「奥様はお出かけです」
別宅の玄関。妙子が神妙な顔で頭を下げる。誠志郎は「そうか」とため息をついた。
「……どこへ出かけたかは知っているか?」
「存じません」
妙子は眉を大袈裟に下げると、「ただ、旦那様にはご伝言が」と付け足した。
「なんだ」
「奥様は……生活費をもっと寄越せと仰せで──」
「……またか」
誠志郎は眉を顰めた。生活費の増額を求められるのは、これで五度目だ。
「こんな小さな邸宅で……何に使うというんだ」
「奥様は遊び歩いておいでですので……服飾費や交際費が必要なのでさないかと。今日もきっといかがわしい場所に……」
「それは」
誠志郎の声が自然と低くなる。妙子はびくりと身構えた。
「確かな情報か?それとも憶測か?」
「要らぬことを申しました」
頭を下げる妙子を、誠志郎は睨むように見つめた。
「良く勤めよ」
「……はい」
誠志郎は踵を返した。足は自然と、あの場所へと向かった。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「んまあ!まさかまたお会いできるだなんて!」
祥子はあんぐりと口を開けた。誠志郎は思わず笑ってしまう。さっきまでは眉間に皺を作っていたのに。
「ええと……ここにいらしているということは、つまり……」
「ええ。今日も会えませんでした」
「残念でしたわね……」
祥子はというと、今日も蔵に閉じ込められていた。でも壁に穴が空いていることは知っている。本当はこの隙に本宅に行ってみようかとも思ったが、タマを追いかけているうちにやっぱりここに来てしまった。
誠志郎は祥子の隣に座ると、桜餅の包みをあけた。そして鞄から水筒を出すと、カップに緑茶を注いで祥子に手渡した。
「まあまあ、ご丁寧に」
「いえいえ。せっかくの桜餅、美味しく召し上がっていただきたいですからね」
桜餅を食べて、緑茶を口に含む。桜と緑茶の香りが口の中で渾然一体となり、祥子はうっとりとため息をついた。
「なんて素晴らしいの……」
「はは。これだけ楽しんでいただけたら、桜餅も救われます」
「訪問先……お取引かなにかかしら?一口でも食べていただけたら、お話もきっとうまくいきますのにね」
「そう……ですねぇ」
二人の間にわずかな沈黙が落ちる。ややあって、誠志郎は勇気を出したように口を開いた。
「わたしは……女心がわかりませんで」
「えっ、はい。はぁ」
「訪問先というのは、妻なのです」
「まあ、奥様?別居中ということですか?」
「はい……」
「喧嘩でもなさったので……?」
「喧嘩も……させてもらえないのです。ずっと避けられていて……彼女のことがわからないのです。私の何が嫌いなのか。私の何に腹を立てているのか」
「まあ……」
誠志郎は微笑もうと努めてはいたが、眉毛がすっかり八の字になっている。
祥子にもその気持ちは痛いほど理解できた。望まれて結婚したのに、嫁入りしてみたら顔も合わせてくれない。自分の何が悪かったのだろう。考えるけれど分からない。ただ糸口が見つかればと、毎日手紙を書いている。
「文も何度か書きましたが返事は来ず……。電話も使用人を通して断られます。だから直接会おうと足を運ぶのですが……いつ来ても外出中だと……」
この人、やっぱりワンちゃんみたいだわ、と祥子は思う。濡れてしょんぼりしている柴犬みたいだ。なんだか見ていられなくって、祥子は言葉を探す。
「ええっと……何か心当たりはございませんの?奥様の機嫌を害するようなこと、身に覚えは……」
「ありすぎて……困っているのです……」
「えっ……ええっ……」
「そもそも、この結婚は家を繁栄させるためのものでしたし……」
愛のない、政略結婚。そんなものはこの世界にゴロゴロ転がっている。それでもみんな努力して夫婦になっていくものだ。
しかし。
