正常の外で、君を飼う

帰宅して、部屋の中に一人でいる状態に戻った瞬間、それまで外の音や人の気配に紛れていた思考が一気に浮かび上がってくるのを感じながら、水城はベッドに身体を預けるようにして倒れ込み、天井を見上げたまましばらく動かずにいた。

今日一日の出来事を整理しようとしているわけではないのに、断片的な記憶だけが勝手に浮かんできては消えていく中で、そのどれにも共通しているのが、凪の距離と、視線と、触れていた感覚だったことに気づいたとき、無意識に小さく息を吐く。

「……ほんと、なんだったんだよ」

呟きながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。

特に目的があったわけではない。

ただ。

画面を開いたとき。

通知が、一件。

『神代 凪』

名前を見るだけで、少しだけ思考が止まる。

開く。

メッセージは短い。

『帰れましたか』

昼間と同じ文面。

それなのに。

意味が、違って見える。

水城は、数秒だけ考えてから、

『帰ってきた』

とだけ返す。

余計なことは書かない。

それでいいと思った。

既読がつくのは、早かった。

間を置かずに、次のメッセージが届く。

『よかったです』

それだけ。

そこで終わると思った。

でも。

続く。

『今日は楽しかったです』

指が、止まる。

なんて返すべきか、一瞬だけ迷う。

『俺も』

それだけ打って、送る。

十分だと思った。

けれど。

既読がついたあと、少しだけ間が空いて。

『また会えますか』

その一文が、画面に表示される。

水城は、そこで初めて、少しだけ眉を寄せる。

——早い。

そう感じた。

悪い意味じゃない。

ただ。

距離の詰め方が。

「……凪」

小さく呟く。

考える。

断る理由はない。

でも。

簡単に肯定していいのかも分からない。

数秒、沈黙。

その間に、もう一件届く。

『次はいつ空いてますか』

重なる。

詰めてくる。

その感覚に、水城はわずかに息を吐く。

スマホを持つ手に、少しだけ力が入る。

『そんなすぐ決めなくてもよくない?』

送る。

少しだけ距離を置く言い方。

凪の既読は、やっぱり早い。

『どうしてですか』

間髪入れずに返ってくる。

その一文で。

空気が、少し変わる。

水城は、少しだけ言葉を選ぶ。

『いや、今日会ったばっかだし』

事実をそのまま返す。

それで伝わると思った。

でも。

『それは関係ありますか』

その返しで。

完全にズレる。

「……は?」

思わず声が出る。

冷静な文章。

感情が見えない。

けれど。

引いていない。

『会いたいと思ったら、会うのは普通じゃないですか』

その一文に、水城は一瞬だけ黙る。

——普通。

その言葉に、引っかかる。

今日、一日ずっと出てきた言葉。

でも。

今は。

「……違うだろ」

小さく呟く。

指が、動く。

『普通っていうか、もうちょいペースあるやろ』

送る。

やんわり。

否定しすぎないように。

けれど。

凪の返事は、変わらない。

『ペースは合わせます』

一見、譲っているように見える。

でも。

『水城さんに』

続く。

『ただ、会えない理由が分からないので教えてほしいです』

その一文で。

水城は、スマホを持ったまま固まる。

責められているわけじゃない。

でも。

逃げ道がない。

「……めんど」

小さく吐き出す。

無意識に。

そのまま、打つ。

『別に理由とかじゃなくて、普通そんな毎回会わないだろ、もう少し今日の余韻に浸りたかった』

送ってから、少しだけ後悔する。

言い方が、雑だった。

既読がつく。

少しだけ間が空く。

その時間が、やけに長く感じる。

そして。

『じゃあ、水城さんにとっての普通に合わせます』

その一文。

一見、引いている。

でも。

次の一文で、完全に変わる。

『でも、他の人とも同じですか』

水城の眉が、はっきりと寄る。

「……は?」

意味が分からない。

けれど。

分かってしまう。

『今日みたいに、他の人とも会ってますか』

そこで。

完全に理解する。

——独占。

「……お前さ」

今度は、はっきりと呟く。

指が止まる。

どう返すべきか、一瞬迷って。

でも。

『いや、そこまでじゃないだろ』

送る。

はっきりと。

線を引くつもりで。

既読。

すぐには返ってこない。

さっきまでと違う間。

その沈黙が、少しだけ重い。

そして。

『そうですか』

短い一文。

それだけ。

その後、続かない。

水城は、画面を見たまましばらく動かない。

さっきまでの流れ。

言葉。

全部を、頭の中でなぞる。

