第四話
つまらない女だと思った。自分のような美貌も、華やかさもない。
それなのに、精霊つきだからってチヤホヤされてきた?そんなの、我慢ならない。
祥子を訪ねた帰り。鞠子はとある寺院を訪れていた。普段の鞠子ならば頼まれたって来ない場所。だけれどもそこは華族の間では有名な寺で、参拝の予約がなかなか取れない場所だった。
「この度は格別なご支援をいただき……」
僧が頭を下げる
「出した金額の分だけ、わたくしの役に立ちなさいよね」
「はっ……」
護摩壇に炎が上がる。僧たちが経を唱える。それは合唱のように響き、護摩堂を異様な雰囲気で包み込んだ。
「我らの声を聞き届け給え。大いなる精霊、その資質を持つ力よ、ここに姿を現し給え」
ごう。
炎が一段と高く燃え上がると、そこには光の塊が現れた。
「精霊……!」
鞠子の声が震える。僧はさらに呪文を重ねる。
「ここにあるは精霊の力を求めし者なり。求めに応じその尊き御身をこの者に宿らしめ給え」
光はくるくると室内を舞ったかと思うと、鞠子の中へと入っていった。身体に温かいものを感じる。今まで自分にはなかった力を感じる。これが精霊つきになったことか、と鞠子は笑う。
僧は疲労困憊した様子で言った。
「これで精霊おろしの儀は終わりでございます」
「よくやったわ」
「しかし……今回は急なご依頼でしたので、千堂様に降ろしたものは精霊未満の存在でございます」
「はぁ?!この私に中途半端なものをおろしたっていうの?!」
「いえ、かの存在はもっと時間をかけて精霊になるはずのものでした。貴女さまがきちんとお祀りすれば、すぐにでも立派な精霊さまとなりましょう」
「じゃあ精霊には違いないってことね」
面倒なことを言わないでちょうだい、と鞠子は立ち上がる。しかしそれを静止するように、僧は言った。
「まだその存在は不安定だと言うことです。依代である貴女さまのお心次第では……」
「はいはい、わかったわ。ありがとうね」
用が終わった以上は、こんな辛気臭い場所に長居したくはなかった。待たせていた車に乗り込むと、鞠子は満足そうに笑う。
「これで私はすべてを手に入れた、ということね」
すでに暗くなった田舎道を、車は滑るように走り出す。
「あとは誠志郎さんを手に入れるだけね」
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
その翌朝。誠志郎は起きて身支度をすると、朝食も摂らずに屋敷を出た。執事の飯山にすら顔を合わせることもなく、別邸へと急ぐ。この時間に訪れれば、さすがに妻も在宅だろうと思ったからだ。
土手姫は覚悟を決めた。夫の家に乗り込むのだと言っていた。
自分だって、本気で事態を解決すべきだ。今までは妻に気を遣って、必ず事前に訪問の連絡をしていた。だから今までは逃げられていたのだ。今日こそは逃さない。ちゃんと自分と向き合ってもらう。
別邸に向かう途中で、土手を通り過ぎる。もちろん、彼女はいない。
「……」
何を未練がましいことを。誠志郎は首をを振る。
彼女は自分のことを好きだと言ってくれた。自分は彼女に恥じることがないように、誠実に行動するだけだ。彼女を幻滅させるようなことはしない。たとえ、もう会えることがないとしても。
別宅に到着すると、妙に使用人たちが騒がしいことに気付く。
「何があったというんだ」
声をかけると、妙子は顔を青くした。
「だ、旦那さま……」
「妻は在宅か?」
「そっ、それがっ、奥様のお姿が見えず……」
「皆、妻を探しているのか?」
「はっ、はい……」
おかしい。妻はいつも外を遊び歩いていて、家にいないのが当たり前のはずだ。それなのに今日は妻の姿が見えないと使用人が焦っている。今までは彼女の行き先にすら関心を持っていなかったのに。
きらり。
視界に光るものが見えた。誠志郎は妙子の着物の襟を強引に掴む。妙子は「ひぃえ?!」と腰を抜かした。彼女の首元には大きなダイヤモンドのネックレスが揺れている。
「これは──仏蘭西の貿易商から買い付けたものだ」
