「お帰りなさい、誠志郎さん」
使用人への尋問を終えて屋敷に戻る。応接室では満面の笑みで鞠子が誠志郎を待っていた。誠志郎は努めて平静を装う。
「……ちょうど良かった。鞠子さんには、お尋ねしたいことがある」
「まあ、なんでも聞いて?」
「わたしと妻の仲を裂こうと小細工をしたのは、貴女ですか」
「そうよ」
鞠子はけろりと答えた。
「わたしと妻の手紙を握り潰し、会いに行けば先回りして妻を隠した……」
「飯山たちがどう動いたかまでは知らないわよぉ」
下賤のものの仕事まで把握していないわ。鞠子はそう面倒臭そうに言う。
「当家の執事を貴女の都合で動かしていたなど、信用に関わることですよ」
「いいじゃない。どうせ誠志郎さんはわたくしのものになるのだし」
「なりません。わたしは祥子さんの夫なのです」
誠志郎が険しい表情で答えた。鞠子はおかしそうに笑う。
「精霊目当ての結婚に、そこまで拘るだなんて」
「精霊目当てだなど……!」
確かに最初はそうだった。しかし彼女と会った。話をした。恋をした。
まだちゃんと夫婦にはなれていない。しかし、祥子とならきっと長い人生を歩んでいける。そう確信している。
「わたくしもね、精霊つきになったのよ」
「……?!」
「家柄に美貌、教養、ありあまる富、そして精霊……!わたくしはね、誰もが崇め奉る存在になったの!さぁ、わたくしが欲しいというなら今のうち!」
「貴女は──」
精霊さまを、虚栄心を満たすために扱うのか。
その言葉は怒りのあまり、形にはならなかった。しかし鞠子は構う様子もない。
「わたくしの精霊にご挨拶させてあげるわ!さあ、出ていらっしゃい!」
応接室に光が満ちる。その中心に精霊のシルエットが浮かび上がる。それがなんなのか分かった瞬間、ざわりと誠志郎の身体に鳥肌がたった。
「チュウゥ」
現れたのは、1匹のネズミ。子孫繁栄や商売繁盛のご利益をもたらす存在だ。鞠子は得意げに笑った。
「うふふ、どう?見事な精霊で──」
「お帰りください!」
強い拒絶。鞠子は目を丸くした。信じられない。今まで怒鳴られたことなんてなかった。拒否されたこと理解するのに、少し時間がかかった。
「……は?」
「ネズミは蚕の天敵です!」
「天敵?」
「まさか、ネズミが蚕を食べることを知らないとでも?嫌がらせにしても、酷すぎる!」
誠志郎は強い頭痛を堪えながら言う。真白が誠志郎の中で暴れている。恐怖で泣いている。助けてくれと叫んでいる。
屋敷にも製糸場にも、至る所にネズミ除けの護符が貼ってある。しかし、客がわざわざネズミを内部に運び込むなど。真白を鎮めるには、一刻も早く鞠子に帰ってもらうしかない。
しかし。
「はぁー……」
鞠子は長いため息を吐く。その顔からは美しい微笑みは消えていた。
「真面目な男をわたくしの親衛隊に加えたら、お友達にも自慢できると思ったのに。なんだかもう、飽きちゃった」
「何……を……」
「おゆき」
鞠子がネズミに命令を下すと、ネズミは誠志郎に踊りかかった。咄嗟に印を切り、簡単な結界を張る。
「まあ!器用なのね」
「貴女は……!」
「わたくしのものにならないのなら、せめて養分になって頂戴ね。先祖代々の精霊……わたくしのネズミちゃんが食べたなら、きっとすごいことになるもの」
「させるものか……!」
「さぁさぁ、早く貴方の精霊を出して?でなきゃ、ネズミがその綺麗なお顔を齧るわよ?」
鞠子がサディスティックに笑う。