「……やりすぎたか」

小さく呟く。

でも。

どこを、どう間違えたのかが分からない。

スマホを閉じる。

部屋が、静かになる。

昼間とは違う。

完全に一人の空間。

その中で。

さっきまで近くにあった距離だけが。

やけに、残っている。



部屋の中に戻ってからも、外にいたときと同じように身体のどこかに残っている感覚が完全には消えきらないまま、玄関で靴を脱いで、そのまま部屋の奥まで歩いていったあと、特にやることがあるわけでもないのに立ち止まる理由も見つからず、結果的にそのままベッドの縁に腰を下ろしてから、ようやく一つ息を吐く。

静かだった。

昼間にいた場所とは違って、音が少ない。

その分だけ、思考がはっきりする。

ポケットからスマートフォンを取り出して、画面を開く。

さっきのやり取りが、そのまま残っている。

読み返す必要はない。

内容は覚えている。

『いや、そこまでじゃないだろ』

その一文だけが、少しだけ引っかかっている。

意味は理解できる。

距離が近いのは分かっているけれど、そこまでではない。

つまり——

まだ、そういう関係ではない、ということ。

「……そうですか」

小さく呟く。

さっき送った言葉と同じ。

画面を見ながら、もう一度その意味を整理する。

怒っているわけではない。

否定されたわけでもない。

ただ。

——範囲の違い。

自分が考えている関係と、水城が考えているそれが、少しずれているだけ。

それだけのこと。

そう判断する。

スマートフォンをベッドの上に置く。

手を離す。

それでも、視線はそこから動かない。

しばらくそのままでいてから、ゆっくりと横になる。

天井を見る。

昼間と同じ構図。

でも。

中身が違う。

「……」

目を閉じる。

思い出すのは、今日のこと。

観覧車の中。

触れられた距離。

キス。

あのとき、水城は離れなかった。

拒否もしなかった。

むしろ。

——自分から近づいた。

それは、事実として残っている。

「……じゃあ」

小さく呟く。

目を開ける。

「どこからが、そこまでなんだろう」

疑問が、そのまま言葉になる。

基準がない。

教えられていない。

でも。

必要なことだと理解している。

間違えないために。

離されないために。

「……」

身体を起こす。

もう一度、スマートフォンを手に取る。

連絡画面を開く。

水城の名前。

指が止まる。

送るかどうかを考える。

必要かどうかを考える。

結論は、すぐに出る。

——必要。

そう判断する。

けれど。

さっき、そこまでじゃないと言われたばかりだ。

同じように送るのは、正しくない。

少し考える。

どうすればいいか。

どうすれば、間違えないか。

「……合わせるって、言ったし」

小さく呟く。

自分で言ったことを、なぞる。

水城の普通に合わせる。

それが、今の最適解。

画面を閉じる。

メッセージは、送らない。

代わりに、連絡先の画面を開いて、水城の名前を一度だけ見てから、ゆっくりとスマートフォンを置く。

——送らない、という選択。

それを、自分で選ぶ。

初めての感覚だった。

「……でも」

言葉が、続く。

止まらない。

「他の人とも、同じなら」

そこまで言って、止まる。

考える。

昼間の光景。

職場の人間。

距離。

触れ方。

「……違う」

すぐに否定する。

あれは違う。

同じではない。

少なくとも、自分に対する距離とは違った。

だから。

「……大丈夫」

結論を出す。

自分に言い聞かせるみたいに。

水城は、離れていない。

拒否していない。

だから。

——まだ、問題ない。

そう整理する。

ベッドに横になる。

今度は、さっきよりも少しだけ身体の力を抜く。

完全に納得したわけではない。

けれど。

壊れてはいない。

関係は、続いている。

それが分かっているだけで、十分だった。

「……次、会ったとき」

小さく呟く。

誰に聞かせるでもなく。

「もう少し、ちゃんと聞こう」

基準を。

距離を。

どこまでならいいのか。

それを知れば。

——間違えない。

そう思いながら、目を閉じる。

静かな部屋の中で。

昼間の残りが、ゆっくりと薄れていく。

それでも。

最後まで残っていたのは。

触れていた距離と。

離れなかった、その事実だった。


朝、目が覚めた瞬間に、昨日とは違う種類の静けさが部屋の中に広がっていることに気づきながらも、それが単に音の有無の問題ではなく、今日という一日の中にあらかじめ含まれていないものの存在によって生じている空白なのだと理解するまでには、ほんのわずかな時間が必要だった。

