静丘学園異常事象記録


「御剣くんは、南館の階段に関する怪談って何か知ってるの?」
 御剣くんは、僕の真剣すぎる横顔に少し毒気を抜かれたのか、肩をすくめておどけた声を出した。
「……南館の階段の怪奇現象? あー、あるぜあるぜ。あそこは昔から、学園でも有数の『出る』スポットだからな」
 彼は南館へと繋ぐ薄暗い渡り廊下で、窓を叩く雨音に合わせて、指を一本ずつ立てながら語り始めた。
「いいか、あきら。まず一つ。『雨の日に階段を上ると、下から冷たい手で足首を掴まれる』一度掴まれたら最後、階段の下まで引きずり込まれるんだとさ。……ひゃあ、怖え!」
 御剣くんは自分の足首を掴むジェスチャーをして、わざとらしく身震いしてみせる。
「二つ目。『誰もいない踊り場に、べったりと濡れた足跡が増えていく』上に行けば行くほど、その足跡は新しくなって……最後には自分のすぐ後ろに並ぶんだ。……で、三つ目。これぞ定番、『上っても上っても、なぜか同じ階の踊り場に戻ってくる』っていう無限階段の噂な」
 彼は楽しそうに、スマホのライトを自分の顎の下から当てて、お化け屋敷のガイドのような顔を作った。
「四つ目は、『階段の途中で、知らない誰かの声に名前を呼ばれる』。そこで返事をしちまうと、その瞬間に自分の『居場所』を奪われるらしい。……最後は、一番ベタなやつ。『昔、あそこで足を滑らせて落ちた生徒の霊が、今も仲間を探して彷徨ってる』……どうだ? ゾクゾクするだろ?」
 御剣くんは「うらめしや〜」なんて言いながら笑ったけれど、その瞳の奥には、冗談で塗り固めきれない微かな強張りが張り付いている。
「……全部、いかにも学校の怪談だね」
「おうよ。所詮は暇なモブどもが、昼休みの暇つぶしに盛ったデタラメだ。……だいたい、足跡が増えるなんて、単に雨漏りしてるか、誰かの靴が濡れてるだけだろ? 幽霊だって、そんな階段で律儀に待機してるほど暇じゃねーっての」
 ハハハ、と彼は声を上げて笑った。その笑い声は、静まり返った南館の入り口で、ひどく虚しく響く。
「……でもさ、御剣くん。その『デタラメ』の中に、一つだけ本物が混ざってるとしたら?」
「……おい、縁起でもねーこと言うなよ」
 御剣くんの笑いが止まる。
 僕たちは、南館の一階、古びた木製の階段の前に辿り着いた。
「……行こう。……何が『本物』なのか、確かめなきゃ」
 僕は、御剣くんが冗談めかして言った「幽霊のいる階段」に、一歩、足を踏み出した。

 僕が意を決して一段目を踏みしめた、その時。
「ちょっとあんた達〜! あーし呼ぶの忘れてない!?」

「「はぁっ!?」」
 背後から響いた、地鳴りのような(でも異様に高い)声に、僕と御剣くんは文字通り飛び上がった。

 振り返ると、そこには階段の入り口を塞ぐように、金髪巻き髪を激しく揺らしたジェーンさんが立っていた。羽扇子をバサバサと仰ぎ、肩パッドがさらに強調されたようなシルエットで、こちらを睨んでいる。

「ジェ、ジェーンさん!? なんで南館に?」
「なんでって、あーしとあきらっちはもうソウルメイトだし! 呼ばれたらどこにだって緊急出動出来るんだから! ただし学園内オンリーって事と、ド深夜は避けてよね〜。あーし、お肌のゴールデンタイムだけは死守したい派なの〜♡」