真白という精霊は、鳴川家が連綿と受け継いできた絆。工員たちの生活を支える命綱。天から預かった、尊い光だ。
この女に食い物にされてなるものか。
誠志郎は歯を食いしばる。
ガリガリ。ガリガリ。ネズミが結界を齧る音を聞きながら、誠志郎は打開策はないかと頭を巡らせた。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「着いてしまいましたわ!本宅に!」
屋敷を目の前にして、祥子はポカンと口を開けた。
空を漂う一本の糸。オパールのように輝くそれを、祥子は無心で追いかけた。ただの糸ではない。それはなんとなくわかったけれど、不思議と恐怖心は湧かなかった。
「よく分からないけれど、助かりましたわね!」
意気揚々と門を潜る。そこには運悪く飯山の姿があった。
「奥様……?どうしてこちらに?!」
「あの〜……旦那さまとお話を……」
「なりません!さっさと別邸にお帰りを──」
もし誠志郎と祥子が会ってしまえば、鞠子の計画が破綻する可能性がある。それは避けなければならない。飯山は乱暴に祥子の腕を掴む。
「いっ……いやっ……」
悲鳴を上げかけたその時、飯山の顎にタマの猫パンチが炸裂した。
「あっ……」
飯山がかくんと倒れる。また立とうとするけれども、手足がもつれて上手くいかないようだ。脳しんとうを起こしているらしい。
「ごめんなさいね、後で様子を見に参りますから……!」
祥子はそそくさとその場を去った。他の使用人に見つかったらまた足止めされるかもしれない。早く夫との邂逅を果たさなければ。
広いホールを通り抜け、美しい壺や彫刻が飾られている廊下を行く。
(こちらの方向……なんだか良くない感じがする)
やけに気になる部屋があった。
言い争うような声。胸がざわつく。急がなければいけないのに、放っておいてはいけないような。
祥子は思い切って扉を開ける。
そこでは誠志郎と鞠子が対峙していた。
「桜餅の君と……夫の浮気相手さん?!」
「土手姫……!」
そこではネズミの精霊に、桜餅の君が襲われていた。何重にも貼られた結界の残骸。その奥で彼は血を流しながら、ネズミの牙を受けている。
なぜ桜餅の君が、夫の屋敷に?
なぜ夫の浮気相手と取っ組み合っているの?
彼らにどんな因縁が?
祥子の頭は疑問で埋め尽くされたが、そんなことを言っている場合でもなかった。
「よく分かりませんけれど……義によって助太刀いたしますわ〜!」
そう叫んだ祥子の背後から、タマがネズミに飛び掛かる。その前脚は的確にネズミの身体を捕らえた。そして首筋に噛みつかれ、ネズミは動くこともできなくなった。
「猫の精霊……?!アンタ、それは反則でしょうが……!」
鞠子が鬼のような形相で祥子を睨んだ。
「反則も何も」
祥子は驚いたような顔で応える。
「精霊さまに人を襲わせる方が反則でございます」
「うるさい!良い子ぶっちゃって!」
この女性は、こんなに醜かったっけ。地団駄を踏む鞠子に、祥子はぼんやり思った。自分を見下して笑っていたときの余裕は、もうどこにもありはしない。
「夫婦まとめてネズミの餌にして差し上げるわ!鳴川家なんて消してやる!」
「夫婦……まとめて……?」
鞠子の言葉に、祥子は目を見開いた。
もしかして、夫はすでにネズミに食べられてしまったのかしら?
「させません!」
叫んだのは、誠志郎だった。
「鳴川家の当主として、貴女を止めてみせる!妻に手出しなどさせはしない!」
鳴川家の、当主?
桜餅の君が?
