「なぁ、凪。観覧車乗らない?」
それは何気ない提案のように聞こえたが、周囲の騒音や人の流れとは切り離された、ほんのわずかな静けさの中で落とされた言葉だったせいか、凪にとってはそれが単なる選択肢の提示ではなく、ある種の区切りのようなものとして認識される。
「いいですよ」
即答だった。
迷う理由がない。
断る理由もない。
むしろ——選ばれたこと自体に、わずかな確定性を感じていた。
並んで順番を待つ間、周囲には笑い声や軽い会話が絶えず流れているにもかかわらず、それらはすべて背景として処理され、意識は隣にいる水城一人にだけ向いていて、距離も、呼吸も、視線の動きも、すべてを無意識に追っている自分に対して、それを異常だと判断する材料はどこにも見当たらなかった。
観覧車に乗り込み、扉が閉まる。
外界と切り離される。
逃げ場はない。
向かい合う形で座る。
今までとは違う距離。
近いのに、離れている。
その配置が、わずかに違和感を生む。
「……静かだな」
水城が呟く。
確かに、さっきまでの音が嘘みたいに消えている。
残っているのは、わずかな機械音と、自分たちの呼吸だけ。
「はい」
短く返す。
沈黙が落ちる。
けれど、それを埋める必要性は感じない。
むしろ、この空間は都合がいい。
余計な音がない分、思考が整理しやすい。
「……なあ、凪」
名前を呼ばれる。
視線を向ける。
「お前、さ」
少しだけ言葉を探すような間。
「なんでそんな距離近いの?」
問いは、単純だった。
けれど、その中に含まれている意味は単純ではない。
否定ではない。
拒絶でもない。
ただの疑問。
だから——答える必要がある。
「……分からないです」
正確に言う。
嘘ではない。
ただ、それだけでは足りないことも分かっている。
水城は何も言わずに続きを待っている。
だから、続ける。
「でも」
言葉を選ぶ。
選びながら、自分の中にあるものを順番に引き上げる。
「近くにいた方が、楽なんです」
それが一番近い表現だった。
水城の表情がわずかに変わる。
理解したのか、していないのかは分からない。
それでも、続ける。
「離れてると、分からなくなるから」
「……何が」
「全部」
即答だった。
考えるまでもない。
「どこまで近づいていいのかとか、どこで止まればいいのかとか、誰も教えてくれなかったので」
淡々とした声。
事実の羅列。
「だから、自分で決めるしかなかった」
水城の視線が、わずかに強くなる。
「近い方が、間違えない」
それは結論だった。
「遠いと、分からないから」
「俺、施設育ちで。施設出てからスカウトされて人生やり直せると思ってスカウト受けたらそこ、殴る、蹴る、首締め、なんでもありの接客させられる場所だったんです。辛いと思っても逃げられない。そんな場所にいたんです。でも、どうにか逃げて自分の力で大学入って、今があって」
沈黙が落ちる。
観覧車がゆっくりと上昇していく。
地面が遠ざかる。
逃げ場は、ないまま。
「……それで、なんで俺?」
ぽつりと落ちた言葉。
その問いに対して、少しだけ考える。
なぜ水城なのか。
理由を探す。
すぐに見つかる。
「水城さんは」
言葉にする。
「離れなかったので」
それだけだった。
距離を詰めても、拒絶しなかった。
殴られもしない。
怒鳴られたりもしない。
空気だって....。
訂正されても、完全には離されなかった。
それが——基準になった。
「だから、間違ってないと思った」
視線を合わせたまま言う。
嘘はない。
全部、本当。
「……そっか」
水城が小さく息を吐く。
その表情は、少しだけ複雑で。
理解しているのか、受け止めきれていないのか、そのどちらも含んでいるように見える。
「……じゃあさ」
少しだけ前に身を乗り出す。
距離が、縮まる。
「俺が離れろって言ったら?」
試すような問い。
けれど、その奥にあるものは、試しだけではない。
「離れます」
迷わず答える。
それが正解だから。
「でも」
続ける。
「言われるまでは、離れません」
水城の目が、わずかに揺れる。
その変化を、逃さない。
「だって」
少しだけ、距離を詰める。
観覧車の中で。
逃げ場のない空間で。
「ここまで近づいても、大丈夫だったの、水城さんだけなので」
言葉が落ちる。
静かに。
確実に。
沈黙。
そのあと。
「……お前さ」
水城が笑う。
困ったように。
でも、完全には否定していない。
「それ、ずるいわ」
理由は分からない。
けれど。
その声は、さっきより柔らかい。
「……凪」
名前を呼ばれる。
今度は、さっきより近い距離で。
手が伸びる。
触れる。
腕じゃなくて。
頬に。
「そんな理由で近づかれたら」
少しだけ間。
「離せんやろ」
その言葉と同時に、距離が一気に詰まる。
逃げ場はない。
でも——
逃げる必要もない。
唇が触れる。
前より、長い。
確かめるような、一瞬じゃないキス。
凪は、目を閉じなかった。
その距離のまま、水城を見る。
離れたあとも。
「……これも」
静かに言う。
「大丈夫ですか」
水城が、一瞬だけ固まる。
それから。
「……だめ」
そう言いながら。
もう一度、引き寄せる。
今度はさっきより強く。
距離も、躊躇もなく。
「全然、あかん」
そう言って。
もう一度、キスをした。
キスが離れたあとも、距離はほとんど変わらないままで、触れていたはずの温度だけがわずかに遅れて意識に残り続けていることに気づきながら、水城は一度視線を逸らして小さく息を吐き、その仕草がさっきまでとは明らかに違う種類のものになっていることを自覚しつつも、それをどう処理すればいいのかが分からないまま、結局そのままの距離を維持してしまう。
「……あかんって言ったでしょ」
そう言いながらも、さっき自分から距離を詰めた事実を打ち消すような動きは一切なく、むしろ離れるタイミングを見失っているようにも見えるその曖昧さが、凪にとっては拒絶ではないと判断するには十分だった。
「でも、離れてないです」
静かに指摘する。
責めるでもなく、ただ事実として。
「……うるさい」
すぐに返ってくる言葉は強いのに、その声の温度はどこか緩んでいて、完全に突き放す意志が含まれていないことが分かる。
観覧車は、まだ上昇を続けている。
頂点に近づくにつれて、外の景色が広がっていくはずなのに、そのどれもに意識が向かない。
狭い空間。
逃げ場のない距離。
それだけで、十分だった。
「……凪」
もう一度名前を呼ばれる。
今度は、さっきより少し低い声で。
「はい」
答えると、水城は少しだけ迷うように視線を揺らしてから、
「さっきの話」
と切り出す。
「……ああいうの、簡単に言うな」
その言葉の意味を考える。
簡単に、とは何か。
「簡単じゃないです」
すぐに訂正する。
事実だから。
「水城さんだから言いました」
水城の視線が止まる。
そのまま、動かない。
「……それが重いって捉えられちゃうんだよ」
苦笑みたいな声。
でも、それでも。
「嫌ですか」
確認する。
必要なことだから。
水城は、すぐには答えなかった。
少しだけ目を細めて、こちらを見る。
距離は近いまま。
逃げられない状態で。
「……嫌やったら、あんなことせえへん」
小さく言う。
それは。
さっきのキスのことだと、すぐに分かる。
「じゃあ、大丈夫です」
そう結論づける。
迷いはない。
「お前な……」
呆れたような声。
けれど、そのあとに続く言葉は出てこない。
その代わりに。
「……ちょっと、来い」
短く言われる。
腕を引かれる。
さっきとは逆に。
水城の方から。
距離がさらに縮まる。
向かい合っていたはずなのに、ほとんど隣みたいな位置になる。
肩が触れる。
それ以上に近い。
「……こうしとかんと」
小さく呟く。
「お前、また変な距離詰めるだろ」
その理由に、少しだけ納得する。
「はい」
素直に頷く。
すると、水城が小さく笑う。
「素直かよ」
そのまま。
何も言わない時間が流れる。
けれど、その沈黙はさっきまでのものとは違っていて、何かを埋める必要のない、ただそこにあるだけで成立するようなものになっている。
観覧車が頂点に近づく。
外の景色が一番広がる位置。
普通なら、そっちを見るはずなのに。
「……見ないの?」
水城が聞く。
「どっち」
「景色」
少しだけ考える。
けれど。
「いいです」
そう答える。
「今の方がいいので」
その言葉に、水城が一瞬だけ黙る。
それから。
「……凪、お前ってやつは」
小さく笑う。
呆れているのか、諦めているのか。
そのどちらでもあるような声で。
「かわいいとこあるよな」
その言葉に対して、どう返せばいいのか分からず、少しだけ間が空く。
「……そうですか水城さんの方が可愛いですけど」
そう返すのが限界だった。
けれど。
水城はそれで満足したように、それ以上は何も言わない。
ただ。
「……凪」
もう一度名前を呼ぶ。
今度は、さっきよりも自然に。
そのまま。
軽く、触れる。
キスというほどでもない。
でも。
触れるだけじゃない。
その中間みたいな距離で。
「……これは、セーフなライン」
誰に言い訳するでもなく、そう呟いて。
もう一度、同じ距離で触れた。
観覧車がゆっくりと下降を始めるにつれて、さっきまで閉じられていた空間が徐々に外のざわめきへと近づいていく感覚を受け取りながら、水城は無意識のうちにほんのわずかだけ身体の位置を調整していて、それが凪との距離を広げるためのものではなく、むしろ揺れに合わせて触れる肩の位置を自然に支えるような形になっていることに、自分でも気づいていないままそのまま受け入れている。
扉が開く。
外の音が一気に流れ込んでくる。
現実に戻る。
それでも。
「……行くか」
そう言って立ち上がったあとも、すぐに距離を取り直すことはせず、凪が立ち上がるタイミングに合わせて自然に腕を引き、段差に気をつけるように軽く支える動作が先に出る。
意識していない。
ただ、そうした方がいいと判断しただけ。
「……ありがとうございます」
凪の声は、いつもと変わらない。
けれど、その距離は変わらない。
むしろ。
さっきより、わずかに近い。
歩き出す。
人の流れに混ざる。
さっきまでとは違う密度。
他人の気配が多い。
その中で。
「……ちょっと、こっち」
水城が先に動く。
凪の腕を軽く引いて、人の少ない側へと進路を変える。
理由は単純だった。
ぶつかるから。
離れると見失うから。
——いや。
それだけじゃない。
「……離れんなよ」
ぽつりと落ちた言葉は、自分でも思っていたより自然に出ていた。
凪がすぐに頷く。
「離れません」
即答。
迷いなし。
その返しに対して、少しだけ言葉に詰まる。
普通なら。
「分かった」とか、「気をつけろよ」とか。
そういう軽い返しで終わるはずなのに。
「……お前は、そうだろうな」
苦笑みたいな声が出る。
分かっている。
こいつは離れない。
自分が言わない限り。
そして。
