正常の外で、君を飼う

次の日会ったとき、まるで昨日のことが最初から存在していなかったみたいに、何の迷いもなく声をかけられたことに対して、拍子抜けした、という一言で片付けてしまうには少しだけ引っかかりが残って、それでもそれをわざわざ言葉にして確認するほどのことでもないと判断してしまう自分がいることに気づきながら、とりあえずは何もなかったように振る舞うしかないと考えている時点で、もう十分にいつも通りから外れているのだという事実を、どこかで認めきれないまま歩いていた。

「水城さん」

背後から呼ばれたその声に、振り返るよりも先に足が止まってしまうあたり、自分が思っている以上にその存在を意識しているのだと分かってしまうのが少し癪で、わざと軽い調子を作るようにして振り返りながら、
「……今日もいると思った」
と口に出すと、凪は特に変わった様子も見せずに
「はい」
とだけ返して、その短い返答の中に昨日の出来事を引きずっているような気配がまったく感じられないことに、逆にこちらの方が取り残されているような感覚を覚える。

「今日もその時間なんやな」

何気ないふりをしてそう言うと、凪は間を置かずに
「たまたまです」
と返してきて、その返答が嘘ではないのだろうと思える。
完全に本当とも思えない曖昧さを含んでいる気がして、けれどそれをわざわざ問いただす理由も見つからないまま、
「……ふうん」
とだけ返して会話をそこで切る。

並んで歩き出すと、昨日と同じはずの距離感なのに、歩幅や呼吸のタイミングが妙に揃ってしまっているせいか、時折ほんのわずかに肩が触れそうになる瞬間があって、そのたびに意識だけがそちらに引っ張られてしまう自分がいることに、少し遅れて気づく。

「……なあ」

考えるより先に声をかけると、凪はすぐに
「はい」
と返す。
その反応の速さが意識的なものなのか、それともただの習慣なのか判断がつかないまま、どうでもいいはずのことに引っかかってしまう。

「昨日の——」

言いかけたところで、何を聞こうとしていたのかが曖昧になって、そのまま言葉が途切れる。

凪は何も言わずにこちらを見ている。

急かすでもなく、逸らすでもなく、ただそのままの距離で。

その視線に意味があるのかどうかも分からないまま、結局こちらが視線を外す形になって、「……いや、なんでもない」と言い直すと、凪は小さく頷くだけで、それ以上何も聞いてこない。

——触れない。

あのことには。

その事実に、ほっとしている自分と、どこか拍子抜けしている自分が同時にいることに気づいて、どちらが本音なのか分からないまま、その曖昧さをそのまま飲み込む。

「柊真さん」

再び呼ばれる。

「ん?」

視線を向けると、凪は何の前触れもなく小さな菓子の袋を差し出してきて、その距離の近さのまま手渡されるから、受け取るときに指先が触れるのを避けきれず、その一瞬だけ妙に意識がそちらに集中してしまう。

「……何これ」

「昨日のお礼です」

淡々とした声。

「大したことしてないけど」

そう返すと、「でも」とだけ言って、それ以上は続かない。

言葉が足りないというより、最初からそれ以上説明するつもりがないような言い方で、そのまま差し出された状態を維持されると、断る理由も見つからない。

「……じゃあ、もらうわ」

そう言って受け取ると、袋の中で小さく音が鳴って、それだけのことなのに、なぜかやけに印象に残る。

「甘いの、好きなんですか」

凪が聞く。

「まあ、たまにな」

そう答えると、「昨日、お気に入りって言ってたので」と続いて、「覚えてたか」と思わず返すと、「はい」と当然みたいに返されて、その当然さに妙な引っかかりを覚える。

「……凪」

名前を呼ぶ。

呼んだ理由は特にないはずなのに、呼んだ瞬間に凪が間を置かずにこちらを見るものだから、その距離の近さに改めて気づいてしまい、さっきまで意識していなかったはずの感覚が遅れて浮かび上がってくる。

——昨日のことが、よぎる。

触れた感触。

ほんの一瞬だったはずの距離。

「……なんでもない」

視線を逸らす。

呼んだ意味なんて最初からなかったみたいに、そのまま流す。

それでも、呼んだという事実だけは残る。

気づけば、考えるより先に言葉が口からこぼれていて、「……近くない?」と呟いたあとで、それを今このタイミングで言う必要があったのかと、少し遅れて自分で自分に引っかかる。

凪はほんのわずかに首を傾げてから、

「これくらいって、言ってました」

と、昨日自分が決めた距離をそのまま返してきて、「……そうだけど」と言いながらも、それが正しいはずなのに何かが違う気がして、その違和感の正体が分からないまま言葉が続かなくなる。

「……まあ、いいや」

結局、またそこで思考を切る。

納得したわけでもないのに、そのまま受け入れてしまう。

隣を歩く。

距離は近い。

近いまま、離れない。

それを直そうとも思わなくなっている自分に気づきながら、それでもそのことについて深く考えるのをやめてしまうあたりが、いかにも自分らしいと、どこか他人事みたいに思う。

それでも。

その距離が、少しだけ心地いいと感じてしまっていることには、まだ気づかないふりをしていた。