正常の外で、君を飼う

昼の講義は嫌いではない、というよりも、周囲に人がいる状態の方が余計なことを考えずに済むから結果的に楽だと感じているだけで、内容そのものに興味があるわけではないのに、それでも同じ空間に複数の音や気配が重なっていることで、自分の内側で勝手に浮かび上がってくる思考や記憶の輪郭がぼやけていくような感覚があって、その均一なざわめきの中に紛れているときだけは、自分がどこかに引っかからずに済んでいるような、ほんのわずかに普通へ近づけている気がする。

隣の席に座った人間が何か話しかけてきていることには気づいていたが、その内容を正確に理解する必要性を感じなかったため、声の調子や間の取り方だけを頼りに適切そうな相槌を返していると、
「神代ってさ、いつも一人だよな」と言われ、
その言葉の意味を一度頭の中で分解してから、それが事実かどうかを確認するために短く思考を巡らせる。

たぶん、事実だと思う。

「そうですね、」

そう答えると、相手は納得したように笑って、
「彼女とかいんの?」と続けてくるが、
その質問が自分に向けられる意味を理解するまでにほんの少しだけ時間がかかり、恋人という関係性について知識としては理解しているものの、それを自分の現実に当てはめて考えたことがほとんどないことに気づく。

「いない」

そう答えると、「だよな」と返される。

その言葉の中に含まれているニュアンスまでは読み取れないが、少なくとも会話として成立しているらしいことだけは分かる。

「俺、気になってる人いてさ。神代だったらどうアタックする?やっぱ出かけるとかが無難かなー。遊園地でロマンティックなことしてみるとか?」

いないと答えたのが間違っていたかのように次々に質問を飛ばされる。

「遊園地...ロマンティック...ありがとう!」

凪は何かを思い出したかのようにお礼だけして去った。

「お、おう」

講義が終わると同時に、人が一斉に立ち上がり、それぞれの方向へ流れていくことで音と気配が一気に増えて、その中に紛れるようにして教室を出ると、さっきまで保たれていた均一さが少しずつ崩れていくのを感じながら、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を開く。

特に目的があったわけではないが、指は自然に連絡先の画面を開いていて、その中にある『水城さん』という名前が目に入ると、それが自分で登録したものであるはずなのに、どこか他人のもののようにも感じられて、その違和感の理由を考えかけて、すぐにやめる。

必要だったから、登録した。

それだけのことだ。

——会うどうか。会えるかどうか。

一瞬だけ考える。

考える意味があるのかどうかを含めて。

結論は出ない。

出す必要もない。

足が向けば、それでいい。

大学の外に出ると、音の量が一気に減って、その分だけ内側の思考が浮かび上がってくるのを感じながら、無意識に歩き出した方向が昨日と同じであることに気づいても、それを修正する理由は特に見つからなかった。

——いる。

遠くからでも分かる。

立ち方や視線の流し方、周囲との距離の取り方、そのどれもが昨日の記憶と一致していて、それを確認することで自分の認識が間違っていないことを確かめる。

「水城さん」

声をかける。

振り返るより先に足が止まる。

その反応の順番を、昨日覚えた。

「……いると思った」

同じ言葉。

「はい」

答える。

それで十分だと判断する。

隣に並ぶ。

距離は、昨日教えられた通り。

それが正しいはずだと理解している。

——そのはずなのに。

前方から近づいてきた人物が水城に声をかけ、そのまま自然な動作で肩に手を置き、距離を詰めるようにして会話を始める様子を視界に捉えた瞬間、その動きが問題ないものとして処理されるべきなのかどうかの判断が一瞬遅れる。

