終電を逃した夜は、街が少しだけ正直になる。
ネオンはくたびれてるし、コンビニの灯りはやけに白い。
昼間なら気にも留めないようなことが、妙に目につく。
たとえば——人の少なさとか。
たとえば——やけに静かな足音とか。
「……また会いましたね」
声をかけられて、振り返る。
見覚えのある顔だった。
同じ時間帯、同じ道で、何度かすれ違ったことがある。
大学生。たぶん。
年齢のわりに落ち着いて見えるけど、目が合うと、少しだけ——違和感が残る。
うまく言えないけど、
人と目を合わせる“間”が、ほんの少しだけずれている。
「こんばんは」
当たり障りのない挨拶を返すと、彼は少しだけ笑った。
ちゃんとした笑い方だった。
教科書に載っていそうなくらい、整った。
——だから余計に、気持ち悪い。
「帰りですか」
「まあ、そんなとこ」
短く返すと、彼は自然な足取りで僕の隣に並んだ。
許可は、取られなかった。
でも、不思議と振り払う気にもならない。
「この時間、危ないですよ」
「君に言われると説得力ないな」
軽く返すと、彼は一瞬だけ考える素振りを見せてから、頷いた。
「確かに」
——否定しないんだ、と思う。
普通なら、少しくらい取り繕うだろうに。
その“素直さ”が、逆に引っかかる。
信号が赤に変わる。
足を止めると、彼も同じタイミングで止まった。
ぴたりと。
一歩もずれずに。
「……」
横目で見る。
近い。
さっきまで気にならなかった距離が、急に現実味を持つ。
「距離、近くない?」
言うと、彼は少しだけ首を傾げた。
「そうですか?」
本気でわかっていない顔だった。
——ああ、なるほど。
この違和感の正体は、たぶんこれだ。
この人は、“線”を知らない。
人と人の間にある、見えない境界線。
踏み越えたらいけない距離。
そういうものを——
「教えてもらわなかったんやろな」
思ったよりも、優しい声が出た。
自分でも少し驚く。
彼はその言葉に、少しだけ目を細めた。
嬉しそうにも見えたし、
逆に、なにかを見透かされたようにも見えた。
「じゃあ」
彼が言う。
「教えてくださいよ」
信号が青に変わる。
歩き出すタイミングが、またぴったり揃う。
「あんたの“普通”」
——その言い方が、少しだけ引っかかった。
でもそのときは、まだ。
それがどれだけ危ない意味を持つのか、考えなかった。
信号を渡りきっても、彼は自然に隣を歩き続けた。
会話が途切れても気まずくならないのは、社会人になってから身についた癖だ。
無理に話題を探す必要もないし、沈黙を埋める義務もない。
——ただ。
この沈黙は、少しだけ質が違う。
隣を歩く人間が変わるだけで、こんなにも空気が変わるものなのかと、妙に感心する。
「君、大学生?大学、近いの?」
なんとなく聞いた。
意味はない。
ただ、この違和感に名前をつけたくなっただけだ。
「近いですよ」
彼はすぐに答えた。
「歩いて十五分くらいです」
「へえ」
普通だ。
距離も、答え方も、全部。
なのに、なぜか。
ちゃんと準備された答えみたいに聞こえる。
「あなたは?」
「会社はもう少し先」
それだけ言うと、彼は小さく頷いた。
「大変ですね」
「まあな」
また、沈黙。
街灯の下を通るたびに、影が伸びては縮む。
ふと、視界の端でそれがずれる。
——いや。
正確には、彼の影だけが、ほんの少し遅れて動いた気がした。
足を止める。
「……どうかしました?」
隣で、彼も同時に止まる。
ぴたりと。
やっぱり、ずれない。
「いや」
視線を足元に落とす。
影は、ちゃんと二つ並んでいた。
さっき見えたものは、ただの見間違いだろう。
そう結論づけるには、十分すぎるくらい整っている。
「なんでもない」
顔を上げると、彼は少しだけこちらを見ていた。
なにか探るような目。
それが一瞬で消えて、また普通に戻る。
「疲れてるんじゃないですか」
「そうかもな」
軽く笑って流すと、彼も同じように笑った。
やっぱり、綺麗な笑い方だった。
「送りますよ」
不意に言われる。
「大丈夫だって。君の方が子供だろ」
「でも」
彼は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「この辺、あんまり良くないんで」
その言い方が、引っかかった。
知っている人間の言い方だった。
「詳しいな」
「……まあ」