天井を見たまま、身体を起こさない。

起きる理由はある。

講義もあるし、行かなければならない場所もある。

けれど。

——会う予定は、ない。

その事実が、他のすべての優先順位を少しだけ曖昧にする。

「……」

小さく息を吐く。

昨日のやり取りを思い出す。

メッセージは送らなかった。

それは、正しい判断だったと思う。

“そこまでじゃない”

そう言われたあとで、同じ温度のまま関わり続けるのは、たぶん間違いになる。

だから。

送らなかった。

それでいい。

問題はない。

そう結論づけてから、ゆっくりと身体を起こす。

支度をする動作は、いつもと同じはずなのに、どこか一つひとつが遅れているような感覚があって、その理由を考える必要はないと判断しながらも、頭のどこかでは昨日の延長線上に今日が存在していないことを繰り返し確認している。

大学に向かう途中、ポケットの中のスマートフォンの存在を何度か意識したが、それを取り出して画面を確認する行為に明確な目的がない以上、それを繰り返すことは無駄であると判断し、そのまま歩き続ける。

——連絡は、来ていない。

確認しなくても分かる。

昨日、自分は何も送っていない。

だから、向こうから何かが来る理由もない。

それは、自然なことだ。

「……普通」

小さく呟く。

そういう関係が、普通。

毎日連絡を取るわけでもなく、用事があるときだけ話す。

会う約束がなければ会わない。

それが、一般的な距離。

そう理解している。

講義室に入る。

人の数。

音の量。

それらが一気に増えることで、内側の思考が少しだけ押し流される感覚が戻ってくる。

席に座る。

隣の人間が何か話しかけてくる。

内容はよく分からないが、適切なタイミングで頷き、短く返すことで会話として成立させる。

それは、できる。

問題ない。

「神代ってさ、昨日いなかった?」

ふいに言われる。

その言葉の意味を一度分解する。

昨日。

いなかった。

「……いました」

正確に答える。

大学には来ていないが、存在していなかったわけではない。

「いや、なんか帰り見かけなかったなって」

「そうですか」

それ以上の説明は必要ないと判断する。

会話はそこで終わる。

講義が始まる。

教授の声が前から流れてくる。

内容は頭に入っているはずなのに、定着していない。

言葉が、そのまま通過していく。

——昨日の時間の方が、密度があった。

そう思ってしまう。

比較する必要はないのに。

無意識に、比べている。

「……」

視線を落とす。

ノートの上にペンを置いたまま、動かさない。

書くことはできる。

理解もできる。

けれど。

今は、それを優先する理由が弱い。

講義が終わる。

人が立ち上がる。

音が増える。

その流れに乗るようにして教室を出る。

ひとりになる。

その瞬間。

少しだけ、静かになる。

——楽になる。

でも。

それと同時に。

「……」

足が、止まる。

昨日なら、この時間は。

考えかけて、やめる。

意味がない。

今日は、ない。

分かっている。

それでも。

身体の方が、覚えている。

同じ時間。

同じ場所。

「……行くだけ」

小さく呟く。

理由をつける。

会うためじゃない。

確認するためでもない。

ただ、通るだけ。

そう定義する。

足が動く。

昨日と同じ道。

人の流れは違う。

音も違う。

けれど。

——いない。

分かっていた。

それでも、視線は探してしまう。

立っているはずの位置。

壁。

周囲の人間。

全部、違う。

「……」

立ち止まる。

数秒。

それだけ。

それ以上いる理由はない。

「……帰ろ」

小さく言って、向きを変える。

その瞬間。

ポケットの中で、スマートフォンがわずかに当たる。

取り出す。

画面を開く。

通知は——ない。

分かっていたことを、確認する。

それだけ。

「……別に」

呟く。

困っているわけではない。

寂しいわけでもない。

ただ。

——想定と違うだけ。

昨日は、いた。

今日は、いない。

それだけの違い。

それを、修正すればいい。

「……次は」

歩きながら、考える。

「いつ会えるか、聞く」

それが必要だと判断する。

曖昧なままだと、誤差が出る。

誤差は、間違いに繋がる。

だから。

次は、ちゃんと決める。

そうすれば。

——今日みたいなズレは、起きない。

結論が出る。

それでいい。

納得する。

ポケットにスマートフォンを戻す。

歩き続ける。

周囲の音が、少しずつ増えていく。

その中に紛れながら。

それでも、最後まで残っていたのは。

——いなかった、という事実と。

それを、次は起こさないようにする、という判断だった。

朝、目が覚めた瞬間に最初に浮かんだのは昨日の結論で、それは一度整理したはずの内容をもう一度なぞるような感覚で頭の中に再生されながらも、今日はそれを実行に移す日だという認識が、身体を起こすよりも先に行動の方向性を決定づけていた。

——曖昧にしない。

会えるかどうかを、その場の偶然に任せない。

昨日のズレは、修正できる。

そのためには、確認が必要で、確認するためには——会う必要がある。

そこまで考えたところで、ようやく身体を起こす。

動きに迷いはなかった。

支度を整える時間も、普段より短い。

余計な選択を挟まないことで、行動の精度を上げる。

大学に向かう途中も、周囲の音や人の流れに意識を割くことはほとんどなく、すでに頭の中では今日の行動経路がいくつかのパターンとして組み立てられていて、その中から効率のいいものを順番に試していけば、最終的に目的には到達できると判断していた。