国内では売られてすらいないもの。まして、女中の給料では一生かかっても買えぬもの。
「わたしが妻へと贈ったものだ。どうしてお前が身につけている?」
「おっ……奥様が……くだすったので……」
「ふしだらと蔑んでいた女から、物を恵んでもらったのか?」
「そっ、それは……」
妙子は黙り込む。
「話にならん」
誠志郎は妙子を捨て置くと、屋敷の奥へと乱暴に進んだ。家の構造は知っている。一番広い部屋はここのはずだが──誠志郎は襖を開けると己の目を疑った。
室内があまりにも質素すぎる。置かれているのは鏡台と文机だけ。目を楽しませるような美しい調度品も、衣装箪笥すらない。部屋の隅には着物が何枚か畳まれているだけ。どれだけ衣装や贅沢品に金をつぎ込んでいるのかと思っていたのに、肩透かしも良いところだ。
その文机に、大量の紙の束が置かれていることに気付く。妻を知る数少ない手がかり。そんな気がして、誠志郎はそこに目を落とした。
「手紙……。わたしに宛てて……?」
鞠子が祥子に突き返したものだった。
その数は百枚はゆうに超えていた。繊細な筆跡で、丁寧にしたためられた文の数々。
「なんだ……わたしは受け取っていないぞ……!」
そこには日々の小さな気づきが綴られている。
そして手紙の結びには。
一度でもいい。会う機会が欲しい。ご縁があって夫婦になったのだから、お話をしましょう。
毎回、そんな願いが書かれていた。
「三ヶ月前の日付のものから……これはごく最近の……」
ふと、誠志郎の目はある文章に釘付けになった。
──本日はお友達ができました。その方も、想い人にお会いになれないのですって。わたくしも貴方さまにお会いできず、心が千々に乱れる想いでございます。でも美味しい桜餅をご馳走になって、ちょっぴり元気になりましたのよ。
それは誠志郎と土手姫が会った日付の手紙だった。
──この頃はすっかり風も温かくなりましたね。春の青空の下、貴方さまも同じ風を感じておられるのでしょうか。
彼女の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
──わたくしも夫に無視されておりますの。
──会って話をしたいって、毎日手紙を書いておりますの。
──だけど返事は梨の礫で。
土手姫は祥子で──自分の妻だった?
彼女も自分と話をすることを望んでいた?
絶望に打ちひしがれ、うずくまっていた土手姫。その姿を見て、心がひどく傷んだ。なんとか助けてあげたいと思った。
だけど──彼女を傷つけていた「夫」は──他ならぬ、自分で──。
「真白さま。糸」
誠志郎は小さく呟く。すると真白が姿を表し、四方八方に霊力の糸を伸ばした。
ゆらりと廊下に出ると、そこには糸に絡められた使用人たちが身動きできずにいた。皆、風呂敷を背負っている。誠志郎が異変に気付いたので、金目の物を持ち出して逃げようとしていたのだった。
「なんという失態だ。こんな不忠義者たちを雇っていたなど」
いつも柔らかな雰囲気を纏った誠志郎が、刺すような視線で使用人たちを睨んでいる。
「妻から手紙を受け取っていたな?なぜ、わたしに届けなかった?」
「いえ……あっしらはちゃんと執事の飯山さんにお渡しして……」
飯山もグルなのか。そういえば、奴も祥子の悪評を聞かせたがった。自分と彼女の中を引き裂こうとしていたのか。しかし、それはなぜ?誰に得がある?
ずっと違和感があった。彼らは妻が金をばら撒くようにして遊び、数多くの恋人を作っているのだと言っていた。しかし、社交界ではそんな噂はとんと聞かない。
──鳴川子爵の奥様とご挨拶したいのだけれど、騒がしい席はお嫌いなのかしら。
パーティーでそんなことを言われ、妻が遊び歩いているわけではないと知った。金が必要なのには、理由があるのかもしれない。しかし、彼女の部屋を見るに、彼女が金を使っていた形跡はない。
ダイヤのネックレスを身につけていた女中。数々の贈り物に巨額の生活費。女主人としての権利。彼女の物を、誰かが奪っていたのだとしたら──?
