放課後。約束したわけでもないのに、僕たちは吸い寄せられるように、旧館の奥深くにある「図書室」へ集まっていた。
カビ臭い紙の匂いと、埃の舞う静寂。
僕は、棚の隅で不自然に背表紙が剥げた一冊の「卒業アルバム」に、吸い寄せられるように手を伸ばした。
「……これ、……」
数年前の、色褪せた記録。
集合写真の端に、あの「地味な男子生徒」としての太郎さんが写っていた。
けれど、何かがおかしい。
他の生徒たちが一様にカメラを見つめ、不自然な笑顔を作っている中で、彼一人だけが、全く別の方向——「レンズの外側」にいる誰かを、縋るような、あるいは呪うような瞳で見つめていたのだ。
その時。
ザザ……ッ、と。
校内放送のスピーカーから、耳障りなノイズが溢れ出した。
『……全校生徒に告ぐ。本日は定時退校の日です。
学園の「整合性」を保つため、
生徒は速やかに帰りましょう』
「なんだ? そんなの聞いてねーぞ。おい、誰だ放送してんのは!」
御剣くんが天井を睨みつけた直後、図書室の重い扉が、音もなく開いた。
「お前ら、……深く知りすぎたようやな」
逆光の中に立つ、草薙先輩と稲垣兄弟の影。
稲垣先輩たちは、笑ってるのかも分からない細い目の奥で、僕たちを「物」みたいに眺めながら、無言で出口を塞いでいる。
草薙先輩の指先には、黒い墨のような泥が滴り、床をドロドロと侵食し始めていた。
「草薙、……それに稲垣兄弟まで。……わざわざお出ましか」
鏡宮くんが、持っていた本をパサリと閉じる。
玉響くんも、いつもの軽薄な笑みを消し、スマホを構えて一歩前に出た。
「あきら、……行け。……ここは俺たちが食い止める」
「……え!? でも──」
「いいから行けっつってんだろ! 案内人の『真実』を掴むのは、お前にしかできねーんだよ!」
御剣くんが僕の背中を、乱暴に、けれど力強く突き飛ばした。
「逃がさへんわ。──『偽画曼荼羅(ぎがまんだら):泥濘の化殻(でいねいのかけら)』」
草薙先輩が印を結んだ瞬間、図書室の空間が、グニャリと歪んだ。
「真実なんて泥みたいなもんや。
踏み潰して、好きな形にしたらええ」
棚も、本も、窓の向こうの景色も。全部が「黒い泥」で描かれたニセモノみたいに、どろどろに溶けて足元へ崩れていく。
僕の両手の痣が、悲鳴を上げた。
書き換えられる。
僕が救ったはずのピアノも、階段の足音も、ここでは「恐ろしい化け物の噂」へと強制的に戻されていく。
学園の「嘘」が、あきらの「真実」を飲み込もうとしていた。
「……っ、あきら! それを離すな!」
鏡宮くんが、空中に鋭い指の軌跡を描いた。
彼が作り出した「境界」の裂け目が、僕が抱えていた卒業アルバムを飲み込もうとする。
「……その記憶の『頁(ページ)』へ潜れ。彼が、……太郎さんが消される前の、本当の時間軸へ!」
「──っ、……みんな!」
振り返った瞬間、黒い泥の波が御剣たちを飲み込もうとするのが見えた。
けれど、僕はもう止まれなかった。
アルバムから溢れ出した白い光が、僕の意識を、数年前の「ある日」へと引きずり込んでいった。
──
澄んだ鈴の音で目を覚ますと、そこは上下も左右も分かちがたい、深い闇の底だった。
真っ暗な空間の真ん中で、白猫が静かに座り、金色の瞳で僕を見ている。
「……校長?」
『ようこそ、幼い子』
「っ……!?」
当たり前のように紡がれた人語。
あまりのことに僕は驚いて目を見開いた。けれど、校長ならそういうこともあるのかもしれないと、どこか妙に納得してしまう自分がいた。
『これから、貴方を過去の世界に連れて行ってあげる』
「な、なんで校長がそんなことを?」