「……誰も呼んでねーよ! てか、さっき呼びに行った時は個室で『お色直し』って言ってたじゃねーか!」
 御剣くんの真っ当なツッコミを、ジェーンさんは羽扇子の一振りで一蹴した。
「あらやだ、お色直しなんて5分で終わらせるのが一流のギャルの嗜みでしょ? それよりあきらっち、見てよこれ。この階段の『演出』、マジでセンス疑うわ〜」
 ジェーンさんは、階段に続く「濡れた足跡」を、汚いものを見るような目で指差した。
「……これ、噂が形になり始めてるんだよね?」
「そゆこと♡ でもねぇ、誰かがこの噂を意図的に『上書き』してんのよ。あーしたち怪異のピュアな存在感を、もっとドロドロした、趣味の悪い何かにね」
 ジェーンさんは不意に声を低くし、僕のポケットの中の手を、厚化粧のまぶたを細めて見つめた。
「……あきらっち。手の具合はどう? 怪異に近付くとその手に宿る『音』も反応していくわ。……階段を上るなら、あーしがガードしてあげる」
 ジェーンさんは「行くわよ!」と僕の腕をつかむなり、そのまま階段を上り始めた。
 御剣くんが「おい! 俺を置いていくなよ!」と慌てて後を追う。

 ドスッ、ドスッ。
 ジェーンさんのヒールの音が、不気味な足音のリズムをかき消していく。

「ちょっと、あんた達! あれ見なさいよ! 窓の外!」
 二階の踊り場で、ジェーンさんが羽扇子をピシャリと閉じて校庭を指差した。

「え? 誰か、走ってる?」
 御剣くんが窓にしがみつく。
 激しい雨に煙る校庭。そこには、巨大な「何か」が、水溜まりを爆発させるような勢いで疾走していた。

「……あれって、もしかして香取先輩?」
 僕の目が、その姿を捉えた。

 普段は教室の片隅で、ナマケモノのように微動だにせず、重い瞼を閉じているはずの香取先輩。
 けれど今の彼は、ジャージを雨で肌に張り付かせ、 四足歩行に近い、獣みたいな独特のフォームで、ぬかるみを爆発させながら、重戦車みたいな速度で突き進んでいる。

「嘘だろ!? 香取先輩って、校内一の『省エネ男』だろ? 廊下歩くのも5分かかるって噂の──」
「おったまげ〜! あんた、ナマケモノが泳ぐと意外と速いの知らないの!?♡」
 ジェーンさんが、バサバサと扇子を振り回しながら叫ぶ。

「あいつ、水に濡れると筋肉のロックが外れる体質なわけ! しかも見てよ、あの後ろの『子ら』を!」
 香取先輩の影にぴったりと張り付いて、必死に食らいつく「濡れた足跡」の主たち。
 彼らは、おそらくかつて走りたくても走れなかった、未練の塊のような怪異だ。
 誰よりも速い相手と走りたい——。その純粋な願いに、香取先輩が「怠惰」を投げ打って応えている。
「……でも、なんか変だよ。あの子たちの足、あんなに苦しそうに歪んでる」
 僕の言葉に、ジェーンさんが忌々しそうに舌を打った。
「そゆこと! 誰かが、あの純粋な『かけっこ』を、無理やり『呪いの足跡』って噂に書き換えてんのよ! だからあの子たち、走りたくて走ってるのに、周りからは恐怖の対象にされちゃって……マジ、ギルティなんだけど〜!」
 本来なら微笑ましいはずの競争が、学園の「怪談化」のせいで、禍々しいオーラを纏ったデスレースに変えられている。
「……あの子たちが、悲鳴を上げてる。なんとかしないと──」
「おい、あきら! あのスピードに巻き込まれたらタダじゃ済まねーぞ!」
「あきらっち、マジでソウルメイトすぎる〜!♡ こうなったらあーしも、ウォータープルーフの意地を見せてあげるわ! おったまげ・泥泥(どろどろ)レースの始まりよ〜!」
 ジェーンさんがヒールを脱ぎ捨て、裸足で階段を駆け下りようとする。

「待って、御剣くん。……ジェーンさん。まずは、この場所の本当の怪異を知らないといけない」
 僕は校庭へ飛び出そうとする二人を制し、二階の踊り場で足を止めた。
 窓の外では、香取先輩が猛スピードで雨飛沫を上げている。けれど、この階段にこびりついている「気配」は、そこに取り残されたように重く、湿っていた。

 ペタ……。ペタ……。

 僕のすぐ目の前。
 何もないはずの床に、じわりと濡れた足跡が浮かび上がる。
 それは御剣くんが言った「這い寄る恐怖」なんかじゃない。
 震える足取りで、何度も、何度も、一歩を踏み出そうとしては崩れ落ちる……そんな、幼い足掻きのリズムだ。