触れている。

ためらいなく。

距離が近い。

自分よりも。

——それは、違う。

理由は分からない。

だが、違うと判断する。

「水城さん」

呼ぶ。

「水城さん」

さっきよりも少しだけ強く。

反応がこちらに向く。

その瞬間に一歩踏み込む。

距離を詰める。

さっきより近い位置。

「行きましょう」

理由は提示しない。

必要ないと判断する。

水城は一瞬だけ驚いたような表情を見せてから、「……ああ」とだけ返し、肩に置かれていた手を外す。

それで問題は解消されたと判断する。

歩き出す。

今度は自分から近い距離を維持する。

「……知り合い?」

水城が聞く。

「違います」

即答する。

関係性は存在しない。

「じゃあなんで急に」

質問の意図を考える。

説明が必要かどうかを判断する。

「……あの距離、違うと思ったんで」

事実をそのまま言語化する。

水城は少しの間沈黙したあと、小さく笑う。

否定ではない。

問題はない。

「水城さん」

名前を呼ぶ。

優しい表情をした反応が返ってくる。

「これくらいでもいいですよね」

距離をさらに詰める。

肩が触れる位置。

昨日より近い。

「……お前な」

困ったような声。

だが、離れない。

拒否ではないと判断する。

「これが普通じゃないなら」

一度言葉を区切る。

思考を整理する。

「水城さんにとっての普通に合わせます」

それが最も合理的だと思った。

自分の基準は曖昧だが、相手の基準に従えば誤りは減る。

「……なんだよ、それ」

水城が笑う。

完全な否定ではない。

「分かりました」

頷く。

これでいい。

少なくとも。

——他の人間よりは、正しい距離にいる。


沈黙が続く。

自分で距離を詰めたにもかかわらず、その状態のまま何も起こらない時間が続くことに対して、どう処理するべきか判断がつかなくなり、会話を続ける必要があるのか、それともこのままで問題ないのかを短く考えたあと、結論を出す前に言葉の方が先に出る。

「……水城さん」

名前を呼ぶと、すぐに反応が返ってくる。

「ん?」

その距離のまま。

「社会人って、休みありますか」

質問として適切かどうかは分からない。

ただ、今聞くべきだと思った。

「そりゃあるよ、疲れちゃうよ。大人でも」

予想していた答え。

「じゃあ」

一度区切る。

言葉の順番を考える。

「次の日曜日、予定ありますか」

水城は少しだけ考える素振りを見せてから、

「うん、そうだけど。家でだらける予定はあるよ」

と答える。

その内容を処理する。

外出の予定はない。

つまり、空いている。

そう判断する。

「……じゃあ」

もう一度、言葉を選ぶ。

「遊園地、行きませんか」

理由は、あとから考える。

今は提案だけでいい。

「水城さんって、そういうところ行かなそうなので」

付け足す。

正しい理由かは分からない。

「失礼な。……まあ、当たりなんだけど」

少し笑う声。

否定ではない。

「いいよ」

了承。

それで成立する。

「ただし条件がある」

その言葉に、足が止まる。

条件。

想定外ではない。

「条件って、なんですか」

「現地集合な。あと、遅刻はなし。取り残されたみたいで嫌だから」

理由も提示される。

理解できる。

「はい」

頷く。

問題はない。

「……現地集合は、なんでですか」

一応、確認する。

「気分だよ、気分」

曖昧な理由。

だが、それでも成立している。

——これが、水城の普通。

そう認識する。

「日曜日、十二時に遊園地集合」

水城が言う。

「はい」

繰り返す。

約束として固定する。

それで十分だと思った。

歩き出す。

距離は、さっきと同じ。

変わらない。

——でも。

他の人間はいない。

それだけで、さっきよりも正しい状態に近づいたと判断する。

ポケットの中で、スマートフォンの存在を確認する。

連絡先。

名前。

約束。

それらが、全部ひとつに繋がる。

「……」

言葉にはしない。

必要がない。

ただ。

——日曜日。

その時間が、決まった。

それだけでいいと思った。日曜日の朝は、平日と比べて外から入ってくる音の種類が違うせいか、同じ時間に目を覚ましているはずなのに空気の密度がわずかに軽く感じられて、その分だけ頭の中に浮かんでくる思考の輪郭がはっきりしやすくなっていることに気づきながらも、今日はそれを無理に押し込める必要性を感じなかったため、しばらくの間ベッドの上で天井を見たまま身体を起こさずに時間の経過を受け入れていたが、やがて約束された時刻の数字が意識の中で明確に浮かび上がったことで、そのままの状態を続ける理由も同時に薄れていき、代わりにそれまで曖昧だった感覚がわずかに浮き上がるようにして形を持ち始める。

昨日ではなく今日であり、曖昧ではなく確定している予定としてそこに存在しているという事実を頭の中で一度なぞるように確認し、遅刻はしないようにと事前に提示されていた条件も含めて、それを守ることがこの約束における最低限の前提であると理解したうえで身体を起こし、支度を整えながらも何を着るべきかという判断に明確な基準が存在しないことを自覚しつつ、それでも普段との差異が大きくならない範囲であれば問題にはならないだろうという結論に至り、鏡の前で一度全体を確認したあと特に修正すべき点が見つからなかったため、そのまま外に出ることを選ぶ。

移動している最中、必要以上に時間を確認する行為に意味がないことは分かっていながらも、ポケットからスマートフォンを取り出しては画面を点け、現在時刻を確かめる動作を何度か繰り返してしまうことに対して、その理由を明確に説明することはできなかったが、少なくとも遅刻しないという条件を守るための確認として処理することで納得することにした。

