静丘学園異常事象記録


 図書室を後にした僕たちは、足を引きずる御剣くんたちを支えながら、保健室へと辿り着いた。

 ガラリ、と引戸を開けると、湿った薬品の匂いと共に、いつもの白衣を纏った玉藻先生が顔を上げる。

「……また派手にやったな。……空いてるベッドに寝かせてやれ」
 先生は肩をすくめ、棚から手慣れた手つきで消毒液と包帯を取り出そうとした。

 けれど。

「……っ!?」
 不意に、玉藻先生の手が止まった。
 彼女の狐のような瞳が、恐怖に大きく見開かれ身体が震えはじめる。
 
 廊下の向こうから、音もなく忍び寄る「何か」の気配。
 それは、暴力的な殺気ですらなく、ただそこにあるだけで世界の色を奪い去るような、絶対的な「無」の圧迫感だった。

「……ひっ、……嫌、……来るな……!」
 あんなに肝が据わっていたはずの玉藻先生が、短い悲鳴を上げて、まるで怯える小動物のようにベッドの下へと転がり込み、ガタガタと震えながら隠れてしまった。

 静寂。

 トントン、と。

 あまりにも上品で、規則正しいノックの音が、保健室のドアを叩いた。

「……失礼。……騒がしくしてしまったかな」
 現れたのは、副校長だった。
 その腕の中には、あの白猫の校長が、ぬいぐるみのように大人しく抱っこされている。
 
 過去の世界で見た、あの「静止した時間」を纏った微笑。
 彼は眼鏡の奥で、ベッドに倒れ込む御剣くんたちを、慈しむような、あるいは観察するような瞳で見つめた。

「……彼らの献身には、相応の報酬が必要。……ですよね? 校長」
 副校長が腕を緩めると、白猫が軽やかに床へ着地した。
 
 校長は、迷いのない静かな足取りで三人のベッドを順番に回っていく。
 御剣くんの傍らで、鏡宮くんの枕元で、そして玉響くんの足元で。

 校長が、ふわりと白く長い尻尾を揺らし、彼らの身体に優しく「タッチ」した。

 その瞬間。
 空気が、ひと呼吸だけ静かに澄んだ。
 
 淡い、真珠のような光が彼らを包み込む。
 ボロボロに裂けていた制服が、見る間に糸を紡ぎ直し、深く刻まれていた傷跡が、まるで時間が巻き戻るように滑らかな肌へと戻っていった。

「……あ、……」
 御剣くんが、驚いたように自分の拳を握りしめる。
 あれほど酷かった疲弊が、一瞬で消え去っている。
 
 副校長は、再び校長を優しく抱き上げた。

 白猫の校長は「うにゃうにゃ」と副校長に声をかける。

「本来の力を発揮するには、君たちはまだまだ鍛錬が足りない。強くなりなさい──」

 副校長は僕の瞳の奥をじっと見つめ、優雅に一礼した。

「……良い旅は出来たかな? ……では、失礼。……玉藻先生、……ベッドの下に身を隠すのは不衛生だ。あまりしない方がいい」

 副校長が去った後も、保健室にはしばらく、凍りついたような沈黙が流れていた。

 ベッドの下で震え続ける玉藻先生と、完全に完治した三人の仲間たち。
 
 僕は自分の両手の痣が、校長から受けた温かな名残と、副校長が残した鋭い冷気の間で、複雑な不協和音を奏でているのを感じていた。

 ──

「おったまげ〜!♡ あーし、完全復活よぉ〜!!♡」

 華爛寮の談話室に響き渡るジェーンさんの絶叫。
 夜の寮特有の、息を潜めたような静けさが、一瞬でラメと羽根と騒音に塗り替えられた。

 彼女はどこから取り出したのか、真っ赤な羽扇子をバサバサと振り回し、狭い談話室を所狭しと踊り狂っている。

「見て! このお肌のハリ! 過去の自分に圧倒的なマウントを取れるレベルのツヤツヤ感! フォー!!♡」

「……うぜぇ」

 ソファに座っている御剣くんが、心底嫌そうに顔をしかめた。
 僕も隣で苦笑いするしかない。

 さっきまでの『校長と副校長』のあの神聖で恐ろしい空気は、ジェーンさんのボディコンのラメに反射してどこかへ消し飛んでしまったらしい。

「御剣くん、大丈夫?」
「まぁな、傷は治ったんだが……なんか、身体の奥にまだ変な重さが残ってる感じでよ。まぁでももう平気だ!!」
 言ってから元気に立ち上がり、両手で力こぶを作ってみせる。

「おい、ギャルもどき! これから『華爛寮』に潜入すんだから少しは静かにしろよ! 目立って引きずり込まれても知らねーぞ!」

 御剣くんの鋭いツッコミに、ジェーンさんは空中でピタリとポーズを決めた。

「あらあら、メンゴメンゴ〜! あーしとしたことが、完全復活の喜びにハッスルしすぎちゃった。お口にチャック、マブダチの約束ね♡」

 そう言って唇の前でバッテンを作るけれど、羽根が舞い散る音だけで十分にうるさい。

「……それで、御剣くん。……その『華爛寮』の噂っていうのは……」

 僕が問いかけると、御剣くんはふっと表情を消した。
 談話室の蛍光灯が、一瞬だけチカッと瞬き、影が伸びる。

「……あそこには、開かずの扉があるんだ」
 御剣くんの言葉に合わせるように、談話室の空気がわずかに薄くなった気がした。

「女子寮として使われていた頃から、決して鍵が開けられなかった、その扉は地下へ続く扉と言われている。……そこには『選ばれなかった者たち』の溜息が溜まっているらしい」