講義室に入る。

席に座る。

いつも通りの流れ。

けれど。

今日は、そこが目的ではない。

時間を確認する。

開始時刻。

終了時刻。

その間に動ける範囲。

すべてを一度整理する。

「神代?」

名前を呼ばれる。

隣の人間。

「今日なんか急いでない?」

「そうですか」

短く返す。

それ以上は必要ない。

講義が始まる。

声が流れる。

内容は入ってくる。

でも。

優先順位が違う。

時計を見る回数が増える。

それでも、不自然ではない範囲に収める。

——あと何分。

それだけを基準にする。

講義が終わる。

人が立ち上がる。

その流れに合わせる。

でも、同時に。

——探す。

教室を出た瞬間から、視線の使い方が変わる。

人の顔。

背格好。

歩き方。

一つひとつを識別する。

昨日までなら、そこまで必要なかった情報。

でも今日は。

——見つける必要がある。

廊下。

階段。

中庭。

移動する。

無駄のないルートを選ぶ。

いそうな場所を優先する。

いなければ、次。

その繰り返し。

「……いない」

小さく呟く。

一度目。

まだ問題ない。

想定の範囲。

時間帯が違う可能性もある。

講義棟を変える。

人の多い場所へ移動する。

カフェスペース。

ベンチ。

喫煙所の近く。

視線を走らせる。

——いない。

二度目。

少しだけ、思考の速度が上がる。

まだ、問題ではない。

範囲を広げる。

外に出る。

構内の道。

人の流れ。

その中に紛れている可能性もある。

一人ひとりを確認する。

「……」

呼吸が、少しだけ浅くなる。

理由は分かっている。

効率が落ちている。

だから、修正する。

一度立ち止まる。

考える。

行動パターン。

時間帯。

——帰り道。

昨日、会った場所。

そこにいる可能性。

高い。

そう判断する。

足を向ける。

少しだけ速くなる。

歩幅が変わる。

無意識に。

——いる。

遠くに、人影。

見覚えのある立ち方。

視線の流し方。

間違いない。

水城 柊真。

その隣に——

別の人間がいる。

女。

年齢は近い。

距離が、近い。

自然に会話している。

笑っている。

「……」

足が、止まる。

止めたつもりはない。

でも、動かない。

距離がある。

声は聞こえない。

でも。

——近い。

昨日、自分が言った距離よりも。

明らかに。

自然に。

「……違う」

小さく呟く。

否定する。

何を。

分からないまま。

もう一度見る。

変わらない。

笑っている。

触れているわけじゃない。

でも。

——入り込めない距離。

それが、分かる。

「……」

胸のあたりに、何かが引っかかる。

息が、うまく吸えない。

理由を探す。

必要がある。

整理する。

これは何か。

怒りか。

違う。

悲しみか。

分からない。

ただ。

——間違えた。

その感覚だけが、はっきりする。

昨日。

そこまでじゃないと言われた。

だから。

合わせた。

距離を。

行動を。

連絡も、しなかった。

正しいと思った。

なのに。

——違った。

あれは、自分に対しての基準で。

他の人間には、適用されていない。

「……あ」

声が漏れる。

小さく。

自分でも気づかないくらいに。

足が、少しだけ後ろに下がる。

視線を逸らす。

見てはいけないものを見たときみたいに。

でも。

離れられない。

「……やだ」

初めて出た言葉だった。

意味より先に出た。

その瞬間。

一気に崩れる。

今まで積み上げていた理解が。

全部。

「……なんで」

息が乱れる。

うまく整えられない。

思考が追いつかない。

整理できない。

「……ちがう、のに」

何が。

どこが。

分からない。

でも。

「……ちゃんと、合わせたのに」

声が震える。

抑えようとしても、止まらない。

視界が滲む。

理由は分かる。

涙だ。

でも。

「……なんで」

拭く動作を忘れる。

そのまま落ちる。

一つ。

また一つ。

止まらない。

「……っ、」

喉が詰まる。

声にならない。

その場に立ったまま。

動けない。

見つけるために来たのに。

見つけた結果が、これ。

「……やだ」

もう一度。

小さく。

でも、さっきよりもはっきり。

言葉になる。

「……やだ」

繰り返す。

意味は同じ。

でも。

中身が違う。

——奪られたくない。

その感覚が、遅れて形になる。

けれど。

どうすればいいかは、分からない。

近づくのか。

声をかけるのか。

何もできない。

ただ。

その場で。

立ち尽くしたまま。

「……っ、」

涙だけが、止まらなかった。


視界の中にいるその二人の距離と、そこに流れている空気の柔らかさが、遠目からでもはっきりと分かってしまうほどに自然であることに対して、どうしてそれを「問題ない」と処理することができないのかという理由を探そうとしたところで、その前に身体の方が動いてしまっていることに気づいたときには、すでに足は二人のいる方向へ向かっていて、止めるという選択肢が浮かぶよりも先に距離が縮まっていく。