——十二時。

目的地に到着すると、休日特有の明るさを帯びたざわめきが広がっていて、普段の生活圏とは明らかに異なる種類の音や笑い声が空間全体に散らばっているにもかかわらず、その一つひとつを個別に認識する必要はないと判断しながら視線を動かすよりも先に、そこにいるはずの人物の存在を感覚として先に捉える。

入口付近の壁にもたれかかるようにしてスマートフォンに視線を落としている水城の姿は、これまでの記憶と一致していて、それを確認することで自分の認識に誤りがないことを裏付けると同時に、迷う余地なく声をかける。

「水城さん」

呼びかけに反応して顔が上がり、視線がこちらに向けられると同時にほんのわずかに驚いたような表情が混ざるのを見て、「遅刻はしないって言われたので」と先に言葉を返すと、水城は小さく笑いながら「真面目か」と返し、そのニュアンスを完全に理解できなくても否定ではないと判断したまま隣に並び、これまでと同じ距離を保つことで余計な修正が必要ない状態を維持する。

列に並びながら周囲の人間との距離が自然に詰まっていく状況の中でも、それらを個別に気にする必要はないと判断する一方で、水城との距離だけは常に一定に保たれているかどうかを無意識に確認し続けていることに気づきながらも、その行為を特別なものとして扱う理由は見つからなかった。

「こういうとこ、本当に来たことないの?」

「ないです」

そう答えると、水城は納得したように頷きながら「じゃあ今日は任せろ」と言って少し前に出るため、その動きに合わせて自然と後ろにつく形になり、その構図に違和感がないことを確認する。

中に入った瞬間に音と視覚情報の量が一気に増え、人の動きも不規則になるが、そのすべてを処理する必要はないと判断して意識の焦点を水城一人に絞り、見失わないことだけを優先する。

案内された乗り物に乗り込み、隣同士で座席に腰を下ろして安全バーを下ろした瞬間に身体の自由が制限されることで水城との距離が動かせない形で固定され、その逃げ場のない近さがはっきりと意識に上がってくるものの、それを避ける方法が存在しない以上そのまま受け入れるしかないと理解する。

「大丈夫か?」

「大丈夫です」

そう答えた直後に乗り物が動き出し、揺れに合わせて身体がわずかに傾くことで肩が触れる距離が自然に発生し、それが一度ではなく繰り返されることで接触という行為そのものよりも、その状態が継続していることに意識が向き、違和感を探そうとしても見つからない以上そのままで問題はないと判断する。

乗り物を降りたあと「どうだった?」と聞かれ、「近かったです」と答えると笑われるが、「楽しくなかったわけじゃないです」と補足することで誤解を避ける必要があると考える。

歩いている最中、前方から来た人物が水城に接触しそうになる瞬間を視界に捉えたことで距離が乱れると判断し、ほとんど反射的に手を伸ばして腕を掴み、そのまま軽く引くことで位置を修正すると、「……何?」と聞かれたため「危ないので」とだけ答え、そのあとに続いた「ありがと」という言葉を感謝として受け取る。

掴んだ手を離すべきかどうかを一瞬だけ考えるものの、それによって得られる利点を見つけることができず、むしろこの状態の方が距離として安定していると判断したため、そのまま維持することを選び、「手」と指摘されて初めて客観的に認識したあとも、「すみません」と言いながら即座に離す理由が見つからないままそのままにしておく。

「ダメですか?」

そう確認すると、「……いや、別に」と返されることで拒否ではないと判断し、結果として腕を掴んだまま歩き続けることになる。

これまでで最も距離が近い状態でありながら、不自然さよりもむしろ余計な要素が排除された感覚の方が強く、他の人間が介在しないこの状態の方が誤差が少なく、最も正確な距離であるように思えて、その感覚に明確な名前を与えることはできないままでも、少なくとも——この状態は悪くない、この人との今の距離はこれが正解とだけは確かに思った。腕を掴まれたまま歩いているという状況を、視覚的にも感覚的にもはっきりと認識しているにもかかわらず、それを振り払う理由がすぐには見つからず、そのままにしておくことを選んでしまっている自分の判断が正しいのかどうかを考えかけて、結局その思考自体に明確な結論を出す必要がないことに気づいた瞬間、余計なことを考えるよりもこの状態を受け入れてしまった方が楽だという、ある種の諦めにも似た感覚が先に立つ。

