雪が降り始める前の、まだ刺すような寒さが始まったばかりの放課後。
生徒会長の身体を借りた僕は、旧館の裏手、吹き溜まりのような場所で足を止めた。
「……あ」
視界の先。数人の男子生徒に囲まれ、小突かれている少年がいた。
太郎さんだ。
彼は抵抗することもなく、ただ力なく笑いながら、地面に落ちた自分のカバンを拾おうとしていた。
小突いている連中に、悪意に満ちた『いじめ』の自覚はないようだった。ただの暇つぶし、反応の薄い置物を突いて遊んでいるような、無邪気で残酷な『いじり』
「やめろよ」
不意に、鋭い声が響いた。
割って入ってきたのは、陸上部のユニフォームの上からジャージを羽織った少年だった。
彼は迷うことなく太郎さんの前に立ち、僕たち(生徒会長)の方へも、怯むことなく真っ直ぐな視線を向けていた。
「何してんだよ。……嫌がってんだろ」
「えー? 別にいじめてるわけじゃないって。こいつも笑ってるし……なぁ、太郎?」
小突いていた一人が、同意を求めるように太郎さんを見た。
太郎さんは、引き攣った表情のまま、自分を削り取るようにヘラヘラと笑い続けている。
「……うん、……大丈夫。……怒ってない、から……」
「ほら、本人がそう言ってるぜ?」
その言葉を聞いた瞬間、陸上部の彼は、太郎さんの肩をグイと自分の方へ引き寄せた。
「──笑いたくないなら、無理に笑わなくていいんだ」
太郎さんの動きが、ピタリと止まった。
「嫌なら嫌だって言っていい。……自分を殺してまで、周りに合わせる必要なんてないんだよ。……分かった?」
太郎さんの瞳が、大きく揺れた。
自分でも気づかなかった「痛み」を、自分ですら無視していた「拒絶」を、たった今出会ったばかりの太陽のような人が、代わりに言葉にしてくれた。
……あ。
生徒会長の胸の奥で、微かな熱が走る。
規律と数字で学園を支配しようとしていた生徒会長にとって、その「理屈の通らない正義」は、あまりにも眩しくて、理解できない異物だった。
「……行こう。……既に問題は解決した」
生徒会長の喉が、冷ややかにそう告げた。
僕は彼の視界を通して、最後にもう一度だけ太郎さんを振り返った。
陸上部の彼に肩を抱かれ、初めて「笑うこと」をやめた太郎さんの瞳には、生まれて初めて灯った、熱い「憧憬」の色が混じっていた。
誰にも見向きもされない自分を、一人の「人間」として扱ってくれた、光。
その光が失われることが、太郎さんにとってどれほどの絶望になるのか。
僕は自分の両手の痣が、締め付けられるような痛みを発するのを感じて、奥歯を噛み締めた。
──
雪の匂いが鼻を突き、視界が白く染まる。
僕は「生徒会長」という高い視座の器の中から、この学園の、ある冬の放課後を見つめていた。
生徒会長の身体は、慣れた足取りで旧館の渡り廊下を歩いていく。
ふと、その視線が西館の男子トイレ付近で止まった。
「……あ」
心の中で、僕の声が漏れる。
窓の下、冷たいコンクリートの上に座り込み、小さな弁当箱を開けている黒髪の少年。
太郎さんだ。
一見すると、凍えそうな場所で独り寂しく食べているように見える。けれど、生徒会長の鋭い視界が捉えた彼の瞳には、悲壮感なんて微塵もなかった。
太郎さんは、食べている。
けれど、その視線はお弁当ではなく、ずっと遠く、雪が舞い始めたグラウンドの一点に釘付けになっていた。
そこには、あの陸上部の少年。
白い息を吐きながら、誰よりも速く、誰よりも力強くトラックを駆け抜ける一人の男子生徒がいた。
「……すごいなぁ」
太郎さんの唇が、音もなく動く。
彼が一口、卵焼きを口に運ぶ。それはまるで、遠くで光り輝く少年の「熱」を、自分の中に取り込んで、今日を生き抜くお守りにしているような……そんな、静かな儀式に見えた。
『見えるでしょう? 彼は孤独を楽しんでいるわけではない。……ただ、あの光の側にいたいだけなのです』
耳元で、校長の静かな声が響く。
太郎さんは、自分に自信がない。