曖昧に笑う。
その一瞬だけ、完璧だった表情が崩れた気がした。
「じゃあ、ここまでで」
適当なところで足を止める。
これ以上踏み込ませる理由もない。
「ありがとう」
そう言うと、彼は素直に頷いた。
「はい」
それだけで、引き下がる。
あっさりしすぎていて、逆に違和感が残る。
普通なら、もう一言くらい何かあるだろうに。
「じゃあ」
背を向ける。
数歩歩いてから、なんとなく振り返った。
——まだ、いる。
同じ場所に立ったまま、こちらを見ていた。
目が合う。
彼は軽く笑顔で手を振った。
それも、どこか教科書通りの動きで。
「……」
手を上げ返して、そのまま歩き出す。
角を曲がる直前、もう一度だけ振り返った。
今度はもう、いなかった。
足音もしない。
気配も、残っていない。
まるで最初から——
いなかったみたいに。
____
家に帰って、スーツの上着を脱ぐ。
スマホをテーブルに置いたとき、通知が一件入った。
知らない番号からのメッセージ。
『ちゃんと帰れましたか』
一瞬、思考が止まる。
連絡先なんて、交換していない。
そもそも、名前すら知らない。
画面を見つめたまま、指が動かない。
数秒遅れて、既読がついた。
——勝手に。
「……は?」
思わず声が出る。
続けて、もう一件。
『よかったです』
喉の奥が、少しだけ冷える。
ゆっくりと息を吐いてから、画面を閉じた。
考えすぎだ。
そういうことにしておくのが、一番楽だ。
——なのに。
頭のどこかで、妙に納得している自分がいる。
ああ、やっぱり。
「普通じゃないな、あいつ」
ソファに体を預ける。
天井を見上げて、目を閉じた。
怖い、とは思わなかった。
それよりも先に浮かんだのは——
「……面倒なことになりそうだ」
そんな、どうでもいい感想だった。
スマホを伏せて、しばらくそのまま動かなかった。
静かな部屋に、自分の呼吸だけがやけに響く。
——おかしい。
そう思う感覚は、ちゃんとある。
あるはずなのに。
「……まあ、大丈夫か」
呟いてしまう自分の方が、よっぽどおかしかった。
普通なら、もっと警戒するべきだ。
関わらない方がいいと、判断するべきだ。
それくらいのことは、もう分かる年齢だ。
なのに。
「……なんで」
さっきのやり取りを、もう一度思い出す。
距離感のなさも、妙な素直さも。
全部含めて——
不思議と、嫌じゃなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ。
「……安心した」
自分で言って、意味が分からなくなる。
あんな得体の知れないやつ相手に。
大学生相手に。
そんな感情を持つこと自体が、普通じゃない。
「——まあ」
小さく息を吐く。
ソファから立ち上がり、部屋の電気を消した。
暗闇の中で、スマホの画面だけが一瞬光る。
通知は、もう来ていない。
それを確認してから、ベッドに潜り込む。
目を閉じる。
その直前。
ふと、思った。
——もし、また明日も会えたら。
「……名前、聞くか」
それが。
この先どれだけ面倒なことになるのか。
そのときの自分は、まだ知らなかった。
朝は、嫌いじゃない。
人が多くて、音が多くて、全部がうるさいから。
一つひとつに意識を向けなくて済む。
大学の構内は、特に楽だった。
笑い声も、足音も、会話も。
全部が均等に混ざって、ひとつの音になる。
その中に紛れていれば、自分も普通になれる気がする。
「おはよ」
声をかけられて、振り向く。
同じ講義のやつ。名前は、まだ覚えてない。
「おはよう」
たぶん正しいトーンで返す。
相手は特に気にした様子もなく、隣に並んだ。
こういうのは、もう慣れた。
笑うタイミングとか、相槌とか。
全部あとから覚えたものだ。
間違ってなければ、それでいい。
「昨日さー」
適当に話を聞きながら、頷く。
意味は半分も理解してない。
でも、困ることはない。
——困るのは、静かなときだ。
人が少なくなると、音が減る。
そうすると、余計なことを考える。
思い出したくないこととか。
思い出す必要のないこととか。
思い出すと苦しい音も。
「じゃあな」
講義が終わって、自然に別れる。
ひとりになる。
その瞬間だけ、少しだけ息が楽になる。
ポケットからスマホを取り出す。
履歴を開く。
昨日のメッセージは、そのまま残っている。
『ちゃんと帰れましたか』
既読はついてる。