「それに……私は結婚式を、欠席してしまったのです。土壇場で」
「んま、んま……んまぁーッ!」
誠志郎の言葉に、祥子のトラウマが刺激される。白無垢を着てポツンとひとり、金屏風の前に座った記憶が蘇る。両親は気を遣って「きれいだよ」と言ってくれたが、惨めさだけが募った。
「ゆっ、ゆるっ、許されませんわっ!」
「そうっ……ですよねっ……!」
「殿方には殿方のご事情がおありでしょうっ!けれどっ……!結婚式という乙女の夢をっ……踏みにじるなどっ……!」
「それはっ……、本当に……仰るとおりで……」
誠志郎はさらにしょんぼりしてしまった。彼が犯してしまった罪は重い。でも、自分が怒っても仕方がないと気を取りなおす。
「わたしは……どうすれば許されるでしょう……」
「時間をかけるしか……ないと思いますわ……。奥方様も、心の整理をつける時間が必要でしょうし……」
「そう……ですよね……」
こんなアドバイス、なんの足しにもならない。それは祥子にも痛いほどわかっていた。だから彼女も口を開く。
「わたくしも……ね……、夫にずっと無視されておりますのよ」
「なんと……」
「会って話をしたいって、毎日手紙を書いておりますの。だけど、返事は梨の礫で……」
辛い気持ちを、ぐっと堪える。無理やり笑顔を作ってみる。
「でも!わたくしは手紙を書き続けますわ!できることを、やるだけです」
「できることを……」
「ええ!あなた様もできることをおやりになるなら、わたくしも陰ながら応援いたします」
「ふっ、ふふ。それは心強いですね」
祥子と誠志郎は微笑みあった。お互いが、伴侶であると気付かぬまま。
「今更ですが──貴女にお名前をお伺いしても?」
誠志郎が恥ずかしそうに鼻をかく。そんな彼に祥子はそっぽを向いた。
「わたくし、破廉恥なことはいたしませんの」
「は、破廉恥ですか」
「ええ!既婚の男女が二人きりなど……破廉恥の極み!」
「おおー……なるほど」
「しかし!わたくしは桜の下で夢のような桜餅をいただく……泡沫のときを過ごしました。泡沫ならばセーフでございます!」
「なる……ほど……?」
「したがって!貴方様は現実の男性ではございません!泡沫です!夢の中の『桜餅の君』ですわ!」
「ええと……わたしは夢の中で貴女に桜餅を献上するだけの存在ですか」
「その通りです。わたくし、人妻ですから。後で夫に怒られても困りますもの!」
「ふっ、ふふふ……それは困りますね」
「そうでしょう!」
結局、二人は名前を明かさないまま別れた。
次に会う約束なんて、もちろんしない。もしまた偶然出会うことがあれば、一緒に桜を眺めたりするだろう。
でも、もう永遠に会うこともないかもしれない。だってこの逢瀬は泡沫だから。
少し寂しいような気持ちと、また会えるような予感。この二つを抱いて、誠志郎は屋敷に戻った。嫌味を繰り出す飯山を適当にいなす。しかし飯山の「鞠子様がいらしているのですよ」という言葉に、表情を固くする。
応接室では、千堂鞠子が優雅に紅茶を飲んでいた。西洋風に髪を巻き、ドレスに身を包んだ姿はまさに華族のご令嬢である。
誠志郎はよそいきの微笑みで、応接室へと向かった。
「……お待たせして申し訳ない」
「いいえ、お約束もなく上がり込んだのはわたくしの方だもの」
「今日はどのようなご用件で?」
「まあ、用事がなければ来てはいけない?」
「まさか、そんなことは」
「うふふ、冗談よ」
千堂家は伯爵位を持つ名家。貿易にも大きな影響力を持っている。鳴川家が作る絹糸は、そのほとんどが輸出向けだ。そして商品を海外に運ぶには、千堂家の力が不可欠だった。
千堂家の──鞠子の機嫌を損ねれば、何千人もの工員が職を失うかもしれない。そう思うと、誠志郎は鞠子に強く出ることができなかった。