では、貴方の正体は──。
「誠志郎、さま……?」
「……夫として詫びねばなりません。祥子さん、貴女には……辛い思いを……」
桜の土手での会話を思い出す。
ずっと妻に避けられている男性。お家のための結婚をして、結婚式をすっぽかして。でもちゃんと妻と向き合いたいと願っていた。
「でも……誠志郎さまは、鞠子さまと不倫なさっていたのではないの?わたくしの手紙を……馬鹿にしていらしたのではないの?」
「すべて彼女の策略です。いえ。それを見抜けず、貴女を傷つけてしまった責任は──すべてわたしにある」
「誠志郎、さま──」
言いたいことがたくさんあった。自分を無視して、冷遇して、絶望へと追い詰めたひどい夫。
ひどい。どうして。ちゃんと自分と話をして。
ここに辿り着くまでに、いろんな言葉を用意した。だけれど誠志郎を前にして、それらはすべて頭から消え去ってしまった。
ただひとつ、心に浮かんだことは。
「あのね、誠志郎さま……」
「はい」
「貴方がわたくしの旦那さまで……良かった……」
「祥子さん……」
祥子の瞳の端に、涙が浮かんだ。自分を疎んでいる夫。捨てたはずの恋心。誠実でいたいけれど、辛かった。
だけど、すべてが救われたような気がした。
「わたしも……」と誠志郎が言いかけたそのとき。鞠子が金切り声で叫んだ。
「わたくしを無視するだなんて、どういう了見なの?!もう許さない!許さない!許さない!」
誠志郎たちははっと構える。
「お金!宝石!ドレス!わたくしの全部をあげるわ!この二人をさっさと食べておしまい!」
鞠子の声に呼応して、ネズミの身体が巨大化する。周囲に黒い瘴気が漂う。鞠子ががくりと膝をついた。生気や霊力を根こそぎ持っていかれたらしい。
「ふっ、ふふ……。行けっ……」
ネズミがタマに襲いかかる。祥子はすかさず祝詞を唱えた。
「掛けまくも畏き天の御神!お預かり奉る精霊がタマに力を貸し与え給え。禍事、罪、穢れあらんを祓い給い──」
タマが強い光を放つ。太陽のような、金色の輝き。
祝詞は神々からお力を借りるためのもの。精霊つきならば、誰でも習得している技術だ。だけど、どこまで通用するか。祥子は冷や汗を流す。
祥子はこれまで、タマを戦わせたことなどない。しかし、今はやらねばならない。なんたって、桜餅の君のピンチなのだ。それにネズミを放っておくことはできなかった。ネズミは鞠子の悪心を吸い、悪霊に堕ちていたからだ。
「見てください、真白さま。わたしの妻が戦っている」
誠志郎は静かに真白に語りかけていた。祥子が現れてくれたおかげで、頭痛はずいぶんマシになっていた。だけれど真白の恐怖は消えない。
「わたしの妻はかわいい。桜餅を幸せそうに頬張る姿が、とびきりかわいい。そして、わたしたちをすかさず守ろうとしてくれるほど、格好いい」
優しく、優しく語りかける。柔らかい翅を撫でるように。
「あなたの恐怖は、理解している。だけど力を貸してくれませんか」
強張っていた真白の心が、解けていく。
弱りきっていた翅に、力が戻る。
「夫として──わたしも彼女に格好いいところを、見せたいのです」
誠志郎の強い願いに、真白が呼応した。
部屋に銀色の光が満ちる。月の光のような清らかな輝き。そしてその中心に、真白が姿を現した。
「そんなっ……、お蚕さまを表に出すなど……!」
ネズミは「食料を見つけた」とばかりに、真白に向かって走り出した。しかし誠志郎にも真白にも、動揺した様子はなかった。ネズミの血走った目を見て、誠志郎はただ静かに「糸」といった。
「ギッ……ギャギャギャ」
何本もの糸が、ネズミに絡みついていく。糸の勢いは、手脚の自由を奪っても終わらなかった。頭も胴もすっかり糸に絡み取られ──後には糸の塊──蚕の繭のようなものが出来上がった。
抵抗するかのように繭はしばらく暴れていたが、やがてぴくりとも動かなくなった。終わったのだ。祥子はそう思った。