「……言う気も、ないけどな」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
それでも、その言葉は確かに本音だった。
歩きながら、視線だけで周囲を確認する。
人の動き。
距離。
危なそうな位置。
無意識に処理している。
その中で。
凪の位置だけは、常に把握している。
「……」
ふと。
横を見る。
近い。
当たり前みたいに、そこにいる。
少しでも人が近づけば、凪の方から自然に距離を詰めてくる。
逃げるんじゃなくて、寄る。
その動きが、もう違和感として処理されなくなっていることに気づいて、思わず小さく息を吐く。
「……慣れって怖いな」
「何がですか」
すぐに返ってくる。
聞いてくる距離も近い。
「……いや」
言葉を濁す。
説明する必要はない。
ただ。
「凪が普通になってきてる」
そう言うと、凪は少しだけ首を傾げる。
「それは、いいことですか」
問い返される。
その答えを考える。
普通かどうか。
いいかどうか。
「……どうだろうな」
はっきりとは言わない。
言えない。
でも。
「少なくとも」
一歩だけ、凪の前に出る。
人の流れを遮るように。
自然な動きで。
「危なくはないな」
そう言う。
それが一番しっくりきた。
凪は、少しだけ目を細める。
その反応を見て、なんとなく分かる。
理解している。
言葉の意味じゃなくて。
今の行動の意味を。
「……水城さん」
名前を呼ばれる。
その響きが、さっきよりも少しだけ低く感じる。
「ん?」
振り返る。
距離は、ほとんど変わらない。
そのまま。
「触っていいですか」
一瞬、意味が分からない。
「は?」
聞き返す。
凪は、変わらない顔で続ける。
「さっきみたいに」
——腕。
すぐに理解する。
「ああ……」
少しだけ考える。
断る理由。
探す。
見つからない。
それどころか。
「……好きにしたらええ」
そう答えている。
完全に。
受け入れている。
凪の手が、再び腕に触れる。
さっきより自然に。
ためらいなく。
そのまま掴む。
距離が固定される。
人混みの中で。
完全に。
「……これやと、見失わないで済むしな」
言い訳みたいに呟く。
誰に対してかは分からない。
でも、それで納得する。
そのまま歩く。
さっきよりも。
明らかに。
距離が近いまま。
「……」
凪は、何も言わない。
ただ、離さない。
その手の力は強くないのに、離れる気配がない。
必要以上に力を入れていないのに、確実にそこにいる。
「……凪」
呼ぶ。
「はい」
すぐに返る。
「ほんまに、お前さ」
少しだけ言葉を探す。
けれど。
結局。
「……離す気ないだろ」
そう言うと。
凪は、一瞬だけ考えるように間を置いてから。
「はい」
と答える。
そのあとに。
「今は」
と付け加える。
その言葉の意味が、一瞬遅れて入ってくる。
今は。
つまり。
「……あとで離す気あるのか」
少しだけ、意地悪く聞く。
凪は、少しだけ視線を上げて。
「水城さんが言ったら」
そう答える。
それは。
さっき観覧車で聞いた答えと同じ。
でも。
今は、少し違う。
「言わなかったら?」
そう続けると。
凪は、ほんの少しだけ。
——笑った。
ほとんど分からないくらいの変化。
でも。
確かに。
「……じゃあ、離しません」
静かに言う。
断言。
迷いなし。
その言葉を聞いて。
水城は、少しだけ目を細める。
「……ほんとに、めんどくさいな」
そう言いながら。
腕を引く。
今度は。
自分の方から。
完全に。
距離を詰める。
「……離すなよ」
低く言う。
それは命令に近い。
けれど。
拒否の意味は、どこにもない。
むしろ。
逆だ。
凪は、すぐに頷く。
「はい」
その手は、少しだけ強くなる。
それでも。
痛くない程度に。
ちょうどいい強さで。
離れないように。
「……」
歩きながら。
水城は、ほんの少しだけ笑う。
自覚は、まだ完全じゃない。
でも。
「……まあ、いいのか」
もう。
手放す気はなかった。
「……凪さ」
ふと、口を開く。
「はい」
返事は変わらない。
「これ、ずっとする気なの?」
問いというより、確認。
けれど。
「はい」
迷いなく肯定される。
そのあとに、ほんの少しだけ間を置いて。
「水城さんが嫌じゃなければ」
付け足される。
完全に委ねているようでいて。
実際は。
——離す気がない。
水城は、短く息を吐く。
「……ずるい言い方すんな」
そう言いながらも、足は止まらない。
手も、振り払わない。
むしろ。
人がぶつかりそうになった瞬間、反射的に凪の方へ少しだけ引き寄せる動きをしてしまったことに、自分で気づいてわずかに眉を寄せる。
「……あーあ」
小さく呟く。
何に対してなのかは、自分でも分かっている。
もう。
遅い。
「……水城さん」
凪が呼ぶ。
すぐ横で。
近い距離で。
「ん?」
「さっきの」
少しだけ言葉を選ぶ間。
「……キス」
その単語に、一瞬だけ思考が止まる。
「……あれ」
軽く流そうとする。
けれど。
「嫌でしたか」
先に聞かれる。
逃げ道を塞がれる形で。
水城は、視線を逸らす。
答えは、分かっている。
「……嫌だったら、二回もしない」
正直に言う。
それが一番早い。
凪は、少しだけ目を細める。
その変化は小さいのに、はっきり分かる。
「じゃあ」
一歩、さらに距離が詰まる。
もう十分近いのに。
「またしてもいいですか」
さらっと言う。
場所も関係なく。
人の多さも関係なく。
「……お前な」
呆れた声が出る。
普通なら止める場面。
でも。
「……場所考えろ」
完全な拒否じゃない。
条件付き。
凪は、少しだけ考えるように間を置いてから。
「じゃあ、あとで」
そう言う。
当然のように。
未来の予定として。
その言葉に対して、水城は何も言わない。
否定もしない。
つまり。
——受け入れている。
「……凪のやつ」
小さく笑う。
困ったように。
でも。
どこか楽しそうに。
「厄介だな、凪」
その言葉に対して。
凪は、ほんのわずかにだけ。
——満足そうに見えた。
観覧車を降りてからも続いている距離の近さが、時間の経過とともに一時的なものではなく、明確に今の関係として定着し始めていることを水城自身が否定しきれないまま、人の流れに合わせて歩き続けていると、不意に横から名前を呼ばれて足が止まる。
「水城?」
聞き覚えのある声だった。
反射的に振り返る。
視界に入った顔に、数秒遅れて記憶が一致する。
「ああ……いきなりびっくりした、偶然だな」
職場の人間だった。
それほど親しいわけではないが、無視するほどでもない距離感の相手で、そのまま軽く言葉を返しながら立ち止まる。
その瞬間。
腕に触れている感触が、わずかに強くなる。
引き寄せられるわけでも、締め付けられるわけでもない。
けれど。
——離れない。
むしろ。
逃がさないように位置を固定される。
「今日休みなんだ?」
「ああ、まあな」
適当に返す。
視線は相手に向けているはずなのに、意識の一部は完全に隣へ向いている。
距離。
接触。
その変化。
「その子誰?」
軽い調子で言われたその一言に、一瞬だけ思考が止まる。
どう答えるかを考えるよりも先に。
「違います」
横から、静かな声が落ちる。
水城よりも先に。
凪が答えている。
声はいつもと同じ温度なのに、その割り込み方だけが自然じゃない。
——質問の意味を、取り違えているみたいに。
「……あ、そうなんだ?」
相手が少しだけ戸惑う。
当然だと思う。
普通の会話の流れではない。
けれど。
凪は構わない。
「大学の知り合いです」
さらに続ける。
事実としては間違っていない。
けれど、その言い方にはどこか余白がなくて、会話をそこで終わらせる意図が含まれているように聞こえる。
水城は横目で凪を見る。
表情は変わらない。
いつも通り。
ただ。
距離だけが、さっきよりわずかに近い。
「……へえ」
相手はそれ以上踏み込まなかった。
空気を読んだのか、それとも単純に興味を失ったのかは分からないが、「じゃあまた」と軽く手を振って、そのまま去っていく。
視界から消える。
同時に。
腕にかかっていた力が、ほんの少しだけ緩む。
完全には離れないまま。
「……お前な」
水城が口を開く。
けれど、続く言葉は決まっていなかった。
責めるのか。
笑うのか。
流すのか。
自分でも分からない。
「はい」
凪は、いつも通り返事をする。
何も変わっていない顔で。
「……今の、なんだったの」
ようやく出た言葉は、半分呆れみたいなものだった。
凪は一瞬だけ考えるように間を置いてから。
「事実です」
と答える。
間違ってはいない。
確かに。
「そうだけど、そういう話じゃないだろ」
少しだけ眉を寄せる。
けれど、その声に強さはない。
凪は、ほんのわずかに視線を動かしてから。
「……あの人」
と、小さく言う。
「距離、近かったので」
それだけ。
理由としては、十分すぎるほど単純だった。
水城は、一瞬だけ言葉を失う。
思い返す。
さっきの距離。
確かに、少し近かったかもしれない。
でも。
「……それで?」
問い返す。
凪は、少しだけ目を細める。
ほんのわずかな変化。
「嫌だったので」
静かに言う。
声は変わらない。
けれど。
その中に含まれているものは、さっきまでよりもはっきりしている。
——排除。
ただ、それだけ。
水城は、ゆっくりと息を吐く。
「……お前なぁ」
呆れる。
けれど。
「……まあ、いいけど」
結局、そうなる。
止める理由が見つからない。
それどころか。
さっきのやり取りの中で、自分が一度もその距離を否定しなかったことに気づいてしまう。
「……水城さん」
名前を呼ばれる。
すぐ横で。
近い距離で。
「はい」
返す。
「さっきの人」
少しだけ間を置いて。
「もう話さないでください」
命令でも、お願いでもない。
ただの確認みたいな言い方。
けれど。
内容は、明確だった。
水城は、一瞬だけ黙る。
普通なら。
否定する。
「それは無理」とか、「仕事の関係だし」とか。
いくらでも理由はある。
なのに。
「……なんでだよ」
そう返すのが精一杯だった。
凪は、少しだけ考えるように視線を落としてから。
「……必要ないので」
と答える。
その一言に。
無駄がない。
感情も、装飾もない。
ただの結論。
水城は、しばらく何も言わない。
考えているわけでもない。
ただ。
その言葉を、そのまま受け取っている。
「……はあ」
小さく息を吐く。
呆れているのに。
どこかで納得している自分がいる。
「……分かった」
気づけば、そう言っていた。
完全な肯定じゃない。
でも、否定もしない。
凪は、ほんの少しだけ目を細める。
それが。
今日一番分かりやすい変化だった。
「ありがとうございます」
そう言って。
腕を掴む手の力が、ほんの少しだけ強くなる。
逃がさないように。
確かめるように。
水城は、それを振り払わない。
むしろ。
「……ほんとに」
小さく笑う。