「誠志郎さんをお花見にね、お誘いしようと思って」
「ああ、桜がよく咲いていますからね」
「うっふふ。いやぁだ。そこらに咲いている桜じゃないわ。河津から屋敷に百本、桜を取り寄せましたのよ。特別な桜を一緒に観ませんこと?」
千堂伯爵家は、こんな道楽を平気でやる家だった。そのスケールの大きさが恐ろしいと誠志郎は思う。
「素晴らしいですね。千堂伯爵とご一緒できるとは嬉しいことです」
鞠子の微笑みがぴくり引き攣る。
「……わたくしと二人ではお嫌かしら」
「まさか、わたしは既婚者ですから。鞠子さんと二人でいては、貴女様の名誉を傷つけることになってしまいます」
「……そう。そうね」
鞠子はティーカップの紅茶を飲み干すと、「ご馳走様」と席を立った。
「お見送りは結構よ。また楽しい催しを考えて参りますわね」
誠志郎の代わりに、飯山が鞠子を見送りに出る。彼女の足音がすっかり遠ざかるのを確認して、誠志郎は深くため息を吐いた。
「わからない。なぜ、鞠子さんがわたしに付きまとうのか。それに──」
土手に座って見た桜。それに、名前を教えてくれなかった彼女。なんて渾名をつけようか。「桜餅の君」に見合うような、みょうちくりんな呼び名がいい。
そんな下らないことを考えて、誠志郎はふっと笑った。
「きっと、彼女と見る桜の方が、何倍も美しいだろうな」
なぜそんなことを思ったのか、誠志郎は自分でもわからなかった。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「わたくし、早く誠志郎さんを手に入れたいわ」
鞠子はまるで玩具をねだるかのように言った。飯山は「それも遠い未来のことではないかと」と答える。
彼は鞠子が鳴川家に送り込んだ人間だった。誠志郎は早くに父を失い、若くして子爵位を継いだ。その混乱を利用したのだ。
飯山は鳴川家に忠誠心を持つ使用人たちを閑職に追いやった。鳴川家は飯山の天下も同然だったが、鞠子はそれだけでは満足しない。苛つきを隠さずに問いをぶつける。
「貴方たち……ちゃんと働いていて?」
「もちろんでございます。旦那様には絶えず奥様の悪い噂を流しています。今日も奥様が生活費を増額しろと──当家の財務を逼迫させるような要求をしていると、伝えさせたばかりで」
別宅で雇われている人間は、飯山の手の者ばかりだ。彼らは鞠子の目的のため、でっちあげの悪評を誠志郎に伝え続けている。
しかし誠志郎は易々と別れてはくれなかった。当家の都合で結婚してもらったのだから。結婚式に出られなかったから、と。
誠志郎が式を欠席したのも鞠子の企みによるものだったが、彼は知る由もない。あれは簡単だった。父におねだりして、急な商談を結婚式の日にぶつけたのだ。おかげで誠志郎も大きな契約を結べたのだし、良かったでしょ。なんて、鞠子は思っている。
「うーん。でもねぇ。もうひと押しが足りないのよねぇ。祥子さん、だったかしら?手っ取り早く追い出せたりはしないの?」
「彼女は精霊つきでございますから……。強硬手段にでればどんな障りがあるか」
これだから精霊というのは面倒臭い。そもそも祥子は商家の娘だったはずだ。それが精霊つきというだけで自分の邪魔をするなんて。
敬われるのは、いつだって自分であるべきだ。美貌、教養、尊い血筋、有り余る富……すべてを持ち合わせているのだから。
「奥様から旦那様への手紙はこちらで押さえておりますし……他に外部への連絡手段もございません。奥様も程なく根を上げるかと……」
「ふうん。でも、さっさと祥子さんを追い出せたら素敵よね」
精霊つきを追い出せたなら──それは自分の方が優れているという証左に他ならないのではないだろうか。
「うふふ。そうね、彼女にはご挨拶に参りましょう」
鞠子は桜貝のような小さな唇を、大きく歪めて微笑んだ。
