「な、なによあんた達……そ、それは──キャーッ!?」
夜の寮を切り裂いたのは、あまりにも切実な、ジェーンさんの悲鳴だった。
鼓膜にこびりつくその音に、僕は反射的にベッドを飛び出した。心臓が早鐘を打ち、喉の奥が引き攣れる。パジャマのまま裸足でドアを蹴り開け、声のした廊下へと駆け出した。
「ジェーンさん!?」
叫びながら、声のした角を曲がる。
けれど、そこに広がっていたのは、耳が痛くなるほどの「静寂」だった。
誰もいない。
窓から差し込む青白い月光が、無機質な廊下を冷たく焼き付けている。
争った形跡も、誰かの足音の残響すらない。ただ、空気だけが異常に冷え切り、不自然なほどに「清浄」だった。
その真ん中に、ぽつんと、場違いな落とし物があった。
「……あ」
ピンク色の羽扇子。
さっきまで、あきらっち!と叫びながら世界をダンスフロアに変えていたあの色彩は、今はもう、ただの色褪せたゴミのように転がっている。
羽の一枚一枚が、魂を抜かれたように力なく伏せていた。
「……ジェーン、さん?」
震える声で呼びかけても、言葉は廊下の吸音材に吸い込まれるように消えていく。
暗闇の奥から返ってくる『答え』はどこにもない。
何が起きたのか、誰が彼女を連れ去ったのか。
それを誰も教えてくれないことこそが、この学園の「マナー」なのだと言わんばかりの、拒絶。
両手の痣が、氷を押し当てられたような鋭い痛みを放った。
不協和音ですらない。それは、大切な旋律がぷつりと途切れた後の、不気味な空白の音だった。
僕は膝をつき、彼女が命よりも大切にしていたその扇子を、汚さないように両手で拾い上げた。
まだ微かに残っているかもしれない温もりを探したけれど、指先に伝わってきたのは、夜の底のような冷たさだけだった。
手のひらに残る、軽すぎる羽の重み。
それが、彼女という強烈な個性がこの場所に存在した、唯一の「記録」になってしまった。
「……嘘、だよね」
僕は扇子を胸に抱きしめ、誰もいない闇を見つめた。
案内人を失った僕の前に、学園の夜が、底なしの口を開けて笑っているような気がした。
──
翌日の昼休み。
窓から差し込む陽光は驚くほど穏やかで、教室には平和な、けれどひどく退屈な喧騒が満ちていた。
「……でさ、あきら。今日の購買、デラックスメロンパン争奪戦ヤバかったぞ。一組の連中がスクラム組んでやがんの。信じられるか?」
御剣くんが、金猫シールのついたパンの袋を破りながらいつもの調子で僕に喋りかけてくる。
鏡宮くんは、相変わらず一人で席に座り、ページを捲る音さえ立てずに読書に耽っている。
玉響くんは、時折スマホの画面に目を落としながら、他の生徒たちの輪の中で器用に笑い声をあげていた。
どこを見ても、昨日と変わらない光景。
けれど、僕の視界だけが、あちこち欠け落ちたパズルみたいに歪んで見えた。
「……」
カバンの中には、昨夜拾い上げたあの扇子が眠っている。
指先に残る、あの冷え切った羽の感触。
それだけが、昨夜の悲鳴が幻ではなかったことを証明する唯一のしるしだった。
「……ジェーンさん、今日どうしてるかな」
僕がぽつりと漏らした言葉に、御剣くんがモグモグと口を動かしながら顔を上げた。
「ん? あのギャルもどき? あー……今日はまだ見てねーけど。あいつのことだ、どっかの個室で鏡と格闘でもしてんじゃねーの?」
御剣くんの声に、悪気はない。
けれど、その返答には昨日までの「ソウルメイト」に向けられていたはずの体温が、どこか削り取られているような、奇妙な違和感があった。
僕は、食堂で汲んできたお茶を一口飲んだ。
……苦い?
