翌朝。
教室の窓から差し込む朝日は、昨夜の狂気を忘れさせるほどに穏やかだった。
「おーい、あきら。生きてるかー?」
御剣くんが、盛大に欠伸をしながら隣の席に座る。案の定、目の下にはしっかりクマができていた。
「……宿題、ちゃんと終わったの?」
「聞くなよ。……それより、お前の手……」
御剣くんが僕の手元をチラリと見る。
朝の光にさらされた僕の両手は、どこからどう見ても普通の高校生の手だ。
けれど、僕は無意識に、その手を制服のポケットの中に隠した。
「大丈夫。……今は、なんともないから」
「そうか。……ならいいんだけどよ。……あ! 忘れてた!」
御剣くんが、スマホを慌てて取り出した。
「おーい」
廊下から声がかけられる。視線を向けると稲垣先輩たちが僕を見ながらひらひらと手を振っていた。
「ほら、これ」
「あげるよぉ」
僕の手の上にのせられたのは、購買部早朝時間帯限定のおいなりさん。葉っぱのシール付き。
その時、教室内の一角から、ひときわ高い、けれど押し殺したような小さな悲鳴が上がった。
視線を向けると、窓際の女子生徒たちが、廊下の方を見て頬を染め、互いの腕を掴み合って身を悶えさせている。
「なんか厄介事に関わってるでしょ」
「ほどほどにしときなぁ」
狐っぽい雰囲気の稲垣先輩たちは、何かと僕のことを気にかけてくれる。
「おいお前ら、いつまで油売っとんねん。はよう教室向かうぞ」
低く、どこか湿り気を帯びた関西弁が廊下に響く。
稲垣先輩たちの背後から現れたのは、彼らより一回り背が低いのに、仕立てのいい制服を完璧に着こなしたその男子生徒——。
草薙先輩。
狸を思わせる愛嬌のある顔立ちなのに、彫刻のように整ったその美貌は、彼がただ歩くだけで周囲の空気を吸い寄せ、クラス中の女子の視線を釘付けにしていた。けれど、その三白眼気味の瞳には、自分以外のすべてを「出来損ない」と断じるような、冷たい傲慢さが宿っている。
「あ、タヌ先輩。おはよぉ」
「ごめんねぇ、この子らがちょっと面白くて」
「面白い? どのツラ下げて言うとんねん。こんな得体の知れんモンに構うて、自分らの格まで落としたいんか? ……情けをかける相手は選べ言うたやろ。時間の無駄や」
草薙先輩は、ポケットに手を突っ込んだままの僕を、上から下まで値踏みするように一瞥した。そして、僕の手元に視線を止めると、心底不愉快そうに口角を歪める。
「……へぇ。自分、隠しとるつもりなんやろうけど、指先からえらい『安い音』漏れとんで。……調律やなんや知らんけど、化け物のご機嫌取りして悦に浸っとるんか? ……反吐が出るわ。安モン同士、仲良う壊れとき」
彼はそれ以上僕たちを視界に入れることすら拒むように、踵を返した。去り際に、僕の隣にいる御剣くんには目もくれない。
「……自分、横におる『一般人』守っとるつもりでおるんか? 片腹痛いわ。……格の違う世界に首突っ込んだ報い、せいぜい楽しんだらええ」
「あはは、また怒られちゃった」
「またねぇ」
稲垣先輩たちはひらひらと手を振りながら、タヌ先輩の後に続く。背の低い彼の背中が、不思議と誰よりも大きく、そして冷たく見えた。
「……なんだよ、あのチビ。……めちゃくちゃ感じ悪いな。何が『安い音』だ、意味分かんねーよ」
御剣くんが毒づくけれど、僕はポケットの中で指先が微かに震えるのを感じていた。