別宅の玄関。妙子が神妙な顔で頭を下げる。誠志郎は「そうか」とため息をついた。
「……どこへ出かけたかは知っているか?」
「存じません」
妙子は眉を大袈裟に下げると、「ただ、旦那様にはご伝言が」と付け足した。
「なんだ」
「奥様は……生活費をもっと寄越せと仰せで──」
「……またか」
誠志郎は眉を顰めた。生活費の増額を求められるのは、これで五度目だ。
「こんな小さな邸宅で……何に使うというんだ」
「奥様は遊び歩いておいでですので……服飾費や交際費が必要なのでさないかと。今日もきっといかがわしい場所に……」
「それは」
誠志郎の声が自然と低くなる。妙子はびくりと身構えた。
「確かな情報か?それとも憶測か?」
「要らぬことを申しました」
頭を下げる妙子を、誠志郎は睨むように見つめた。
「良く勤めよ」
「……はい」
誠志郎は踵を返した。足は自然と、あの場所へと向かった。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「んまあ!まさかまたお会いできるだなんて!」
祥子はあんぐりと口を開けた。誠志郎は思わず笑ってしまう。さっきまでは眉間に皺を作っていたのに。
「ええと……ここにいらしているということは、つまり……」
「ええ。今日も会えませんでした」
「残念でしたわね……」
祥子はというと、今日も蔵に閉じ込められていた。でも壁に穴が空いていることは知っている。本当はこの隙に本宅に行ってみようかとも思ったが、タマを追いかけているうちにやっぱりここに来てしまった。
誠志郎は祥子の隣に座ると、桜餅の包みをあけた。そして鞄から水筒を出すと、カップに緑茶を注いで祥子に手渡した。
「まあまあ、ご丁寧に」
「いえいえ。せっかくの桜餅、美味しく召し上がっていただきたいですからね」
桜餅を食べて、緑茶を口に含む。桜と緑茶の香りが口の中で渾然一体となり、祥子はうっとりとため息をついた。
「なんて素晴らしいの……」
「はは。これだけ楽しんでいただけたら、桜餅も救われます」
「訪問先……お取引かなにかかしら?一口でも食べていただけたら、お話もきっとうまくいきますのにね」
「そう……ですねぇ」
二人の間にわずかな沈黙が落ちる。ややあって、誠志郎は勇気を出したように口を開いた。
「わたしは……女心がわかりませんで」
「えっ、はい。はぁ」
「訪問先というのは、妻なのです」
「まあ、奥様?別居中ということですか?」
「はい……」
「喧嘩でもなさったので……?」
「喧嘩も……させてもらえないのです。ずっと避けられていて……彼女のことがわからないのです。私の何が嫌いなのか。私の何に腹を立てているのか」
「まあ……」
誠志郎は微笑もうと努めてはいたが、眉毛がすっかり八の字になっている。
祥子にもその気持ちは痛いほど理解できた。望まれて結婚したのに、嫁入りしてみたら顔も合わせてくれない。自分の何が悪かったのだろう。考えるけれど分からない。ただ糸口が見つかればと、毎日手紙を書いている。
「文も何度か書きましたが返事は来ず……。電話も使用人を通して断られます。だから直接会おうと足を運ぶのですが……いつ来ても外出中だと……」
この人、やっぱりワンちゃんみたいだわ、と祥子は思う。濡れてしょんぼりしている柴犬みたいだ。なんだか見ていられなくって、祥子は言葉を探す。
「ええっと……何か心当たりはございませんの?奥様の機嫌を害するようなこと、身に覚えは……」
「ありすぎて……困っているのです……」
「えっ……ええっ……」
「そもそも、この結婚は家を繁栄させるためのものでしたし……」
愛のない、政略結婚。そんなものはこの世界にゴロゴロ転がっている。それでもみんな努力して夫婦になっていくものだ。
しかし。