「な……何やってんのっ!そんなもの、破りなさいよ!わたくしの霊力、いくらでも使ってもいいからぁぁ!」
負けただなんて、認められない。許さない。早く反撃しろと鞠子が喚く。
そんな鞠子に、祥子がいたわしげに話しかけた。
「……貴女には、もう何も残っていませんよ」
「はぁ?!このわたくしに向かって何を」
「生気も霊力も、すべて捧げてしまったではありませんか」
「な……」
祥子は懐から手鏡を取り出すと、鞠子に差し出す。そこには皺だらけの老婆が映っていた。
「何……?この汚らしい老婆は……。え……これは……わたくし……?」
「貴女はネズミさんを、悪霊に堕としました。そして悪霊に無茶なことを願えば……恐ろしい代償を払わされるものなのですよ」
そういえば昔、家庭教師がそんなことを言っていたような気がする。でも自分には関係のないことだと思っていた。
「だって……わたくしは千堂伯爵家の娘なのよ?華族の令息たちもわたくしに群がって……口々に交際を迫ってきて……」
白い肌に小さな唇。ぱっちりとした大きな瞳。誰もが鞠子を美しいと誉めそやした。華族で一番の美姫として、これから輝かしい人生が待っていたはずなのに。
「わたくしは、こんな皺くちゃの婆なんかじゃないわ……」
深い皺が顔中を覆っている。鞠子はその一本一本を手でなぞり、涙をこぼした。
「あああああ。嘘よ……!こんなの嘘よぉ……!」
屋敷に鞠子の慟哭が響き渡った。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「尼寺、でございますか」
「ええ。鞠子さんは一生、そこから出ることは叶わないでしょう」
事件から一週間後。祥子と誠志郎は屋敷の庭でお茶を啜っていた。燦々と陽の光を浴びて、真白とタマが戯れあっている。
「精霊を害する行為は重罪ですから。流石の千堂家も、彼女を庇うことはできなかった……」
「そうですよねぇ……」
しかし刑務所を逃れるあたりは伯爵家らしい。鞠子にとっては尼寺の生活も、刑務所暮らしと同じようなものかもしれないけれど。
鞠子は自分と夫を引き裂いた張本人。それでも善く生きる道を見つけて欲しいとも思う。奪い、害し、人を憎むだけの人生はつまらないはずだから。
今回の企みに与した使用人たちは、残らず放逐された。横領した贈り物や生活費は返還させ、足りない分は借用書を書かせた。彼らは借金を返しながら、静かに生きていくしかない。しかし、まともな職には就けないだろう。主人を裏切り、精霊を害した──そんなならず者を雇いたがる人間は、この国にはいないからだ。
執事の飯山は──どうなったのか教えてもらえなかった。祥子が何度聞いても、誠志郎はただ微笑みを返すだけだ。しかし飯山の話題になるたび、誠志郎の瞳には黒々とした怒りの炎が宿る。きっと、触れない方がいいのだ。そう思って、祥子は尋ねるのをやめた。
鳴川家の執事や使用人は一時、空席だらけになった。しかし、昔から忠誠心を持って働いてくれていた者たちが頑張ってくれている。それに、祥子の実家からも優秀な人材が派遣される予定だ。祥子の両親たちは連絡の取れない娘のことをひどく心配していた。だから事情を話すと、両手を挙げて力を貸してくれることになったのだ。
「それにしても……まさか、桜餅の君がわたくしの旦那さまだなんて」
「まさか、土手姫がわたしのお嫁さんだなんて」
二人は微笑み合う。事件の後、祥子はすぐにここへと移り住んだ。そして何度も同じやり取りをした。
「あーあ!わたくしの夫は、結婚式をすっぽかしましたのよ!」
「おや、それは許せない!埋め合わせをさせなきゃいけませんね」
「結婚後はずぅっと会ってもくれませんでしたの!」
「なんてことだ。不実極まる!」
「しかも美しい不倫相手までいましたの!」
「訴訟だ!訴えるしかない!」
そう言い合って、大笑いする。それがいつもの流れだった。