——安い音。
僕が必死に受け止めたあのピアノの旋律を、彼は「価値のないガラクタ」だと切り捨てたのだ。
「安い音」と言われた瞬間、ポケットの中の両手が、昨夜の激痛を思い出したように熱を帯びた。
怒りなのか何なのか、考える余裕なんてなかった。
ただ、指先が勝手に「音」を探している。 痣は出ていないはずなのに、何かに操られるみたいに、ポケットの中で指が激しく鍵盤を叩く動きを繰り返した。
「おはよ〜」
オーバーサイズのパーカーを着た玉響くんが、あくびをしながら歩いてくる。
「おはよう玉響くん」
「はよ! 玉響、なんかわかったか?」
「んー? 開口一番それぇ? えーと、学園の裏掲示板を覗いてみたけど……雨の日の南館の階段と、放送室から聞こえてくる不気味な音に関する噂が盛り上がってたかなぁ」
ちらりと玉響くんが僕の手を見てにやりと笑う。
「そっちも色々あったんでしょ? 詳しく聞かせてよ〜」
玉響くんが僕の手をつつく。
指先は、まるで反応するように軽く跳ねた。
「……別に、大したことじゃないよ」
「へぇ? じゃあさっきの『安い音』って何のこと?」
僕の肩がびくりと揺れた。
御剣くんが「おい玉響!」と慌てて止めようとする。
「やめとけよ、あきらは昨日色々あって……」
「知ってるよ〜。だから聞いてるんじゃん」
玉響くんはひらひらと手を振った。
「そもそもさ、あきらくん。タヌ先輩……草薙先輩のこと、ただの『口の悪い選民思想の上級生』だと思ってる?」
「え……違うの?」
玉響はスマホを閉じ、声を潜めた。
その目は、いつもの軽さとは違う、どこか『裏側』を知っている者の光を帯びていた。
「静丘学園にはね……
『七不思議』よりもっと深いところで動いてる連中がいるんだよ。
非公式の、裏の六人組──
K6(ケーシックス)。……前は七人いたんだけどね」
「なんだそれ。厨二か?」と御剣くん。
「違うよ。
彼らは七不思議とは違う『七つの欲』を司る怪異の継承者。
草薙先輩は『傲慢』
稲垣兄弟は『強欲と大食』
そして──」
玉響が画面をスワイプし、一枚の写真を見せる。
眠たげな目の男子生徒。
無造作な髪。
どこか色気のある横顔。
「……木村先輩。
彼は『色欲』の継承者。
夢に潜る力を持ってる」
「……色欲……?」と僕は思わず聞き返す。
玉響は真剣な目で続けた。
「色欲って、ただ欲情だけを指す言葉じゃないよ。
『触れたい』って願う、命の重なり。
祈りも、呪いも、断ち切れない想いも……
全部、夢の深いところで混ざり合ってるんだ」
御剣くんが舌打ちする。
「……めんどくせぇ連中だな」
玉響は小さく笑った。
「でもね……
K6の中で一番危険なのは、木村先輩って言われてる。
『夢』は、誰の心にも入り込めるから」
僕の顔を覗き込むように身を寄せてくる。
「ねぇ、あきらくん。
『音』ってさ、嘘つけないんだよ。
昨日の君の両手、すごく優しい使い方をしたよね」
その声は、いつもの軽さのままなのに、
どこか底の見えない深さがあった。
「……玉響くん、君は……」
「ん? 僕はただの一年生だよ。
でもね、記憶には敏感なんだ」
僕の心臓が跳ねた。
「……どこまで知っているの?」
「知らないことばかりだよ。
だから知りたいんだ。
あきらくんの先輩だって、最近ちょっと薄い気がしない?