「それに……私は結婚式を、欠席してしまったのです。土壇場で」
「んま、んま……んまぁーッ!」
誠志郎の言葉に、祥子のトラウマが刺激される。白無垢を着てポツンとひとり、金屏風の前に座った記憶が蘇る。両親は気を遣って「きれいだよ」と言ってくれたが、惨めさだけが募った。
「ゆっ、ゆるっ、許されませんわっ!」
「そうっ……ですよねっ……!」
「殿方には殿方のご事情がおありでしょうっ!けれどっ……!結婚式という乙女の夢をっ……踏みにじるなどっ……!」
「それはっ……、本当に……仰るとおりで……」
誠志郎はさらにしょんぼりしてしまった。彼が犯してしまった罪は重い。でも、自分が怒っても仕方がないと気を取りなおす。
「わたしは……どうすれば許されるでしょう……」
「時間をかけるしか……ないと思いますわ……。奥方様も、心の整理をつける時間が必要でしょうし……」
「そう……ですよね……」
こんなアドバイス、なんの足しにもならない。それは祥子にも痛いほどわかっていた。だから彼女も口を開く。
「わたくしも……ね……、夫にずっと無視されておりますのよ」
「なんと……」
「会って話をしたいって、毎日手紙を書いておりますの。だけど、返事は梨の礫で……」
辛い気持ちを、ぐっと堪える。無理やり笑顔を作ってみる。
「でも!わたくしは手紙を書き続けますわ!できることを、やるだけです」
「できることを……」
「ええ!あなた様もできることをおやりになるなら、わたくしも陰ながら応援いたします」
「ふっ、ふふ。それは心強いですね」
祥子と誠志郎は微笑みあった。お互いが、伴侶であると気付かぬまま。
「今更ですが──貴女にお名前をお伺いしても?」
誠志郎が恥ずかしそうに鼻をかく。そんな彼に祥子はそっぽを向いた。
「わたくし、破廉恥なことはいたしませんの」
「は、破廉恥ですか」
「ええ!既婚の男女が二人きりなど……破廉恥の極み!」
「おおー……なるほど」
「しかし!わたくしは桜の下で夢のような桜餅をいただく……泡沫のときを過ごしました。泡沫ならばセーフでございます!」
「なる……ほど……?」
「したがって!貴方様は現実の男性ではございません!泡沫です!夢の中の『桜餅の君』ですわ!」
「ええと……わたしは夢の中で貴女に桜餅を献上するだけの存在ですか」
「その通りです。わたくし、人妻ですから。後で夫に怒られても困りますもの!」
「ふっ、ふふふ……それは困りますね」
「そうでしょう!」
結局、二人は名前を明かさないまま別れた。
次に会う約束なんて、もちろんしない。もしまた偶然出会うことがあれば、一緒に桜を眺めたりするだろう。
でも、もう永遠に会うこともないかもしれない。だってこの逢瀬は泡沫だから。
少し寂しいような気持ちと、また会えるような予感。この二つを抱いて、誠志郎は屋敷に戻った。嫌味を繰り出す飯山を適当にいなす。しかし飯山の「鞠子様がいらしているのですよ」という言葉に、表情を固くする。
応接室では、千堂鞠子が優雅に紅茶を飲んでいた。西洋風に髪を巻き、ドレスに身を包んだ姿はまさに華族のご令嬢である。
誠志郎はよそいきの微笑みで、応接室へと向かった。
「……お待たせして申し訳ない」
「いいえ、お約束もなく上がり込んだのはわたくしの方だもの」
「今日はどのようなご用件で?」
「まあ、用事がなければ来てはいけない?」
「まさか、そんなことは」
「うふふ、冗談よ」
千堂家は伯爵位を持つ名家。貿易にも大きな影響力を持っている。鳴川家が作る絹糸は、そのほとんどが輸出向けだ。そして商品を海外に運ぶには、千堂家の力が不可欠だった。
千堂家の──鞠子の機嫌を損ねれば、何千人もの工員が職を失うかもしれない。そう思うと、誠志郎は鞠子に強く出ることができなかった。
「誠志郎さんをお花見にね、お誘いしようと思って」