本来であれば、年下に腕を掴まれて歩くなんて状況はどこかで線を引いて修正するべきもので、少なくとも「普通」ではないはずなのに、その基準を持ち出してまでこの距離を正そうとする意志が自分の中にほとんど存在していないことに対して、違和感よりも先に納得に近いものが浮かんでしまうのが厄介だった。

「……凪」

呼んだ名前に対して、すぐに「はい」と返ってくるその反応の速さや迷いのなさが、まるで最初からそこに合わせて存在していたかのように自然で、そのことに対して引っかかりを覚えるはずなのに、実際にはその逆で、むしろこの距離も、この関係も、最初からこうだったような錯覚すら抱きかけている自分に気づいてしまい、思わず視線を逸らす。

「……凪、それ」

言いかけて、言葉を止める。

何を指摘するべきなのかが曖昧になる。

手を掴んでいることなのか、距離なのか、それともそれを許している自分の方なのか、そのどれもが混ざってしまって、どこから線を引けばいいのか分からなくなる。

「嫌なら、離します」

淡々とした声でそう言われて、一瞬だけ言葉に詰まる。

嫌かどうか。

その判断をするために必要な基準を探そうとして、すぐに見つからないことに気づく。

不快ではない。

むしろ——

「……別に、嫌じゃないけど、そのままでも...」

気づいたときにはそう答えていて、その言葉が出たこと自体に対して、あとから遅れて違和感が追いついてくる。

そのままでいいと、自分から肯定した。

その事実が、思っていた以上に重く残る。

歩幅が自然と揃っていることにも、腕を掴まれていることで距離が固定されていることにも、いちいち理由をつける必要がないくらいには受け入れてしまっている自分の状態が、冷静に考えれば考えるほどおかしいはずなのに、それでもそのおかしさを修正する方向に思考が動かない。

むしろ。

「……なんで聞くんだよ」

小さく吐き出す。

誰に向けたものでもない。

ただ、自分の中で処理しきれない感覚を外に出しただけの言葉だった。

ふと横を見ると、凪は何も変わらない表情のまま前を見ていて、その落ち着き方が逆に異質で、普通ならこの距離や状況に対して多少なりとも意識が揺れるはずなのに、それがまるで見えないことに対して違和感を覚える一方で、その変わらなさにどこか安心している自分もいる。

「……なあ」

声をかけると、すぐに視線がこちらに向く。

その距離の近さのまま目が合う。

「凪さ」

何を聞こうとしているのか、自分でも分からないまま言葉を続けようとして、結局うまくまとまらずに口を閉じる。

——何を確認したいんだ。

自分の中で問いが浮かぶ。

好きかどうか、なんて話じゃない。

そんな単純な話に落とし込めるほど、この感覚は分かりやすくない。

ただ。

「……距離、気にならんの」

出てきたのは、そんな曖昧な言葉だった。

凪は少しだけ考えるように間を置いてから、

「気にならないです」

と、迷いなく答える。

その即答が、妙に引っかかる。

「……なんで」

思わず聞き返すと、

「水城さんだから」

同じ温度のまま返ってくる。

あまりにも自然に。

理由として成立しているかどうかを疑う余地もないくらい、当たり前のものとして。

「……は?」

理解が追いつかない。

追いつかないまま、その言葉だけが残る。

水城だから。

それが理由になるという前提が、そもそも自分の中にはない。

なのに。

「……なにそれ」

小さく笑う。

否定でも、肯定でもない。

ただ、逃がすみたいに。

それ以上深く考えたら、たぶんどこかで引き返せなくなる気がして、そこで止める。

けれど。

止めたはずの思考は、完全には消えない。

歩きながらも、さっきの言葉が何度も頭の中で繰り返される。

水城だから。

——それって。

「……」

視線を前に戻す。

腕を掴まれている感覚が、さっきよりもはっきりと意識に上がる。

温度。

強さ。

距離。

全部。

さっきまでは気にしなくていいものだったはずなのに、今は逆にそこにばかり意識が向く。

「……やばい」

小さく呟く。

何がやばいのかは、言葉にできない。

ただ。

このままではダメだという感覚だけが、遅れて形を持ち始めている。

それでも。

「……まあ、いっか」

結局、そうやって流してしまう。

離すこともできたはずなのに、しないまま。

距離を取ることもできたはずなのに、しないまま。

その選択を繰り返している時点で、答えなんてとっくに出ている気がしているのに、それをはっきりさせることだけは避けている自分がいる。

隣を見る。

変わらない表情。

同じ距離。

同じ温度。

「……めんどくさ」

呟いて、少しだけ笑う。

けれどその笑いは、完全に他人事では済まされない種類のもので。

——たぶん、もう。

気づきかけてる。

そう思った。