「すべて、すべて吐いてもらう。お前たちの悪行のすべてを」
誠志郎の形相に、使用人たちはただ頷くことしかできなかった。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「道に迷いましたわ〜!」
「にゃーん……」
祥子は山道で途方に暮れていた。
朝、こっそり屋敷を抜け出したまではよかった。でも自分が方向音痴なのを忘れていた。鳴川邸はもっと街中にあったはず。途中にこんな山道はないはずなのに。
「ねえ、タマ。どちらに行けば良いか分かりまして?」
「んるーん?」
「ですわよね〜!」
わたくしたち、似た者同士ね。祥子はそう言ってタマの頭を撫でる。
(犬がいたらこんなこと、なかったかしら。帰巣本能が強いと聞くし。)
そんなことを考えていたら、桜餅の君の顔がポンっと頭の中に浮かんだ。
(奥様には会えたかしら。お話はできたかしら)
またしょんぼりするようなことがなければいいと思う。もう自分は慰めには行けないから。
「……彼が幸せに、なりますように」
そう呟いた、その時。
「えっ……」
急に周囲が闇に包まれた。
おかしい。夜が来るには早すぎる。
祥子は焦って辺りを見回す。
「なぁん!」
タマの方を振り返る。するとタマは何かに戯れつくように飛び跳ねていた。爛々と光る、その瞳の先には。
「糸……」
オパールのように輝く一本の糸が、空をゆらりと漂っていた。祥子は思わず手を伸ばす。しかし糸はするりと逃げていく。
「この糸は……どこ……から……?」
また手を伸ばす。するり。糸は捕まらない。
一歩、また一歩、祥子は糸に向かって歩き出す。
「待って……」
やがて祥子は走り出した。糸の導く方へ向かって。
つまらない女だと思った。自分のような美貌も、華やかさもない。
それなのに、精霊つきだからってチヤホヤされてきた?そんなの、我慢ならない。
祥子を訪ねた帰り。鞠子はとある寺院を訪れていた。普段の鞠子ならば頼まれたって来ない場所。だけれどもそこは華族の間では有名な寺で、参拝の予約がなかなか取れない場所だった。
「この度は格別なご支援をいただき……」
僧が頭を下げる
「出した金額の分だけ、わたくしの役に立ちなさいよね」
「はっ……」
護摩壇に炎が上がる。僧たちが経を唱える。それは合唱のように響き、護摩堂を異様な雰囲気で包み込んだ。
「我らの声を聞き届け給え。大いなる精霊、その資質を持つ力よ、ここに姿を現し給え」
ごう。
炎が一段と高く燃え上がると、そこには光の塊が現れた。
「精霊……!」
鞠子の声が震える。僧はさらに呪文を重ねる。
「ここにあるは精霊の力を求めし者なり。求めに応じその尊き御身をこの者に宿らしめ給え」
光はくるくると室内を舞ったかと思うと、鞠子の中へと入っていった。身体に温かいものを感じる。今まで自分にはなかった力を感じる。これが精霊つきになったことか、と鞠子は笑う。
僧は疲労困憊した様子で言った。
「これで精霊おろしの儀は終わりでございます」
「よくやったわ」
「しかし……今回は急なご依頼でしたので、千堂様に降ろしたものは精霊未満の存在でございます」
「はぁ?!この私に中途半端なものをおろしたっていうの?!」
「いえ、かの存在はもっと時間をかけて精霊になるはずのものでした。貴女さまがきちんとお祀りすれば、すぐにでも立派な精霊さまとなりましょう」
「じゃあ精霊には違いないってことね」
面倒なことを言わないでちょうだい、と鞠子は立ち上がる。しかしそれを静止するように、僧は言った。
「まだその存在は不安定だと言うことです。依代である貴女さまのお心次第では……」
「はいはい、わかったわ。ありがとうね」
用が終わった以上は、こんな辛気臭い場所に長居したくはなかった。待たせていた車に乗り込むと、鞠子は満足そうに笑う。
「これで私はすべてを手に入れた、ということね」
すでに暗くなった田舎道を、車は滑るように走り出す。
「あとは誠志郎さんを手に入れるだけね」