「ああ、桜がよく咲いていますからね」
「うっふふ。いやぁだ。そこらに咲いている桜じゃないわ。河津から屋敷に百本、桜を取り寄せましたのよ。特別な桜を一緒に観ませんこと?」
千堂伯爵家は、こんな道楽を平気でやる家だった。そのスケールの大きさが恐ろしいと誠志郎は思う。
「素晴らしいですね。千堂伯爵とご一緒できるとは嬉しいことです」
鞠子の微笑みがぴくり引き攣る。
「……わたくしと二人ではお嫌かしら」
「まさか、わたしは既婚者ですから。鞠子さんと二人でいては、貴女様の名誉を傷つけることになってしまいます」
「……そう。そうね」
鞠子はティーカップの紅茶を飲み干すと、「ご馳走様」と席を立った。
「お見送りは結構よ。また楽しい催しを考えて参りますわね」
誠志郎の代わりに、飯山が鞠子を見送りに出る。彼女の足音がすっかり遠ざかるのを確認して、誠志郎は深くため息を吐いた。
「わからない。なぜ、鞠子さんがわたしに付きまとうのか。それに──」
土手に座って見た桜。それに、名前を教えてくれなかった彼女。なんて渾名をつけようか。「桜餅の君」に見合うような、みょうちくりんな呼び名がいい。
そんな下らないことを考えて、誠志郎はふっと笑った。
「きっと、彼女と見る桜の方が、何倍も美しいだろうな」
なぜそんなことを思ったのか、誠志郎は自分でもわからなかった。
◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎▪︎ ◻︎
「わたくし、早く誠志郎さんを手に入れたいわ」
鞠子はまるで玩具をねだるかのように言った。飯山は「それも遠い未来のことではないかと」と答える。
彼は鞠子が鳴川家に送り込んだ人間だった。誠志郎は早くに父を失い、若くして子爵位を継いだ。その混乱を利用したのだ。
飯山は鳴川家に忠誠心を持つ使用人たちを閑職に追いやった。鳴川家は飯山の天下も同然だったが、鞠子はそれだけでは満足しない。苛つきを隠さずに問いをぶつける。
「貴方たち……ちゃんと働いていて?」
「もちろんでございます。旦那様には絶えず奥様の悪い噂を流しています。今日も奥様が生活費を増額しろと──当家の財務を逼迫させるような要求をしていると、伝えさせたばかりで」
別宅で雇われている人間は、飯山の手の者ばかりだ。彼らは鞠子の目的のため、でっちあげの悪評を誠志郎に伝え続けている。
しかし誠志郎は易々と別れてはくれなかった。当家の都合で結婚してもらったのだから。結婚式に出られなかったから、と。
誠志郎が式を欠席したのも鞠子の企みによるものだったが、彼は知る由もない。あれは簡単だった。父におねだりして、急な商談を結婚式の日にぶつけたのだ。おかげで誠志郎も大きな契約を結べたのだし、良かったでしょ。なんて、鞠子は思っている。
「うーん。でもねぇ。もうひと押しが足りないのよねぇ。祥子さん、だったかしら?手っ取り早く追い出せたりはしないの?」
「彼女は精霊つきでございますから……。強硬手段にでればどんな障りがあるか」
これだから精霊というのは面倒臭い。そもそも祥子は商家の娘だったはずだ。それが精霊つきというだけで自分の邪魔をするなんて。
敬われるのは、いつだって自分であるべきだ。美貌、教養、尊い血筋、有り余る富……すべてを持ち合わせているのだから。
「奥様から旦那様への手紙はこちらで押さえておりますし……他に外部への連絡手段もございません。奥様も程なく根を上げるかと……」
「ふうん。でも、さっさと祥子さんを追い出せたら素敵よね」
精霊つきを追い出せたなら──それは自分の方が優れているという証左に他ならないのではないだろうか。
「うふふ。そうね、彼女にはご挨拶に参りましょう」
鞠子は桜貝のような小さな唇を、大きく歪めて微笑んだ。