考える余地が、ない。

「——水城さん」

呼んだ声は、自分で思っていたよりもずっと低くて、けれど不思議と震えてはいなかった。

二人の会話が止まる。

同時に、視線がこちらに向く。

その瞬間に、さっきまで遠くから見ていた構図が一気に現実の距離へと引き寄せられて、逃げ場のない形で目の前に固定される。

「……凪?」

水城の表情が、わずかに驚きに変わる。

隣にいる女も、こちらを見る。

初めて正面から視線が合う。

近い。

やっぱり。

「……誰ですか」

自分でも驚くほど自然に言葉が出る。

問いの形をしているのに、確認というより先に拒絶が含まれているような響きになっていることに気づいても、それを修正する余裕はなかった。

「は?」

水城が一瞬だけ言葉を失う。

「いや、誰って——」

「その人」

被せる。

言葉を遮る。

普段ならしない行動。

でも、止められない。

「距離、近いです」

はっきり言う。

事実を。

でも。

それ以上の意味を含ませたまま。

空気が、一瞬で変わる。

さっきまでの柔らかさが消える。

重くなる。

「……凪、お前」

水城の声が少し低くなる。

それでも、止まらない。

「昨日は、だめって言ったのに」

続ける。

自分の中で繋がっているものを、そのまま外に出す。

「そこまでじゃないって」

視線を逸らさない。

逃げない。

「なのに、その人にはいいんですか」

その一言で、完全に空気が固まる。

数秒。

誰も動かない。

それから。

「……はあ?」

先に反応したのは、隣の女だった。

「ちょっと、なにこの子」

明らかに戸惑っている。

当然だと思う。

普通じゃない。

でも。

関係ない。

「……凪、落ち着け」

水城が一歩前に出る。

距離を詰める。

でも。

「近づかないでください」

反射的に言う。

自分でも分からない。

近い方がいいはずなのに。

今は。

——違う。

「……は?」

水城の動きが止まる。

「……それ、誰に言ってんの」

声が少しだけ強くなる。

その変化に、一瞬だけ思考が揺れる。

けれど。

止まらない。

「その人と、同じ距離で来ないでください」

言ってしまう。

完全に。

一線を引く言い方で。

空気が、さらに重くなる。

そのとき。

「……あのさ」

隣の女が、ため息混じりに口を開く。

「誤解してるみたいだから言うけど」

少しだけ間。

そして。

「これ、弟なんだけど」

時間が、止まる。

「……は」

声が出る。

間抜けな音。

理解が、追いつかない。

「私、姉」

あっさりと言われる。

あまりにも簡単に。

「……は?」

もう一度。

さっきよりも小さく。

視線が揺れる。

水城を見る。

女を見る。

もう一度、水城。

「……姉」

水城が、短く言う。

面倒くさそうに。

でも。

嘘ではない。

分かる。

「……」

言葉が出ない。

さっきまで確かにあったはずの思考が、一瞬で崩れて、その代わりに何もない空白だけが残る。

——間違えた。

その事実だけが、遅れて落ちてくる。

さっき言った言葉。

全部。

全部、間違い。

「……あ」

息が詰まる。

視線を逸らす。

合わせられない。

「……すみません」

やっと出た言葉。

でも。

遅い。

空気は、戻らない。

「……いや、まあいいけど」

姉が軽く流す。

でも、水城は何も言わない。

その沈黙が、余計に重い。

「……」

胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。

恥ずかしい。

間違えた。

おかしい。

全部、分かる。

分かるのに。

「……でも」

口が、勝手に動く。

止められない。

「でも、嫌だったんです」

自分でも理解できない方向に、言葉が続く。

水城の視線が、一気に強くなる。

「……は?」

「姉でも」

言う。

はっきり。

「距離、近いの」

空気が、もう一度凍る。

さっきとは違う意味で。

「……お前」

水城が、低く言う。

明らかに。

怒りに近い。

それでも。

止まらない。

「分からないです」

視線を合わせる。

逃げない。

「普通とか、基準とか」

全部。

「知らないので」

そのまま。

「でも」

一歩、近づく。

自分から。

「水城さんが、他の人とああいう距離でいるの、嫌です」

言い切る。

はっきりと。

もう、取り繕わない。

「……凪」

名前を呼ばれる。

警告みたいに。

でも。

「やめません」

被せる。

即答。

「無理です」

迷いなく。

「直せないです」

逃げ道を、自分で潰す。

「だから」

ほんの少しだけ、間を置いて。

「嫌なら、言ってください」

全部を委ねるみたいに見せて。

でも。

「それでも、やめないですけど」

静かに。

言い切る。

沈黙。

完全な。

誰も動かない。

その中で。

水城だけが、ゆっくり息を吐く。

「……ほんとにさ」

小さく。

呆れたみたいに。

「やばいな、お前」

でも。

その声は。

完全な拒絶じゃなかった。

「……あんたら、なに?」

呆れたような声が、張り詰めた空気を少しだけ切る。

さっきまでのやり取りを一歩引いた場所から見ていた女——水城の姉が、軽く肩をすくめる。

「喧嘩してるの?」

答える前に、視線が二人の間を往復する。

「だったらさ、二人でやりなさいよ」

面倒くさそうに息を吐いてから、

「私、巻き込まれるの嫌なんだけど」

それだけ言うと、返事も待たずに踵を返して、そのまま人の流れの中へと消えていく。

止める理由は、誰にもなかった。

——残されたのは、二人。

音はある。

周りには人もいる。

でも。

ここだけ、切り取られたみたいに静かだった。

「……」

何も言えない。

さっきまであんなに言葉が出ていたのに、今は何を言えばいいのか分からない。

でも。

逃げる、という選択肢も出てこない。

「……凪」

先に口を開いたのは、水城だった。

低い声。

さっきよりも少しだけ落ち着いている。

でも。

完全にいつも通りではない。

「……お前、さっきの」

言いかけて、少しだけ止まる。

言葉を選んでいる。

その間が、長く感じる。

「……あれ、本気で言ってんの」

問いというより、確認。

逃げ道を残すような言い方。

でも。

「はい」

凪は、迷わず頷く。

即答だった。

逃げない。

「本気です」

繰り返す。

はっきりと。

水城の眉が、わずかに寄る。

「……普通じゃないって、自分でも分かってるだろ」

静かに言われる。

責めているわけではない。

でも。

線を引こうとしている。

「はい」

それも、分かっている。

「分かってます」

認める。

その上で。

「でも、直せないです」

続ける。

間を置かずに。

水城が、息を吐く。

少しだけ長く。

「……なんでそこまでなんだよ」

本音に近い声だった。

理解できないものを前にしたときの。

