そこに、立っていたのは——凪だった。
息が、ほんのわずかに乱れている。
走ってきたのが分かる。
でも。
表情は、ほとんど変わっていない。
いつもと同じ。
静かで。
整っていて。
「……凪」
水城の声が、少しだけ掠れる。
驚きと。
体調の悪さと。
色々混ざった音。
凪は、そのまま数秒、水城を見る。
何も言わずに。
視線を逸らさずに。
「……どうした」
水城が先に口を開く。
問いというより。
確認みたいに。
凪は、一瞬だけ間を置く。
言葉を選ぶみたいに。
でも。
「……間違えました」
そう言った。
静かに。
はっきりと。
水城の思考が、一瞬止まる。
「……は?」
意味が分からない。
でも。
凪は続ける。
「距離を置く、という判断」
一つひとつ、整理するみたいに。
「正しいと思っていました」
事実を述べる声。
感情はのっていない。
でも。
「結果として」
ほんのわずかにだけ。
声が低くなる。
「間違いでした」
その一言で。
空気が、少し変わる。
水城は、何も言えない。
理解が追いつかない。
「……お前、なに」
言いかけて、止まる。
凪の様子が、いつもと少し違う。
ほんのわずか。
でも、確実に。
「……体調、悪いですよね」
先に言われる。
視線が、水城の顔から少しだけ下に落ちる。
状態を確認するみたいに。
「……なんで分かるんだよ」
小さく返す。
隠していたつもりはないけど。
言ってもいない。
凪は、少しだけ目を細める。
「聞きました」
短く。
それだけ。
水城の中で、何かが繋がる。
昼のこと。
誰かに見られていたこと。
「……あー」
小さく息を吐く。
「別に、大したことない」
反射的に言う。
いつもの癖。
大丈夫だと見せる。
でも。
「違います」
即座に否定される。
間を置かずに。
「しゃがみ込んでいたと」
事実を突きつける。
逃げ道を塞ぐ形で。
水城が、少しだけ眉を寄せる。
「……だからって」
言い返そうとして。
でも。
言葉が続かない。
理由が、弱い。
凪は、一歩だけ近づく。
玄関の距離。
すぐ目の前。
「……どうして言ってきてくれなかったんですか」
静かに。
でも、はっきり。
問う。
水城の呼吸が、一瞬止まる。
その問いは。
まっすぐすぎる。
「……は?」
思わず出る。
理解が追いつかない。
「来るなって言ったの、俺だろ」
当たり前のことを言う。
正論。
でも。
凪は、首を横に振る。
「距離を置く、という指示だったので」
冷静に言う。
「近づかない、連絡しない」
自分の解釈を、そのまま。
「守りました」
間違っていない。
論理としては、完璧。
だからこそ。
「……でも」
そこで、初めて。
声が、少しだけ揺れる。
ほんのわずかに。
「体調不良は、例外にすべきでした」
水城の目が、見開く。
その一言。
「優先順位を、誤りました」
続ける。
淡々と。
でも。
その内容は、全然軽くない。
「……お前」
水城の声が、低くなる。
怒りじゃない。
でも。
強くなる。
「そんなの、分かるだろ普通」
思わず言ってしまう。
その瞬間。
凪の動きが、止まる。
ほんの一瞬だけ。
でも。
はっきりと。
「……普通」
小さく、繰り返す。
その言葉。
水城が、はっとする。
言ってしまったと気づく。
でも。
もう遅い。
凪は、ゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
逃げない。
「分からないので」
静かに言う。
責めるでもなく。
ただ、事実として。
「教えてください」
その一言が。
まっすぐ落ちる。
「どこまでが、距離で」
ほんの少しだけ、間。
「どこからが、例外ですか」
水城は、何も言えない。
言葉が、出てこない。
正しい答えが、分からない。
さっき、自分で言った。
普通。
でも。
それを、説明できない。
「……俺」
口を開く。
でも。
続かない。
曖昧すぎる。
その沈黙を。
凪は、そのまま受け取る。
数秒。
何も言わない。
でも。
逃げない。
そのまま。
「……すみません」
先に、凪が言う。
少しだけ、視線を落として。
「今日、すぐ来なかったのは」
自分の行動に対して。
「間違いです」
はっきりと認める。
「次からは、修正します」
その言い方は。
まるで、何かのルールを更新するみたいで。
でも。
「……次も来る気かよ」
水城が、小さく笑う。
呆れたみたいに。
でも。
どこかで、安心している。
凪は、迷わない。
「はい」
即答。
「必要なら」
付け足す。
水城の喉が、詰まる。
その言葉。
「……必要って」
繰り返す。
かすれた声で。
「誰が決めんだよ」
問いかける。
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
「水城さんです」
そう答える。
迷いなく。
「水城さんが、困っているなら」
一歩、さらに近づく。
距離が、ほとんどなくなる。
「来ます」
その一言。
シンプルで。
逃げ場がない。
水城は、目を逸らす。
耐えられないみたいに。
「……来てほしかったくせに」
ぽつりと出る。
自分でも止められなかった。
その言葉。
凪の動きが、止まる。
「……え」
小さく。
ほんのわずかに。
初めて、完全に崩れる。
水城は、そのまま続ける。
止められない。
「……来ないくせにさ」
少しだけ、声が震える。
「なんで来ないんだよって、ずっと思ってた」
言ってしまう。
全部。
隠してたやつ。
「……俺が来んなって言ったのに」
矛盾。
分かってる。
でも。
「……それでも、来いよ」
最後は、ほとんど願いだった。
静かに。
落ちる。
沈黙。
凪は、動かない。
言葉も出ない。
でも。
数秒後。
「……分かりました」
小さく。
でも、はっきり。
そう言う。
「次からは、そうします」
真面目に。
そのまま受け取る。
水城が、思わず笑う。
「……ごめん、めんどくさいよな」
呆れた声。
でも。
その中に。
さっきまでなかった柔らかさが、少しだけ戻る。
凪は、少しだけ首を傾げる。
意味は分かっていない。
でも。
「……大丈夫です」
と答える。
水城が、もう一度笑う。
「なにがだよ」
小さくツッコむ。
そのまま。
数秒。
何も言わずに、立ったまま。
距離は、近い。
さっきまで置こうとしていた距離。
もう、ない。
水城が、ゆっくりと息を吐く。
