放置された妻は、精霊に導かれて夫と恋をする

ひらひら。きらきら。
闇の中を、一本の糸がたなびいている。
ひらひら。きらきら。
それはまるでオパールのように輝いている。
どこから来たの?
一体、誰と繋がっているの?
祥子は懸命に手を伸ばすけれど、届かない。
そして夢は覚め、また孤独な日常が始まる──。

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「こう毎日、手紙を書かれても困るんですけどねぇ」
 使用人の妙子は今日もイラついた様子で言った。
「お願いします、そこをなんとか」
 祥子は深く頭を下げる。女主人にあるまじき振る舞いだが、この家ではいつもの光景だ。
「手紙は届けさせますけどねぇ、旦那様は読まれないと思いますよぉ?」
 本宅に住む夫からは返事が来ない。結婚してから毎日文を送り続けているのに、だ。
「実家に帰る準備でもしたほうが、まだマシだと思いますけどねぇ」
「せめてお返事を……。一度だけでも……旦那様とお話しする機会を……」
「ハァ。まったく、しつこいったら」
 妙子は大袈裟に溜息をつくと、手紙を持って去っていった。
 祥子の部屋に残されたのは、立派な朝食の膳。そこには米と味噌汁だけではなく、榊や酒まで乗っている。
「この身に依り坐す精霊様、尊きお姿をお見せください」
 祥子がそっと呟く。すると目の前に光り輝く一匹の白猫が現れた。
「さあ、タマ。神饌ですよ」
 タマと呼ばれた猫は、「ぐるるん」と頭を祥子の頬にすりつける。タマが放つ清らかな霊気のおかげか、祥子の暗い気持ちが少し晴れる。
 この国には八百万の神がおわす。神々は人に姿を見せることはない。しかし、精霊は別だ。家や人と契約を交わし、加護を与えてくれる。それは文明開花で賑わう今の世も変わらない。
 タマは祥子が契約している精霊だ。幼い頃から、ずっと一緒だった。
 タマが膳の前で目を瞑り、神饌の精気を吸う。残った米や味噌汁は、祥子がその日の食事としていただく。
 もしタマがいなかったら、きっと食事は与えられなかっただろうなと祥子は思う。この鳴川家に嫁入りしてから、彼女は真っ当な扱いを受けていない。
 結婚するまでお相手の顔を見たことがない、なんて普通のことだ。だけど、夫の鳴川誠志郎は花婿なのに結婚式に来てもくれなかった。両親は懸命に「きれいだよ」と慰めてくれた。だけどひとりぼっちで金屏風の前に座った惨めな気持ちは、一生忘れることはないだろう。
 そしてその後は祥子を別宅に追いやり、会いに来ようともしない。だから祥子は結婚して三ヶ月も経つのに、いまだに夫の顔を知らないままだ。
 夫に蔑ろにされる嫁を、使用人が敬うはずもなかった。彼らはあからさまに祥子を見下し、私室から出ることすら許さない。「夫に認められない奥方が、平気な顔をして出歩くなんて恥ずかしい」と。
 それでも毎日、膳が用意されるのは、精霊の力を畏れているからだ。タマがいなければ、祥子は飢えと孤独でとっくに逃げ出していただろう。そう、祥子はタマの残り物で命を長らえているのだ。
「……タマがいてくれて良かった」
 タマはご機嫌そうに「なん!」と鳴く。
「それでもね、やっぱり寂しいわ。せっかく縁付いたのに、お会いすることもできないなんて」
 お会いしたい。お話ししたい。なぜ自分を遠ざけるのかわからない。夫婦なのだから、歩み寄りましょう。
 毎日、そう手紙に書く。
 誠志郎は祥子が精霊つきだからと嫁に求めた。精霊の力が欲しいための結婚だ。それでも夫婦になったのだから、絆を育みたい。ちゃんと家族になりたいと、祥子は思う。
「……お会いしたいわ。私はここから出してもらえないから……誠志郎さまが来てくださらないかしら」
 ふと呟く。するとタマは立ち上がり、前脚を「こいこい」と動かした。それは招き猫のポーズだった。
「うふふっ。タマが招き猫をしてくれると、みんな幸せになるものね」
 実家は大きな商家だった。タマが来てからというまの、家は益々繁盛した。みんなタマを敬い、祥子にも優しかった。
(帰りたい──)
 祥子はそんな気持ちをぐっと胸に飲み込んで、味のしない朝食をもそもそと食べた。

