正常の外で、君を飼う

そこに、立っていたのは——凪だった。

息が、ほんのわずかに乱れている。

走ってきたのが分かる。

でも。

表情は、ほとんど変わっていない。

いつもと同じ。

静かで。

整っていて。

「……凪」

水城の声が、少しだけ掠れる。

驚きと。

体調の悪さと。

色々混ざった音。

凪は、そのまま数秒、水城を見る。

何も言わずに。

視線を逸らさずに。

「……どうした」

水城が先に口を開く。

問いというより。

確認みたいに。

凪は、一瞬だけ間を置く。

言葉を選ぶみたいに。

でも。

「……間違えました」

そう言った。

静かに。

はっきりと。

水城の思考が、一瞬止まる。

「……は?」

意味が分からない。

でも。

凪は続ける。

「距離を置く、という判断」

一つひとつ、整理するみたいに。

「正しいと思っていました」

事実を述べる声。

感情はのっていない。

でも。

「結果として」

ほんのわずかにだけ。

声が低くなる。

「間違いでした」

その一言で。

空気が、少し変わる。

水城は、何も言えない。

理解が追いつかない。

「……お前、なに」

言いかけて、止まる。

凪の様子が、いつもと少し違う。

ほんのわずか。

でも、確実に。

「……体調、悪いですよね」

先に言われる。

視線が、水城の顔から少しだけ下に落ちる。

状態を確認するみたいに。

「……なんで分かるんだよ」

小さく返す。

隠していたつもりはないけど。

言ってもいない。

凪は、少しだけ目を細める。

「聞きました」

短く。

それだけ。

水城の中で、何かが繋がる。

昼のこと。

誰かに見られていたこと。

「……あー」

小さく息を吐く。

「別に、大したことない」

反射的に言う。

いつもの癖。

大丈夫だと見せる。

でも。

「違います」

即座に否定される。

間を置かずに。

「しゃがみ込んでいたと」

事実を突きつける。

逃げ道を塞ぐ形で。

水城が、少しだけ眉を寄せる。

「……だからって」

言い返そうとして。

でも。

言葉が続かない。

理由が、弱い。

凪は、一歩だけ近づく。

玄関の距離。

すぐ目の前。

「……どうして言ってきてくれなかったんですか」

静かに。

でも、はっきり。

問う。

水城の呼吸が、一瞬止まる。

その問いは。

まっすぐすぎる。

「……は?」

思わず出る。

理解が追いつかない。

「来るなって言ったの、俺だろ」

当たり前のことを言う。

正論。

でも。

凪は、首を横に振る。

「距離を置く、という指示だったので」

冷静に言う。

「近づかない、連絡しない」

自分の解釈を、そのまま。

「守りました」

間違っていない。

論理としては、完璧。

だからこそ。

「……でも」

そこで、初めて。

声が、少しだけ揺れる。

ほんのわずかに。

「体調不良は、例外にすべきでした」

水城の目が、見開く。

その一言。

「優先順位を、誤りました」

続ける。

淡々と。

でも。

その内容は、全然軽くない。

「……お前」

水城の声が、低くなる。

怒りじゃない。

でも。

強くなる。

「そんなの、分かるだろ普通」

思わず言ってしまう。

その瞬間。

凪の動きが、止まる。

ほんの一瞬だけ。

でも。

はっきりと。

「……普通」

小さく、繰り返す。

その言葉。

水城が、はっとする。

言ってしまったと気づく。

でも。

もう遅い。

凪は、ゆっくりと顔を上げる。

視線が合う。

逃げない。

「分からないので」

静かに言う。

責めるでもなく。

ただ、事実として。

「教えてください」

その一言が。

まっすぐ落ちる。

「どこまでが、距離で」

ほんの少しだけ、間。

「どこからが、例外ですか」

水城は、何も言えない。

言葉が、出てこない。

正しい答えが、分からない。

さっき、自分で言った。

普通。

でも。

それを、説明できない。

「……俺」

口を開く。

でも。

続かない。

曖昧すぎる。

その沈黙を。

凪は、そのまま受け取る。

数秒。

何も言わない。

でも。

逃げない。

そのまま。

「……すみません」

先に、凪が言う。

少しだけ、視線を落として。

「今日、すぐ来なかったのは」

自分の行動に対して。

「間違いです」

はっきりと認める。

「次からは、修正します」

その言い方は。

まるで、何かのルールを更新するみたいで。