「……上がれよ」
短く言う。
ドアを少し開けて。
「そのまま帰すのも、あれだし」
言い訳みたいに付け足す。
凪は、一瞬だけ考えて。
「はい」
と答える。
そのまま、一歩踏み出す。
玄関の中へ。
すれ違う瞬間。
ほんのわずかに。
袖が触れる。
それだけなのに。
「……」
水城の動きが、一瞬止まる。
でも。
何も言わない。
そのままドアを閉める。
静かな音。
外と中が、完全に分かれる。
その空間の中で。
二人の距離は。
また、最初より少しだけ。
近くなっていた。
ドアが閉まる。
外の音が、完全に遮断される。
静かだった。
さっきまでの会話の余韻だけが、やけに残っている。
「……適当に座って」
水城が、奥を顎で示す。
凪は、靴を脱いで上がる。
部屋の中に入るのは、これが初めてだった。
けれど。
特に何かを観察する様子もなく、そのまま言われた通りに座る。
水城は、少しだけふらつきながらキッチンの方へ行く。
「水、飲む?」
振り返らずに聞く。
「はい」
短い返事。
グラスに水を注ぐ音。
それがやけに大きく聞こえる。
凪は、その背中を見ている。
さっきまでよりも、少しだけ不安定な立ち方。
呼吸も、ほんのわずかに乱れている。
「……無理しないでください」
静かに言う。
水城の動きが、一瞬止まる。
でも。
「してない」
すぐに返す。
いつものやつ。
強がり。
そのまま戻ってきて、グラスを差し出す。
凪は受け取る。
「ありがとうございます」
一口飲む。
その間に、水城はソファに腰を下ろす。
少しだけ、距離がある。
同じ空間。
でも。
さっきまでの詰めた距離とは、違う配置。
「……」
沈黙。
気まずさじゃない。
でも。
——整ってない。
さっきまで外で成立していた関係が、この部屋の中で少し形を変えている。
「……凪」
水城が、先に口を開く。
「はい」
「さっきの」
少しだけ言葉を探す。
「……来いよ、ってやつ」
凪の視線が、わずかに上がる。
「はい」
水城は、少しだけ笑う。
自嘲気味に。
「……あれさ」
息を吐く。
「普通に考えて、おかしいからな」
凪は、何も言わない。
否定も、肯定もしない。
水城は続ける。
「来るなって言っといて、来いって」
視線を落とす。
自分の手元に。
「……意味わかんねえだろ」
凪は、ほんの少しだけ考える。
そして。
「はい」
と答える。
正直に。
水城が、吹き出す。
「だよな」
小さく笑う。
でも。
その笑いは、すぐに消える。
「……俺さ」
少しだけ間。
「多分、向いてないわ」
その一言で。
空気が、変わる。
凪の視線が止まる。
「……何にですか」
静かに問う。
水城は、少しだけ考える。
でも。
すぐに答える。
「こういうの」
曖昧な言い方。
でも。
「距離とか、関係とか」
少しずつ、具体になる。
「お前みたいなやつと、ちゃんとやるの」
凪の呼吸が、ほんのわずかに変わる。
でも、言葉は出さない。
水城は、そのまま続ける。
止めない。
「お前さ」
顔を上げる。
まっすぐ見る。
「止まんねえだろ」
凪は、迷わない。
「はい」
即答。
それが答え。
水城は、頷く。
「俺もさ」
少しだけ、苦笑する。
「止めらんねえんだわ」
その一言。
凪の目が、わずかに揺れる。
初めて。
はっきりと。
「……じゃあ」
凪が口を開く。
「問題ないです」
水城が、首を横に振る。
「あるんだよ」
はっきりと言う。
「めちゃくちゃある」
少しだけ声が強くなる。
「このままいったら」
一瞬だけ間。
「多分、壊す」
凪の動きが止まる。
「俺が」
続ける。
自分のこととして。
「お前のことも」
静かに。
でも。
重く。
沈む。
凪は、何も言えない。
初めて。
言葉が出てこない。
「……だから」
水城が、息を吐く。
少しだけ長く。
「ここで止めといた方がいい気がする」
その一言。
はっきりとした。
——線引き。
部屋の空気が、一気に冷える。
凪の思考が、一瞬止まる。
理解が、遅れる。
「……止める、とは」
確認する。
声は、まだ平静。
でも。
その中身は、違う。
水城は、視線を逸らす。
「……このまま、進むの」
それだけ。
十分だった。
意味は。
完全に伝わる。
数秒。
沈黙。
何も動かない。
でも。
凪の中で、何かがずれる。
大きく。
「……嫌です」
小さく。
でも、はっきり。
水城が、目を閉じる。
予想していた反応。
「……だろうな」
苦く笑う。
「でもさ」
続ける。
「これ、俺の問題なんだよ」
凪が、顔を上げる。
「お前がどうとかじゃない」
先に言う。
「むしろ逆」
ほんの少しだけ視線を戻す。
「お前だから、無理なんだわ」
その言葉。
凪の中で、何かが完全に止まる。
「……どういう意味ですか」
静かに問う。
水城は、少しだけ笑う。
諦めたみたいに。
「分かんねえの?」
優しく言う。
でも。
逃げない。
「お前じゃなかったら、ここまでならねえよ」
凪の呼吸が、乱れる。
ほんのわずかに。
「こんな面倒なこと、考えねえ」
正直に。
「でもお前だから」
一瞬だけ間。
「止めないと、やばい」
その一言で。
完全に。
落ちる。
凪の中で。
今まで積み上げてきた問題ないが、崩れる。
初めて。
はっきりと。
「……それは」
言葉が、出ない。
続かない。
整理できない。
水城は、それを見ている。
何も言わずに。
「……じゃあ」
凪が、やっと言葉を絞り出す。
「止めなければいいです」
水城が、息を詰める。
「無理です」
凪は続ける。
「壊れても」
ほんの一歩、距離を詰める。
さっきよりも、近く。
「問題ないです」
水城が、立ち上がる。
反射的に。
距離を取るように。
「それが無理なんだよ!」
初めて、声が上がる。
部屋に響く。
凪が、止まる。
完全に。
「……俺は嫌なんだよ」
水城の声が、震える。
「お前が壊れるの」
その一言。
凪の思考が、完全に止まる。
「……なんで」
初めて。
問いの形が変わる。
「なんで、それが問題なんですか」
本気で、分かっていない。
水城が、言葉を失う。
数秒。
何も言えない。
でも。
「……好きだからだろ」
ぽつりと。
落ちる。
静かに。
でも。
確実に。
空気が、止まる。
凪の目が、見開かれる。
完全に。
初めて。
「……え」
声が、崩れる。
水城は、顔を逸らす。
もう、隠せない。
「だから、無理なんだよ」
小さく言う。