「わたくしの愛しい旦那さまは、どうやって償ってくださるの?」
「うーん……。着物がいいですか?それともドレス?箱根で豪遊してもいいですね」
「あらまあ、どれも魅力的!でも……」
「それ以上のものをお望みで?」
「ええ!とっておきの桜餅を一つ、いただきましょうか」
誠志郎は祥子の頬に、そっと口付けを落とした。祥子が「んまあ」と声を上げる。それが満更でもない様子で、誠志郎の心に愛しさが込み上げる。
もう、引き裂かれることはない。すれ違うこともない。出会える偶然を、精霊に祈ることもない。
手を伸ばせば触れられる場所に、愛おしい人がいる。こんな日常を守ってみせる。誠志郎は静かに決意する。
まだ、夫婦というには未熟すぎる二人。
「まさか奥さんと恋ができるなんて思いませんでした」
誠志郎の言葉に、祥子も「わたくしも」とはにかんだ。
使用人への尋問を終えて屋敷に戻る。応接室では満面の笑みで鞠子が誠志郎を待っていた。誠志郎は努めて平静を装う。
「……ちょうど良かった。鞠子さんには、お尋ねしたいことがある」
「まあ、なんでも聞いて?」
「わたしと妻の仲を裂こうと小細工をしたのは、貴女ですか」
「そうよ」
鞠子はけろりと答えた。
「わたしと妻の手紙を握り潰し、会いに行けば先回りして妻を隠した……」
「飯山たちがどう動いたかまでは知らないわよぉ」
下賤のものの仕事まで把握していないわ。鞠子はそう面倒臭そうに言う。
「当家の執事を貴女の都合で動かしていたなど、信用に関わることですよ」
「いいじゃない。どうせ誠志郎さんはわたくしのものになるのだし」
「なりません。わたしは祥子さんの夫なのです」
誠志郎が険しい表情で答えた。鞠子はおかしそうに笑う。
「精霊目当ての結婚に、そこまで拘るだなんて」
「精霊目当てだなど……!」
確かに最初はそうだった。しかし彼女と会った。話をした。恋をした。
まだちゃんと夫婦にはなれていない。しかし、祥子とならきっと長い人生を歩んでいける。そう確信している。
「わたくしもね、精霊つきになったのよ」
「……?!」
「家柄に美貌、教養、ありあまる富、そして精霊……!わたくしはね、誰もが崇め奉る存在になったの!さぁ、わたくしが欲しいというなら今のうち!」
「貴女は──」
精霊さまを、虚栄心を満たすために扱うのか。
その言葉は怒りのあまり、形にはならなかった。しかし鞠子は構う様子もない。
「わたくしの精霊にご挨拶させてあげるわ!さあ、出ていらっしゃい!」
応接室に光が満ちる。その中心に精霊のシルエットが浮かび上がる。それがなんなのか分かった瞬間、ざわりと誠志郎の身体に鳥肌がたった。
「チュウゥ」
現れたのは、1匹のネズミ。子孫繁栄や商売繁盛のご利益をもたらす存在だ。鞠子は得意げに笑った。
「うふふ、どう?見事な精霊で──」
「お帰りください!」
強い拒絶。鞠子は目を丸くした。信じられない。今まで怒鳴られたことなんてなかった。拒否されたこと理解するのに、少し時間がかかった。
「……は?」
「ネズミは蚕の天敵です!」
「天敵?」
「まさか、ネズミが蚕を食べることを知らないとでも?嫌がらせにしても、酷すぎる!」
誠志郎は強い頭痛を堪えながら言う。真白が誠志郎の中で暴れている。恐怖で泣いている。助けてくれと叫んでいる。
屋敷にも製糸場にも、至る所にネズミ除けの護符が貼ってある。しかし、客がわざわざネズミを内部に運び込むなど。真白を鎮めるには、一刻も早く鞠子に帰ってもらうしかない。
しかし。
「はぁー……」
鞠子は長いため息を吐く。その顔からは美しい微笑みは消えていた。
「真面目な男をわたくしの親衛隊に加えたら、お友達にも自慢できると思ったのに。なんだかもう、飽きちゃった」
「何……を……」
「おゆき」
鞠子がネズミに命令を下すと、ネズミは誠志郎に踊りかかった。咄嗟に印を切り、簡単な結界を張る。