『私は、過去も未来も知っているわ。……この静丘学園はね、行き場を失った者たちが、自分自身と向き合って、選択するために作られた場所なの』
「え……?」
『本来であれば、私はもっと後に貴方に会って、この真実を伝えるはずだった。でも、この学園に入り込んだ「悪意」がそれを歪めようとしている』
「悪意って……」
脳裏に、図書室で泥の波を操っていた草薙先輩や、冷徹な稲垣先輩たちの姿が浮かぶ。
けれど、校長は小さく首を振った。
『いいえ、彼らもまた、歪められてしまっただけよ。元凶は他にある……けれど、その名を呼ぶにはまだ早いわ』
『……安心なさい。貴方をここに送った彼らは、決して弱くはない』
校長の瞳が、闇の向こう側——今まさに戦っているであろう図書室の三人を映し出すように細められた。
『あの三人には、学園を守るための「守護者」としての力を預けてある。貴方が彼らを信じれば、彼らだってちゃんと戦える』
「守護者……御剣くんたちが……」
両手の痣が、校長の声に共鳴するように、静かで力強い拍動を繰り返している。
自分たちを「悪い先輩」だと思い込んでいる彼らの中にさえ、学園を護るための光が眠っている。その「嘘」を暴いて「真実」を取り戻すために、僕は先へ進まなければならない……なぜだかそう思った。まるで校長の思考が僕の脳内に流れ込んできたみたいに。
『さあ、行きなさい。……雪の降る、あの日の静丘へ』
校長が前足で空間を叩くと、闇がガラスのように砕け散った。
吹き込んできたのは、肌を刺すような冬の風と、しんしんと降り積もる雪の匂い。
──
雪の匂いが鼻腔をかすめた瞬間、僕の意識は、僕のものではない『誰かの身体』の中に深く落ちていった。
視界が、高い。
自分のものよりずっと長く、強そうな手足。
視線を落とすと、見覚えのない真っ白な学生服の袖口が、冬の風に吹かれて硬い音を立てて揺れている。
「……ここ、どこ……?」
声を出そうとしたけれど、喉は僕の意志とは無関係に、冷たく澄んだ空気を吸い込むだけだった。
『落ち着きなさい。これは『貴方の身体』ではないわ』
すぐ耳元で、校長の静かな声がした。
振り返って姿を探そうとしても、首ひとつ動かすことができない。僕はただ、この「白い服の少年」が見ている世界を、内側から覗き見ることしか許されていないのだ。
『今、貴方は「器」に乗っているだけ。……この白い学生服の少年……当時の生徒会長の視界を、一時的に借りているのよ』
「生徒会長……?」
『ええ。静丘学園の「表側」を司る者。……太郎とは、正反対の場所にいた少年ね』
白い学生服の胸元。そこには、今の学園では見たこともない、精緻な装飾の紋章が刻まれていた。高潔で、どこか近寄りがたい光を放っている。
その時、視界の端に、『地味な黒髪の少年』の姿が映り込んだ。
「……っ」
心臓が跳ねる感覚だけが、僕自身のものとして伝わってくる。
そこにいたのは、太郎さんだった。
でも、僕の知っている彼とは違う。
派手なジェーンでもなければ、あの空っぽな男子生徒でもない。
もっと幼くて、線が細くて……まるで背景に溶け込んでしまいそうなほど、弱々しく、誰にも気づかれないように肩をすくめて歩いている。
「……太郎さん……」
『見えるでしょう? 彼は「この時代」では、まだ「案内人」ではないの』
生徒会長の身体が、吸い寄せられるように、無言のまま太郎さんの方へ歩き出す。
雪を踏みしめる、ギュッ、ギュッという重い音だけが、誰もいない校庭に響いた。
『さあ、見なさい。……これが「彼が案内人になる前の静丘」……そして──』
校長の声が、少しだけ低くなった。
『貴方が「向き合わねばならない真実」よ』