「お前が壊れるとこ、見たくねえ」
それが全部だった。
理由。
距離。
怖さ。
全部。
凪は、動かない。
思考が追いつかない。
整理できない。
でも。
一つだけ。
はっきり残る。
「……好き」
小さく、繰り返す。
その言葉。
初めて触れる概念みたいに。
「……それは」
視線を上げる。
水城を見る。
まっすぐ。
逃げずに。
「距離を置く理由になりますか」
水城が、固まる。
その問い。
予想していなかった。
でも。
凪は続ける。
「壊れる可能性があるから」
整理するように。
「離れる」
少しだけ間。
「でも」
一歩、踏み出す。
今度は、止まらない。
「好きなら」
距離が、ゼロになる。
「離れない方が、正しいです」
水城の呼吸が止まる。
完全に。
「……凪」
名前を呼ぶ。
でも。
止められない。
「壊れるなら」
静かに。
でも、強く。
「一緒に壊れればいいです」
その一言。
完全に。
常識の外。
でも。
凪にとっては。
それが結論。
沈黙。
長い。
水城が、ゆっくりと息を吐く。
観念したみたいに。
「……ほんとにさ」
小さく笑う。
「凪、やばいわ」
でも。
その声は。
さっきと違う。
逃げてない。
「……でも」
一歩、近づく。
今度は、水城から。
「それでもいいって言うなら」
距離が、戻る。
最初よりも、近く。
「もう止めねえぞ」
最後の確認。
凪は、迷わない。
「はい」
即答。
その瞬間。
水城の手が、凪の後ろに回る。
引き寄せる。
距離が、完全に消える。
「……後悔すんなよ」
低く言う。
凪は、小さく首を振る。
「しません」
そのまま。
言葉は、もういらない。
距離だけが。
答えだった。
距離が、完全に消える。
呼吸が、混ざる。
触れているのは、ただそれだけのはずなのに——
逃げ場がない。
でも。
どちらも、離れようとしない。
「……凪」
すぐ近くで、名前を呼ばれる。
低くて、少しだけ震えている声。
凪は、そのまま答える。
「はい」
距離は、そのまま。
視線も逸らさない。
水城は、数秒だけ何も言わない。
ただ、見ている。
確認するみたいに。
本当にいいのかを。
でも。
凪は、一度も目を逸らさない。
だから。
水城は、小さく息を吐く。
「……ほんとに、引かねえんだな」
半分呆れたみたいに。
でも。
どこかで、救われたみたいに。
凪は、ほんの少しだけ首を傾げる。
「引く理由がありません」
そのまま、答える。
水城が、短く笑う。
「普通はあるんだよ、そういうの」
「……普通は、分かりません」
間を置かずに返す。
そのやり取りが。
少しだけ空気を緩める。
でも。
それでも。
距離は戻らない。
「……じゃあさ」
水城が、少しだけ声を落とす。
「俺が無理になっても?」
試すみたいに。
確認するみたいに。
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
すぐに答える。
「無理にしません」
水城の眉が、わずかに動く。
「……どうやって」
凪は、そのまま続ける。
「調整します」
静かに。
当たり前みたいに。
「水城さんが無理になる前に」
ほんの少しだけ。
距離が詰まる。
もうこれ以上ないはずなのに。
「修正します」
その言葉は。
前と同じなのに。
意味が違う。
ただのルールじゃない。
——残るための選択。
水城が、言葉を失う。
数秒。
何も言えない。
でも。
そのあと。
「……ほんとにさ」
小さく笑う。
「俺、逃げらんねえな」
諦めたみたいに。
でも。
嫌じゃない声で。
凪は、答えない。
ただ。
そこにいる。
それだけでいいと分かっているみたいに。
沈黙。
でも。
今度は、怖くない。
水城が、ゆっくりと手を動かす。
凪の肩に触れて。
少しだけ距離を離す。
完全にじゃない。
顔が見えるくらい。
「……確認しとく」
真っ直ぐ見る。
逃げない。
「これ、戻れねえからな」
凪は、瞬きを一つする。
そして。
「問題ないです」
と答える。
迷いなく。
水城が、苦く笑う。
「だから、その基準」
小さくツッコむ。
でも。
そのまま。
もう一度、引き寄せる。
さっきよりも自然に。
迷いなく。
「……じゃあ」
小さく呟く。
「もういいわ」
何かを手放すみたいに。
同時に。
何かを決めるみたいに。
凪は、何も言わない。
でも。
分かっている。
これは。
さっきまでとは違う。
ただの近さじゃない。
選んだ距離。
そのまま。
時間が、少しだけ流れる。
何も起きない。
でも。
十分だった。
「……凪」
もう一度、名前を呼ぶ。
今度は。
さっきより、柔らかい。
「はい」
「さっきさ」
少しだけ間。
「一緒に壊れればいいって言っただろ」
凪は、頷く。
「はい」
水城は、ほんの少しだけ目を細める。
「それ、訂正な」
凪が、わずかに動く。
「……はい」
水城は、ゆっくり言う。
「壊れないようにする」
静かに。
でも。
はっきり。
「一緒に」
その一言で。
意味が変わる。
凪の思考が、一瞬だけ止まる。
「……可能ですか」
珍しく。
少しだけ不確かな問い。
水城は、少しだけ笑う。
「分かんねえよ」
正直に。
「でもやる」
間を置かずに。
「お前となら」
その言葉に。
凪は、ほんのわずかに目を細める。
それは。
今までになかった反応。
「……分かりました」
小さく答える。
でも。
今までより、少しだけ。
——人っぽい。
水城は、それを見て。
少しだけ息を止める。
でも。
何も言わない。
そのまま。
「……とりあえず」
少しだけ距離を離して。
現実に戻るみたいに。
「今日は休ませろ」
頭を軽く押さえる。
「普通にしんどい」
凪は、すぐに頷く。
「はい」
即答。
そして。
迷わず立ち上がる。
「水、追加で持ってきます」
そのままキッチンへ向かう。
動きに、無駄がない。
水城が、それを見て。
小さく笑う。
「……ほんと、ブレねえな」
呟く。
でも。
その声は。
もう、不安じゃない。
少しして。
凪が戻ってくる。
水を差し出す。
水城が受け取る。
そのとき。
指が、触れる。
一瞬だけ。
でも。
今度は。
どちらも、何も言わない。
避けもしない。
ただ。
自然に、そのまま離れる。
「……凪」
「はい」
「明日さ」
少しだけ間。
「来る?」
凪は、迷わない。
「はい」
水城が、少しだけ笑う。
「だよな」
そして。
もう一度、付け足す。