このままだと……」
玉響くんが口元に指を当て、
わざとらしく目を細めた。
「……あの人みたいに、消えちゃうかもね」
御剣くんが息を呑む。
ポケット中で、鍵盤を叩くみたいに指先が跳ねた。
「玉響。お前……本当に、どこまで知って……」
「さぁ? 僕は何も知らないよ。
ただ、記憶力にはちょっと自信がある。
あきらくんの先輩、あの人に似てるんだよねぇ」
誰かを思い出すように上を向き、顎の下に指を置いた。その仕草が妙に静かで、僕は息をするのを忘れた。
玉響くんはくすりと笑い、
僕のポケットに隠した手を軽く叩く。
「君は、次に何を拾いに行くの?
だって……その先に『先輩』がいるんだもんね」
玉響くんは、僕の返事を待つでもなく、
まるで『次のページ』を知っているみたいに笑った。
──
「……ごめん、御剣くん。寄り道していい?」
玉響くんの言葉が、冷たい毒のように回りはじめていた。
僕は食堂へ向かう人の流れに逆らい、保健室へと足を速める。廊下を歩くたび、奇妙な感覚が僕を襲った。
(……先輩と最後に、何を話したっけ)
思い出せないわけじゃない。けれど、記憶の輪郭が水に濡れた薄紙みたいに、指の間からふやけて零れ落ちていくもどかしさ。
焦燥に駆られて保健室の前に辿り着くと、そこだけが学園の喧騒から切り離されたように、肌を刺す冷気が漂っていた。
意を決して扉を開けると、白衣を纏った玉藻先生が、少し両目を細めて僕を見た。
「……来ると思っていた」
その声には、驚きも拒絶もない。ただ、すべてを予見していたような、底の知れない静謐さがあった。
「先生、先輩は……っ」
「……静かに。彼は今、とても衰弱している?」
玉藻先生が視線で示した先。一番奥のベッドに、先輩はいた。
確かにそこに横たわっている。けれど、 窓から差し込む雨混じりの光が、まるでそこには誰もいないみたいに、先輩の体をすり抜けて床を照らしているように見えた。
シーツに落ちる影が、淡い。
呼吸の上下すら、注視しなければ判別できないほどに微かだ。
「……先輩?」
僕が傍らに寄り、声をかける。
数秒の空白。
ゆっくりと開けられた先輩の瞳は、一瞬だけ、僕を「誰だか分からない」という風に彷徨い、それから……。
「あ……」
その瞬間、先輩を覆っていた霧が晴れるように、影が少しだけ濃くなった。
頬に微かな赤みが差し、人間としての「熱」が戻る。僕が覚えている、大好きな先輩の温度。
「良かった……まだ、ちゃんとここに……」
「……ええ、まだね」
玉藻先生が、カルテから目を離さずに淡々と言った。
「……この子は、もともとこうだった。学園には二種類の学生がいる。馴染む生徒と、馴染まない生徒……あまり長くは、このままではいられないよ」
先生の言葉は、突き放すような冷たさと、どうしようもない事実を受け入れさせる慈悲が混ざり合っていた。
「どうすれば……どうすれば、先輩を助けられますか?」
玉藻先生は、僕の問いには直接答えなかった。
代わりに、僕のポケットの中の手に、一瞬だけ視線を落とした。
「……お前のその手──まぁいい。今は詳しく聞く気はない。お前たちがこの学園の真実まで辿りつけば、きっと助けられるはずだ」
先生が窓の外を指差す。
窓から見える南館。雨に煙るその古い校舎の階段が、まるで僕らを誘う巨大な口のように見えた。
「……学園に馴染めない生徒は、強い風にでも吹かれれば消えてしまう。だが、自分を繋ぎ止める『錨(いかり)』があれば、話は別だ」
玉藻先生はそれ以上、何も言わなかった。
「……行こう、御剣くん。……南館へ」
僕は、再び薄くなり始めた先輩の寝顔を一度だけ振り返り、保健室を後にした。
根拠なんて、まだどこにもない。
でも、僕がこの静丘学園の真実を知ることができれば。いつか先輩をこの場所に繋ぎ止める『錨』になれるかもしれない——。