でも。

「……次も来る気かよ」

水城が、小さく笑う。

呆れたみたいに。

でも。

どこかで、安心している。

凪は、迷わない。

「はい」

即答。

「必要なら」

付け足す。

水城の喉が、詰まる。

その言葉。

「……必要って」

繰り返す。

かすれた声で。

「誰が決めんだよ」

問いかける。

凪は、一瞬だけ考える。

でも。

「水城さんです」

そう答える。

迷いなく。

「水城さんが、困っているなら」

一歩、さらに近づく。

距離が、ほとんどなくなる。

「来ます」

その一言。

シンプルで。

逃げ場がない。

水城は、目を逸らす。

耐えられないみたいに。

「……来てほしかったくせに」

ぽつりと出る。

自分でも止められなかった。

その言葉。

凪の動きが、止まる。

「……え」

小さく。

ほんのわずかに。

初めて、完全に崩れる。

水城は、そのまま続ける。

止められない。

「……来ないくせにさ」

少しだけ、声が震える。

「なんで来ないんだよって、ずっと思ってた」

言ってしまう。

全部。

隠してたやつ。

「……俺が来んなって言ったのに」

矛盾。

分かってる。

でも。

「……それでも、来いよ」

最後は、ほとんど願いだった。

静かに。

落ちる。

沈黙。

凪は、動かない。

言葉も出ない。

でも。

数秒後。

「……分かりました」

小さく。

でも、はっきり。

そう言う。

「次からは、そうします」

真面目に。

そのまま受け取る。

水城が、思わず笑う。

「……ごめん、めんどくさいよな」

呆れた声。

でも。

その中に。

さっきまでなかった柔らかさが、少しだけ戻る。

凪は、少しだけ首を傾げる。

意味は分かっていない。

でも。

「……大丈夫です」

と答える。

水城が、もう一度笑う。

「なにがだよ」

小さくツッコむ。

そのまま。

数秒。

何も言わずに、立ったまま。

距離は、近い。

さっきまで置こうとしていた距離。

もう、ない。

水城が、ゆっくりと息を吐く。

「……上がれよ」

短く言う。

ドアを少し開けて。

「そのまま帰すのも、あれだし」

言い訳みたいに付け足す。

凪は、一瞬だけ考えて。

「はい」

と答える。

そのまま、一歩踏み出す。

玄関の中へ。

すれ違う瞬間。

ほんのわずかに。

袖が触れる。

それだけなのに。

「……」

水城の動きが、一瞬止まる。

でも。

何も言わない。

そのままドアを閉める。

静かな音。

外と中が、完全に分かれる。

その空間の中で。

二人の距離は。

また、最初より少しだけ。

近くなっていた。

ドアが閉まる。

外の音が、完全に遮断される。

静かだった。

さっきまでの会話の余韻だけが、やけに残っている。

「……適当に座って」

水城が、奥を顎で示す。

凪は、靴を脱いで上がる。

部屋の中に入るのは、これが初めてだった。

けれど。

特に何かを観察する様子もなく、そのまま言われた通りに座る。

水城は、少しだけふらつきながらキッチンの方へ行く。

「水、飲む?」

振り返らずに聞く。

「はい」

短い返事。

グラスに水を注ぐ音。

それがやけに大きく聞こえる。

凪は、その背中を見ている。

さっきまでよりも、少しだけ不安定な立ち方。

呼吸も、ほんのわずかに乱れている。

「……無理しないでください」

静かに言う。

水城の動きが、一瞬止まる。

でも。

「してない」

すぐに返す。

いつものやつ。

強がり。

そのまま戻ってきて、グラスを差し出す。

凪は受け取る。

「ありがとうございます」

一口飲む。

その間に、水城はソファに腰を下ろす。

少しだけ、距離がある。

同じ空間。

でも。

さっきまでの詰めた距離とは、違う配置。

「……」

沈黙。

気まずさじゃない。

でも。

——整ってない。

さっきまで外で成立していた関係が、この部屋の中で少し形を変えている。

「……凪」

水城が、先に口を開く。

「はい」

「さっきの」

少しだけ言葉を探す。

「……来いよ、ってやつ」

凪の視線が、わずかに上がる。

「はい」

水城は、少しだけ笑う。

自嘲気味に。

「……あれさ」

息を吐く。

「普通に考えて、おかしいからな」

凪は、何も言わない。

否定も、肯定もしない。

水城は続ける。

「来るなって言っといて、来いって」

視線を落とす。

自分の手元に。