「……来いよ」
今度は。
矛盾じゃない。
まっすぐな言葉。
凪は、ほんの少しだけ頷く。
「はい」
その答えは。
今までと同じなのに。
意味は、全然違った。
水城がソファにもたれたまま、目を閉じる。
体調のせいか、呼吸が少しだけ重い。
凪は、その横に座る。
距離は、近い。
でも——さっきまでとは、少し違う。
「……大丈夫ですか」
静かに聞く。
水城は、目を開けないまま答える。
「……大丈夫じゃない」
正直な声。
でも。
そのまま続ける。
「でも、お前いるからマシ」
凪の動きが、ほんの少し止まる。
その言葉。
理解するまでに、一瞬かかる。
「……そうですか」
小さく返す。
それ以上、何も言えない。
水城が、ゆっくり目を開ける。
視線が合う。
近い。
逃げ場がない距離。
でも。
どちらも逸らさない。
「……凪」
「はい」
少しだけ間。
迷っているのが分かる。
でも。
そのまま、言う。
「……触れてもいい?」
確認。
初めての。
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
「はい」
と答える。
それだけで十分だった。
水城の手が、ゆっくり伸びる。
頬に触れる。
温度を確かめるみたいに。
凪は、動かない。
拒まない。
ただ、受け入れる。
そのまま。
距離が、少しずつ消える。
呼吸が、近づく。
でも。
止まる。
完全には、いかない。
水城が、そこで一度止まる。
「……なあ」
小さく言う。
「はい」
「これ、後戻りできないやつ」
確認みたいに。
凪は、迷わない。
「問題ないです」
いつもの言葉。
でも。
今は少し違う。
水城が、小さく笑う。
「ほんと便利な言葉だな、それ」
そして。
今度は止まらない。
距離が、完全に消える。
触れる。
一瞬だけ。
でも。
それだけで、十分すぎるくらいに伝わる。
凪の思考が、止まる。
初めての感覚。
整理が追いつかない。
でも。
嫌じゃない。
むしろ——
「……凪」
名前を呼ばれる。
すぐ近くで。
凪は、ほんの少しだけ息を整える。
「はい」
そのまま。
視線を合わせる。
逃げない。
水城が、少しだけ困ったみたいに笑う。
「……ほんと、逃げねえな」
凪は、小さく首を振る。
「逃げる理由がありません」
その答えに。
水城は、もう一度息を吐く。
観念したみたいに。
そして。
静かに言う。
「……凪」
「はい」
少しだけ間。
でも。
今度は、迷わない。
「僕、好きなんです。柊真のこと」
凪の声は、いつも通り落ち着いている。
でも。
内容は、全く違う。
水城の呼吸が止まる。
「……だから」
続ける。
「こんな僕でも、一生そばにいてください」
ほんのわずかに。
言葉を探す。
でも。
ちゃんと選ぶ。
「付き合お」
水城が、固まる。
完全に。
数秒。
何も言えない。
「……何言ってるの」
かすれた声。
でも。
拒絶じゃない。
凪は、そのまま見る。
逃げない。
水城は、目を逸らす。
ほんの一瞬だけ。
「……凪」
呼ぶ。
でも。
言葉が続かない。
凪は、待つ。
急かさない。
逃げない。
その沈黙のあと。
水城が、小さく笑う。
少しだけ、自嘲気味に。
「……そうだよね」
ぽつりと。
「俺って普通じゃないから…」
凪は、間を置かずに答える。
「知ってる」
水城の動きが止まる。
その一言。
そして。
凪は続ける。
「だからお前を選んだ」
迷いなく。
まっすぐに。
逃げ道を残さない言葉。
水城が、目を閉じる。
一瞬だけ。
そして。
ゆっくり開ける。
もう、逃げない。
「……いいよ」
小さく。
でも、はっきり。
それが答えだった。
その距離のまま。
言葉は、もうほとんどいらなかった。
触れることに、意味を探す必要もない。
ただ。
確かめるみたいに。
選び直すみたいに。
少しずつ、距離が消えていく。
「……凪」
呼ばれる。
すぐ近くで。
「はい」
「ほんとにいいんだな」
最後の確認。
凪は、迷わない。
「はい」
それだけで、十分だった。
——そのあと。
部屋の中は、静かだった。
時間の感覚が、少しだけ曖昧になる。
どこからが始まりで、どこまでが続いていたのか。
はっきりしないまま。
ただ一つだけ。
戻らないところまで来たことだけが、分かっていた。
気づけば。
部屋の空気は、少しだけ落ち着いている。
さっきまでの熱が、ゆっくり引いていく。
でも。
距離は、変わらない。
むしろ。
前よりも自然に、近い。
水城が、天井を見たまま小さく息を吐く。
「……やば」
ぽつりと。
独り言みたいに。
凪は、その横で静かに聞いている。
「何がですか」
「……全部」
少しだけ笑う。
でも。
その声は、軽くない。
数秒。
何も言わない時間が続く。
でも。
今度はもう、空白じゃない。
「……凪」
「はい」
水城が、ゆっくりと顔を向ける。
さっきよりも、少しだけ柔らかい目。
「ほんとにさ」
一瞬だけ間。
でも。
もう迷わない。
「これ、最後までいくぞ」
凪は、その言葉を受け取る。
意味も。
重さも。
全部。
「はい」
それだけ。
でも。
それが、約束になる。
水城が、小さく笑う。
「逃げんなよ」
「逃げません」
即答。
そのやり取りが。
さっきまでよりも、ずっと自然に成立する。
少しして。
水城が、ふっと視線を外す。
「……なあ」
「はい」
「さっきのやつ」
凪の方を見る。
「ちゃんと言えよ」
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
今度は、迷わない。
「好きだよ。柊真」
静かに。
でも、はっきり。
水城の呼吸が、少しだけ止まる。
翌日。
講義が終わって、教室を出る。
特に約束はしていない。
でも。
足は、迷わない。
昨日と同じ場所へ向かう。
そこに。
「……凪おそいぞ」
壁にもたれている、水城がいる。
凪は、隣に立つ。
距離は——
もう、測らない。
「ちゃんと来たな」
「はい」
短く答える。
水城が、少しだけ笑う。
「……来いよって言ったしな」
凪は、ほんの少しだけ目を細める。
「はい」
そのまま。
自然に、歩き出す。
今度は。
腕を掴まなくてもいい。
でも。
ほんの一瞬だけ。
触れる。
水城は、何も言わない。
そのまま。
少しだけ、近づく。
それで、十分だった。
——普通じゃないまま。
でも。