「まあ!器用なのね」
「貴女は……!」
「わたくしのものにならないのなら、せめて養分になって頂戴ね。先祖代々の精霊……わたくしのネズミちゃんが食べたなら、きっとすごいことになるもの」
「させるものか……!」
「さぁさぁ、早く貴方の精霊を出して?でなきゃ、ネズミがその綺麗なお顔を齧るわよ?」
鞠子がサディスティックに笑う。
真白という精霊は、鳴川家が連綿と受け継いできた絆。工員たちの生活を支える命綱。天から預かった、尊い光だ。
この女に食い物にされてなるものか。
誠志郎は歯を食いしばる。
ガリガリ。ガリガリ。ネズミが結界を齧る音を聞きながら、誠志郎は打開策はないかと頭を巡らせた。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「着いてしまいましたわ!本宅に!」
屋敷を目の前にして、祥子はポカンと口を開けた。
空を漂う一本の糸。オパールのように輝くそれを、祥子は無心で追いかけた。ただの糸ではない。それはなんとなくわかったけれど、不思議と恐怖心は湧かなかった。
「よく分からないけれど、助かりましたわね!」
意気揚々と門を潜る。そこには運悪く飯山の姿があった。
「奥様……?どうしてこちらに?!」
「あの〜……旦那さまとお話を……」
「なりません!さっさと別邸にお帰りを──」
もし誠志郎と祥子が会ってしまえば、鞠子の計画が破綻する可能性がある。それは避けなければならない。飯山は乱暴に祥子の腕を掴む。
「いっ……いやっ……」
悲鳴を上げかけたその時、飯山の顎にタマの猫パンチが炸裂した。
「あっ……」
飯山がかくんと倒れる。また立とうとするけれども、手足がもつれて上手くいかないようだ。脳しんとうを起こしているらしい。
「ごめんなさいね、後で様子を見に参りますから……!」
祥子はそそくさとその場を去った。他の使用人に見つかったらまた足止めされるかもしれない。早く夫との邂逅を果たさなければ。
広いホールを通り抜け、美しい壺や彫刻が飾られている廊下を行く。
(こちらの方向……なんだか良くない感じがする)
やけに気になる部屋があった。
言い争うような声。胸がざわつく。急がなければいけないのに、放っておいてはいけないような。
祥子は思い切って扉を開ける。
そこでは誠志郎と鞠子が対峙していた。
「桜餅の君と……夫の浮気相手さん?!」
「土手姫……!」
そこではネズミの精霊に、桜餅の君が襲われていた。何重にも貼られた結界の残骸。その奥で彼は血を流しながら、ネズミの牙を受けている。
なぜ桜餅の君が、夫の屋敷に?
なぜ夫の浮気相手と取っ組み合っているの?
彼らにどんな因縁が?
祥子の頭は疑問で埋め尽くされたが、そんなことを言っている場合でもなかった。
「よく分かりませんけれど……義によって助太刀いたしますわ〜!」
そう叫んだ祥子の背後から、タマがネズミに飛び掛かる。その前脚は的確にネズミの身体を捕らえた。そして首筋に噛みつかれ、ネズミは動くこともできなくなった。
「猫の精霊……?!アンタ、それは反則でしょうが……!」
鞠子が鬼のような形相で祥子を睨んだ。
「反則も何も」
祥子は驚いたような顔で応える。
「精霊さまに人を襲わせる方が反則でございます」
「うるさい!良い子ぶっちゃって!」
この女性は、こんなに醜かったっけ。地団駄を踏む鞠子に、祥子はぼんやり思った。自分を見下して笑っていたときの余裕は、もうどこにもありはしない。
「夫婦まとめてネズミの餌にして差し上げるわ!鳴川家なんて消してやる!」
「夫婦……まとめて……?」
鞠子の言葉に、祥子は目を見開いた。
もしかして、夫はすでにネズミに食べられてしまったのかしら?
「させません!」
叫んだのは、誠志郎だった。
「鳴川家の当主として、貴女を止めてみせる!妻に手出しなどさせはしない!」
鳴川家の、当主?
桜餅の君が?