返信は、ない。
——それでいい。
無理に続けるものじゃないのは分かってる。
分かってるけど。
画面を閉じて、ポケットに戻す。
足が、勝手に動く。
大学の外に出る。
境界を越えた、って感覚がある。
理由はうまく説明できないけど。
中と外では、ルールが違う。
——いや。
守らなくていいだけか。
「……」
視線を上げる。
人の流れが、さっきより少ない。
音も、減っている。
その分だけ、思考が浮かぶ。
昔のこと。
呼ばれ方とか、場所とか。
「——立ってろ」
声がする。
反射的に体が止まる。
違う、とすぐに分かる。
ここには、もういない。
そういう場所じゃない。
なのに、身体の方が先に思い出す。
殴られる前の、あの一瞬の空気。
何も考えない方が楽だった。
考えると、痛みが増えるから。
「……別に」
小さく吐き出す。
今は、違う。
少なくとも、ここでは。
ちゃんと、普通にしていれば。
——大丈夫だ。
たぶん。
そうすれば、目をつけられない。
足を止める。
見覚えのある道。
昨日と同じ時間。
同じ場所。
「……来るかな」
誰に聞くでもなく、呟く。
来なくてもいい。
それでもいい。
ただ、あの人は——
「普通」を教えてくれそうだった。
距離の取り方とか。
言葉の選び方とか。
そういうの。
全部、後から覚えたものばっかりだから。
正解がよく分からない。
「……」
昨日のことを思い出す。
距離が近いって言われた。
あれは、間違いなんだと思う。
でも。
どれくらい離れればいいのかは、教わってない。
誰も、教えてくれなかった。
「……まあ」
少しだけ笑う。
自分でも、変な感覚だと思う。
あんな風に言われて。
嫌がられてもおかしくないのに。
「……また会いたいな」
理由は、よく分からない。
ただ。
あの人といるときだけ。
ほんの少しだけ。
——ちゃんと“人間”になれてる気がした。
ほんの少しだけ。
そう思っただけなのに、足はその場に残ったままだった。
帰る理由はある。
やることも、ないわけじゃない。
でも、このこわばった足が動くきっかけが見つからない。
ポケットの中で、スマホが軽く当たる。
取り出して、画面を見る。
新しい通知は、ない。
分かっていたことなのに、確認してしまう。
「……」
小さく息を吐いて、顔を上げた。
人が少しずつ増えてきている。
帰宅する時間帯が重なって、さっきよりも音が戻ってきた。
それだけで、少し楽になる。
——紛れていれば、大丈夫だ。
そう思いながら歩き出したとき。
「……あ」
前から歩いてくる人影に、目が止まる。
見間違えるはずがない。
同じ歩幅。
同じ癖。
少しだけ疲れたみたいに、肩が落ちている。
「お兄さん」
呼ぶと、相手は一瞬だけ驚いた顔をした。
すぐに、いつもの表情に戻る。
「……なんだ、またか」
「はい」
素直に頷く。
「待ってました」
言ってから、少しだけ間違えた気がした。
でも、訂正の仕方が分からない。
数秒だけこちらを見て、それから小さく笑った。
「正直やな」
怒っている感じではない。
それで十分だった。
「帰りですか?」
「そうだよ」
少しだけ視線を逸らされる。
それから、また戻ってくる。
「……途中までなら、一緒でもいい...か...」
許可、というより。
確認みたいな言い方だった。
「はい」
今度は間違えないように、少しだけ間を置いてから答える。
隣に並ぶ。
昨日と同じ距離。
——いや。
ほんの少しだけ、近い。
でも今回は、何も言われなかった。
歩き出す。
会話は、すぐには続かない。
それでも、不思議と気まずくなかった。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
歩きながら、なんとなく聞かれた。
少しだけ間を置いてから、答えた。
「神代|《くましろ》です」
「苗字?名前は?」
「……凪」
少しだけ、言い直す。
「神代 凪|《くましろ なぎ》です」
「へえ、かっこいい名前してるんだな」
思ったより、いい反応された、褒められた。
「お兄さんは?」
「水城|《みずき》」
ついでみたいに名乗る。
「水城 柊真|《みずき しゅうま》」
その名前を、一度だけ口の中で転がすみたいに繰り返した。
「……水城さん」
「漢字は!?」
「水の城って書いてみずき、木へんに冬で真っ直ぐの真でしゅうま。名前、名前って感じするよな」