選んで、続いていく関係として。
二人の距離は。
もう、揺れなかった。
息が、ほんのわずかに乱れている。
走ってきたのが分かる。
でも。
表情は、ほとんど変わっていない。
いつもと同じ。
静かで。
整っていて。
「……凪」
水城の声が、少しだけ掠れる。
驚きと。
体調の悪さと。
色々混ざった音。
凪は、そのまま数秒、水城を見る。
何も言わずに。
視線を逸らさずに。
「……どうした」
水城が先に口を開く。
問いというより。
確認みたいに。
凪は、一瞬だけ間を置く。
言葉を選ぶみたいに。
でも。
「……間違えました」
そう言った。
静かに。
はっきりと。
水城の思考が、一瞬止まる。
「……は?」
意味が分からない。
でも。
凪は続ける。
「距離を置く、という判断」
一つひとつ、整理するみたいに。
「正しいと思っていました」
事実を述べる声。
感情はのっていない。
でも。
「結果として」
ほんのわずかにだけ。
声が低くなる。
「間違いでした」
その一言で。
空気が、少し変わる。
水城は、何も言えない。
理解が追いつかない。
「……お前、なに」
言いかけて、止まる。
凪の様子が、いつもと少し違う。
ほんのわずか。
でも、確実に。
「……体調、悪いですよね」
先に言われる。
視線が、水城の顔から少しだけ下に落ちる。
状態を確認するみたいに。
「……なんで分かるんだよ」
小さく返す。
隠していたつもりはないけど。
言ってもいない。
凪は、少しだけ目を細める。
「聞きました」
短く。
それだけ。
水城の中で、何かが繋がる。
昼のこと。
誰かに見られていたこと。
「……あー」
小さく息を吐く。
「別に、大したことない」
反射的に言う。
いつもの癖。
大丈夫だと見せる。
でも。
「違います」
即座に否定される。
間を置かずに。
「しゃがみ込んでいたと」
事実を突きつける。
逃げ道を塞ぐ形で。
水城が、少しだけ眉を寄せる。
「……だからって」
言い返そうとして。
でも。
言葉が続かない。
理由が、弱い。
凪は、一歩だけ近づく。
玄関の距離。
すぐ目の前。
「……どうして言ってきてくれなかったんですか」
静かに。
でも、はっきり。
問う。
水城の呼吸が、一瞬止まる。
その問いは。
まっすぐすぎる。
「……は?」
思わず出る。
理解が追いつかない。
「来るなって言ったの、俺だろ」
当たり前のことを言う。
正論。
でも。
凪は、首を横に振る。
「距離を置く、という指示だったので」
冷静に言う。
「近づかない、連絡しない」
自分の解釈を、そのまま。
「守りました」
間違っていない。
論理としては、完璧。
だからこそ。
「……でも」
そこで、初めて。
声が、少しだけ揺れる。
ほんのわずかに。
「体調不良は、例外にすべきでした」
水城の目が、見開く。
その一言。
「優先順位を、誤りました」
続ける。
淡々と。
でも。
その内容は、全然軽くない。
「……お前」
水城の声が、低くなる。
怒りじゃない。
でも。
強くなる。
「そんなの、分かるだろ普通」
思わず言ってしまう。
その瞬間。
凪の動きが、止まる。
ほんの一瞬だけ。
でも。
はっきりと。
「……普通」
小さく、繰り返す。
その言葉。
水城が、はっとする。
言ってしまったと気づく。
でも。
もう遅い。
凪は、ゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
逃げない。
「分からないので」
静かに言う。
責めるでもなく。
ただ、事実として。
「教えてください」
その一言が。
まっすぐ落ちる。
「どこまでが、距離で」
ほんの少しだけ、間。
「どこからが、例外ですか」
水城は、何も言えない。
言葉が、出てこない。
正しい答えが、分からない。
さっき、自分で言った。
普通。
でも。
それを、説明できない。
「……俺」
口を開く。
でも。
続かない。
曖昧すぎる。
その沈黙を。
凪は、そのまま受け取る。
数秒。
何も言わない。
でも。
逃げない。
そのまま。
「……すみません」
先に、凪が言う。
少しだけ、視線を落として。
「今日、すぐ来なかったのは」
自分の行動に対して。
「間違いです」
はっきりと認める。
「次からは、修正します」
その言い方は。
まるで、何かのルールを更新するみたいで。
でも。
「……次も来る気かよ」
水城が、小さく笑う。
呆れたみたいに。
でも。
どこかで、安心している。
凪は、迷わない。
「はい」
即答。
「必要なら」
付け足す。
水城の喉が、詰まる。
その言葉。
「……必要って」
繰り返す。
かすれた声で。
「誰が決めんだよ」
問いかける。
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
「水城さんです」
そう答える。
迷いなく。
「水城さんが、困っているなら」
一歩、さらに近づく。
距離が、ほとんどなくなる。
「来ます」
その一言。
シンプルで。
逃げ場がない。
水城は、目を逸らす。
耐えられないみたいに。
「……来てほしかったくせに」
ぽつりと出る。
自分でも止められなかった。
その言葉。
凪の動きが、止まる。
「……え」
小さく。
ほんのわずかに。
初めて、完全に崩れる。
水城は、そのまま続ける。
止められない。
「……来ないくせにさ」
少しだけ、声が震える。
「なんで来ないんだよって、ずっと思ってた」
言ってしまう。
全部。
隠してたやつ。
「……俺が来んなって言ったのに」
矛盾。
分かってる。
でも。
「……それでも、来いよ」
最後は、ほとんど願いだった。
静かに。
落ちる。
沈黙。
凪は、動かない。
言葉も出ない。
でも。
数秒後。
「……分かりました」
小さく。
でも、はっきり。
そう言う。
「次からは、そうします」
真面目に。
そのまま受け取る。
水城が、思わず笑う。
「……ごめん、めんどくさいよな」
呆れた声。
でも。
その中に。
さっきまでなかった柔らかさが、少しだけ戻る。
凪は、少しだけ首を傾げる。
意味は分かっていない。
でも。
「……大丈夫です」
と答える。
水城が、もう一度笑う。
「なにがだよ」
小さくツッコむ。
そのまま。
数秒。
何も言わずに、立ったまま。
距離は、近い。
さっきまで置こうとしていた距離。
もう、ない。
水城が、ゆっくりと息を吐く。
