静丘学園異常事象記録

●プロローグ

 静丘学園の学食で出るお茶は、とても美味しい。
 深蒸しの甘みがあって、湯気がふわっと鼻に抜ける。

 僕はこのお茶を飲むたびに、
『今日も世界はまだ大丈夫だ』と安心する。

 ──なぜなら、
 このお茶の味が変わる日は、
 必ず『何かが起きる』からだ。

 だから静丘学園には、
 毎日の日直がつける記録がある。

 ──『静丘学園異常事象記録』




 放課後の食堂はお茶が飲み放題で、宿題をしたり、友だちと雑談したりする生徒が集まる。

 僕はお茶をひと口飲んで、
 スマホを開く。

 先輩とのトーク画面は、
 最後のメッセージで止まっていた。

『ちょっと行ってくる』

 それだけ。
 どこに行くのかも、
 いつ帰ってくるのかも書いていない。

 僕は何度も返信していた。

『どこに行くんですか?』

『今日は帰ってきますか?』

『先輩? 何かあったんですか?』

 でも、
 どれも既読にならない。

 お茶の湯気が、画面の上でゆらゆら揺れていた。


「あーきら! 今日もこれから、またカラオケ行こうぜ!」
 同級生の御剣くんが、僕の首に片腕をかけながら声をかけてきた。
「カラオケ? 今日も行くの?」
「そうそう! 今年の文化祭に向けて練習したいわけ! 学校で大声で歌ってると、また副校長から睨まれるしさー」
 睨まれる? 副校長に? 視線を感じて廊下を見ると、副校長が白猫を抱いたまま、じっとこちらを見ていた。
 副校長は白銀の髪をオールバックにして後ろで束ねていて、近寄りがたい雰囲気だった。眼鏡の奥にある瞳は、三十代にも五十代にも見えるような静けさで、その正体は誰も知らない。
 ただ、西日に照らされたその瞳が、一瞬だけ琥珀色に揺れた気がした。

 あの白猫は、
 なぜかみんなから『校長』と呼ばれている。
 誰が言い出したのかは分からない。気づいたら、みんなそう呼んでいた。

 校長室の前にも、
 あの白猫の写真が貼ってある。
 本物の校長の遊び心なのかな……。
 でも、校長の名前や姿は誰も知らない。

 よく分からないけれど、
 静丘学園では、
 そういうことがよくある。

「ほら見ろよ、また副校長がこっち見てる……」
 御剣くんが小声で言う。
 白猫の長い尻尾だけが、ゆっくりと揺れている。
「わかったよ。早く行こう。でもまだお茶が残ってるから少し待って」
「オッケー!」
 指で輪っかを作ると、御剣くんは僕の横の席に座った。
「そういえばさ、今日のお茶、少し味が薄くなかった?」
「え、そう? オレは普通かなって思ったけど」
「……そっか。ならいいんだ」
 御剣くんは気づいていない。
 僕だけが、胸のざわめきを感じていた。


 御剣くんと食堂を出ると、
 窓の外に駅へ向かう生徒の流れが見えた。

 静丘学園は生徒数の多い大きな学校だ。寮も五つあって、敷地の中だけで生活が完結する。

 静謐寮、翠葉寮、燐陽寮、華爛寮、霧藍寮。

 どれも名前が立派で、建物も大きい。

 駅前も近いから、放課後はよく遊びに行く。

 御剣くんみたいに、毎日のようにカラオケに行く生徒も多い。
 駅前にはお店が並んでいて、夕方になると制服姿があふれる。

 ただ、駅前はいつも人が多いのに、誰がどこへ行くのか分からない。

 電車が来るたびに、知らない生徒が降りてきて、知らない生徒が乗っていく。

 でも、その『知らない生徒』がどこのクラスで、どこの寮なのか、誰もはっきり言えない。

 静丘学園は大きいから、そういうものなんだろう、とみんな気にしていない。


 受付で学生証を見せて、
 御剣くんが慣れた手つきで部屋を取っていた。
「おーい。機種の希望はなんかある?」
「えっ!? 特にないよ。御剣くんの好みでいいよ」
「オッケー」
 無意識にスマホのメッセージ画面を見てしまう。既読はつかない。

 スマホを閉じても、胸のざわめきは消えなかった。

 お茶の味が薄い日。先輩がいない日。既読がつかない日。

 全部が、ひとつの線で繋がっている気がした。