 いつもは息を潜めて私室で過ごす。しかし今日はなんだか事情が違った。妙子が不機嫌そうにやってくると、祥子を蔵に閉じ込めたのだ。
「ど、どうして?わたくし、なにか……」
「あー、うるさいねぇ。夜には出してあげますから、口を閉じててくれません?」
 妙子はそう言って蔵の扉を閉めた。視界が闇に閉ざされる。怖くて扉に縋ったけれど、鍵をかけられてびくともしない。
「んなーんん」
 泣きそうになったところに、タマが姿を現した。タマの清らかな霊気が蔵の中を照らす。
「うう……、タマ……!」
 思わず強く抱きしめてしまい、タマが不満を言うように鳴く。
「なんん!!」
「あ、ごめんなさいね……」
「ぐるる!」
 タマは祥子の腕から這い出ると、彼女の着物の裾をくわえて引っ張った。「ついてこい」という仕草である。
「どうしたの?ここに玩具でも…………あっ……!」
 タマが案内する先には、外からの光が漏れ出ている場所があった。壁が崩れて、穴が空いている。祥子ならば潜れそうなほどの穴だ。
 止める隙もなく、タマは穴から出ていってしまう。
「待って……!お外に出たら危ないわ……!」
 祥子は思わず追いかけた。ずっと家の中で大事にしてきた猫なのだ。野犬に襲われでもしたらたまらない。
「待って……」
 穴から這い出て、屋敷の生垣の合間を潜って外へ。
 別宅を出たのは三ヶ月ぶりだ。しかし開放感よりも、タマを見失ってしまう恐怖が祥子を突き動かした。
「ど、どこ……」
「なーん」
 タマはいつの間にか道の先へ。祥子は走ったことなどない。足をもつれさせながら追いかける。
「タマ……」
「んるる」
 タマはどんどん屋敷から遠ざかっていく。祥子には土地勘がない。知らない景色に戸惑いながら、歩みを進める。
 そして、どれくらい経っただろうか。タマがようやく立ち止まった場所は、桜並木だった。
「わあ……。満開ね」
 嫁入りしたのは冬のこと。今まで季節の移り変わりを感じる余裕すらなかった。見上げてみれば、空は抜けるように青い。
「んあーお」
 タマは陽の光を浴びて、いつも以上に輝いていた。白い毛並みがふわふわと風に揺れている。
「……あなたもたまにはお外に出たいわよね。少しだけ……お花見と洒落込みましょうか」
 祥子たちは桜並木のそばの土手に座った。ただ、ぼんやりと桜を眺める。
 愛のない結婚。顔を合わせてもくれない夫。冷たい使用人たち。軟禁されているかのような生活。
 辛い現実から、心がふわりと離れていった、そのとき。