「……上がれよ」
短く言う。
ドアを少し開けて。
「そのまま帰すのも、あれだし」
言い訳みたいに付け足す。
凪は、一瞬だけ考えて。
「はい」
と答える。
そのまま、一歩踏み出す。
玄関の中へ。
すれ違う瞬間。
ほんのわずかに。
袖が触れる。
それだけなのに。
「……」
水城の動きが、一瞬止まる。
でも。
何も言わない。
そのままドアを閉める。
静かな音。
外と中が、完全に分かれる。
その空間の中で。
二人の距離は。
また、最初より少しだけ。
近くなっていた。
ドアが閉まる。
外の音が、完全に遮断される。
静かだった。
さっきまでの会話の余韻だけが、やけに残っている。
「……適当に座って」
水城が、奥を顎で示す。
凪は、靴を脱いで上がる。
部屋の中に入るのは、これが初めてだった。
けれど。
特に何かを観察する様子もなく、そのまま言われた通りに座る。
水城は、少しだけふらつきながらキッチンの方へ行く。
「水、飲む?」
振り返らずに聞く。
「はい」
短い返事。
グラスに水を注ぐ音。
それがやけに大きく聞こえる。
凪は、その背中を見ている。
さっきまでよりも、少しだけ不安定な立ち方。
呼吸も、ほんのわずかに乱れている。
「……無理しないでください」
静かに言う。
水城の動きが、一瞬止まる。
でも。
「してない」
すぐに返す。
いつものやつ。
強がり。
そのまま戻ってきて、グラスを差し出す。
凪は受け取る。
「ありがとうございます」
一口飲む。
その間に、水城はソファに腰を下ろす。
少しだけ、距離がある。
同じ空間。
でも。
さっきまでの詰めた距離とは、違う配置。
「……」
沈黙。
気まずさじゃない。
でも。
——整ってない。
さっきまで外で成立していた関係が、この部屋の中で少し形を変えている。
「……凪」
水城が、先に口を開く。
「はい」
「さっきの」
少しだけ言葉を探す。
「……来いよ、ってやつ」
凪の視線が、わずかに上がる。
「はい」
水城は、少しだけ笑う。
自嘲気味に。
「……あれさ」
息を吐く。
「普通に考えて、おかしいからな」
凪は、何も言わない。
否定も、肯定もしない。
水城は続ける。
「来るなって言っといて、来いって」
視線を落とす。
自分の手元に。
「……意味わかんねえだろ」
凪は、ほんの少しだけ考える。
そして。
「はい」
と答える。
正直に。
水城が、吹き出す。
「だよな」
小さく笑う。
でも。
その笑いは、すぐに消える。
「……俺さ」
少しだけ間。
「多分、向いてないわ」
その一言で。
空気が、変わる。
凪の視線が止まる。
「……何にですか」
静かに問う。
水城は、少しだけ考える。
でも。
すぐに答える。
「こういうの」
曖昧な言い方。
でも。
「距離とか、関係とか」
少しずつ、具体になる。
「お前みたいなやつと、ちゃんとやるの」
凪の呼吸が、ほんのわずかに変わる。
でも、言葉は出さない。
水城は、そのまま続ける。
止めない。
「お前さ」
顔を上げる。
まっすぐ見る。
「止まんねえだろ」
凪は、迷わない。
「はい」
即答。
それが答え。
水城は、頷く。
「俺もさ」
少しだけ、苦笑する。
「止めらんねえんだわ」
その一言。
凪の目が、わずかに揺れる。
初めて。
はっきりと。
「……じゃあ」
凪が口を開く。
「問題ないです」
水城が、首を横に振る。
「あるんだよ」
はっきりと言う。
「めちゃくちゃある」
少しだけ声が強くなる。
「このままいったら」
一瞬だけ間。
「多分、壊す」
凪の動きが止まる。
「俺が」
続ける。
自分のこととして。
「お前のことも」
静かに。
でも。
重く。
沈む。
凪は、何も言えない。
初めて。
言葉が出てこない。
「……だから」
水城が、息を吐く。
少しだけ長く。
「ここで止めといた方がいい気がする」
その一言。
はっきりとした。
——線引き。
部屋の空気が、一気に冷える。
凪の思考が、一瞬止まる。
理解が、遅れる。
「……止める、とは」
確認する。
声は、まだ平静。
でも。
その中身は、違う。
水城は、視線を逸らす。
「……このまま、進むの」
それだけ。
十分だった。
意味は。
完全に伝わる。
数秒。
沈黙。
何も動かない。
でも。
凪の中で、何かがずれる。
大きく。
「……嫌です」
小さく。
でも、はっきり。
水城が、目を閉じる。
予想していた反応。
「……だろうな」
苦く笑う。
「でもさ」
続ける。
「これ、俺の問題なんだよ」
凪が、顔を上げる。
「お前がどうとかじゃない」
先に言う。
「むしろ逆」
ほんの少しだけ視線を戻す。
「お前だから、無理なんだわ」
その言葉。
凪の中で、何かが完全に止まる。
「……どういう意味ですか」
静かに問う。
水城は、少しだけ笑う。
諦めたみたいに。
「分かんねえの?」
優しく言う。
でも。
逃げない。
「お前じゃなかったら、ここまでならねえよ」
凪の呼吸が、乱れる。
ほんのわずかに。
「こんな面倒なこと、考えねえ」
正直に。
「でもお前だから」
一瞬だけ間。
「止めないと、やばい」
その一言で。
完全に。
落ちる。
凪の中で。
今まで積み上げてきた問題ないが、崩れる。
初めて。
はっきりと。
「……それは」
言葉が、出ない。
続かない。
整理できない。
水城は、それを見ている。
何も言わずに。
「……じゃあ」
凪が、やっと言葉を絞り出す。
「止めなければいいです」
水城が、息を詰める。
「無理です」
凪は続ける。
「壊れても」
ほんの一歩、距離を詰める。
さっきよりも、近く。
「問題ないです」
水城が、立ち上がる。
反射的に。
距離を取るように。
「それが無理なんだよ!」
初めて、声が上がる。
部屋に響く。
凪が、止まる。
完全に。
「……俺は嫌なんだよ」
水城の声が、震える。
「お前が壊れるの」
その一言。
凪の思考が、完全に止まる。
「……なんで」
初めて。
問いの形が変わる。
「なんで、それが問題なんですか」
本気で、分かっていない。
水城が、言葉を失う。
数秒。
何も言えない。
でも。
「……好きだからだろ」
ぽつりと。
落ちる。
静かに。
でも。
確実に。
空気が、止まる。
凪の目が、見開かれる。
完全に。
初めて。
「……え」
声が、崩れる。
水城は、顔を逸らす。
もう、隠せない。
「だから、無理なんだよ」
