校庭の真ん中。
僕と香取先輩の周囲で、雨が物理法則を無視した形で弾け飛んでいる。
「……お前の中の『あいつら』、さっきまで泣きそうな音してたけど……今は笑ってるな」
先輩が走りながら、低く掠れた声で呟く。
四足歩行のような姿勢で地面を蹴る先輩の動きは、水の上を滑るアメンボのように滑らかだ。対する僕は、足の裏から伝わる「彼ら」の歓喜のリズムに突き動かされ、泥を跳ね飛ばしながら一歩ずつ深く地を蹴る。
「……香取先輩が、付き合ってくれてたからだと思います。……先輩が走ってくれなきゃ、あの子たち、自分の足の速さを知ることもできなかった」
「……俺は、ただ……寝苦しいから、濡れてただけ……」
先輩らしい不器用な言葉。
でも、その瞳はしっかりと、僕のすぐ後ろを走る「光の粒」たちの軌跡を追っていた。
「おったまげ〜!! ちょっと二人とも、早すぎてあーしのつけま(つけまつげ)が、取れそうな勢いなんだけど〜!♡ 」
後ろから、裸足で泥だらけになりながらも羽扇子を振り回して追いかけてくるジェーンさんの叫び声が聞こえる。
御剣くんも、肩で息をしながら「……お前ら、自由すぎんだろ!」と呆れたような、でもどこか嬉しそうな声を漏らした。
その時。
ピチャッ。
僕の頬に、雨とは違う、粘り気のある何かが当たった。
空を見上げると、厚い雲の隙間から、まるで「目」のような形をした黒いノイズが僕たちを覗き込んでいる。
『……残念だ。……せっかく面白い「怪談」に育てていたのに……』
どこからともなく、あの不快な声がノイズ混じりに響く。
彼らにとって、怪異が救われることは、自分たちの支配する「情報の庭」を荒らされることと同じなのだ。
「……あきら。……ノイズが、うるさいな……」
香取先輩が、不意に足を止めた。
止まった、というより、周囲の「水」を味方につけて、一瞬で慣性を殺したのだ。
「……一発、デカいの……かましたくなってきた」
先輩のジャージの下で、膨大な「怠惰」の蓄積(エネルギー)が、初めて攻撃的な熱を帯びた。
「……もっと……速くしたいんだろ……?」
並走する香取先輩の声が、雨音の向こうから響く。
先輩のフォームはさらに低くなり、水面を滑るような非人間的な加速を見せる。僕の脚は悲鳴を上げそうになるけれど、内側から溢れる「あの子たち」の歓喜のリズムが、痛みを熱狂に変えていた。
「おったまげ〜! あきらっち、本気の見せ所よ!♡ 」
後方からジェーンさんの叫び声が響いた。
彼女がバサリとジュリアナ扇子を振るうと、泥だらけの校庭に、不釣り合いなほど眩しい「キラキラのラメ」が、魔法みたいに降り注いだ。
「怪異のルールは信じたもん勝ち! あーしのキラキラで、その『音』と『足』まとめてブーストしなさい! ぶちかまし時よーー!!」
ジェーンさんの放った光の粒が、僕の両手の痣と、今の僕の足を動かしている光の粒に共鳴する。
タッタッタッタッタッ!!
指先のリズムが脚の回転に直結した。
僕の周囲だけ、雨粒が音符のように空中で静止した気がした。
学園を覆う「不気味な噂」というOSを、僕の奏でる「純粋な疾走の音」が上書きしていく。
「……っ、あああああ!」
僕は一気に地面を蹴った。
水飛沫が光を反射して、泥濘の校庭がまるでダンスフロアのように輝く。
横を走る香取先輩の、驚きに見開かれた瞳を追い越し——。
僕は、校庭の端にある「ゴールライン(かつての白線の跡)」を、誰よりも速く駆け抜けた。
その瞬間。
ピタリ、と。
世界から音が消えた。
空を覆っていた重苦しい雨雲が、嘘のように中央から割れていく。
差し込んだ一筋の陽光が、泥だらけの僕の肩を温めた。
「……はぁ、……負けた。……なかなか、やるな」
後ろを振り返ると、香取先輩が水溜まりの中に大の字に寝転がっていた。
四足歩行の怪物じみた気配はどこにもない。雨に濡れたジャージを重そうに纏い、いつもの眠たげな、やる気のない「ナマケモノ」に戻っている。
「……あきら。……お前の音……寝心地、いいぞ……」
先輩はそう呟くと、陽だまりの中で本当にスースーと寝息を立て始めた。
「も〜! マジおったまげ〜!♡ あーしのメイク、完全に崩壊しちゃったじゃないの!」
泥だらけでパンプスを片手に持ったジェーンさんが、プンプン怒りながらやってくる。でも、その表情はどこか満足げだ。
「……あきら、大丈夫か?」