 ひらひら。きらきら。

 夢で見た、一本の糸。それが視界の隅を掠めた。祥子は思わず振り返る。するとその先には、一人の男性がいた。かちりと目が合い、二人はしばし見つめ合う。
 整った顔立ち。穏やかな眼差し。仕立ての良いスリーピースのスーツを、優雅に着こなしている。
「あ……失礼をば……」
 祥子はぱっと目を逸らした。人の顔をじろじろと見つめるなんてはしたない。
 男も「私こそ失礼を」と軽く頭を下げる。低く柔らかな声音に、祥子はなんだか安心する。
 しばしの沈黙があった後、男は「お花見ですか」と口を開いた。
「あ……ええ。見事な桜に、感じ入っておりました」
「そうでしたか」
 男は手に持っていた包みを祥子に差し出した。
「もしよろしければ……桜餅、もらっていただけませんか」
「え……?」
「一緒に食べようと思っていた人の、都合がつきませんで……。」
 それならいただいてもいいのかしら?祥子はタマの方を振り返る。しかしタマはいつの間にか姿を消していた。精霊だからか猫だからか、気分屋なのだ。
 男は包みを祥子に手渡すと「では……」と背中を向ける。
「あ……あの……」
 お礼を言わなきゃ。祥子は勇気を出して口を開く。しかし口から出たのは、自身でも思ってもいない言葉だった。
「せっ……せっかくですから、ご一緒しませんか?!」
「えっ……」
「せっかく……ですから……」
 祥子の顔が赤くなる。
(わっ……わたし……なんて破廉恥なことを……!)
 男性は目を瞬かせていたけれど、「それは楽しそうだ」と祥子の隣に腰を下ろした。
 祥子はぎくしゃくと包みを開けた。男は桜餅を手に掴むと、一口食べて「うん」と頷く。
 祥子も「ご相伴にあずかります」と桜餅を口に運ぶ。そしてカッと目を見開いた。
「口の中に広がる桜の香り……!そして程よい硬さの餅米の歯触り……!餡の上品な甘さ……!なんと素晴らしい桜餅でしょう……!」
 彼女があまりにも真面目に言うものだから、男はぷっと吹き出した。
「くっふふ、そんなに気に入っていただけるとは……!」
「あ、いやだ、私ったら……。はしたのうございましたね」
「いえいえ。喜びが伝わってきて、こちらも嬉しいですよ」
「そう……言っていただけると……」
 祥子は顔を伏せた。久々の甘味にはしゃいでしまって恥ずかしい。
 男は「実は」と口を開く。
「尋ね人には、会ってもらえなかったのです。ずっと避けられていて」
「まあ……」
「この桜餅はわたしのお気に入りで。こちらを持参すれば会ってくれるかもしれないと……」
 男は心なしかしょんぼりしているように見えた。雨に濡れた子犬のようで、祥子はなんだか心苦しく思う。だから思いつくままに「大丈夫ですわ」と気休めを言った。
「こんなに美味しい桜餅をご持参ですもの、お相手もいつかはお会いくださいますわ」
「そう……ですかね」
「そうですとも!この桜の香りに餅米の照り!天岩戸も開くというもの!」
「ふふ、それはすごい」
「一度目は無理でも二度三度と桜餅の誘惑に駆られては……誰だってお会いにならずにいられません!」
「そうですね。三顧の礼とも言いますし、また訪ねてみることとします」
 男は柔らかく微笑む。少しでも慰められたかな、と思って祥子はホッとした。
「でも……二度目も訪問相手に会えなかったら、またご一緒させてください」
 男の言葉に、祥子は曖昧に微笑んだ。「また」の機会はないと思う。彼女がここに来れたのは、たまたまだ。また外に出られる機会があるかはわからない。
「……あなた様の訪問がうまくいくことを祈っておりますわ」
「ありがとう」
 少し会話を交わし桜餅を食べ終わると、男はゆったりとした足取りで去っていった。祥子はその姿をじっと見守る。
(人のご縁というのは難しい……。わたくしも、あの方も会いたい人に会えないでいる……)
 そばにはいつの間にか、タマが姿を現していた。
「あらまあ、タマったら!本当に気まぐれなんだから!」
 タマは素知らぬ顔で毛繕いをしている。
「わたくしね!久しぶりに……会話をしましたのよ!見下されることもなく、ちゃんと人として扱ってもらえましたのよ!」
 冷たく当たる使用人たちのことを思い出して、祥子の瞳の端に涙が浮かんだ。それでもあの家に帰らなければならない。自分は鳴川家の嫁なのだから。

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 男は屋敷に戻ると、苦虫を噛み潰したような顔の執事に迎えられた。
「旦那様、共もつけず……」
「説教はいい」
 屋敷は重厚な造りの洋館だ。彼の家は養蚕事業で栄えた家。輸出先の英国や仏蘭西からは、素晴らしい絹糸を求めて客が頻繁にやってくる。
 彼は当主として、若いながらも頭角を表していた。それだけに執事の飯山も彼の行動にうるさい。
「それで……いかがでした」
「顔を見ることもできなかったさ」
「左様でございますか」
 結婚してから、ずっと別宅に引きこもったままの妻。何度手紙や贈り物を送っても、なんの返事もない。一度も顔を合わせようとはしてくれない。
 だから彼は痺れを切らし、自ら会いに行くことにしたのだ。
「……旦那様。やはり鳴川家には、もっと相応しい女性を」
「結婚したからには、そう簡単に縁を切るものではない。それに」
 男は祥子のことを思い出す。なんとか自分を慰めようと、一生懸命に言葉を紡ぐ姿。その思いに心が温まる。
「一度目が駄目でも、二度目があるさ」
 誠志郎はそう言って微笑んだ。