「凪、やばいな」
そう言いながら。
その距離を、受け入れている。
人の流れに再び紛れながら歩き出したあとも、腕に残っている感触が離れずにいることを、水城は意識しないようにしようとして、けれど完全には無視しきれないまま、視線だけを前に向けて足を進めていくうちに、さっきまでのやり取りが必要以上に頭の中で反復されていることに気づいて、軽く息を吐く。
ほんの数分前までなら、ここまで意識することはなかったはずなのに、観覧車の中で交わした言葉や、そのあと当然のように提示された「またしてもいいですか」という確認の仕方や、それを完全に拒否しきれなかった自分の反応まで含めて、すべてがひとつの流れとして繋がってしまっているせいで、今さら切り離して考えることができなくなっている。
「……なあ、凪」
ふと、口を開く。
呼ぶ理由が明確にあったわけではない。
ただ、このまま黙っていると余計に意識が偏る気がした。
「はい」
すぐ隣から返ってくる声は、さっきと変わらない。
距離も、温度も、何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ近く感じるのは、たぶん自分の意識の問題だと分かっている。
「お前、さっきから——」
言いかけて、止まる。
何を指摘するつもりだったのか、一瞬だけ曖昧になる。
距離か。
キスか。
それとも、さっきのもう話さないでくださいか。
どれも間違っていない。
どれも、今さら触れるには少し遅い。
「……いや、なんでもない」
結局そう言って流す。
言葉にした瞬間に、何かが変わってしまいそうな気がした。
凪は、それ以上追及してこない。
ただ。
「そうですか」
とだけ答える。
それで終わり。
それなのに。
腕に触れている指先だけが、わずかに力を増す。
——逃がさない。
そう言われている気がするのに、嫌じゃない自分がいることが、少しだけ面倒くさかった。
「……あぁ、ほんとに」
小さく呟く。
何に対してかは、もう分かっている。
「凪」
名前を呼ぶ。
今度は、さっきよりも少しだけ意図を持って。
「はい」
視線が向く。
近い。
「お前さ」
少しだけ言葉を選ぶ間を置いてから。
「距離、バグってるよな」
半分冗談みたいに言う。
完全に否定するわけでもなく、かといって肯定もしない、逃げ道を残した言い方。
凪は、その言葉をそのまま受け取って。
ほんのわずかにだけ首を傾ける。
「……そうですか」
否定でも、肯定でもない。
ただの確認。
「でも」
続ける。
「水城さんが離れないので」
それが理由だと言う。
まっすぐに。
躊躇なく。
水城は、一瞬だけ言葉を失う。
反論しようと思えばできる。
「普通は離れる」とか、「これはおかしい」とか。
いくらでも言えるはずなのに。
「……たしかに」
小さく笑う。
結局、自分の方が折れている。
「離れてないのは、俺の方だよな」
認める。
半分だけ。
凪は、その言葉を聞いて。
ほんの少しだけ。
分かりやすく、安心したみたいに目を細める。
その変化に気づいた瞬間、水城の中で何かが引っかかる。
——ああ。
こいつ。
分かってやってる。
全部じゃなくても。
少なくとも、自分が拒否しない範囲は。
正確に測っている。
「……凪、さ」
もう一度、口を開く。
今度は、さっきよりも少しだけ低い声で。
「どこまでやる気なの」
問いかける。
軽くではなく。
少しだけ踏み込んで。
凪は、迷わない。
考える時間もほとんどなく。
「水城さんが許すところまで」
と答える。
即答だった。
冗談にも聞こえない。
誤魔化しもない。
ただ、それが当然みたいに。
「……はあ」
水城は、息を吐く。
呆れているのか。
感心しているのか。
もう自分でもよく分からない。
「まじで厄介だな」
そう言いながら。
足を止める。
人の流れから、少しだけ外れる位置。
さっきまでのざわめきが、ほんの少しだけ遠くなる。
「……凪」
呼ぶ。
今度は、はっきりと。
凪が視線を向ける。
そのまま。
ほんの少しだけ。
距離を詰める。
自分から。
さっきまでは受け入れていただけだったのに。
今は違う。
「あとで、って言ったよな」
観覧車の中での言葉をなぞる。
凪は、すぐに頷く。
「はい」
「……今でもいいか」
軽く言う。
試すみたいに。
けれど。
逃げ道は残していない。
凪は、一瞬だけ目を細めて。
それから。
「はい」
と答える。
迷いなく。
その返事を聞いた瞬間、水城は小さく笑って。
「……ほんとにさ」
と呟きながら。
手を引く。
腕じゃなくて。
指先に触れる形で。
そのまま、少しだけ人目の少ない方へ歩き出す。
凪は、何も言わずにそれについてくる。
当然みたいに。
拒む理由が存在しないみたいに。
その距離のまま。
その関係のまま。
——もう。
戻るつもりなんて、最初からなかったみたいに。
手を引いたまま、人の流れから少し外れた場所まで移動してから、水城は足を止める。
ほんの少しだけ騒がしさが遠くなって、周囲の視線もまばらになったその場所は、さっきまでの延長線上にあるはずなのに、どこかだけ切り取られたみたいに静かで、その静けさの分だけ、今自分が何をしようとしているのかがやけにはっきりと浮かび上がってくる。
「……ここでいいか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
凪は何も言わない。
ただ、手を引かれたままの距離で、こちらを見ている。
逃げる気配はない。
拒む様子もない。
それどころか。
——待っている。
そういう沈黙だった。
水城は、その視線を真正面から受け止めたまま、ほんの一瞬だけ迷う。
さっき自分で言った言葉。
今でもいいか。
その続きを、自分から取りに行ったくせに。
いざその距離まで来ると、簡単に踏み込んでしまっていいものかどうかが、少しだけ引っかかる。
「……凪」
名前を呼ぶ。
「はい」
すぐに返ってくる。
距離は、変わらない。
「お前さ」
言葉を選ぶ。
選びながら、自分の中にある感覚を確かめる。
「なんでそんな平気なの」
問いは、半分本音だった。
観覧車の中でも、さっきのキスの話でも、今この状況でも。
凪は、一度も迷っていない。
「……平気、ではないです」
少しだけ間を置いてから、凪はそう答える。
初めての返しだった。
水城の視線が、わずかに揺れる。
「でも」
続ける。
「嫌じゃないので」
その言い方は、いつも通りだった。
迷いはない。
ただ、事実を並べているだけ。
「水城さんは?」
逆に聞き返される。
逃げ場がなくなる。
水城は、一瞬だけ視線を逸らしてから、小さく息を吐く。
「……嫌じゃない」
正直に言う。
それ以外に、答えがない。
凪は、わずかに目を細める。
それだけで、十分だったらしい。
「じゃあ」
一歩、近づく。
さっきより、さらに。
もう、ほとんど触れる距離。
「いいですよね」
確認の形を取っているのに、止める余地を残していない言い方。
水城は、そこで。
ようやく。
「……だめだ」
小さく言う。
凪の動きが、ほんのわずかに止まる。
完全に止まったわけじゃない。
ただ、次に進むのを待つように。
「……今は、な」
付け足す。
完全な拒否じゃない。
ただの先延ばし。
それでも。
意味は、はっきりしている。
凪は、その言葉を数秒かけて処理する。
表情は変わらない。
けれど。
「……どうしてですか」
と聞く声が、ほんの少しだけ低くなる。
理由を求めている。
納得しないと止まらない種類の問い。
水城は、少しだけ困ったように笑う。
「どうしてって……」
言葉を探す。
ちゃんと説明できる理由なんて、本当はない。
ただ。
「ここでやったら」
一瞬、言葉を切る。
凪を見る。
近い距離。
逃げない視線。
「たぶん、止まらんくなる」
正直に言う。
それが一番しっくりきた。
凪は、何も言わない。
その言葉を、そのまま受け取っている。
「……だから、やめとく」
結論を置く。
静かに。
凪は、しばらく黙ったまま。
それから。
「……分かりました」
と答える。
従う。
あっさりと。
その反応に、水城は少しだけ拍子抜けする。
もっと粘るかと思っていた。
「……なんだ来ないのか」
思わず聞く。
凪は、わずかに首を傾けて。
「はい」
と答える。
そして。
ほんの少しだけ。
距離を戻す。
自分から。
それが。
今までで一番分かりやすい従い方だった。
「でも」
小さく続ける。
「あとでは、しますよね」
確認。
未来の保証。
水城は、数秒だけ黙ってから。
「……たぶんな」
と返す。
完全には逃げない。
凪は、その答えを聞いて。
ほんのわずかにだけ、満足そうに目を細める。
「じゃあ、いいです」
それで納得する。
今は、引く。
でも。
——終わったわけじゃない。
水城は、それをちゃんと理解している。
「……ほんとにさ」
小さく笑う。
「調子狂うわ」
そう言いながら。
もう一度、凪の方へ手を伸ばして。
今度は、自然な動作として。
指先を絡める。
握るでもなく。
ただ、触れる形で。
「次、どこ行く?」
何事もなかったみたいに言う。
凪は、その手を見て。
それから、水城を見る。
「どこでもいいです」
いつも通りの返事。
でも。
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
繋いだ指先の温度をそのままにした状態で、水城は何も言わずに歩き出し、さっきまでのやり取りをまるごとなかったことにするみたいに、視線だけを前に向けて人の流れに戻っていくのに対して、凪もそれを止めることはせず、ただ同じ速度で隣を歩きながら、離されていない手の感触だけを確かめるようにわずかに力を調整している。
会話は、ない。
けれど、気まずさもない。
ただ。
——さっきまでとは、明らかに違う。
「……次、あれ乗るか」
水城が指さしたのは、さっきよりも少しだけ派手なアトラクションで、音も人の声も大きくて、意識を外に向けやすい場所だった。
「はい」
短く答える。
判断は任せる。
その構図も、もう自然になっている。
列に並びながら、前後にいる人間の会話や笑い声が耳に入ってくるが、それらはやっぱり背景でしかなくて、意識の中心にあるのは、繋がれたままの手と、その距離だけだった。
一度だけ、水城がわずかに手を動かす。
離すのかと思ったが、違った。
ただ、持ち方を変えただけで、より指が絡む形になる。
「……人多いな」
独り言みたいに呟く。
理由にはなっていない。
けれど。
——離さない理由としては、十分だった。
凪は何も言わない。
ただ、その変化をそのまま受け入れている。
乗り物に乗り込む直前、手を離す必要が生まれて、ほんの一瞬だけ接触が途切れるが、その短い空白がやけに意識に残る。
隣に座る。
安全バーが下りる。
物理的な距離が固定される。
さっきよりも、さらに近い。
動き出した瞬間の揺れで、自然に肩が触れる。