「……意味わかんねえだろ」

凪は、ほんの少しだけ考える。

そして。

「はい」

と答える。

正直に。

水城が、吹き出す。

「だよな」

小さく笑う。

でも。

その笑いは、すぐに消える。

「……俺さ」

少しだけ間。

「多分、向いてないわ」

その一言で。

空気が、変わる。

凪の視線が止まる。

「……何にですか」

静かに問う。

水城は、少しだけ考える。

でも。

すぐに答える。

「こういうの」

曖昧な言い方。

でも。

「距離とか、関係とか」

少しずつ、具体になる。

「お前みたいなやつと、ちゃんとやるの」

凪の呼吸が、ほんのわずかに変わる。

でも、言葉は出さない。

水城は、そのまま続ける。

止めない。

「お前さ」

顔を上げる。

まっすぐ見る。

「止まんねえだろ」

凪は、迷わない。

「はい」

即答。

それが答え。

水城は、頷く。

「俺もさ」

少しだけ、苦笑する。

「止めらんねえんだわ」

その一言。

凪の目が、わずかに揺れる。

初めて。

はっきりと。

「……じゃあ」

凪が口を開く。

「問題ないです」

水城が、首を横に振る。

「あるんだよ」

はっきりと言う。

「めちゃくちゃある」

少しだけ声が強くなる。

「このままいったら」

一瞬だけ間。

「多分、壊す」

凪の動きが止まる。

「俺が」

続ける。

自分のこととして。

「お前のことも」

静かに。

でも。

重く。

沈む。

凪は、何も言えない。

初めて。

言葉が出てこない。

「……だから」

水城が、息を吐く。

少しだけ長く。

「ここで止めといた方がいい気がする」

その一言。

はっきりとした。

——線引き。

部屋の空気が、一気に冷える。

凪の思考が、一瞬止まる。

理解が、遅れる。

「……止める、とは」

確認する。

声は、まだ平静。

でも。

その中身は、違う。

水城は、視線を逸らす。

「……このまま、進むの」

それだけ。

十分だった。

意味は。

完全に伝わる。

数秒。

沈黙。

何も動かない。

でも。

凪の中で、何かがずれる。

大きく。

「……嫌です」

小さく。

でも、はっきり。

水城が、目を閉じる。

予想していた反応。

「……だろうな」

苦く笑う。

「でもさ」

続ける。

「これ、俺の問題なんだよ」

凪が、顔を上げる。

「お前がどうとかじゃない」

先に言う。

「むしろ逆」

ほんの少しだけ視線を戻す。

「お前だから、無理なんだわ」

その言葉。

凪の中で、何かが完全に止まる。

「……どういう意味ですか」

静かに問う。

水城は、少しだけ笑う。

諦めたみたいに。

「分かんねえの?」

優しく言う。

でも。

逃げない。

「お前じゃなかったら、ここまでならねえよ」

凪の呼吸が、乱れる。

ほんのわずかに。

「こんな面倒なこと、考えねえ」

正直に。

「でもお前だから」

一瞬だけ間。

「止めないと、やばい」

その一言で。

完全に。

落ちる。

凪の中で。

今まで積み上げてきた問題ないが、崩れる。

初めて。

はっきりと。

「……それは」

言葉が、出ない。

続かない。

整理できない。

水城は、それを見ている。

何も言わずに。

「……じゃあ」

凪が、やっと言葉を絞り出す。

「止めなければいいです」

水城が、息を詰める。

「無理です」

凪は続ける。

「壊れても」

ほんの一歩、距離を詰める。

さっきよりも、近く。

「問題ないです」

水城が、立ち上がる。

反射的に。

距離を取るように。

「それが無理なんだよ!」

初めて、声が上がる。

部屋に響く。

凪が、止まる。

完全に。

「……俺は嫌なんだよ」

水城の声が、震える。

「お前が壊れるの」

その一言。

凪の思考が、完全に止まる。

「……なんで」

初めて。

問いの形が変わる。

「なんで、それが問題なんですか」

本気で、分かっていない。

水城が、言葉を失う。

数秒。

何も言えない。

でも。

「……好きだからだろ」

ぽつりと。

落ちる。

静かに。

でも。

確実に。

空気が、止まる。

凪の目が、見開かれる。

完全に。

初めて。

「……え」

声が、崩れる。

水城は、顔を逸らす。

もう、隠せない。

「だから、無理なんだよ」

小さく言う。

「お前が壊れるとこ、見たくねえ」

それが全部だった。

理由。

距離。