「可愛い... いい名前ですね。かっこよくて。」
「あ、ありがと」
「大学、どうなん」
不意に、水城が聞いてくる。
「普通です」
「普通って便利な言葉だな」
少し笑っている。
「楽しいか?」
考える。
楽しい、の定義がよく分からない。
でも。
「……たぶん?」
そう答えると、水城は「ふうん」とだけ言った。
それ以上は聞いてこない。
無理に掘り下げない。
その距離感が、少しだけ心地いい。
コンビニの前で足が止まる。
どちらからともなく、という感じだった。
「なんか飲む?」
水城が言う。
「いいんですか」
水城からの誘いに目を輝かせる凪。
「別に大したもんじゃないけど」
店に入る。
明るい光と、一定の音。
さっきまでの静けさが嘘みたいに消える。
棚の前で、少しだけ迷う。
何を選べばいいのか、まだよく分からない。
「これでええやろ」
横から手が伸びて、ペットボトルを一つ取られる。
そのまま、こちらに渡される。
「……ありがとうございます」
ラベルを見る。
見たことはある。
飲んだことは、たぶんない。
レジを済ませて、外に出る。
少しだけ距離を取って、飲む。
甘い。
思っていたより、ずっと。
「どう?嫌い?」
水城が横目で見る。
「……甘いです」
「だろうな」
少しだけ笑う。
その顔を見て、なんとなく分かった。
これは、正解だったらしい。
「こういうの、あんまり飲まないでしょ」
「はい」
「顔に出てる」
言われて、少しだけ困る。
どういう顔をすればいいのか、分からない。
「それ、僕のお気に入り」
水城はそれ以上何も言わなかった。
助かった、と思う。
歩きながら、ペットボトルを持つ手を見る。
少しだけ、冷たい。
その温度が、妙に現実的だった。
「……水城さん」
名前を呼ぶ。
さっき覚えたばかりの響き。
「ん?」
「距離って」
言いかけて、止まる。
うまく言葉が出てこない。
「どれくらいが、普通ですか」
水城は一瞬だけきょとんとしてから、少し考えるように視線を上げた。
「……難しいこと聞くなあ」
苦笑する。
「人による」
「……そうですか」
「だけど」
一歩分だけ、距離を空ける。
「これくらい」
そう言ってから、また元の距離に戻る。
「これくらいでも、別に」
その言い方が、少しだけ曖昧だった。
でも。
「分かりました」
頷く。
正確じゃなくてもいい。
今は、それで十分だった。
それから、しばらく無言で歩いた。
気まずいわけじゃない。
何か話さなあかん、という感じでもない。
ただ、隣に人がいるだけで、十分だった。
こんな感覚は、あまり知らない。
「ここでいい?」
水城が足を止める。
昨日と、だいたい同じ場所。
「もう十分です」
そう言うと、水城は少しだけ笑った。
「律儀なんだな」
「そうですか」
よく分からないけど、否定はしない。
これが正しいなら、そのままでいい。
「じゃあ」
軽く手を上げる。
昨日と同じ動き。
でも、今日は少しだけ違って見えた。
「……はい」
そのまま、背を向ける。
数歩進んで、立ち止まる。
振り返る。
水城は、まだそこにいた。
同じように、こちらを見ている。
目が合う。
一瞬だけ、何か言いそうな顔をした。
でも結局、何も言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ手を振る。
今度は、昨日より自然にできた気がする。
それを確認してから、また歩き出す。
角を曲がる。
視界から消える。
それでも、しばらくはその場の空気が残っている気がした。
ポケットの中のスマホが、また当たる。
取り出して、画面を見る。
新しい通知は——ない。
それでいい、と思う。
昨日みたいに、しない方がいい。
そういうのは、たぶん。
普通じゃないから。
「……普通」
小さく呟く。
今日、一日で聞いた言葉。
教えてもらった距離。
選んでもらった飲み物。
どうでもいい会話。
その全部が、頭の中でゆっくり繋がっていく。
「……」
少しだけ考えてから、スマホを操作する。
連絡先を開く。
新規登録の画面。
指が止まる。
名前の欄に、何も入っていない。
——まだ、聞いていない。
それに気づいて、少しだけ可笑しくなる。
「……水城さん、か」
そのまま入力する。
苗字だけ。
それで、十分な気がした。
保存する。
画面を閉じる。