避ける理由はない。
むしろ。
——さっきより、意識しない。
それが一番の変化だった。
「……大丈夫か」
横から聞こえる声も、どこか少しだけ低い。
「大丈夫です」
そう答える。
本当だった。
怖さよりも、隣にいることの方がはっきりしている。
動きに合わせて、何度か身体がぶつかる。
そのたびに、どちらも離れない。
それが普通みたいに、繰り返される。
降りたあと、水城が軽く息を吐いて、
「……疲れるな、これ」
と笑う。
「楽しいですか」
凪が聞く。
水城は少しだけ考えてから、
「まあ、悪くない」
と答える。
その言葉を聞いて、凪はわずかに頷く。
——悪くない。
それで十分だった。
歩き出す。
さっきと同じように。
今度は、自然に。
水城の方から手が伸びて、また指先が触れる。
確認も、理由もない。
ただ。
——さっき途切れたものを、戻すみたいに。
凪は、そのまま受け入れる。
何も言わずに。
拒まずに。
「……なあ、凪」
不意に呼ばれる。
「はい」
「さっきのこと」
そこで、一瞬だけ間が空く。
言うのか、やめるのか。
迷っているような時間。
けれど。
「……やっぱ、なんでもない」
結局、そうなる。
踏み込まない。
戻る。
凪は、その言葉をそのまま受け取って、
「はい」
とだけ答える。
追及しない。
それもまた、ひとつの距離の取り方だった。
けれど。
繋がれた手は、離れない。
むしろ。
さっきより、少しだけ強くなっている。
人の流れから少しだけ外れたベンチに腰を下ろしたとき、さっきまで絶え間なく身体を揺らしていた動きが急に途切れたせいで、逆に自分の内側に残っている感覚の方がやけに鮮明に浮かび上がってくるのを、水城はぼんやりとした意識のまま受け入れていた。
隣に座る凪との距離は、さっきまでとほとんど変わらないはずなのに、座っている分だけ逃げ場がなくなっているようにも感じられて、そのくせわざわざ離れる理由も見つからないまま、結局そのままの位置で落ち着いてしまっている自分に対して、どこかで苦笑いのような感覚が浮かぶ。
「……ちょっと休憩」
誰に向けるでもなくそう言いながら、手に持っていた飲み物のキャップを開けると、炭酸の抜ける小さな音がやけに大きく聞こえて、その些細な音すら、この場の静けさを際立たせる要素になっているように思えた。
「はい」
凪は短く返す。
その声も、さっきまでと同じはずなのに、少しだけ近く感じる。
理由は分かっている。
距離が、近いままだからだ。
ほんの少しだけ横目で見ると、凪は特に何かをするでもなく前を向いたまま座っていて、ただそこにいるという状態を維持しているだけなのに、その存在感だけがやけに強くて、意識を向けないようにしようとしても自然と視界の端に入り込んでくる。
「……凪、疲れてないの」
ぽつりと聞く。
問いというより、なんとなくの確認。
「大丈夫です」
即答だった。
迷いがない。
「楽しいので」
付け足される。
その言葉に、水城は一瞬だけ反応が遅れる。
「……そう」
短く返す。
それ以上広げるつもりはなかったはずなのに、その一言だけが妙に残る。
——楽しい。
それを、こんなにあっさり言うのか。
自分なら、たぶんもう少し濁す。
言い切ることに、少しだけ躊躇する。
けれど、凪は違う。
思ったことを、そのまま言う。
それができる距離に、今自分はいる。
「……凪」
気づけば、また名前を呼んでいる。
「はい」
すぐに返る。
いつも通り。
変わらない。
「今日さ」
言いかけて、少しだけ言葉を探す。
何を聞きたいのか、自分でもはっきりしていない。
それでも。
「楽しいでしょ?」
さっきの言葉をなぞるみたいに確認する。
凪は、ほんの少しだけ考えるように間を置いてから、
「はい」
と頷く。
「水城さんといると」
そこで、一度言葉が区切られる。
水城の視線が、自然と向く。
凪はそのまま続ける。
「分かりやすいので」
その表現に、水城はわずかに眉を寄せる。
「……何が」
問い返す。
凪は少しだけ視線を動かしてから、
「距離とか、反応とか」
と答える。
「今も」
続ける。
「こうやって隣に座ってても、嫌じゃないって分かるので」
事実を並べるみたいな言い方。
けれど、その内容は軽くない。
水城は、一瞬だけ言葉を失う。
確かに、嫌ではない。
それは事実だ。
でも、それをこんなふうに言語化されると、逃げ場がなくなる。
「……普通、それ分かりにくいもんでしょ」
少しだけ笑って誤魔化すように言う。
凪は首を横に振る。
「分かりにくいです」
あっさり肯定する。
「だから」
少しだけ、こちらを見る。
「分かる人の方が、いいです」
その言葉が、静かに落ちる。
水城は、それをすぐに返せない。
軽く流すには、少しだけ重い。
かといって、深く拾うにはまだ早い。
「……それ、俺ってこと?」
冗談っぽく言う。
逃げ道を残す形で。
凪は、少しも迷わずに。
「はい」
と答える。
間が、ない。
その即答に、水城は思わず息を詰める。
「……お前な」
言葉が続かない。
困っているのか、呆れているのか、自分でも分からない。
ただ。
——悪くない。
そう思っている自分がいる。
「……ほんとに、凪は厄介だ」
小さく笑う。
凪は、その言葉に対して否定しない。
むしろ。
「はい」
とだけ答える。
受け入れている。
そのまま。
「でも」
続ける。
「水城さんがいいなら、問題ないです」
完全に委ねているようでいて。
実際は。
——逃がしていない。
水城は、その構図に気づいている。
気づいていて。
「……あー、もう」
小さく頭をかく。
どうにもならない、みたいに。
それでも。
その距離から離れようとはしない。
むしろ。
無意識に、ほんの少しだけ肩を寄せる。
触れるか触れないかの境界。
それだけで、十分だった。
夕方の光が、少しずつ色を変えていく。
昼間よりもやわらかい色になって、影が長く伸びていく中で、さっきまでの時間がそのまま延長されているみたいに続いていて、終わりが近づいているはずなのに、どこかまだ終わらせたくないという感覚だけが、言葉にされないまま残っている。
「……もうちょい回る?」
水城が言う。
自然な流れで。
凪は、少しだけ目を細めて。
「はい」
と答える。
その一言で。
——まだ終わらないことが、確定する。
遊園地の出口を抜けたあと、昼間とは違う種類のざわめきが背後に残り続けているにもかかわらず、外に出た瞬間に音の密度がわずかに下がることで、さっきまで誤魔化されていた感覚がゆっくりと浮かび上がってくるのを、水城は無意識のうちに感じ取っていた。
隣を歩く凪との距離は、入園したときと比べれば明らかに近いまま固定されていて、その状態に対して違和感を持つどころか、むしろそれを前提として身体が動いていることに気づいたとき、どこからが普通だったのかが曖昧になっていることに、遅れて理解が追いつく。
「……もう帰る?」
一応の確認として口に出す。
帰るという選択肢が自然に浮かぶ時間帯ではある。
凪は少しだけ考えるように間を置いてから、
「帰ってもいいです」
と答える。
否定ではない。
ただ。
「でも」
続ける。
「もう少し、このままでもいいです」
その言い方に、水城は一瞬だけ視線を向ける。
——このまま。
言葉の意味は曖昧なのに、意図ははっきりしている。
「……凪って優柔不断」
小さく笑う。
けれど。
足は止めない。
帰る方向に向かいながらも、歩く速度をわずかに落とす。
それが、答えみたいなものだった。
しばらく、言葉は続かない。
昼間の賑やかさとは違う、少しだけ落ち着いた空気の中で、ただ並んで歩いているだけの時間が続く。
それでも。
——さっきまでとは違う。
沈黙の質が、変わっている。
「……凪」
ふと、名前を呼ぶ。
「はい」
すぐに返る。
「今日さ」
言葉を探す。
何を言うべきか、まだ決めていないまま。
「……なんか、変だったな」
曖昧な言い方になる。
けれど、それで通じる気がした。
凪は、少しだけ視線を動かしてから、
「はい」
と頷く。
否定しない。
「でも」
続ける。
「悪くなかったです」
その言葉に、水城は少しだけ息を吐く。
「……俺も」
小さく言う。
それ以上は続けない。
それだけで、十分だった。
そのまま数歩進んだとき。
前方から、数人のグループがこちらに向かって歩いてくるのが見える。
特に気にする必要はない。
すれ違うだけ。
——のはずだった。
そのうちの一人が、水城の方を見て、何か言いかけるような素振りを見せた瞬間。
腕が、引かれる。
「……凪?」
小さく名前を呼ぶよりも先に、身体ごと引き寄せられて、進む方向がわずかに変わる。
グループと距離を取るように。
避ける形で。
ただ、それだけの動き。
けれど。
——意図が、違う。
「……なに」
問いかける。
凪は、前を見たまま。
「必要ないので」
と答える。
短い。
説明になっていない。
けれど。
「……何が」
聞き返す。
凪は、少しだけ間を置いてから、
「関わる必要がない人は」
と続ける。
「近づけない方がいいので」
その言い方は、昼間と同じだった。
ただ。
さっきより、少しだけはっきりしている。
水城は、そこでようやく気づく。
さっきの職場のやつのときと、同じ。
——排除している。
自分に近づくものを。
「……お前な」
呆れたように言いながらも、足は止めない。
凪に引かれるまま、少しだけ人の流れから外れた位置を歩く。
「それ、全部やってたらキリないよ」
軽く言う。
たしなめるつもりで。
凪は、少しだけ視線をこちらに向ける。
「全部はしません」
否定する。
「水城さんに関係あるものだけです」
その一言で。
空気が、少しだけ変わる。
軽く流すには、引っかかる。
「……関係あるって、なんやねん」
冗談っぽく言う。
けれど。
凪は、少しも迷わずに。
「今、隣にいるので」
と答える。
それだけ。
それだけなのに。
十分すぎるほど明確だった。
水城は、言葉を失う。
視線を逸らして、少しだけ息を吐く。
「……はあ」
呆れたような声。
でも。
「……ほんとに、やばいな」
小さく笑う。
その中に、拒絶はない。
むしろ。
——受け入れている。
そのまま、歩き続ける。
さっきよりも、さらに近い距離で。
凪は、何も言わない。
ただ、その距離を維持する。
もう、確認もしない。
当たり前みたいに。
「……凪」
もう一度、名前を呼ぶ。
「はい」
「それ」
一瞬、言葉を切る。
「ずっとやるん?」
確認。
凪は、少しだけ考えるようにしてから。
「水城さんが、嫌になるまで」
と答える。
逃げ道を渡しているようで。
実際は。
——手放していない。
水城は、その言葉を聞いて。
ほんの一瞬だけ、考えて。
「……じゃあ、しばらくはそのままだな」
と返す。
凪は、わずかに目を細める。
それが、答えだった。
夕方の空気が、少しずつ夜に近づいていく。
その中で。
二人の距離だけが。
はっきりと、変わったまま残っていた。