怖さ。

全部。

凪は、動かない。

思考が追いつかない。

整理できない。

でも。

一つだけ。

はっきり残る。

「……好き」

小さく、繰り返す。

その言葉。

初めて触れる概念みたいに。

「……それは」

視線を上げる。

水城を見る。

まっすぐ。

逃げずに。

「距離を置く理由になりますか」

水城が、固まる。

その問い。

予想していなかった。

でも。

凪は続ける。

「壊れる可能性があるから」

整理するように。

「離れる」

少しだけ間。

「でも」

一歩、踏み出す。

今度は、止まらない。

「好きなら」

距離が、ゼロになる。

「離れない方が、正しいです」

水城の呼吸が止まる。

完全に。

「……凪」

名前を呼ぶ。

でも。

止められない。

「壊れるなら」

静かに。

でも、強く。

「一緒に壊れればいいです」

その一言。

完全に。

常識の外。

でも。

凪にとっては。

それが結論。

沈黙。

長い。

水城が、ゆっくりと息を吐く。

観念したみたいに。

「……ほんとにさ」

小さく笑う。

「凪、やばいわ」 

でも。

その声は。

さっきと違う。

逃げてない。

「……でも」

一歩、近づく。

今度は、水城から。

「それでもいいって言うなら」

距離が、戻る。

最初よりも、近く。

「もう止めねえぞ」

最後の確認。

凪は、迷わない。

「はい」

即答。

その瞬間。

水城の手が、凪の後ろに回る。

引き寄せる。

距離が、完全に消える。

「……後悔すんなよ」

低く言う。

凪は、小さく首を振る。

「しません」

そのまま。

言葉は、もういらない。

距離だけが。

答えだった。

距離が、完全に消える。

呼吸が、混ざる。

触れているのは、ただそれだけのはずなのに——

逃げ場がない。

でも。

どちらも、離れようとしない。

「……凪」

すぐ近くで、名前を呼ばれる。

低くて、少しだけ震えている声。

凪は、そのまま答える。

「はい」

距離は、そのまま。

視線も逸らさない。

水城は、数秒だけ何も言わない。

ただ、見ている。

確認するみたいに。

本当にいいのかを。

でも。

凪は、一度も目を逸らさない。

だから。

水城は、小さく息を吐く。

「……ほんとに、引かねえんだな」

半分呆れたみたいに。

でも。

どこかで、救われたみたいに。

凪は、ほんの少しだけ首を傾げる。

「引く理由がありません」

そのまま、答える。

水城が、短く笑う。

「普通はあるんだよ、そういうの」

「……普通は、分かりません」

間を置かずに返す。

そのやり取りが。

少しだけ空気を緩める。

でも。

それでも。

距離は戻らない。

「……じゃあさ」

水城が、少しだけ声を落とす。

「俺が無理になっても?」

試すみたいに。

確認するみたいに。

凪は、一瞬だけ考える。

でも。

すぐに答える。

「無理にしません」

水城の眉が、わずかに動く。

「……どうやって」

凪は、そのまま続ける。

「調整します」

静かに。

当たり前みたいに。

「水城さんが無理になる前に」

ほんの少しだけ。

距離が詰まる。

もうこれ以上ないはずなのに。

「修正します」

その言葉は。

前と同じなのに。

意味が違う。

ただのルールじゃない。

——残るための選択。

水城が、言葉を失う。

数秒。

何も言えない。

でも。

そのあと。

「……ほんとにさ」

小さく笑う。

「俺、逃げらんねえな」

諦めたみたいに。

でも。

嫌じゃない声で。

凪は、答えない。

ただ。

そこにいる。

それだけでいいと分かっているみたいに。

沈黙。

でも。

今度は、怖くない。

水城が、ゆっくりと手を動かす。

凪の肩に触れて。

少しだけ距離を離す。

完全にじゃない。

顔が見えるくらい。

「……確認しとく」

真っ直ぐ見る。

逃げない。

「これ、戻れねえからな」

凪は、瞬きを一つする。

そして。

「問題ないです」

と答える。

迷いなく。

水城が、苦く笑う。

「だから、その基準」

小さくツッコむ。

でも。

そのまま。

もう一度、引き寄せる。

さっきよりも自然に。

迷いなく。

「……じゃあ」

小さく呟く。

「もういいわ」

何かを手放すみたいに。

同時に。

何かを決めるみたいに。

凪は、何も言わない。

でも。

分かっている。

これは。

さっきまでとは違う。