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
その翌朝。誠志郎は起きて身支度をすると、朝食も摂らずに屋敷を出た。執事の飯山にすら顔を合わせることもなく、別邸へと急ぐ。この時間に訪れれば、さすがに妻も在宅だろうと思ったからだ。
土手姫は覚悟を決めた。夫の家に乗り込むのだと言っていた。
自分だって、本気で事態を解決すべきだ。今までは妻に気を遣って、必ず事前に訪問の連絡をしていた。だから今までは逃げられていたのだ。今日こそは逃さない。ちゃんと自分と向き合ってもらう。
別邸に向かう途中で、土手を通り過ぎる。もちろん、彼女はいない。
「……」
何を未練がましいことを。誠志郎は首をを振る。
彼女は自分のことを好きだと言ってくれた。自分は彼女に恥じることがないように、誠実に行動するだけだ。彼女を幻滅させるようなことはしない。たとえ、もう会えることがないとしても。
別宅に到着すると、妙に使用人たちが騒がしいことに気付く。
「何があったというんだ」
声をかけると、妙子は顔を青くした。
「だ、旦那さま……」
「妻は在宅か?」
「そっ、それがっ、奥様のお姿が見えず……」
「皆、妻を探しているのか?」
「はっ、はい……」
おかしい。妻はいつも外を遊び歩いていて、家にいないのが当たり前のはずだ。それなのに今日は妻の姿が見えないと使用人が焦っている。今までは彼女の行き先にすら関心を持っていなかったのに。
きらり。
視界に光るものが見えた。誠志郎は妙子の着物の襟を強引に掴む。妙子は「ひぃえ?!」と腰を抜かした。彼女の首元には大きなダイヤモンドのネックレスが揺れている。
「これは──仏蘭西の貿易商から買い付けたものだ」
国内では売られてすらいないもの。まして、女中の給料では一生かかっても買えぬもの。
「わたしが妻へと贈ったものだ。どうしてお前が身につけている?」
「おっ……奥様が……くだすったので……」
「ふしだらと蔑んでいた女から、物を恵んでもらったのか?」
「そっ、それは……」
妙子は黙り込む。
「話にならん」
誠志郎は妙子を捨て置くと、屋敷の奥へと乱暴に進んだ。家の構造は知っている。一番広い部屋はここのはずだが──誠志郎は襖を開けると己の目を疑った。
室内があまりにも質素すぎる。置かれているのは鏡台と文机だけ。目を楽しませるような美しい調度品も、衣装箪笥すらない。部屋の隅には着物が何枚か畳まれているだけ。どれだけ衣装や贅沢品に金をつぎ込んでいるのかと思っていたのに、肩透かしも良いところだ。
その文机に、大量の紙の束が置かれていることに気付く。妻を知る数少ない手がかり。そんな気がして、誠志郎はそこに目を落とした。
「手紙……。わたしに宛てて……?」
鞠子が祥子に突き返したものだった。
その数は百枚はゆうに超えていた。繊細な筆跡で、丁寧にしたためられた文の数々。
「なんだ……わたしは受け取っていないぞ……!」
そこには日々の小さな気づきが綴られている。
そして手紙の結びには。
一度でもいい。会う機会が欲しい。ご縁があって夫婦になったのだから、お話をしましょう。
毎回、そんな願いが書かれていた。
「三ヶ月前の日付のものから……これはごく最近の……」
ふと、誠志郎の目はある文章に釘付けになった。
──本日はお友達ができました。その方も、想い人にお会いになれないのですって。わたくしも貴方さまにお会いできず、心が千々に乱れる想いでございます。でも美味しい桜餅をご馳走になって、ちょっぴり元気になりましたのよ。
それは誠志郎と土手姫が会った日付の手紙だった。
──この頃はすっかり風も温かくなりましたね。春の青空の下、貴方さまも同じ風を感じておられるのでしょうか。
彼女の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
──わたくしも夫に無視されておりますの。
──会って話をしたいって、毎日手紙を書いておりますの。
──だけど返事は梨の礫で。
土手姫は祥子で──自分の妻だった?