それは何気ない提案のように聞こえたが、周囲の騒音や人の流れとは切り離された、ほんのわずかな静けさの中で落とされた言葉だったせいか、凪にとってはそれが単なる選択肢の提示ではなく、ある種の区切りのようなものとして認識される。
「いいですよ」
即答だった。
迷う理由がない。
断る理由もない。
むしろ——選ばれたこと自体に、わずかな確定性を感じていた。
並んで順番を待つ間、周囲には笑い声や軽い会話が絶えず流れているにもかかわらず、それらはすべて背景として処理され、意識は隣にいる水城一人にだけ向いていて、距離も、呼吸も、視線の動きも、すべてを無意識に追っている自分に対して、それを異常だと判断する材料はどこにも見当たらなかった。
観覧車に乗り込み、扉が閉まる。
外界と切り離される。
逃げ場はない。
向かい合う形で座る。
今までとは違う距離。
近いのに、離れている。
その配置が、わずかに違和感を生む。
「……静かだな」
水城が呟く。
確かに、さっきまでの音が嘘みたいに消えている。
残っているのは、わずかな機械音と、自分たちの呼吸だけ。
「はい」
短く返す。
沈黙が落ちる。
けれど、それを埋める必要性は感じない。
むしろ、この空間は都合がいい。
余計な音がない分、思考が整理しやすい。
「……なあ、凪」
名前を呼ばれる。
視線を向ける。
「お前、さ」
少しだけ言葉を探すような間。
「なんでそんな距離近いの?」
問いは、単純だった。
けれど、その中に含まれている意味は単純ではない。
否定ではない。
拒絶でもない。
ただの疑問。
だから——答える必要がある。
「……分からないです」
正確に言う。
嘘ではない。
ただ、それだけでは足りないことも分かっている。
水城は何も言わずに続きを待っている。
だから、続ける。
「でも」
言葉を選ぶ。
選びながら、自分の中にあるものを順番に引き上げる。
「近くにいた方が、楽なんです」
それが一番近い表現だった。
水城の表情がわずかに変わる。
理解したのか、していないのかは分からない。
それでも、続ける。
「離れてると、分からなくなるから」
「……何が」
「全部」
即答だった。
考えるまでもない。
「どこまで近づいていいのかとか、どこで止まればいいのかとか、誰も教えてくれなかったので」
淡々とした声。
事実の羅列。
「だから、自分で決めるしかなかった」
水城の視線が、わずかに強くなる。
「近い方が、間違えない」
それは結論だった。
「遠いと、分からないから」
「俺、施設育ちで。施設出てからスカウトされて人生やり直せると思ってスカウト受けたらそこ、殴る、蹴る、首締め、なんでもありの接客させられる場所だったんです。辛いと思っても逃げられない。そんな場所にいたんです。でも、どうにか逃げて自分の力で大学入って、今があって」
沈黙が落ちる。
観覧車がゆっくりと上昇していく。
地面が遠ざかる。
逃げ場は、ないまま。
「……それで、なんで俺?」
ぽつりと落ちた言葉。
その問いに対して、少しだけ考える。
なぜ水城なのか。
理由を探す。
すぐに見つかる。
「水城さんは」
言葉にする。
「離れなかったので」
それだけだった。
距離を詰めても、拒絶しなかった。
殴られもしない。
怒鳴られたりもしない。
空気だって....。
訂正されても、完全には離されなかった。
それが——基準になった。
「だから、間違ってないと思った」
視線を合わせたまま言う。
嘘はない。
全部、本当。
「……そっか」
水城が小さく息を吐く。
その表情は、少しだけ複雑で。
理解しているのか、受け止めきれていないのか、そのどちらも含んでいるように見える。
「……じゃあさ」
少しだけ前に身を乗り出す。
距離が、縮まる。
「俺が離れろって言ったら?」
試すような問い。
けれど、その奥にあるものは、試しだけではない。
「離れます」
迷わず答える。
それが正解だから。
「でも」
続ける。
「言われるまでは、離れません」
水城の目が、わずかに揺れる。
その変化を、逃さない。
「だって」
少しだけ、距離を詰める。
観覧車の中で。
逃げ場のない空間で。
「ここまで近づいても、大丈夫だったの、水城さんだけなので」
言葉が落ちる。
静かに。
確実に。
沈黙。
そのあと。
「……お前さ」
水城が笑う。
困ったように。
でも、完全には否定していない。
「それ、ずるいわ」
理由は分からない。
けれど。
その声は、さっきより柔らかい。
「……凪」
名前を呼ばれる。
今度は、さっきより近い距離で。
手が伸びる。
触れる。
腕じゃなくて。
頬に。
「そんな理由で近づかれたら」
少しだけ間。
「離せんやろ」
その言葉と同時に、距離が一気に詰まる。
逃げ場はない。
でも——
逃げる必要もない。
唇が触れる。
前より、長い。
確かめるような、一瞬じゃないキス。
凪は、目を閉じなかった。
その距離のまま、水城を見る。
離れたあとも。
「……これも」
静かに言う。
「大丈夫ですか」
水城が、一瞬だけ固まる。
それから。
「……だめ」
そう言いながら。
もう一度、引き寄せる。
今度はさっきより強く。
距離も、躊躇もなく。
「全然、あかん」
そう言って。
もう一度、キスをした。
キスが離れたあとも、距離はほとんど変わらないままで、触れていたはずの温度だけがわずかに遅れて意識に残り続けていることに気づきながら、水城は一度視線を逸らして小さく息を吐き、その仕草がさっきまでとは明らかに違う種類のものになっていることを自覚しつつも、それをどう処理すればいいのかが分からないまま、結局そのままの距離を維持してしまう。
「……あかんって言ったでしょ」
そう言いながらも、さっき自分から距離を詰めた事実を打ち消すような動きは一切なく、むしろ離れるタイミングを見失っているようにも見えるその曖昧さが、凪にとっては拒絶ではないと判断するには十分だった。
「でも、離れてないです」
静かに指摘する。
責めるでもなく、ただ事実として。
「……うるさい」
すぐに返ってくる言葉は強いのに、その声の温度はどこか緩んでいて、完全に突き放す意志が含まれていないことが分かる。
観覧車は、まだ上昇を続けている。
頂点に近づくにつれて、外の景色が広がっていくはずなのに、そのどれもに意識が向かない。
狭い空間。
逃げ場のない距離。
それだけで、十分だった。
「……凪」
もう一度名前を呼ばれる。
今度は、さっきより少し低い声で。
「はい」
答えると、水城は少しだけ迷うように視線を揺らしてから、
「さっきの話」
と切り出す。
「……ああいうの、簡単に言うな」
その言葉の意味を考える。
簡単に、とは何か。
「簡単じゃないです」
すぐに訂正する。
事実だから。
「水城さんだから言いました」
水城の視線が止まる。
そのまま、動かない。
「……それが重いって捉えられちゃうんだよ」
苦笑みたいな声。
でも、それでも。
「嫌ですか」
確認する。
必要なことだから。
水城は、すぐには答えなかった。
少しだけ目を細めて、こちらを見る。
距離は近いまま。
逃げられない状態で。
「……嫌やったら、あんなことせえへん」
小さく言う。
それは。
さっきのキスのことだと、すぐに分かる。
「じゃあ、大丈夫です」
そう結論づける。
迷いはない。
「お前な……」
呆れたような声。
けれど、そのあとに続く言葉は出てこない。
その代わりに。
「……ちょっと、来い」
短く言われる。
腕を引かれる。
さっきとは逆に。
水城の方から。
距離がさらに縮まる。
向かい合っていたはずなのに、ほとんど隣みたいな位置になる。
肩が触れる。
それ以上に近い。
「……こうしとかんと」
小さく呟く。
「お前、また変な距離詰めるだろ」
その理由に、少しだけ納得する。
「はい」
素直に頷く。
すると、水城が小さく笑う。
「素直かよ」
そのまま。
何も言わない時間が流れる。
けれど、その沈黙はさっきまでのものとは違っていて、何かを埋める必要のない、ただそこにあるだけで成立するようなものになっている。
観覧車が頂点に近づく。
外の景色が一番広がる位置。
普通なら、そっちを見るはずなのに。
「……見ないの?」
水城が聞く。
「どっち」
「景色」
少しだけ考える。
けれど。
「いいです」
そう答える。
「今の方がいいので」
その言葉に、水城が一瞬だけ黙る。
それから。
「……凪、お前ってやつは」
小さく笑う。
呆れているのか、諦めているのか。
そのどちらでもあるような声で。
「かわいいとこあるよな」
その言葉に対して、どう返せばいいのか分からず、少しだけ間が空く。
「……そうですか水城さんの方が可愛いですけど」
そう返すのが限界だった。
けれど。
水城はそれで満足したように、それ以上は何も言わない。
ただ。
「……凪」
もう一度名前を呼ぶ。
今度は、さっきよりも自然に。
そのまま。
軽く、触れる。
キスというほどでもない。
でも。
触れるだけじゃない。
その中間みたいな距離で。
「……これは、セーフなライン」
誰に言い訳するでもなく、そう呟いて。
もう一度、同じ距離で触れた。
観覧車がゆっくりと下降を始めるにつれて、さっきまで閉じられていた空間が徐々に外のざわめきへと近づいていく感覚を受け取りながら、水城は無意識のうちにほんのわずかだけ身体の位置を調整していて、それが凪との距離を広げるためのものではなく、むしろ揺れに合わせて触れる肩の位置を自然に支えるような形になっていることに、自分でも気づいていないままそのまま受け入れている。
扉が開く。
外の音が一気に流れ込んでくる。
現実に戻る。
それでも。
「……行くか」
そう言って立ち上がったあとも、すぐに距離を取り直すことはせず、凪が立ち上がるタイミングに合わせて自然に腕を引き、段差に気をつけるように軽く支える動作が先に出る。
意識していない。
ただ、そうした方がいいと判断しただけ。
「……ありがとうございます」
凪の声は、いつもと変わらない。
けれど、その距離は変わらない。
むしろ。
さっきより、わずかに近い。
歩き出す。
人の流れに混ざる。
さっきまでとは違う密度。
他人の気配が多い。
その中で。
「……ちょっと、こっち」
水城が先に動く。
凪の腕を軽く引いて、人の少ない側へと進路を変える。
理由は単純だった。
ぶつかるから。
離れると見失うから。
——いや。
それだけじゃない。
「……離れんなよ」
ぽつりと落ちた言葉は、自分でも思っていたより自然に出ていた。
凪がすぐに頷く。
「離れません」
即答。
迷いなし。
その返しに対して、少しだけ言葉に詰まる。
普通なら。
「分かった」とか、「気をつけろよ」とか。
そういう軽い返しで終わるはずなのに。
「……お前は、そうだろうな」
苦笑みたいな声が出る。
分かっている。
こいつは離れない。
自分が言わない限り。
そして。