ただの近さじゃない。

選んだ距離。

そのまま。

時間が、少しだけ流れる。

何も起きない。

でも。

十分だった。

「……凪」

もう一度、名前を呼ぶ。

今度は。

さっきより、柔らかい。

「はい」

「さっきさ」

少しだけ間。

「一緒に壊れればいいって言っただろ」

凪は、頷く。

「はい」

水城は、ほんの少しだけ目を細める。

「それ、訂正な」

凪が、わずかに動く。

「……はい」

水城は、ゆっくり言う。

「壊れないようにする」

静かに。

でも。

はっきり。

「一緒に」

その一言で。

意味が変わる。

凪の思考が、一瞬だけ止まる。

「……可能ですか」

珍しく。

少しだけ不確かな問い。

水城は、少しだけ笑う。

「分かんねえよ」

正直に。

「でもやる」

間を置かずに。

「お前となら」

その言葉に。

凪は、ほんのわずかに目を細める。

それは。

今までになかった反応。

「……分かりました」

小さく答える。

でも。

今までより、少しだけ。

——人っぽい。

水城は、それを見て。

少しだけ息を止める。

でも。

何も言わない。

そのまま。

「……とりあえず」

少しだけ距離を離して。

現実に戻るみたいに。

「今日は休ませろ」

頭を軽く押さえる。

「普通にしんどい」

凪は、すぐに頷く。

「はい」

即答。

そして。

迷わず立ち上がる。

「水、追加で持ってきます」

そのままキッチンへ向かう。

動きに、無駄がない。

水城が、それを見て。

小さく笑う。

「……ほんと、ブレねえな」

呟く。

でも。

その声は。

もう、不安じゃない。

少しして。

凪が戻ってくる。

水を差し出す。

水城が受け取る。

そのとき。

指が、触れる。

一瞬だけ。

でも。

今度は。

どちらも、何も言わない。

避けもしない。

ただ。

自然に、そのまま離れる。

「……凪」

「はい」

「明日さ」

少しだけ間。

「来る?」

凪は、迷わない。

「はい」

水城が、少しだけ笑う。

「だよな」

そして。

もう一度、付け足す。

「……来いよ」

今度は。

矛盾じゃない。

まっすぐな言葉。

凪は、ほんの少しだけ頷く。

「はい」

その答えは。

今までと同じなのに。

意味は、全然違った。

水城がソファにもたれたまま、目を閉じる。

体調のせいか、呼吸が少しだけ重い。

凪は、その横に座る。

距離は、近い。

でも——さっきまでとは、少し違う。

「……大丈夫ですか」

静かに聞く。

水城は、目を開けないまま答える。

「……大丈夫じゃない」

正直な声。

でも。

そのまま続ける。

「でも、お前いるからマシ」

凪の動きが、ほんの少し止まる。

その言葉。

理解するまでに、一瞬かかる。

「……そうですか」

小さく返す。

それ以上、何も言えない。

水城が、ゆっくり目を開ける。

視線が合う。

近い。

逃げ場がない距離。

でも。

どちらも逸らさない。

「……凪」

「はい」

少しだけ間。

迷っているのが分かる。

でも。

そのまま、言う。

「……触れてもいい?」

確認。

初めての。

凪は、一瞬だけ考える。

でも。

「はい」

と答える。

それだけで十分だった。

水城の手が、ゆっくり伸びる。

頬に触れる。

温度を確かめるみたいに。

凪は、動かない。

拒まない。

ただ、受け入れる。

そのまま。

距離が、少しずつ消える。

呼吸が、近づく。

でも。

止まる。

完全には、いかない。

水城が、そこで一度止まる。

「……なあ」

小さく言う。

「はい」

「これ、後戻りできないやつ」

確認みたいに。

凪は、迷わない。

「問題ないです」

いつもの言葉。

でも。

今は少し違う。

水城が、小さく笑う。

「ほんと便利な言葉だな、それ」

そして。

今度は止まらない。

距離が、完全に消える。

触れる。

一瞬だけ。

でも。

それだけで、十分すぎるくらいに伝わる。

凪の思考が、止まる。

初めての感覚。

整理が追いつかない。

でも。

嫌じゃない。

むしろ——

「……凪」

名前を呼ばれる。

すぐ近くで。

凪は、ほんの少しだけ息を整える。

「はい」

そのまま。

視線を合わせる。

逃げない。

水城が、少しだけ困ったみたいに笑う。

「……ほんと、逃げねえな」

凪は、小さく首を振る。

「逃げる理由がありません」