彼女も自分と話をすることを望んでいた?
絶望に打ちひしがれ、うずくまっていた土手姫。その姿を見て、心がひどく傷んだ。なんとか助けてあげたいと思った。
だけど──彼女を傷つけていた「夫」は──他ならぬ、自分で──。
「真白さま。糸」
誠志郎は小さく呟く。すると真白が姿を表し、四方八方に霊力の糸を伸ばした。
ゆらりと廊下に出ると、そこには糸に絡められた使用人たちが身動きできずにいた。皆、風呂敷を背負っている。誠志郎が異変に気付いたので、金目の物を持ち出して逃げようとしていたのだった。
「なんという失態だ。こんな不忠義者たちを雇っていたなど」
いつも柔らかな雰囲気を纏った誠志郎が、刺すような視線で使用人たちを睨んでいる。
「妻から手紙を受け取っていたな?なぜ、わたしに届けなかった?」
「いえ……あっしらはちゃんと執事の飯山さんにお渡しして……」
飯山もグルなのか。そういえば、奴も祥子の悪評を聞かせたがった。自分と彼女の中を引き裂こうとしていたのか。しかし、それはなぜ?誰に得がある?
ずっと違和感があった。彼らは妻が金をばら撒くようにして遊び、数多くの恋人を作っているのだと言っていた。しかし、社交界ではそんな噂はとんと聞かない。
──鳴川子爵の奥様とご挨拶したいのだけれど、騒がしい席はお嫌いなのかしら。
パーティーでそんなことを言われ、妻が遊び歩いているわけではないと知った。金が必要なのには、理由があるのかもしれない。しかし、彼女の部屋を見るに、彼女が金を使っていた形跡はない。
ダイヤのネックレスを身につけていた女中。数々の贈り物に巨額の生活費。女主人としての権利。彼女の物を、誰かが奪っていたのだとしたら──?
「すべて、すべて吐いてもらう。お前たちの悪行のすべてを」
誠志郎の形相に、使用人たちはただ頷くことしかできなかった。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「道に迷いましたわ〜!」
「にゃーん……」
祥子は山道で途方に暮れていた。
朝、こっそり屋敷を抜け出したまではよかった。でも自分が方向音痴なのを忘れていた。鳴川邸はもっと街中にあったはず。途中にこんな山道はないはずなのに。
「ねえ、タマ。どちらに行けば良いか分かりまして?」
「んるーん?」
「ですわよね〜!」
わたくしたち、似た者同士ね。祥子はそう言ってタマの頭を撫でる。
(犬がいたらこんなこと、なかったかしら。帰巣本能が強いと聞くし。)
そんなことを考えていたら、桜餅の君の顔がポンっと頭の中に浮かんだ。
(奥様には会えたかしら。お話はできたかしら)
またしょんぼりするようなことがなければいいと思う。もう自分は慰めには行けないから。
「……彼が幸せに、なりますように」
そう呟いた、その時。
「えっ……」
急に周囲が闇に包まれた。
おかしい。夜が来るには早すぎる。
祥子は焦って辺りを見回す。
「なぁん!」
タマの方を振り返る。するとタマは何かに戯れつくように飛び跳ねていた。爛々と光る、その瞳の先には。
「糸……」
オパールのように輝く一本の糸が、空をゆらりと漂っていた。祥子は思わず手を伸ばす。しかし糸はするりと逃げていく。
「この糸は……どこ……から……?」
また手を伸ばす。するり。糸は捕まらない。
一歩、また一歩、祥子は糸に向かって歩き出す。
「待って……」
やがて祥子は走り出した。糸の導く方へ向かって。