「……言う気も、ないけどな」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
それでも、その言葉は確かに本音だった。
歩きながら、視線だけで周囲を確認する。
人の動き。
距離。
危なそうな位置。
無意識に処理している。
その中で。
凪の位置だけは、常に把握している。
「……」
ふと。
横を見る。
近い。
当たり前みたいに、そこにいる。
少しでも人が近づけば、凪の方から自然に距離を詰めてくる。
逃げるんじゃなくて、寄る。
その動きが、もう違和感として処理されなくなっていることに気づいて、思わず小さく息を吐く。
「……慣れって怖いな」
「何がですか」
すぐに返ってくる。
聞いてくる距離も近い。
「……いや」
言葉を濁す。
説明する必要はない。
ただ。
「凪が普通になってきてる」
そう言うと、凪は少しだけ首を傾げる。
「それは、いいことですか」
問い返される。
その答えを考える。
普通かどうか。
いいかどうか。
「……どうだろうな」
はっきりとは言わない。
言えない。
でも。
「少なくとも」
一歩だけ、凪の前に出る。
人の流れを遮るように。
自然な動きで。
「危なくはないな」
そう言う。
それが一番しっくりきた。
凪は、少しだけ目を細める。
その反応を見て、なんとなく分かる。
理解している。
言葉の意味じゃなくて。
今の行動の意味を。
「……水城さん」
名前を呼ばれる。
その響きが、さっきよりも少しだけ低く感じる。
「ん?」
振り返る。
距離は、ほとんど変わらない。
そのまま。
「触っていいですか」
一瞬、意味が分からない。
「は?」
聞き返す。
凪は、変わらない顔で続ける。
「さっきみたいに」
——腕。
すぐに理解する。
「ああ……」
少しだけ考える。
断る理由。
探す。
見つからない。
それどころか。
「……好きにしたらええ」
そう答えている。
完全に。
受け入れている。
凪の手が、再び腕に触れる。
さっきより自然に。
ためらいなく。
そのまま掴む。
距離が固定される。
人混みの中で。
完全に。
「……これやと、見失わないで済むしな」
言い訳みたいに呟く。
誰に対してかは分からない。
でも、それで納得する。
そのまま歩く。
さっきよりも。
明らかに。
距離が近いまま。
「……」
凪は、何も言わない。
ただ、離さない。
その手の力は強くないのに、離れる気配がない。
必要以上に力を入れていないのに、確実にそこにいる。
「……凪」
呼ぶ。
「はい」
すぐに返る。
「ほんまに、お前さ」
少しだけ言葉を探す。
けれど。
結局。
「……離す気ないだろ」
そう言うと。
凪は、一瞬だけ考えるように間を置いてから。
「はい」
と答える。
そのあとに。
「今は」
と付け加える。
その言葉の意味が、一瞬遅れて入ってくる。
今は。
つまり。
「……あとで離す気あるのか」
少しだけ、意地悪く聞く。
凪は、少しだけ視線を上げて。
「水城さんが言ったら」
そう答える。
それは。
さっき観覧車で聞いた答えと同じ。
でも。
今は、少し違う。
「言わなかったら?」
そう続けると。
凪は、ほんの少しだけ。
——笑った。
ほとんど分からないくらいの変化。
でも。
確かに。
「……じゃあ、離しません」
静かに言う。
断言。
迷いなし。
その言葉を聞いて。
水城は、少しだけ目を細める。
「……ほんとに、めんどくさいな」
そう言いながら。
腕を引く。
今度は。
自分の方から。
完全に。
距離を詰める。
「……離すなよ」
低く言う。
それは命令に近い。
けれど。
拒否の意味は、どこにもない。
むしろ。
逆だ。
凪は、すぐに頷く。
「はい」
その手は、少しだけ強くなる。
それでも。
痛くない程度に。
ちょうどいい強さで。
離れないように。
「……」
歩きながら。
水城は、ほんの少しだけ笑う。
自覚は、まだ完全じゃない。
でも。
「……まあ、いいのか」
もう。
手放す気はなかった。
「……凪さ」
ふと、口を開く。
「はい」
返事は変わらない。
「これ、ずっとする気なの?」
問いというより、確認。
けれど。
「はい」
迷いなく肯定される。
そのあとに、ほんの少しだけ間を置いて。
「水城さんが嫌じゃなければ」
付け足される。
完全に委ねているようでいて。
実際は。
——離す気がない。
水城は、短く息を吐く。
「……ずるい言い方すんな」
そう言いながらも、足は止まらない。
手も、振り払わない。
むしろ。
人がぶつかりそうになった瞬間、反射的に凪の方へ少しだけ引き寄せる動きをしてしまったことに、自分で気づいてわずかに眉を寄せる。
「……あーあ」
小さく呟く。
何に対してなのかは、自分でも分かっている。
もう。
遅い。
「……水城さん」
凪が呼ぶ。
すぐ横で。
近い距離で。
「ん?」
「さっきの」
少しだけ言葉を選ぶ間。
「……キス」
その単語に、一瞬だけ思考が止まる。
「……あれ」
軽く流そうとする。
けれど。
「嫌でしたか」
先に聞かれる。
逃げ道を塞がれる形で。
水城は、視線を逸らす。
答えは、分かっている。
「……嫌だったら、二回もしない」
正直に言う。
それが一番早い。
凪は、少しだけ目を細める。
その変化は小さいのに、はっきり分かる。
「じゃあ」
一歩、さらに距離が詰まる。
もう十分近いのに。
「またしてもいいですか」
さらっと言う。
場所も関係なく。
人の多さも関係なく。
「……お前な」
呆れた声が出る。
普通なら止める場面。
でも。
「……場所考えろ」
完全な拒否じゃない。
条件付き。
凪は、少しだけ考えるように間を置いてから。
「じゃあ、あとで」
そう言う。
当然のように。
未来の予定として。
その言葉に対して、水城は何も言わない。
否定もしない。
つまり。
——受け入れている。
「……凪のやつ」
小さく笑う。
困ったように。
でも。
どこか楽しそうに。
「厄介だな、凪」
その言葉に対して。
凪は、ほんのわずかにだけ。
——満足そうに見えた。
観覧車を降りてからも続いている距離の近さが、時間の経過とともに一時的なものではなく、明確に今の関係として定着し始めていることを水城自身が否定しきれないまま、人の流れに合わせて歩き続けていると、不意に横から名前を呼ばれて足が止まる。
「水城?」
聞き覚えのある声だった。
反射的に振り返る。
視界に入った顔に、数秒遅れて記憶が一致する。
「ああ……いきなりびっくりした、偶然だな」
職場の人間だった。
それほど親しいわけではないが、無視するほどでもない距離感の相手で、そのまま軽く言葉を返しながら立ち止まる。
その瞬間。
腕に触れている感触が、わずかに強くなる。
引き寄せられるわけでも、締め付けられるわけでもない。
けれど。
——離れない。
むしろ。
逃がさないように位置を固定される。
「今日休みなんだ?」
「ああ、まあな」
適当に返す。
視線は相手に向けているはずなのに、意識の一部は完全に隣へ向いている。
距離。
接触。
その変化。
「その子誰?」
軽い調子で言われたその一言に、一瞬だけ思考が止まる。
どう答えるかを考えるよりも先に。
「違います」
横から、静かな声が落ちる。
水城よりも先に。
凪が答えている。
声はいつもと同じ温度なのに、その割り込み方だけが自然じゃない。
——質問の意味を、取り違えているみたいに。
「……あ、そうなんだ?」
相手が少しだけ戸惑う。
当然だと思う。
普通の会話の流れではない。
けれど。
凪は構わない。
「大学の知り合いです」
さらに続ける。
事実としては間違っていない。
けれど、その言い方にはどこか余白がなくて、会話をそこで終わらせる意図が含まれているように聞こえる。
水城は横目で凪を見る。
表情は変わらない。
いつも通り。
ただ。
距離だけが、さっきよりわずかに近い。
「……へえ」
相手はそれ以上踏み込まなかった。
空気を読んだのか、それとも単純に興味を失ったのかは分からないが、「じゃあまた」と軽く手を振って、そのまま去っていく。
視界から消える。
同時に。
腕にかかっていた力が、ほんの少しだけ緩む。
完全には離れないまま。
「……お前な」
水城が口を開く。
けれど、続く言葉は決まっていなかった。
責めるのか。
笑うのか。
流すのか。
自分でも分からない。
「はい」
凪は、いつも通り返事をする。
何も変わっていない顔で。
「……今の、なんだったの」
ようやく出た言葉は、半分呆れみたいなものだった。
凪は一瞬だけ考えるように間を置いてから。
「事実です」
と答える。
間違ってはいない。
確かに。
「そうだけど、そういう話じゃないだろ」
少しだけ眉を寄せる。
けれど、その声に強さはない。
凪は、ほんのわずかに視線を動かしてから。
「……あの人」
と、小さく言う。
「距離、近かったので」
それだけ。
理由としては、十分すぎるほど単純だった。
水城は、一瞬だけ言葉を失う。
思い返す。
さっきの距離。
確かに、少し近かったかもしれない。
でも。
「……それで?」
問い返す。
凪は、少しだけ目を細める。
ほんのわずかな変化。
「嫌だったので」
静かに言う。
声は変わらない。
けれど。
その中に含まれているものは、さっきまでよりもはっきりしている。
——排除。
ただ、それだけ。
水城は、ゆっくりと息を吐く。
「……お前なぁ」
呆れる。
けれど。
「……まあ、いいけど」
結局、そうなる。
止める理由が見つからない。
それどころか。
さっきのやり取りの中で、自分が一度もその距離を否定しなかったことに気づいてしまう。
「……水城さん」
名前を呼ばれる。
すぐ横で。
近い距離で。
「はい」
返す。
「さっきの人」
少しだけ間を置いて。
「もう話さないでください」
命令でも、お願いでもない。
ただの確認みたいな言い方。
けれど。
内容は、明確だった。
水城は、一瞬だけ黙る。
普通なら。
否定する。
「それは無理」とか、「仕事の関係だし」とか。
いくらでも理由はある。
なのに。
「……なんでだよ」
そう返すのが精一杯だった。
凪は、少しだけ考えるように視線を落としてから。
「……必要ないので」
と答える。
その一言に。
無駄がない。
感情も、装飾もない。
ただの結論。
水城は、しばらく何も言わない。
考えているわけでもない。
ただ。
その言葉を、そのまま受け取っている。
「……はあ」
小さく息を吐く。
呆れているのに。
どこかで納得している自分がいる。
「……分かった」
気づけば、そう言っていた。
完全な肯定じゃない。
でも、否定もしない。
凪は、ほんの少しだけ目を細める。
それが。
今日一番分かりやすい変化だった。
「ありがとうございます」
そう言って。
腕を掴む手の力が、ほんの少しだけ強くなる。
逃がさないように。
確かめるように。
水城は、それを振り払わない。
むしろ。
「……ほんとに」
小さく笑う。
「凪、やばいな」