では、貴方の正体は──。
「誠志郎、さま……?」
「……夫として詫びねばなりません。祥子さん、貴女には……辛い思いを……」
桜の土手での会話を思い出す。
ずっと妻に避けられている男性。お家のための結婚をして、結婚式をすっぽかして。でもちゃんと妻と向き合いたいと願っていた。
「でも……誠志郎さまは、鞠子さまと不倫なさっていたのではないの?わたくしの手紙を……馬鹿にしていらしたのではないの?」
「すべて彼女の策略です。いえ。それを見抜けず、貴女を傷つけてしまった責任は──すべてわたしにある」
「誠志郎、さま──」
言いたいことがたくさんあった。自分を無視して、冷遇して、絶望へと追い詰めたひどい夫。
ひどい。どうして。ちゃんと自分と話をして。
ここに辿り着くまでに、いろんな言葉を用意した。だけれど誠志郎を前にして、それらはすべて頭から消え去ってしまった。
ただひとつ、心に浮かんだことは。
「あのね、誠志郎さま……」
「はい」
「貴方がわたくしの旦那さまで……良かった……」
「祥子さん……」
祥子の瞳の端に、涙が浮かんだ。自分を疎んでいる夫。捨てたはずの恋心。誠実でいたいけれど、辛かった。
だけど、すべてが救われたような気がした。
「わたしも……」と誠志郎が言いかけたそのとき。鞠子が金切り声で叫んだ。
「わたくしを無視するだなんて、どういう了見なの?!もう許さない!許さない!許さない!」
誠志郎たちははっと構える。
「お金!宝石!ドレス!わたくしの全部をあげるわ!この二人をさっさと食べておしまい!」
鞠子の声に呼応して、ネズミの身体が巨大化する。周囲に黒い瘴気が漂う。鞠子ががくりと膝をついた。生気や霊力を根こそぎ持っていかれたらしい。
「ふっ、ふふ……。行けっ……」
ネズミがタマに襲いかかる。祥子はすかさず祝詞を唱えた。
「掛けまくも畏き天の御神!お預かり奉る精霊がタマに力を貸し与え給え。禍事、罪、穢れあらんを祓い給い──」
タマが強い光を放つ。太陽のような、金色の輝き。
祝詞は神々からお力を借りるためのもの。精霊つきならば、誰でも習得している技術だ。だけど、どこまで通用するか。祥子は冷や汗を流す。
祥子はこれまで、タマを戦わせたことなどない。しかし、今はやらねばならない。なんたって、桜餅の君のピンチなのだ。それにネズミを放っておくことはできなかった。ネズミは鞠子の悪心を吸い、悪霊に堕ちていたからだ。
「見てください、真白さま。わたしの妻が戦っている」
誠志郎は静かに真白に語りかけていた。祥子が現れてくれたおかげで、頭痛はずいぶんマシになっていた。だけれど真白の恐怖は消えない。
「わたしの妻はかわいい。桜餅を幸せそうに頬張る姿が、とびきりかわいい。そして、わたしたちをすかさず守ろうとしてくれるほど、格好いい」
優しく、優しく語りかける。柔らかい翅を撫でるように。
「あなたの恐怖は、理解している。だけど力を貸してくれませんか」
強張っていた真白の心が、解けていく。
弱りきっていた翅に、力が戻る。
「夫として──わたしも彼女に格好いいところを、見せたいのです」
誠志郎の強い願いに、真白が呼応した。
部屋に銀色の光が満ちる。月の光のような清らかな輝き。そしてその中心に、真白が姿を現した。
「そんなっ……、お蚕さまを表に出すなど……!」
ネズミは「食料を見つけた」とばかりに、真白に向かって走り出した。しかし誠志郎にも真白にも、動揺した様子はなかった。ネズミの血走った目を見て、誠志郎はただ静かに「糸」といった。
「ギッ……ギャギャギャ」
何本もの糸が、ネズミに絡みついていく。糸の勢いは、手脚の自由を奪っても終わらなかった。頭も胴もすっかり糸に絡み取られ──後には糸の塊──蚕の繭のようなものが出来上がった。
抵抗するかのように繭はしばらく暴れていたが、やがてぴくりとも動かなくなった。終わったのだ。祥子はそう思った。
「な……何やってんのっ!そんなもの、破りなさいよ!わたくしの霊力、いくらでも使ってもいいからぁぁ!」
負けただなんて、認められない。許さない。早く反撃しろと鞠子が喚く。
そんな鞠子に、祥子がいたわしげに話しかけた。
「……貴女には、もう何も残っていませんよ」
「はぁ?!このわたくしに向かって何を」
「生気も霊力も、すべて捧げてしまったではありませんか」
「な……」