小さく言う。
「お前が壊れるとこ、見たくねえ」
それが全部だった。
理由。
距離。
怖さ。
全部。
凪は、動かない。
思考が追いつかない。
整理できない。
でも。
一つだけ。
はっきり残る。
「……好き」
小さく、繰り返す。
その言葉。
初めて触れる概念みたいに。
「……それは」
視線を上げる。
水城を見る。
まっすぐ。
逃げずに。
「距離を置く理由になりますか」
水城が、固まる。
その問い。
予想していなかった。
でも。
凪は続ける。
「壊れる可能性があるから」
整理するように。
「離れる」
少しだけ間。
「でも」
一歩、踏み出す。
今度は、止まらない。
「好きなら」
距離が、ゼロになる。
「離れない方が、正しいです」
水城の呼吸が止まる。
完全に。
「……凪」
名前を呼ぶ。
でも。
止められない。
「壊れるなら」
静かに。
でも、強く。
「一緒に壊れればいいです」
その一言。
完全に。
常識の外。
でも。
凪にとっては。
それが結論。
沈黙。
長い。
水城が、ゆっくりと息を吐く。
観念したみたいに。
「……ほんとにさ」
小さく笑う。
「凪、やばいわ」
でも。
その声は。
さっきと違う。
逃げてない。
「……でも」
一歩、近づく。
今度は、水城から。
「それでもいいって言うなら」
距離が、戻る。
最初よりも、近く。
「もう止めねえぞ」
最後の確認。
凪は、迷わない。
「はい」
即答。
その瞬間。
水城の手が、凪の後ろに回る。
引き寄せる。
距離が、完全に消える。
「……後悔すんなよ」
低く言う。
凪は、小さく首を振る。
「しません」
そのまま。
言葉は、もういらない。
距離だけが。
答えだった。
距離が、完全に消える。
呼吸が、混ざる。
触れているのは、ただそれだけのはずなのに——
逃げ場がない。
でも。
どちらも、離れようとしない。
「……凪」
すぐ近くで、名前を呼ばれる。
低くて、少しだけ震えている声。
凪は、そのまま答える。
「はい」
距離は、そのまま。
視線も逸らさない。
水城は、数秒だけ何も言わない。
ただ、見ている。
確認するみたいに。
本当にいいのかを。
でも。
凪は、一度も目を逸らさない。
だから。
水城は、小さく息を吐く。
「……ほんとに、引かねえんだな」
半分呆れたみたいに。
でも。
どこかで、救われたみたいに。
凪は、ほんの少しだけ首を傾げる。
「引く理由がありません」
そのまま、答える。
水城が、短く笑う。
「普通はあるんだよ、そういうの」
「……普通は、分かりません」
間を置かずに返す。
そのやり取りが。
少しだけ空気を緩める。
でも。
それでも。
距離は戻らない。
「……じゃあさ」
水城が、少しだけ声を落とす。
「俺が無理になっても?」
試すみたいに。
確認するみたいに。
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
すぐに答える。
「無理にしません」
水城の眉が、わずかに動く。
「……どうやって」
凪は、そのまま続ける。
「調整します」
静かに。
当たり前みたいに。
「水城さんが無理になる前に」
ほんの少しだけ。
距離が詰まる。
もうこれ以上ないはずなのに。
「修正します」
その言葉は。
前と同じなのに。
意味が違う。
ただのルールじゃない。
——残るための選択。
水城が、言葉を失う。
数秒。
何も言えない。
でも。
そのあと。
「……ほんとにさ」
小さく笑う。
「俺、逃げらんねえな」
諦めたみたいに。
でも。
嫌じゃない声で。
凪は、答えない。
ただ。
そこにいる。
それだけでいいと分かっているみたいに。
沈黙。
でも。
今度は、怖くない。
水城が、ゆっくりと手を動かす。
凪の肩に触れて。
少しだけ距離を離す。
完全にじゃない。
顔が見えるくらい。
「……確認しとく」
真っ直ぐ見る。
逃げない。
「これ、戻れねえからな」
凪は、瞬きを一つする。
そして。
「問題ないです」
と答える。
迷いなく。
水城が、苦く笑う。
「だから、その基準」
小さくツッコむ。
でも。
そのまま。
もう一度、引き寄せる。
さっきよりも自然に。
迷いなく。
「……じゃあ」
小さく呟く。
「もういいわ」
何かを手放すみたいに。
同時に。
何かを決めるみたいに。
凪は、何も言わない。
でも。
分かっている。
これは。
さっきまでとは違う。
ただの近さじゃない。
選んだ距離。
そのまま。
時間が、少しだけ流れる。
何も起きない。
でも。
十分だった。
「……凪」
もう一度、名前を呼ぶ。
今度は。
さっきより、柔らかい。
「はい」
「さっきさ」
少しだけ間。
「一緒に壊れればいいって言っただろ」
凪は、頷く。
「はい」
水城は、ほんの少しだけ目を細める。
「それ、訂正な」
凪が、わずかに動く。
「……はい」
水城は、ゆっくり言う。
「壊れないようにする」
静かに。
でも。
はっきり。
「一緒に」
その一言で。
意味が変わる。
凪の思考が、一瞬だけ止まる。
「……可能ですか」
珍しく。
少しだけ不確かな問い。
水城は、少しだけ笑う。
「分かんねえよ」
正直に。
「でもやる」
間を置かずに。
「お前となら」
その言葉に。
凪は、ほんのわずかに目を細める。
それは。
今までになかった反応。
「……分かりました」
小さく答える。
でも。
今までより、少しだけ。
——人っぽい。
水城は、それを見て。
少しだけ息を止める。
でも。
何も言わない。
そのまま。
「……とりあえず」
少しだけ距離を離して。
現実に戻るみたいに。
「今日は休ませろ」
頭を軽く押さえる。
「普通にしんどい」
凪は、すぐに頷く。
「はい」
即答。
そして。
迷わず立ち上がる。
「水、追加で持ってきます」
そのままキッチンへ向かう。
動きに、無駄がない。
水城が、それを見て。
小さく笑う。
「……ほんと、ブレねえな」
呟く。
でも。
その声は。
もう、不安じゃない。
少しして。
凪が戻ってくる。
水を差し出す。
水城が受け取る。
そのとき。
指が、触れる。
一瞬だけ。
でも。
今度は。
どちらも、何も言わない。
避けもしない。
ただ。
自然に、そのまま離れる。
「……凪」
「はい」
「明日さ」
少しだけ間。
「来る?」
凪は、迷わない。
「はい」
水城が、少しだけ笑う。
「だよな」