そう言いながら。
その距離を、受け入れている。
人の流れに再び紛れながら歩き出したあとも、腕に残っている感触が離れずにいることを、水城は意識しないようにしようとして、けれど完全には無視しきれないまま、視線だけを前に向けて足を進めていくうちに、さっきまでのやり取りが必要以上に頭の中で反復されていることに気づいて、軽く息を吐く。
ほんの数分前までなら、ここまで意識することはなかったはずなのに、観覧車の中で交わした言葉や、そのあと当然のように提示された「またしてもいいですか」という確認の仕方や、それを完全に拒否しきれなかった自分の反応まで含めて、すべてがひとつの流れとして繋がってしまっているせいで、今さら切り離して考えることができなくなっている。
「……なあ、凪」
ふと、口を開く。
呼ぶ理由が明確にあったわけではない。
ただ、このまま黙っていると余計に意識が偏る気がした。
「はい」
すぐ隣から返ってくる声は、さっきと変わらない。
距離も、温度も、何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ近く感じるのは、たぶん自分の意識の問題だと分かっている。
「お前、さっきから——」
言いかけて、止まる。
何を指摘するつもりだったのか、一瞬だけ曖昧になる。
距離か。
キスか。
それとも、さっきのもう話さないでくださいか。
どれも間違っていない。
どれも、今さら触れるには少し遅い。
「……いや、なんでもない」
結局そう言って流す。
言葉にした瞬間に、何かが変わってしまいそうな気がした。
凪は、それ以上追及してこない。
ただ。
「そうですか」
とだけ答える。
それで終わり。
それなのに。
腕に触れている指先だけが、わずかに力を増す。
——逃がさない。
そう言われている気がするのに、嫌じゃない自分がいることが、少しだけ面倒くさかった。
「……あぁ、ほんとに」
小さく呟く。
何に対してかは、もう分かっている。
「凪」
名前を呼ぶ。
今度は、さっきよりも少しだけ意図を持って。
「はい」
視線が向く。
近い。
「お前さ」
少しだけ言葉を選ぶ間を置いてから。
「距離、バグってるよな」
半分冗談みたいに言う。
完全に否定するわけでもなく、かといって肯定もしない、逃げ道を残した言い方。
凪は、その言葉をそのまま受け取って。
ほんのわずかにだけ首を傾ける。
「……そうですか」
否定でも、肯定でもない。
ただの確認。
「でも」
続ける。
「水城さんが離れないので」
それが理由だと言う。
まっすぐに。
躊躇なく。
水城は、一瞬だけ言葉を失う。
反論しようと思えばできる。
「普通は離れる」とか、「これはおかしい」とか。
いくらでも言えるはずなのに。
「……たしかに」
小さく笑う。
結局、自分の方が折れている。
「離れてないのは、俺の方だよな」
認める。
半分だけ。
凪は、その言葉を聞いて。
ほんの少しだけ。
分かりやすく、安心したみたいに目を細める。
その変化に気づいた瞬間、水城の中で何かが引っかかる。
——ああ。
こいつ。
分かってやってる。
全部じゃなくても。
少なくとも、自分が拒否しない範囲は。
正確に測っている。
「……凪、さ」
もう一度、口を開く。
今度は、さっきよりも少しだけ低い声で。
「どこまでやる気なの」
問いかける。
軽くではなく。
少しだけ踏み込んで。
凪は、迷わない。
考える時間もほとんどなく。
「水城さんが許すところまで」
と答える。
即答だった。
冗談にも聞こえない。
誤魔化しもない。
ただ、それが当然みたいに。
「……はあ」
水城は、息を吐く。
呆れているのか。
感心しているのか。
もう自分でもよく分からない。
「まじで厄介だな」
そう言いながら。
足を止める。
人の流れから、少しだけ外れる位置。
さっきまでのざわめきが、ほんの少しだけ遠くなる。
「……凪」
呼ぶ。
今度は、はっきりと。
凪が視線を向ける。
そのまま。
ほんの少しだけ。
距離を詰める。
自分から。
さっきまでは受け入れていただけだったのに。
今は違う。
「あとで、って言ったよな」
観覧車の中での言葉をなぞる。
凪は、すぐに頷く。
「はい」
「……今でもいいか」
軽く言う。
試すみたいに。
けれど。
逃げ道は残していない。
凪は、一瞬だけ目を細めて。
それから。
「はい」
と答える。
迷いなく。
その返事を聞いた瞬間、水城は小さく笑って。
「……ほんとにさ」
と呟きながら。
手を引く。
腕じゃなくて。
指先に触れる形で。
そのまま、少しだけ人目の少ない方へ歩き出す。
凪は、何も言わずにそれについてくる。
当然みたいに。
拒む理由が存在しないみたいに。
その距離のまま。
その関係のまま。
——もう。
戻るつもりなんて、最初からなかったみたいに。
手を引いたまま、人の流れから少し外れた場所まで移動してから、水城は足を止める。
ほんの少しだけ騒がしさが遠くなって、周囲の視線もまばらになったその場所は、さっきまでの延長線上にあるはずなのに、どこかだけ切り取られたみたいに静かで、その静けさの分だけ、今自分が何をしようとしているのかがやけにはっきりと浮かび上がってくる。
「……ここでいいか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
凪は何も言わない。
ただ、手を引かれたままの距離で、こちらを見ている。
逃げる気配はない。
拒む様子もない。
それどころか。
——待っている。
そういう沈黙だった。
水城は、その視線を真正面から受け止めたまま、ほんの一瞬だけ迷う。
さっき自分で言った言葉。
今でもいいか。
その続きを、自分から取りに行ったくせに。
いざその距離まで来ると、簡単に踏み込んでしまっていいものかどうかが、少しだけ引っかかる。
「……凪」
名前を呼ぶ。
「はい」
すぐに返ってくる。
距離は、変わらない。
「お前さ」
言葉を選ぶ。
選びながら、自分の中にある感覚を確かめる。
「なんでそんな平気なの」
問いは、半分本音だった。
観覧車の中でも、さっきのキスの話でも、今この状況でも。
凪は、一度も迷っていない。
「……平気、ではないです」
少しだけ間を置いてから、凪はそう答える。
初めての返しだった。
水城の視線が、わずかに揺れる。
「でも」
続ける。
「嫌じゃないので」
その言い方は、いつも通りだった。
迷いはない。
ただ、事実を並べているだけ。
「水城さんは?」
逆に聞き返される。
逃げ場がなくなる。
水城は、一瞬だけ視線を逸らしてから、小さく息を吐く。
「……嫌じゃない」
正直に言う。
それ以外に、答えがない。
凪は、わずかに目を細める。
それだけで、十分だったらしい。
「じゃあ」
一歩、近づく。
さっきより、さらに。
もう、ほとんど触れる距離。
「いいですよね」
確認の形を取っているのに、止める余地を残していない言い方。
水城は、そこで。
ようやく。
「……だめだ」
小さく言う。
凪の動きが、ほんのわずかに止まる。
完全に止まったわけじゃない。
ただ、次に進むのを待つように。
「……今は、な」
付け足す。
完全な拒否じゃない。
ただの先延ばし。
それでも。
意味は、はっきりしている。
凪は、その言葉を数秒かけて処理する。
表情は変わらない。
けれど。
「……どうしてですか」
と聞く声が、ほんの少しだけ低くなる。
理由を求めている。
納得しないと止まらない種類の問い。
水城は、少しだけ困ったように笑う。
「どうしてって……」
言葉を探す。
ちゃんと説明できる理由なんて、本当はない。
ただ。
「ここでやったら」
一瞬、言葉を切る。
凪を見る。
近い距離。
逃げない視線。
「たぶん、止まらんくなる」
正直に言う。
それが一番しっくりきた。
凪は、何も言わない。
その言葉を、そのまま受け取っている。
「……だから、やめとく」
結論を置く。
静かに。
凪は、しばらく黙ったまま。
それから。
「……分かりました」
と答える。
従う。
あっさりと。
その反応に、水城は少しだけ拍子抜けする。
もっと粘るかと思っていた。
「……なんだ来ないのか」
思わず聞く。
凪は、わずかに首を傾けて。
「はい」
と答える。
そして。
ほんの少しだけ。
距離を戻す。
自分から。
それが。
今までで一番分かりやすい従い方だった。
「でも」
小さく続ける。
「あとでは、しますよね」
確認。
未来の保証。
水城は、数秒だけ黙ってから。
「……たぶんな」
と返す。
完全には逃げない。
凪は、その答えを聞いて。
ほんのわずかにだけ、満足そうに目を細める。
「じゃあ、いいです」
それで納得する。
今は、引く。
でも。
——終わったわけじゃない。
水城は、それをちゃんと理解している。
「……ほんとにさ」
小さく笑う。
「調子狂うわ」
そう言いながら。
もう一度、凪の方へ手を伸ばして。
今度は、自然な動作として。
指先を絡める。
握るでもなく。
ただ、触れる形で。
「次、どこ行く?」
何事もなかったみたいに言う。
凪は、その手を見て。
それから、水城を見る。
「どこでもいいです」
いつも通りの返事。
でも。
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
繋いだ指先の温度をそのままにした状態で、水城は何も言わずに歩き出し、さっきまでのやり取りをまるごとなかったことにするみたいに、視線だけを前に向けて人の流れに戻っていくのに対して、凪もそれを止めることはせず、ただ同じ速度で隣を歩きながら、離されていない手の感触だけを確かめるようにわずかに力を調整している。
会話は、ない。
けれど、気まずさもない。
ただ。
——さっきまでとは、明らかに違う。
「……次、あれ乗るか」
水城が指さしたのは、さっきよりも少しだけ派手なアトラクションで、音も人の声も大きくて、意識を外に向けやすい場所だった。
「はい」
短く答える。
判断は任せる。
その構図も、もう自然になっている。
列に並びながら、前後にいる人間の会話や笑い声が耳に入ってくるが、それらはやっぱり背景でしかなくて、意識の中心にあるのは、繋がれたままの手と、その距離だけだった。
一度だけ、水城がわずかに手を動かす。
離すのかと思ったが、違った。
ただ、持ち方を変えただけで、より指が絡む形になる。
「……人多いな」
独り言みたいに呟く。
理由にはなっていない。
けれど。
——離さない理由としては、十分だった。
凪は何も言わない。
ただ、その変化をそのまま受け入れている。
乗り物に乗り込む直前、手を離す必要が生まれて、ほんの一瞬だけ接触が途切れるが、その短い空白がやけに意識に残る。
隣に座る。
安全バーが下りる。
物理的な距離が固定される。
さっきよりも、さらに近い。
動き出した瞬間の揺れで、自然に肩が触れる。
避ける理由はない。