御剣くんが駆け寄り、僕の肩を支えてくれた。
僕の脚からは、いつの間にか「光の粒」が抜けて、穏やかな温もりだけが残っている。
「……うん。……あの子たちも、満足してくれたみたいだ」
空は青く、澄み渡っている。
僕が預かったこの「音」と「熱」は、きっと先輩を繋ぎ止めるための、少しだけ強い「錨」になってくれる。
──
雨上がりの陽光が泥濘を照らし、校庭にはあきらたちの安堵した笑い声が微かに響いている。
だが、その光景を遥か高みから見下ろす、冷ややかな二つの視線があった。
本館の屋上。湿った風が吹き抜ける中、手すりに背を預けた草薙が、細めた目の奥で愉悦を光らせた。
「……あれが、この学園の力か。……取る価値はあるようやな」
双眼鏡を回す指を止め、草薙が低く呟く。その隣では、稲垣(弟)が退屈そうにスマホの画面をなぞりながらも、口角だけを僅かに吊り上げていた。
「タヌ先輩、本当にやるのぉ。あんな得体の知れない力、制御できると思ってるぅ?」
弟の問いには、危うい遊びを楽しむような毒が混じっている。
「雨の日の香取をねじ伏せる力やぞ。使いようによっちゃあ、天下だって容易く取れるわ。……この静丘学園を、ただの箱庭で終わらせるつもりはないんや」
草薙の言葉は、確信に満ちていた。
恐怖の噂を流し、怪異を歪め、その反動で生まれる強大な力を自分の手中に収める。あきらが「錨」として育てようとしているその音を、彼は「武器」として研ぎ澄まそうとしているのだ。
「──それは魅力的だね」
二人の背後。
影の中から、スッと一歩前に出たのは稲垣(兄)だった。
微笑んでいるようにも見える細められた瞳の奥で、彼は校庭のあきらを、まるで見慣れない標本でも眺めるかのように冷徹に射抜いている。
「……ようやくお出ましか。お前さんも、あの『音』が気に入ったか?」
草薙の問いに、稲垣(兄)は直接答えず、ただ静かに校庭のあきらを見つめ続けた。
「……噂が形を作るのが鉄則なら、あきらが作る『新しい噂』もまた、利用価値があるということだ。……徹底的に、踊ってもらおうじゃないか」
空はどこまでも青く、澄み渡っている。
けれど、学園を覆う見えない網は、より細く、より強固に、あきらと眠れる先輩を絡め取ろうとしていた。
──
その夜、僕は寮のベッドに倒れ込むようにして眠った。
身体は疲れているのに、頭の奥だけがざわざわと騒がしくて、
眠りに落ちる瞬間、どこか遠くへ引っ張られるような感覚があった。
──春の光。
真新しい制服。
そして、見上げるほど背の高い『彼』の影。
『……先輩!』
呼びかけると、彼はゆっくり振り返った。
逆光で表情は見えないのに、
声だけは驚くほど優しくて、胸の奥が温かくなる。
『──先輩だなんて、気恥ずかしいな。入学おめでとう』
『……』
ただ、当たり前のように僕の頭に手を置き、
ずっと前から僕を知っていたみたいに微笑んだ。
『静丘学園はいいところだよ。広いし……なんでもある』
『なんでも?』
『うん。君が探しているものも、きっと』
その続きを、彼は言わなかった。
でもその沈黙が、なぜか胸に引っかかった。
『……僕、ここで何をすればいいんだろう?』
『何をするかも、これから見つければいいんだ』
差し出された手を、僕は迷わず握った。
その瞬間の温もりが、
今も両手の奥に残っているような気がした。
『──さあ。君の「新しい居場所」を案内するよ』
──
ドスッ。
「……っ!? うぐっ……!」
お腹に突然の衝撃。
僕は反射的に身体を起こした。
視界の端で、白い影がもぞりと動く。
「……校長?」
白猫の校長が、僕の胸の上にちょこんと座り、金色の瞳でじっと覗き込んでいた。
僕が起きたことを確認すると、
校長はふいっと身を翻し、
ドアの前まで歩いていく。
カリ、カリ、カリ。
前足でドアを引っかく。
──外に出たいらしい。
「……はいはい。今、開けます」
僕がドアを開けると、
校長は音もなく廊下へ消えていった。
その背中を見送ってから、
ふと、胸の奥がざわりとした。
「……あれ? 校長……どうやって僕の部屋に入ったんだ?」
鍵は閉めていたはずだ。窓も、カーテンも、隙間なく。
けれど、
白猫の校長はまるで「最初からそこにいた」みたいに、僕の部屋に現れた?
夢の残滓がまだ両手にまとわりついている。
あの春の日の声と、
校長の金色の瞳が、
どこか同じ方向を指しているような気がした。