祥子は懐から手鏡を取り出すと、鞠子に差し出す。そこには皺だらけの老婆が映っていた。
「何……?この汚らしい老婆は……。え……これは……わたくし……?」
「貴女はネズミさんを、悪霊に堕としました。そして悪霊に無茶なことを願えば……恐ろしい代償を払わされるものなのですよ」
そういえば昔、家庭教師がそんなことを言っていたような気がする。でも自分には関係のないことだと思っていた。
「だって……わたくしは千堂伯爵家の娘なのよ?華族の令息たちもわたくしに群がって……口々に交際を迫ってきて……」
白い肌に小さな唇。ぱっちりとした大きな瞳。誰もが鞠子を美しいと誉めそやした。華族で一番の美姫として、これから輝かしい人生が待っていたはずなのに。
「わたくしは、こんな皺くちゃの婆なんかじゃないわ……」
深い皺が顔中を覆っている。鞠子はその一本一本を手でなぞり、涙をこぼした。
「あああああ。嘘よ……!こんなの嘘よぉ……!」
屋敷に鞠子の慟哭が響き渡った。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「尼寺、でございますか」
「ええ。鞠子さんは一生、そこから出ることは叶わないでしょう」
事件から一週間後。祥子と誠志郎は屋敷の庭でお茶を啜っていた。燦々と陽の光を浴びて、真白とタマが戯れあっている。
「精霊を害する行為は重罪ですから。流石の千堂家も、彼女を庇うことはできなかった……」
「そうですよねぇ……」
しかし刑務所を逃れるあたりは伯爵家らしい。鞠子にとっては尼寺の生活も、刑務所暮らしと同じようなものかもしれないけれど。
鞠子は自分と夫を引き裂いた張本人。それでも善く生きる道を見つけて欲しいとも思う。奪い、害し、人を憎むだけの人生はつまらないはずだから。
今回の企みに与した使用人たちは、残らず放逐された。横領した贈り物や生活費は返還させ、足りない分は借用書を書かせた。彼らは借金を返しながら、静かに生きていくしかない。しかし、まともな職には就けないだろう。主人を裏切り、精霊を害した──そんなならず者を雇いたがる人間は、この国にはいないからだ。
執事の飯山は──どうなったのか教えてもらえなかった。祥子が何度聞いても、誠志郎はただ微笑みを返すだけだ。しかし飯山の話題になるたび、誠志郎の瞳には黒々とした怒りの炎が宿る。きっと、触れない方がいいのだ。そう思って、祥子は尋ねるのをやめた。
鳴川家の執事や使用人は一時、空席だらけになった。しかし、昔から忠誠心を持って働いてくれていた者たちが頑張ってくれている。それに、祥子の実家からも優秀な人材が派遣される予定だ。祥子の両親たちは連絡の取れない娘のことをひどく心配していた。だから事情を話すと、両手を挙げて力を貸してくれることになったのだ。
「それにしても……まさか、桜餅の君がわたくしの旦那さまだなんて」
「まさか、土手姫がわたしのお嫁さんだなんて」
二人は微笑み合う。事件の後、祥子はすぐにここへと移り住んだ。そして何度も同じやり取りをした。
「あーあ!わたくしの夫は、結婚式をすっぽかしましたのよ!」
「おや、それは許せない!埋め合わせをさせなきゃいけませんね」
「結婚後はずぅっと会ってもくれませんでしたの!」
「なんてことだ。不実極まる!」
「しかも美しい不倫相手までいましたの!」
「訴訟だ!訴えるしかない!」
そう言い合って、大笑いする。それがいつもの流れだった。
「わたくしの愛しい旦那さまは、どうやって償ってくださるの?」
「うーん……。着物がいいですか?それともドレス?箱根で豪遊してもいいですね」
「あらまあ、どれも魅力的!でも……」
「それ以上のものをお望みで?」
「ええ!とっておきの桜餅を一つ、いただきましょうか」
誠志郎は祥子の頬に、そっと口付けを落とした。祥子が「んまあ」と声を上げる。それが満更でもない様子で、誠志郎の心に愛しさが込み上げる。
もう、引き裂かれることはない。すれ違うこともない。出会える偶然を、精霊に祈ることもない。
手を伸ばせば触れられる場所に、愛おしい人がいる。こんな日常を守ってみせる。誠志郎は静かに決意する。
まだ、夫婦というには未熟すぎる二人。
「まさか奥さんと恋ができるなんて思いませんでした」
誠志郎の言葉に、祥子も「わたくしも」とはにかんだ。

