、鴉の羽根のように見えた。

「テメェは!? K6! 嫉妬の中居だな!!」
 御剣くんが僕たちを守るように立ち塞がる。

 次の瞬間、中居先輩の影が風と混ざり、黒い刃のように御剣くんへ襲いかかった。
「っ……ぐあッ!」
 御剣くんの身体が岩肌に叩きつけられ、砂利が弾け飛ぶ。
 その一撃は、ただの風ではない。『嫉妬』そのものが形を持った暴力だった。

 古びた学生帽を斜めに被り、小柄な身体を、まるで重力など存在しないかのように、風に身を委ねて浮かせている。いや、飛んでいるのではない。学園の影から溢れ出した「怨念」の気流に乗って、ただそこに「存在」しているだけのような、薄気味悪い「軽さ」。
 宙に浮く中居先輩が、僕の荷物を背負う御剣くんを上から覗き込む。重力を無視したその体には、薄ら寒い笑いが張り付いていた。

「お前は、あきらに選ばれたいんだろ?」
 風がざわりと揺れ、無数の黒い囁きが僕らの耳元にまとわりつく。
『選ばれたつもりか?』『凡人が』『背負えるわけねぇだろ』
「!?」

「……だがオレは、知ってるぜ。……お前が、……ただの乱暴者で……人並みの勉強もできねぇ、……口先だけの……ただの『数合わせ』だってこと」
 中居先輩の言葉が、鋭い爪のように、御剣くんの心を抉る。

『そうだ! そうだ! ……お前は……何も……持ってねぇ! ……ただの、ゴミだ!!』
 白鷹山の風が、中居先輩の周囲だけ黒く濁っていた。
 まるで山そのものが、中居に支配されているようだった。
 風の中に、無数の鴉の泣き声と共に言葉が混ざる。暗示のような効果のありそうな声だった。

「──うるせぇ!!」
 地を這うような咆哮。御剣くんが、震える僕の前に再び立ちはだかった。
 その瞬間、不思議と僕の肺の痛みが一瞬だけ消えた。彼の叫びが、僕の中に溜まった泥のような空気を、無理やり震わせて押し出したみたいに。

「テメェが何を言おうが、あきらが俺に荷物を預けて、アイツ(怪異)を必死に救おうとしてんだッ!!」

 御剣くんの背中から、今までとは違う、圧倒的な「風」の圧が溢れ出す。
 前後リュックの奇妙な姿のまま、けれど、その瞳には、かつてないほど真っ直ぐな、一点の曇りもない「意志」が灯っていた。

「……へぇ。まだ立てるんだ?」
 中居先輩の影がさらに膨れ、風が悲鳴を上げる。
「じゃあ見せてみろよ。
 ──『選ばれた側』の力ってやつを!!」

「──俺が、その道を切り拓く!! それ以外に、理由なんていらねぇんだよぉぉぉぉぉぉッ!!!!!!」

 その瞬間。

 白鷹山の頂から、神聖なまでの冷気を伴った突風が、御剣くんを包み込んだ。
『おったまげーーー!! なんなのこの風、あーしのつけまが飛んじゃうわよぉぉ!!』
 ジェーンさんが悲鳴を上げながら、必死に自分のスカートと髪を抑えている。

 彼の右肩に、真っ白な鷹の羽が、光の紋章となって宿る。
 御剣くんの呼吸が、白鷹山の風そのものと一体化していく。

 ──『白鷹の加護』。

 守護者として真に覚醒した御剣くんの一撃が、前後リュックの滑稽さを、鴉の中居の嫉妬を、そして周囲に漂う「窒息の呪い」を一気に吹き飛ばした。