自分は影のような存在で、あんな太陽のような人の隣に立つ資格なんてないと思い込んでいる。
だから、ここが「特等席」なのだ。
誰にも気づかれず、誰の邪魔もせず、ただあの人の眩しさを網膜に焼き付けることができる、西館の隅。
太郎さんが、自分の細い腕をさすりながら、小さく笑った。
あんな風に一生懸命な人がいる。それだけで、自分みたいな価値のない人間でも、明日も学校に来ていいような気がする——。
そんな、あまりにも慎ましくて、痛々しいほどの「勇気」が生徒会長の身体を通して僕に流れ込んできて、胸の奥がギュッと締め付けられた。
けれど。
幸せな観測者の時間は、あまりにも残酷に、唐突に終わりを告げる。
グラウンドで、鈍い音が響いた。
着地を失敗したのか、あの少年が激しく転倒し、そのまま動かなくなる。
駆け寄る部員たちの怒号。
「……ぁ……」
太郎さんの手から、お箸が滑り落ちた。
自分の光が、自分の希望が、音を立てて壊れていく。
真っ白な雪の上に投げ出された陸上部の彼を、太郎さんは、ただ震えながら見つめることしかできなかった。
──
西館、男子トイレの窓の下。
北風を避けるように、黒髪の少年がひとり、膝を抱えて座っていた。
(……太郎さん)
心の中でその名を呼ぶ。
そこにいたのは、今よりずっと幼くて、消えてしまいそうなほど線が細い、過去の太郎さんだった。
彼は小さな弁当箱を抱えながら、じっと一点を見つめている。
その視線の先。
放課後のグラウンドで、ひとりの男子生徒が松葉杖をつきながら、誰もいないトラックを呆然と眺めていた。
ジャージを羽織ったその背中は、二度と走れない絶望に打ちひしがれているように見えた。
「……走れなくなってしまったんだって」
太郎さんの唇が微かに動いた。
誰にも届かない、雪に溶けてしまいそうなほど小さな独り言。
「……笑ってほしいだけなのに。……俺、何もできない。……声もかけられないし、……俺なんか、いてもいなくても一緒だ……」
ギュッと、彼が弁当箱を握りしめる。
自分という存在の薄さに絶望しながら、それでも「誰かのために」と願う、あまりにも静かで、強烈な片想い。
その時、僕を乗せた生徒会長の身体が、吸い寄せられるように動き出した。
太郎さんの前に立ち、僕の意志と、生徒会長の喉が重なって、ひとつの言葉を紡ぎ出す。
「……君のその気持ちは、本物だよ」
太郎さんが、弾かれたように顔を上げた。
驚きと、怯え。そして、泥の中に差し込んだ光をすがるような、震える瞳。
「……誰かのために、何かをしたい。……その願いは、君だけの『真実』だ」
「……でも、……俺なんか、……影みたいに薄くて、……何にも持ってないんだ……」
「なら、変わればいい」
その瞬間、生徒会長の喉が、
僕の感情に焼かれるように震えた。
不意に、風が止まった。
しんしんと降り積もる雪の音さえ消えた、静寂の世界。
(生徒会長なら、こんな言葉は絶対に言わなかった。でも——)
「自分という殻を破って、『別の存在』になってもいいんだ。
君の願いが本物なら、その姿はきっと、誰かを救う光になる」
太郎さんの瞳が、大きく揺れた。
僕の胸から溢れた熱い言葉が、生徒会長の冷え切った喉を、無理やりこじ開けて出ていった。
「……別の、存在……?」
「そう。……君が本当に望む姿に、君自身が『なっていい』んだよ」
その瞬間、太郎さんの胸の奥から、
淡い、けれど確かな熱を帯びた光がふわりと立ち上った。
「——あの人に、もう一度……心から笑ってほしい」
それは、弱くて優しい少年が、
誰かのために初めて『自分を変えよう』と願った瞬間に生まれた、
世界でいちばん純粋な『最強の自分』。
後に『ジェーン』として世界を塗り替える存在の、たった一人のための、最初の産声だった。
『……見なさい。……これが、この学園で起きた最初の「奇跡」であり、……「歪み」の始まりでもある』
頭の奥で、校長の低い声が響く。
光に包まれる太郎さんの姿を見ながら、僕は自分の両手足の痣が、温かな涙のように熱を帯びるのを感じていた。