その答えに。

水城は、もう一度息を吐く。

観念したみたいに。

そして。

静かに言う。

「……凪」

「はい」

少しだけ間。

でも。

今度は、迷わない。

「僕、好きなんです。柊真のこと」

凪の声は、いつも通り落ち着いている。

でも。

内容は、全く違う。

水城の呼吸が止まる。

「……だから」

続ける。

「こんな僕でも、一生そばにいてください」

ほんのわずかに。

言葉を探す。

でも。

ちゃんと選ぶ。

「付き合お」

水城が、固まる。

完全に。

数秒。

何も言えない。

「……何言ってるの」

かすれた声。

でも。

拒絶じゃない。

凪は、そのまま見る。

逃げない。

水城は、目を逸らす。

ほんの一瞬だけ。

「……凪」

呼ぶ。

でも。

言葉が続かない。

凪は、待つ。

急かさない。

逃げない。

その沈黙のあと。

水城が、小さく笑う。

少しだけ、自嘲気味に。

「……そうだよね」

ぽつりと。

「俺って普通じゃないから…」

凪は、間を置かずに答える。

「知ってる」

水城の動きが止まる。

その一言。

そして。

凪は続ける。

「だからお前を選んだ」

迷いなく。

まっすぐに。

逃げ道を残さない言葉。

水城が、目を閉じる。

一瞬だけ。

そして。

ゆっくり開ける。

もう、逃げない。

「……いいよ」

小さく。

でも、はっきり。

それが答えだった。

その距離のまま。

言葉は、もうほとんどいらなかった。

触れることに、意味を探す必要もない。

ただ。

確かめるみたいに。

選び直すみたいに。

少しずつ、距離が消えていく。

「……凪」

呼ばれる。

すぐ近くで。

「はい」

「ほんとにいいんだな」

最後の確認。

凪は、迷わない。

「はい」

それだけで、十分だった。

——そのあと。

部屋の中は、静かだった。

時間の感覚が、少しだけ曖昧になる。

どこからが始まりで、どこまでが続いていたのか。

はっきりしないまま。

ただ一つだけ。

戻らないところまで来たことだけが、分かっていた。

 

気づけば。

部屋の空気は、少しだけ落ち着いている。

さっきまでの熱が、ゆっくり引いていく。

でも。

距離は、変わらない。

むしろ。

前よりも自然に、近い。

 

水城が、天井を見たまま小さく息を吐く。

「……やば」

ぽつりと。

独り言みたいに。

凪は、その横で静かに聞いている。

「何がですか」

「……全部」

少しだけ笑う。

でも。

その声は、軽くない。

 

数秒。

何も言わない時間が続く。

でも。

今度はもう、空白じゃない。

 

「……凪」

「はい」

水城が、ゆっくりと顔を向ける。

さっきよりも、少しだけ柔らかい目。

「ほんとにさ」

一瞬だけ間。

でも。

もう迷わない。

 

「これ、最後までいくぞ」

凪は、その言葉を受け取る。

意味も。

重さも。

全部。

 

「はい」

 

それだけ。

でも。

それが、約束になる。

 

水城が、小さく笑う。

「逃げんなよ」

「逃げません」

即答。

 

そのやり取りが。

さっきまでよりも、ずっと自然に成立する。

 

少しして。

水城が、ふっと視線を外す。

「……なあ」

「はい」

「さっきのやつ」

凪の方を見る。

「ちゃんと言えよ」

凪は、一瞬だけ考える。

でも。

今度は、迷わない。

 

「好きだよ。柊真」

静かに。

でも、はっきり。

水城の呼吸が、少しだけ止まる。


翌日。

 

講義が終わって、教室を出る。

特に約束はしていない。

でも。

足は、迷わない。

 

昨日と同じ場所へ向かう。

 

そこに。

「……凪おそいぞ」

壁にもたれている、水城がいる。

 凪は、隣に立つ。
 
距離は——
 
もう、測らない。

「ちゃんと来たな」

「はい」

短く答える。

水城が、少しだけ笑う。

 

「……来いよって言ったしな」

 

凪は、ほんの少しだけ目を細める。

 

「はい」

 

そのまま。

自然に、歩き出す。

 

今度は。

腕を掴まなくてもいい。


でも。

ほんの一瞬だけ。
 
触れる。

水城は、何も言わない。

そのまま。

少しだけ、近づく。

 

それで、十分だった。

 

——普通じゃないまま。

 

でも。

 

選んで、続いていく関係として。

 

二人の距離は。

もう、揺れなかった。