いつもと変わらないはずの緑茶なのに、舌の奥が痺れるような、不快な苦みが広がった。
まるで、この場所にあるものすべてが、僕を拒絶しているみたいに。
「……ちょっと、見に行ってみる」
僕は食べかけの昼食を片付け、椅子を引いた。
「おい、あきら? メロンパンの耳いるか? って言おうとしたのに……」
背後で御剣くんが何か言っていたけれど、今の僕には、昨夜の静寂が耳の奥で鳴り続けていて、それどころではなかった。
両手の痣が、微かな、震えるようなリズムを刻む。
探しに行かなきゃ。
あの子たちの「足」が、僕の知らないどこかへと急かしている気がした。
──
西館の、あまり人の来ない男子トイレ。
湿った空気と洗剤の匂いが混ざり合う中、御剣くんが「お、いるみたいだぞ」と一番奥の個室を指差した。
コン、コン。
返事を待たずに御剣くんがドアを無造作に開ける。
そこには——。
狭い個室の蓋に腰掛け、膝の上でお弁当を広げている、一人の男子生徒がいた。
黒髪はひどく乱れた寝癖のまま。
サイズの一回り大きな制服をだらしなく着崩して、昨日のあの、空間を圧するような派手さは微塵も感じられない。
でも。
「……ジェーンさん?」
僕が絞り出すようにその名を呼ぶと、彼は重たそうに箸を止め、光の消えた瞳でこちらを振り返った。
「ん? ……誰?」
その声は、地鳴りのようなハリも、艶やかな響きも失われていた。
ただ低くて、平坦で、どこまでも「普通」の、聞き流してしまいそうな少年の声。
けれど、こちらを見つめる瞳だけは、昨日のあの色だった。
深く、透き通るような、緑色の——。
「昨日も……会いましたよね? 廊下で」
「昨日? ……あー。……なんか、廊下で寝てた気もするけど。……よく覚えてないや。……眠かったし」
彼はそう言って、またお弁当に視線を落とした。
そこにはジェーンとしての記憶も、自分を「あーし」と呼ぶ誇り高い口調も、僕を『ソウルメイト』と呼んで笑ったあの熱量も、何一つ残っていない。
ただ、市販のものらしい黄色い卵焼きを、もぐもぐと無心に食べているだけ。
クチャ、という咀嚼音だけが個室に虚しく響く。
僕の両手の痣が、鋭く、悲鳴のような不協和音を刻んだ。
目の前にいるのは、間違いなく「彼」なのに、僕が知っている「彼女」はどこにもいない。
無理やり奪われたことよりも、本人がそれを「なかったこと」として平然と受け入れているその落差が、昨夜の悲鳴よりずっと、ずっと怖かった。
彼の無垢で、空っぽな視線に、僕は足元が崩れ落ちるような眩暈を感じた。
胸の奥で、昨日の悲鳴だけがひどく鮮明に蘇った。
──
どうしたらいいのか、分からなかった。
西館のトイレを後にして、冷たい廊下をとぼとぼと歩く。
案内人がいない。
七不思議へと続く、あの独特のノイズに満ちた道標が見当たらない。
昨日まで、当たり前のように隣で「おったまげ〜!」と騒いでいたあの派手な『声』が、今はどこを探しても聞こえてこない。
「……どうしたら……いいんだろう」
思わず漏れた僕の弱音に、隣を歩く御剣くんが、食べ終えたメロンパンの袋を無造作に丸めながら言った。
「いや、普通に行けばいいだろ、七不思議のとこ。案内人がいなくたって、場所さえ分かってりゃ今まで通りやりゃいいんじゃねーの?」
その楽観的な言葉を遮るように、静かな、けれど拒絶に近い声が割り込んだ。
「……それでは、ダメだ」
いつの間にか、廊下の陰に鏡宮くんが立っていた。
読み終えたばかりの本を指先で閉じ、冷徹なまでに静かな瞳でこちらを見つめている。
「案内人は『ただのガイド』じゃない。あきら、君と七不思議という異界を繋ぎ止めるための『媒介』でもあったんだ。案内人がいない君は、七不思議にとって『ただの無害な一人の生徒』だよ」
続いて、背後からスッと玉響くんが現れた。
手元のスマホの画面を消し、ポケットにしまい込みながら、困ったような、けれど楽しんでいるような笑みを浮かべる。
「そゆこと。案内人が消えたってことは、七不思議への『ルート』が断たれたってことだよ。あきらくんは今、この巨大な学園の中で完全に『迷子』なんだ」
「迷子……?」
「うん。七不思議はね、『あきらくん個人』に反応してるんじゃない。案内人が引きずる『影』と、その案内人が導いた『場所の因縁』に反応してたんだよ」
鏡宮くんが、一歩前に出て深く頷く。
「媒介を失った今の君は、七不思議から見れば『ただの生徒』に過ぎない。案内人がいなければ……七不思議の側から君を見つけることは、もう二度とないだろう」
胸の奥が、氷を流し込まれたようにひどく冷たくなった。
僕が持っている両手と両足の力だけでは、扉を開けることすら叶わないというのか。
「……じゃあ、僕は……どうすれば……」
「──調べるしかないな」
鏡宮くんの眼鏡の奥で、鋭い光が走る。
「あの『太郎』という少年が、一体『どこから来たのか』。……どうして、彼が『案内人』にならざるを得なかったのか。その根源(答え)は——」
「図書室にあるよ」
玉響くんが、僕の肩にポンと手を置き、悪戯っぽく微笑んだ。
「図書室の奥底なら、まだ眠ってるはずだよ。
……あきらくんが触るのを待ってる『ページ』がね」
両手の痣が、誘われるように小さく脈打った。
案内人を失った僕の「四つ目」への挑戦は、この静丘学園の過去と向き合うことから始まる。
──ページの向こう側で、誰かが僕を待っている気がした。