凪は、少しだけ視線を落とす。

考える。

理由。

言葉にできるかどうか。

「……なくなるから」

小さく言う。

「は?」

水城が聞き返す。

「離れると」

少しずつ、言葉にする。

「分からなくなるから」

顔を上げる。

視線を合わせる。

逃げない。

「水城さんが、どこにいるかも、何考えてるかも」

一歩、近づく。

無意識に。

「全部、分からなくなる」

距離が縮まる。

さっき拒否したはずの距離に、自分から戻る。

「それが、嫌です」

はっきり言う。

静かに。

でも、強く。

水城は何も言わない。

ただ、見ている。

「……昨日」

凪が続ける。

「いなかったので」

その一言で、空気が少しだけ変わる。

「探しました」

事実を言う。

隠さない。

「ずっと」

付け足す。

その重さを、そのまま。

水城の表情が、わずかに揺れる。

初めて。

はっきりと。

「……それで」

少しだけ間を置いて。

「見つけたら、あれで」

苦笑みたいなものが混ざる。

でも、すぐに消える。

「……間違えました」

姉のこと。

勘違い。

全部。

「でも」

言葉が止まらない。

「それでも、嫌だったです」

矛盾しているのは分かっている。

でも。

「姉でも」

視線を逸らさない。

「嫌です」

はっきりと。

言い切る。

沈黙。

さっきよりも、重い。

水城が、ゆっくりと手で顔を覆う。

「……はあ」

深く息を吐く。

そのまま数秒。

何も言わない。

考えているのか、呆れているのか分からない。

やがて、手を下ろして。

凪を見る。

「……お前さ」

小さく笑う。

困ったように。

でも。

どこかで、諦めているみたいに。

「言ってることめちゃくちゃやで」

否定ではない。

でも、肯定でもない。

「はい」

凪は頷く。

それでいい。

「……ほんで」

水城が一歩、近づく。

今度は、向こうから。

距離が詰まる。

逃げ場は、ない。

「俺にどうしてほしいん」

まっすぐ聞かれる。

試すような目じゃない。

ちゃんとした問い。

凪は、一瞬だけ考える。

でも。

答えは決まっている。

「……離れないでください」

それだけだった。

シンプルに。

余計な言葉はいらない。

水城の目が、わずかに細くなる。

「……それだけ?」

確認。

でも。

「はい」

迷わない。

「それだけでいいです」

本心。

嘘はない。

数秒、見つめ合う。

そのあと。

「……はあ」

水城が、もう一度息を吐く。

今度は、少しだけ軽く。

「…… ほんま、手ぇかかるな」

そう言いながら。

——手が、伸びる。

凪の腕を掴む。

引き寄せる。

さっきとは逆。

「……でも」

距離が、ゼロになる。

すぐ近くで。

「離れる気、もうないんやけど」

低く、言う。

凪の思考が、一瞬止まる。

その間に。

「……それでもええん?」

問いかけ。

逃げ道を残す形。

でも。

「はい」

即答。

迷いなく。

水城が、少しだけ笑う。

諦めたみたいに。

「……ほんま、目離せんわ」

そう言って。

手を離さないまま。

その距離を、受け入れる。

人の流れに紛れながら歩き出しても、腕を掴まれている感覚はそのままで、離される気配がないことに対して安心するよりも先に、それが本当に続くのかどうかを確かめる必要性をどこかで感じている自分がいることに気づきながらも、凪は何も言わずにそのまま隣を歩いていた。