 御剣くんの声が、一段と低く、おどろおどろしく響く。

「夜な夜な、その扉の向こうから、爪で板を引っ掻くような音が聞こえてくるんだよ。……『代わって』、『私と代わって』ってな。……一度でもその声に返事をしちまったら、……最後。……扉の向こう側と、自分の人生を、……丸ごと入れ替えられちまうんだってさ」
 両手の痣が、嫌な冷たさを伴って脈打ち始めた。

 華やかな「華爛寮」に眠る、持たざる者たちの呪い。
 談話室の奥の廊下から、誰もいないはずなのに、
 風もないのに、カーテンがわずかに揺れた。

 ジェーンさんが復活して賑やかになったはずなのに、
 僕の背中には、さっき副校長が残していった冷気が、まだべったりと張り付いている気がした。

 談話室の隅、古びた掛け時計が重苦しく時を刻む。
 ジェーンさんが振り回した赤い羽根が、まるで熱を失った火花のように、ゆっくりと床へ落ちていく。
「……入れ替わる……」
 僕の口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど乾いた音を立てた。
 両手の痣が、ドクン、と大きく脈打つ。それは「危険」を知らせる警告音というよりは、地下に眠る「誰か」の心音に、無理やり同期させられているような不快な感覚だった。
「……あきらっち、大丈夫ぅ? ……顔色が、あーしのファンデーションより白くなってるわよぉ」
 さっきまでハッスルしていたジェーンさんが、不意に真顔になって僕の顔を覗き込んだ。羽扇子を握る彼女の手が、微かに震えている。……最強の「ジェーン」であっても、この寮の底に溜まった呪いには、本能的な拒絶を感じているのかもしれない。
「……平気だよ、ジェーンさん。……行こう、御剣くん。……その扉が、どこにあるのか、まずは探さないと」
 御剣くんは無言で頷くと、談話室の明かりを背に、闇の深い廊下へと足を踏み出した。

 ──『代わって』

 空耳だろうか。
 ギィィ……と、古い床板が軋む音の合間に、かすかな、けれど執拗な「声」が混ざった気がした。
 華やかな「華爛寮」の皮を剥いだ先、光の当たらない地下の底で、僕たちを待っているのは、一体どんな「溜息」なのだろうか。
 副校長が残していった背中の冷気が、暗闇と同化するように、さらに深く沈み込んでいった。

 ──

「……待って、御剣くん」
 闇の深い廊下へ踏み出そうとした御剣くんの背中に、僕はそっと声をかけた。
 両手の痣が、冷たさの中に、どこか「喘ぐような」一定のリズムを刻み始めている。
「……どうした、あきら? ビビっちまったか」
「……ううん。……そうじゃなくて。……その怪談さ、……また本来あったものが、何かに歪められてる可能性……ないかな?」
 僕の言葉に、御剣くんが足を止め、怪訝そうに振り返った。
 ジェーンさんも、バサバサと動かしていた羽扇子を止めて、僕の顔をじっと見つめている。
「歪められてる……? どういう意味だ」
「……『代わって』っていう言葉。……それは、誰かの人生を奪いたいんじゃなくて……ただ、『外の空気を吸いたい』みたいな願いなんじゃないかって、……そんな気がするんだ」
 痣の拍動が、少しだけ速くなる。
 
「……さっき御剣くんが言っていた『溜息が溜まっている』っていうのも、……もし、そこから一歩も出られずに、……ただ、苦しい息を繰り返しているだけの人がいたとしたら……」
 脳裏に浮かぶのは、かつてこの華爛寮の一室に隔離されていた、身体の弱い誰かの姿。
 華やかな寮の賑わいから切り離され、地下に近い、陽の当たらない部屋で、ただ窓の外の景色を「代わって」見せてほしいと願っていた、誰かの孤独。
「……何かの理由で、外に出られない霊。……それが、いつの間にか『人生を入れ替える怪物』の噂に書き換えられてしまったんだとしたら……」
「……お前……」
 御剣くんが言葉を失ったように、僕を見つめた。
 
『……あきらっち、……あんたって人は、……本当に、……お人好しなんだから……』
 ジェーンさんが、少しだけ悲しそうに、けれど愛おしそうに目を細めて僕の肩に手を置いた。
『……でも、あーしはそういう「真実」の方が、……泥をかけたような怖いやつより、ずっと好きよぉ』
 廊下の奥から、再び、ヒュウ……と風が抜けるような音がした。
 それはもう、板を引っ掻く音には聞こえなかった。
 
 ……苦しい。……外へ、……行きたい。
 
 震えるような「呼吸」の残響。
 
「……行こう。……真実(そいつ)が何なのか、……確かめによ」
 御剣くんが、少しだけ優しくなった足取りで、再び歩き出した。
 副校長の残した冷気はまだ消えないけれど、僕の両手の痣は、「誰か」の呼吸に寄り添うように、静かに、温かな熱を帯び始めていた。