そして。
もう一度、付け足す。
「……来いよ」
今度は。
矛盾じゃない。
まっすぐな言葉。
凪は、ほんの少しだけ頷く。
「はい」
その答えは。
今までと同じなのに。
意味は、全然違った。
水城がソファにもたれたまま、目を閉じる。
体調のせいか、呼吸が少しだけ重い。
凪は、その横に座る。
距離は、近い。
でも——さっきまでとは、少し違う。
「……大丈夫ですか」
静かに聞く。
水城は、目を開けないまま答える。
「……大丈夫じゃない」
正直な声。
でも。
そのまま続ける。
「でも、お前いるからマシ」
凪の動きが、ほんの少し止まる。
その言葉。
理解するまでに、一瞬かかる。
「……そうですか」
小さく返す。
それ以上、何も言えない。
水城が、ゆっくり目を開ける。
視線が合う。
近い。
逃げ場がない距離。
でも。
どちらも逸らさない。
「……凪」
「はい」
少しだけ間。
迷っているのが分かる。
でも。
そのまま、言う。
「……触れてもいい?」
確認。
初めての。
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
「はい」
と答える。
それだけで十分だった。
水城の手が、ゆっくり伸びる。
頬に触れる。
温度を確かめるみたいに。
凪は、動かない。
拒まない。
ただ、受け入れる。
そのまま。
距離が、少しずつ消える。
呼吸が、近づく。
でも。
止まる。
完全には、いかない。
水城が、そこで一度止まる。
「……なあ」
小さく言う。
「はい」
「これ、後戻りできないやつ」
確認みたいに。
凪は、迷わない。
「問題ないです」
いつもの言葉。
でも。
今は少し違う。
水城が、小さく笑う。
「ほんと便利な言葉だな、それ」
そして。
今度は止まらない。
距離が、完全に消える。
触れる。
一瞬だけ。
でも。
それだけで、十分すぎるくらいに伝わる。
凪の思考が、止まる。
初めての感覚。
整理が追いつかない。
でも。
嫌じゃない。
むしろ——
「……凪」
名前を呼ばれる。
すぐ近くで。
凪は、ほんの少しだけ息を整える。
「はい」
そのまま。
視線を合わせる。
逃げない。
水城が、少しだけ困ったみたいに笑う。
「……ほんと、逃げねえな」
凪は、小さく首を振る。
「逃げる理由がありません」
その答えに。
水城は、もう一度息を吐く。
観念したみたいに。
そして。
静かに言う。
「……凪」
「はい」
少しだけ間。
でも。
今度は、迷わない。
「僕、好きなんです。柊真のこと」
凪の声は、いつも通り落ち着いている。
でも。
内容は、全く違う。
水城の呼吸が止まる。
「……だから」
続ける。
「こんな僕でも、一生そばにいてください」
ほんのわずかに。
言葉を探す。
でも。
ちゃんと選ぶ。
「付き合お」
水城が、固まる。
完全に。
数秒。
何も言えない。
「……何言ってるの」
かすれた声。
でも。
拒絶じゃない。
凪は、そのまま見る。
逃げない。
水城は、目を逸らす。
ほんの一瞬だけ。
「……凪」
呼ぶ。
でも。
言葉が続かない。
凪は、待つ。
急かさない。
逃げない。
その沈黙のあと。
水城が、小さく笑う。
少しだけ、自嘲気味に。
「……そうだよね」
ぽつりと。
「俺って普通じゃないから…」
凪は、間を置かずに答える。
「知ってる」
水城の動きが止まる。
その一言。
そして。
凪は続ける。
「だからお前を選んだ」
迷いなく。
まっすぐに。
逃げ道を残さない言葉。
水城が、目を閉じる。
一瞬だけ。
そして。
ゆっくり開ける。
もう、逃げない。
「……いいよ」
小さく。
でも、はっきり。
それが答えだった。
その距離のまま。
言葉は、もうほとんどいらなかった。
触れることに、意味を探す必要もない。
ただ。
確かめるみたいに。
選び直すみたいに。
少しずつ、距離が消えていく。
「……凪」
呼ばれる。
すぐ近くで。
「はい」
「ほんとにいいんだな」
最後の確認。
凪は、迷わない。
「はい」
それだけで、十分だった。
——そのあと。
部屋の中は、静かだった。
時間の感覚が、少しだけ曖昧になる。
どこからが始まりで、どこまでが続いていたのか。
はっきりしないまま。
ただ一つだけ。
戻らないところまで来たことだけが、分かっていた。
気づけば。
部屋の空気は、少しだけ落ち着いている。
さっきまでの熱が、ゆっくり引いていく。
でも。
距離は、変わらない。
むしろ。
前よりも自然に、近い。
水城が、天井を見たまま小さく息を吐く。
「……やば」
ぽつりと。
独り言みたいに。
凪は、その横で静かに聞いている。
「何がですか」
「……全部」
少しだけ笑う。
でも。
その声は、軽くない。
数秒。
何も言わない時間が続く。
でも。
今度はもう、空白じゃない。
「……凪」
「はい」
水城が、ゆっくりと顔を向ける。
さっきよりも、少しだけ柔らかい目。
「ほんとにさ」
一瞬だけ間。
でも。
もう迷わない。
「これ、最後までいくぞ」
凪は、その言葉を受け取る。
意味も。
重さも。
全部。
「はい」
それだけ。
でも。
それが、約束になる。
水城が、小さく笑う。
「逃げんなよ」
「逃げません」
即答。
そのやり取りが。
さっきまでよりも、ずっと自然に成立する。
少しして。
水城が、ふっと視線を外す。
「……なあ」
「はい」
「さっきのやつ」
凪の方を見る。
「ちゃんと言えよ」
凪は、一瞬だけ考える。
でも。
今度は、迷わない。
「好きだよ。柊真」
静かに。
でも、はっきり。
水城の呼吸が、少しだけ止まる。
翌日。
講義が終わって、教室を出る。
特に約束はしていない。
でも。
足は、迷わない。
昨日と同じ場所へ向かう。
そこに。
「……凪おそいぞ」
壁にもたれている、水城がいる。
凪は、隣に立つ。
距離は——
もう、測らない。
「ちゃんと来たな」
「はい」
短く答える。
水城が、少しだけ笑う。
「……来いよって言ったしな」
凪は、ほんの少しだけ目を細める。
「はい」
そのまま。
自然に、歩き出す。
今度は。
腕を掴まなくてもいい。
でも。
ほんの一瞬だけ。
触れる。
水城は、何も言わない。
そのまま。
少しだけ、近づく。
それで、十分だった。
——普通じゃないまま。
でも。
選んで、続いていく関係として。
二人の距離は。
もう、揺れなかった。