さっきまでとは違う。

距離は同じなのに。

意味が、少し変わっている。

「……なぁ」

水城が、ぽつりと口を開く。

視線は前を向いたまま。

「はい」

凪はすぐに返す。

そのタイミングは、変わらない。

「さっきのさ」

少しだけ間。

言葉を選んでいるのが分かる。

「……あれ、外で言うことじゃないだろ」

軽く言っているようで。

完全に軽くはない。

凪は、一瞬だけ考える。

正しいかどうか。

「……すみません」

結論は、それだった。

事実として。

でも。

「でも」

続ける。

止めない。

「言わないと、分からなくなるので」

静かに。

水城の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちる。

それに合わせて、凪も自然と歩幅を調整する。

「……分からなくなるって」

小さく繰り返す。

独り言みたいに。

「凪って、ほんとそればっかりだな」

呆れたような声。

でも。

否定はしていない。

「はい」

凪は頷く。

隠す必要がない。

「それしか、分からないので」

はっきり言う。

水城が、短く息を吐く。

「……普通はさ」

少しだけ視線を横に向ける。

凪を見る。

「そんな確認しないでも分かるもんなのよ」

教えるように。

でも、押し付けるわけでもなく。

凪は、その言葉をそのまま受け取る。

数秒、考える。

「……分かりません」

正直に言う。

迷いなく。

「だから、確認します」

水城が、少しだけ笑う。

困ったように。

「……極端だな」

そのまま。

数歩、無言で歩く。

人の数が少しずつ減っていく。

駅に近づくにつれて、流れがばらけていく。

「……凪」

また呼ばれる。

さっきより、少しだけ低い声で。

「はい」

「さっきさ」

少しだけ立ち止まる。

自然と、凪も止まる。

向き合う形になる。

人通りは、まだある。

でも。

さっきよりは、少ない。

「姉に対してもあれ言うんだったら」

視線が、まっすぐ落ちる。

「ほんとに、誰にも渡す気ないでしょ」

問いじゃない。

確認でもない。

ほとんど、確信。

凪は、一瞬だけ考える。

でも。

「はい」

すぐに答える。

迷いなく。

「ないです」

はっきりと。

水城の目が、少しだけ細くなる。

「……重」

小さく言う。

でも。

そのまま視線は逸らさない。

凪も、逸らさない。

「でも」

続ける。

「やめません」

静かに。

言い切る。

数秒。

沈黙。

そのあと。

「……ほんとにさ」

水城が、少しだけ近づく。

距離が、詰まる。

今度は、自然に。

「俺がその気なかったら、どうすんの」

低い声。

試すようで。

でも、ちゃんと聞いている。

凪は、一瞬だけ息を止める。

考える。

初めて。

少しだけ長く。

「……それでも」

答えを出す。

ゆっくりと。

「近づきます」

水城の眉が、わずかに動く。

「離れる方が、無理なので」

続ける。

正直に。

「嫌でも、います」

言い切る。

逃げ道は、ない。

自分で消している。

水城が、完全に黙る。

数秒。

動かない。

そのあと。

「……はぁ」

深く息を吐く。

でも。

次に出た言葉は。

「ほんま、あかんやつやな」

呆れ。

でも。

どこかで、笑っている。

「……」

凪は、何も言わない。

ただ、見ている。

すると。

「……しゃあないな」

小さく呟いて。

——手を、引く。

さっきよりも自然に。

さっきよりも強く。

「……責任とるわ」

ぽつりと。

それだけ言う。

凪の思考が、一瞬止まる。

意味を処理する前に。

「……あんた、放っといたらどこまでいくか分からんし」

続ける。

軽く言っているようで。

軽くない。

「俺の目の届くとこにいろ」

命令に近い。

でも。

拒絶じゃない。

凪は、その言葉をそのまま受け取る。

数秒。

何も言わずに。

「……はい」

小さく答える。

その声は。

今日一番、静かだった。

でも。

一番、確かだった。

水城は、それを聞いて。

少しだけ笑う。

「……ほんまに」

もう一度。

「手ぇかかるわ」

そう言いながら。

手は、離さない。

そのまま。

駅の方へ歩き出す。

距離は、ゼロのまま。

でも。

さっきまでと違って。

——離れないことが、前提になっていた。