むしろ。
——さっきより、意識しない。
それが一番の変化だった。
「……大丈夫か」
横から聞こえる声も、どこか少しだけ低い。
「大丈夫です」
そう答える。
本当だった。
怖さよりも、隣にいることの方がはっきりしている。
動きに合わせて、何度か身体がぶつかる。
そのたびに、どちらも離れない。
それが普通みたいに、繰り返される。
降りたあと、水城が軽く息を吐いて、
「……疲れるな、これ」
と笑う。
「楽しいですか」
凪が聞く。
水城は少しだけ考えてから、
「まあ、悪くない」
と答える。
その言葉を聞いて、凪はわずかに頷く。
——悪くない。
それで十分だった。
歩き出す。
さっきと同じように。
今度は、自然に。
水城の方から手が伸びて、また指先が触れる。
確認も、理由もない。
ただ。
——さっき途切れたものを、戻すみたいに。
凪は、そのまま受け入れる。
何も言わずに。
拒まずに。
「……なあ、凪」
不意に呼ばれる。
「はい」
「さっきのこと」
そこで、一瞬だけ間が空く。
言うのか、やめるのか。
迷っているような時間。
けれど。
「……やっぱ、なんでもない」
結局、そうなる。
踏み込まない。
戻る。
凪は、その言葉をそのまま受け取って、
「はい」
とだけ答える。
追及しない。
それもまた、ひとつの距離の取り方だった。
けれど。
繋がれた手は、離れない。
むしろ。
さっきより、少しだけ強くなっている。
人の流れから少しだけ外れたベンチに腰を下ろしたとき、さっきまで絶え間なく身体を揺らしていた動きが急に途切れたせいで、逆に自分の内側に残っている感覚の方がやけに鮮明に浮かび上がってくるのを、水城はぼんやりとした意識のまま受け入れていた。
隣に座る凪との距離は、さっきまでとほとんど変わらないはずなのに、座っている分だけ逃げ場がなくなっているようにも感じられて、そのくせわざわざ離れる理由も見つからないまま、結局そのままの位置で落ち着いてしまっている自分に対して、どこかで苦笑いのような感覚が浮かぶ。
「……ちょっと休憩」
誰に向けるでもなくそう言いながら、手に持っていた飲み物のキャップを開けると、炭酸の抜ける小さな音がやけに大きく聞こえて、その些細な音すら、この場の静けさを際立たせる要素になっているように思えた。
「はい」
凪は短く返す。
その声も、さっきまでと同じはずなのに、少しだけ近く感じる。
理由は分かっている。
距離が、近いままだからだ。
ほんの少しだけ横目で見ると、凪は特に何かをするでもなく前を向いたまま座っていて、ただそこにいるという状態を維持しているだけなのに、その存在感だけがやけに強くて、意識を向けないようにしようとしても自然と視界の端に入り込んでくる。
「……凪、疲れてないの」
ぽつりと聞く。
問いというより、なんとなくの確認。
「大丈夫です」
即答だった。
迷いがない。
「楽しいので」
付け足される。
その言葉に、水城は一瞬だけ反応が遅れる。
「……そう」
短く返す。
それ以上広げるつもりはなかったはずなのに、その一言だけが妙に残る。
——楽しい。
それを、こんなにあっさり言うのか。
自分なら、たぶんもう少し濁す。
言い切ることに、少しだけ躊躇する。
けれど、凪は違う。
思ったことを、そのまま言う。
それができる距離に、今自分はいる。
「……凪」
気づけば、また名前を呼んでいる。
「はい」
すぐに返る。
いつも通り。
変わらない。
「今日さ」
言いかけて、少しだけ言葉を探す。
何を聞きたいのか、自分でもはっきりしていない。
それでも。
「楽しいでしょ?」
さっきの言葉をなぞるみたいに確認する。
凪は、ほんの少しだけ考えるように間を置いてから、
「はい」
と頷く。
「水城さんといると」
そこで、一度言葉が区切られる。
水城の視線が、自然と向く。
凪はそのまま続ける。
「分かりやすいので」
その表現に、水城はわずかに眉を寄せる。
「……何が」
問い返す。
凪は少しだけ視線を動かしてから、
「距離とか、反応とか」
と答える。
「今も」
続ける。
「こうやって隣に座ってても、嫌じゃないって分かるので」
事実を並べるみたいな言い方。
けれど、その内容は軽くない。
水城は、一瞬だけ言葉を失う。
確かに、嫌ではない。
それは事実だ。
でも、それをこんなふうに言語化されると、逃げ場がなくなる。
「……普通、それ分かりにくいもんでしょ」
少しだけ笑って誤魔化すように言う。
凪は首を横に振る。
「分かりにくいです」
あっさり肯定する。
「だから」
少しだけ、こちらを見る。
「分かる人の方が、いいです」
その言葉が、静かに落ちる。
水城は、それをすぐに返せない。
軽く流すには、少しだけ重い。
かといって、深く拾うにはまだ早い。
「……それ、俺ってこと?」
冗談っぽく言う。
逃げ道を残す形で。
凪は、少しも迷わずに。
「はい」
と答える。
間が、ない。
その即答に、水城は思わず息を詰める。
「……お前な」
言葉が続かない。
困っているのか、呆れているのか、自分でも分からない。
ただ。
——悪くない。
そう思っている自分がいる。
「……ほんとに、凪は厄介だ」
小さく笑う。
凪は、その言葉に対して否定しない。
むしろ。
「はい」
とだけ答える。
受け入れている。
そのまま。
「でも」
続ける。
「水城さんがいいなら、問題ないです」
完全に委ねているようでいて。
実際は。
——逃がしていない。
水城は、その構図に気づいている。
気づいていて。
「……あー、もう」
小さく頭をかく。
どうにもならない、みたいに。
それでも。
その距離から離れようとはしない。
むしろ。
無意識に、ほんの少しだけ肩を寄せる。
触れるか触れないかの境界。
それだけで、十分だった。
夕方の光が、少しずつ色を変えていく。
昼間よりもやわらかい色になって、影が長く伸びていく中で、さっきまでの時間がそのまま延長されているみたいに続いていて、終わりが近づいているはずなのに、どこかまだ終わらせたくないという感覚だけが、言葉にされないまま残っている。
「……もうちょい回る?」
水城が言う。
自然な流れで。
凪は、少しだけ目を細めて。
「はい」
と答える。
その一言で。
——まだ終わらないことが、確定する。
遊園地の出口を抜けたあと、昼間とは違う種類のざわめきが背後に残り続けているにもかかわらず、外に出た瞬間に音の密度がわずかに下がることで、さっきまで誤魔化されていた感覚がゆっくりと浮かび上がってくるのを、水城は無意識のうちに感じ取っていた。
隣を歩く凪との距離は、入園したときと比べれば明らかに近いまま固定されていて、その状態に対して違和感を持つどころか、むしろそれを前提として身体が動いていることに気づいたとき、どこからが普通だったのかが曖昧になっていることに、遅れて理解が追いつく。
「……もう帰る?」
一応の確認として口に出す。
帰るという選択肢が自然に浮かぶ時間帯ではある。
凪は少しだけ考えるように間を置いてから、
「帰ってもいいです」
と答える。
否定ではない。
ただ。
「でも」
続ける。
「もう少し、このままでもいいです」
その言い方に、水城は一瞬だけ視線を向ける。
——このまま。
言葉の意味は曖昧なのに、意図ははっきりしている。
「……凪って優柔不断」
小さく笑う。
けれど。
足は止めない。
帰る方向に向かいながらも、歩く速度をわずかに落とす。
それが、答えみたいなものだった。
しばらく、言葉は続かない。
昼間の賑やかさとは違う、少しだけ落ち着いた空気の中で、ただ並んで歩いているだけの時間が続く。
それでも。
——さっきまでとは違う。
沈黙の質が、変わっている。
「……凪」
ふと、名前を呼ぶ。
「はい」
すぐに返る。
「今日さ」
言葉を探す。
何を言うべきか、まだ決めていないまま。
「……なんか、変だったな」
曖昧な言い方になる。
けれど、それで通じる気がした。
凪は、少しだけ視線を動かしてから、
「はい」
と頷く。
否定しない。
「でも」
続ける。
「悪くなかったです」
その言葉に、水城は少しだけ息を吐く。
「……俺も」
小さく言う。
それ以上は続けない。
それだけで、十分だった。
そのまま数歩進んだとき。
前方から、数人のグループがこちらに向かって歩いてくるのが見える。
特に気にする必要はない。
すれ違うだけ。
——のはずだった。
そのうちの一人が、水城の方を見て、何か言いかけるような素振りを見せた瞬間。
腕が、引かれる。
「……凪?」
小さく名前を呼ぶよりも先に、身体ごと引き寄せられて、進む方向がわずかに変わる。
グループと距離を取るように。
避ける形で。
ただ、それだけの動き。
けれど。
——意図が、違う。
「……なに」
問いかける。
凪は、前を見たまま。
「必要ないので」
と答える。
短い。
説明になっていない。
けれど。
「……何が」
聞き返す。
凪は、少しだけ間を置いてから、
「関わる必要がない人は」
と続ける。
「近づけない方がいいので」
その言い方は、昼間と同じだった。
ただ。
さっきより、少しだけはっきりしている。
水城は、そこでようやく気づく。
さっきの職場のやつのときと、同じ。
——排除している。
自分に近づくものを。
「……お前な」
呆れたように言いながらも、足は止めない。
凪に引かれるまま、少しだけ人の流れから外れた位置を歩く。
「それ、全部やってたらキリないよ」
軽く言う。
たしなめるつもりで。
凪は、少しだけ視線をこちらに向ける。
「全部はしません」
否定する。
「水城さんに関係あるものだけです」
その一言で。
空気が、少しだけ変わる。
軽く流すには、引っかかる。
「……関係あるって、なんやねん」
冗談っぽく言う。
けれど。
凪は、少しも迷わずに。
「今、隣にいるので」
と答える。
それだけ。
それだけなのに。
十分すぎるほど明確だった。
水城は、言葉を失う。
視線を逸らして、少しだけ息を吐く。
「……はあ」
呆れたような声。
でも。
「……ほんとに、やばいな」
小さく笑う。
その中に、拒絶はない。
むしろ。
——受け入れている。
そのまま、歩き続ける。
さっきよりも、さらに近い距離で。
凪は、何も言わない。
ただ、その距離を維持する。
もう、確認もしない。
当たり前みたいに。
「……凪」
もう一度、名前を呼ぶ。
「はい」
「それ」
一瞬、言葉を切る。
「ずっとやるん?」
確認。
凪は、少しだけ考えるようにしてから。
「水城さんが、嫌になるまで」
と答える。
逃げ道を渡しているようで。
実際は。
——手放していない。
水城は、その言葉を聞いて。
ほんの一瞬だけ、考えて。
「……じゃあ、しばらくはそのままだな」
と返す。
凪は、わずかに目を細める。
それが、答えだった。
夕方の空気が、少しずつ夜に近づいていく。
その中で。
二人の距離だけが。
はっきりと、変わったまま残っていた。