「……あきらっち、気をつけて。あの子たち、本当は走りたいだけなのに、誰かに『足を奪う怪物』って役割を押し付けられてパニくってるのよ」
 ジェーンさんが羽扇子を握りしめ、珍しく真剣な表情で僕の背後に立つ。

「……大丈夫だよ。……僕にはわかるから」
 これは、スタートラインに立てない焦燥の気持ち。

「……ねぇ。君たちは、誰かの足を奪いたいわけじゃないよね。違うかな?」
 ただ昔みたいに地面を踏みしめて、思い切り走りたいだけなんじゃないか。

 怖いと思ったら怖い存在としか見られない。
 彼らには彼らの理由があって、そこにいないといけない理由、そこにいたい理由があるんじゃないかと思った。

 ──理解するには、対話をするしかない。

 僕は、足跡が途切れている空間に向かって、静かに語りかけた。
 
「……あの雨の中を、香取先輩みたいに、誰よりも速く。……でも、みんなが君たちを『怖いもの』だって噂するから……自分の足が、重くなっちゃったんじゃない?」
 足跡が、ピタリと止まった。
 
 シュウ……と、足跡から黒い霧のような「ノイズ」が立ち上る。
 それは誰かがが塗り込めた、悪意ある怪談の残滓(ざんし)だ。
「……あきら、それ──」
 御剣くんが息を呑む。
 僕の指先から溢れた「ピアノの音」が、その黒いノイズを一つずつ弾き飛ばし、透明な旋律へと変えていく。
 
「君たちの足は、もう誰にも縛られてないよ。
 ──良ければ僕の足を貸すよ」
 その瞬間。
 階段を埋め尽くしていた「濡れた足跡」が、弾けるような光の粒に変わった。

 光の粒は、僕の足元に吸い込まれるように集まり、ふわりと消えた。
 直後、僕の脚の感覚が、一瞬だけ「自分のものではない」何かに書き換えられる。
 ドクン、と。
 心臓の鼓動とは別に、土踏まずのあたりで熱いリズムが跳ねた。
 
「あきら、お前……」
 御剣くんが驚愕の声を上げる。
 僕の足元から、シュウシュウと白い湯気のようなものが立ち上り、雨に濡れたローファーが、一瞬だけ陸上競技用のスパイクのような鋭い音を立てて床を鳴らした。
「おったまげ〜……!♡ あきらっち、アンタ正気!? 怪異を自分に『憑依』させちゃうなんて、マジでソウルメイト超えてマブダチの領域よ!」
 ジェーンさんが羽扇子で口元を押さえ、感心したように目を丸くした。
「……重くない。……むしろ、羽が生えたみたいに軽いんだ」
 僕は一歩、踏み出してみた。
 ただの歩行のはずなのに、景色が後ろに飛ぶ。
 かつてこの学園で、走りたくても走れなかったあの子たちの「願い」が、僕の脚の筋肉にダイレクトに流れ込んでくる。
「……行こう。……あの子たちの『行きたかった場所』まで、僕が連れて行く」

 タッタッタッタッ!!

 僕は一気に階段を駆け下りた。一歩の歩幅が、これまでの倍以上に伸び、重力が消えたような錯覚に陥る。
 南館の出口を蹴り開けると、そこは激しい雨が叩きつける校庭だった。
「待て、あきら! 速すぎんだろ!」
 御剣くんが慌てて追いかけてくるが、僕の加速はもう止まらない。
 泥濘(ぬかるみ)に足を踏み入れた瞬間、水飛沫が翼のように左右に広がった。
 前方の霧の向こう、四足歩行の怪物じみた速度で走る香取先輩の背中が、みるみるうちに近づいてくる。
「……香取先輩!」
 僕の声に、水飛沫を上げていた「怠惰の暴走」が、わずかに速度を緩めた。
 
「……あきら、か。……いい脚、持ってるじゃん……」
 雨に濡れた前髪の間から、香取先輩の微睡むような、けれど鋭い瞳が僕を射抜く。
 僕の中にいる「彼ら」が、歓喜の声を上げるように脚を震わせた。

 ぬかるみに足を踏み入れた瞬間、水飛沫が翼のように左右に広がった。
 叩きつける雨が視界を白く染めても、僕の心は驚くほど澄み渡っている。

 ここからは、呪いの怪談じゃない。
 ただの、純粋な競争だ。