それだけのことなのに、少しだけ。
ほんの少しだけ。
「……いいな」
そう思った。
理由は、よく分からない。
でも。
また会えたらいい、と思った。
次は、名前をちゃんと呼ぶ。
それくらいなら、たぶん。
普通だ。
——そう思った。
名前を呼ばれたときに、思っていたよりも自然に反応してしまったことに、あとからじわじわと違和感が追いついてくるのを感じながら、それでも足は止めずにそのまま歩き続けていると、隣にいる存在の気配だけが妙に鮮明で、さっきまで気にならなかった距離の近さや、歩幅の揃い方なんかが、遅れて意識に上ってくる。
——水城さん。
たったそれだけの呼び方なのに、妙に引っかかる。
年下に敬称付きで呼ばれることには慣れているはずだし、珍しくもないし、気にするほどのことでもないはずなのに、なぜかそれがこの場面では普通じゃない何かとして残っているのが、自分でも少し面倒くさかった。
「……あいつ」
小さく呟いて、すぐにやめる。
名前を口に出すほどでもない。
けれど、出さないままにしておくには、少しだけ存在が近すぎる。
コンビニの袋が、手の中でわずかに音を立てる。
さっき選んだ飲み物の感触が、まだ指先に残っている気がして、それが妙に現実的で、逆にさっきまでの時間の輪郭を曖昧にする。
——楽しかった、のかもしれない。
そう言い切るには、少しだけ引っかかるものがある。
会話の内容なんて、ほとんど覚えていない。
特別なことをしたわけでもないし、何かが起きたわけでもない。
それでも、あの時間だけが妙に密度を持って記憶に残っているのは、たぶん相手が普通じゃないからで、だからこそ自分の方も、少しだけ基準がずれている気がしてならない。
「……普通、な」
口に出してみると、思ったよりもしっくりこない。
自分が思っている普通と、あいつが言う普通は、たぶん同じ言葉でも中身が違う。
距離の取り方一つであんな風に悩むやつが、同じ基準で生きているとは思えない。
それなのに。
「……嫌じゃないんよな」
足を止める。
誰に聞かせるでもなく、ただ確認するみたいに呟く。
普通じゃない。
分かっている。
関わらない方がいいタイプの人間だということも、経験的に理解しているつもりだった。
なのに。
「……まあ、大丈夫か」
結局、そこに落ち着く。
深く考えるのをやめたときの、自分の癖みたいなものだ。
理由が分からないなら、分からないままでいい。
そうやって切り捨ててきたことは、これまでにもいくらでもあった。
ただ今回は、その切り捨て方が、少しだけ雑な気がした。
スマホを取り出す。
無意識に、連絡先を開く。
登録した覚えのないメッセージが、一番上に表示されている。
『神代 凪』
自分で入れたはずなのに、どこか他人のものみたいに見える。
——凪は、どうしているだろう。
そこまで考えて、手が止まる。
「……は?」
思わず声が出る。
今のは、完全に余計な思考だ。
考える必要も、理由もない。
なのに、自然に浮かんできた。
「……重症かな」
小さく笑う。
呆れているのか、面白がっているのか、自分でもよく分からない。
画面を閉じて、ポケットに戻す。
そのまま歩き出すつもりだった。
——なのに。
足が、さっき別れた場所の方へ向きかけて、わずかに止まる。
行く理由はない。
会う約束もしていない。
そもそも、さっき別れたばかりだ。
普通に考えれば、戻る意味なんてない。
「……」
少しだけ考える。
考えて、やめる。
「……アホらし」
小さく吐き捨てて、今度こそ別の方向へ歩き出す。
背後に、誰かの気配がした気がして、さっきまでなかったはずの気配が、妙に近い、思わず振り返ろうとした瞬間腕を引かれる。
「——動かないで」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
距離が、一気に詰まる。
「……なに」
言いかけた言葉が、途中で止まる。
近すぎる。
顔が、すぐそこにある。
逃げる理由も、動くきっかけも見つからないまま、ただ息だけが浅くなる。
「凪」
名前を呼んだつもりだった。
でも、その音がちゃんと出ていたかは分からない。
次の瞬間、唇に何かが触れた。
ほんの一瞬。
軽く、確かめるみたいな。
それだけで、すぐに離れる。
「……」
何も言えない。
頭が追いつかない。
さっきまであった気配も、もうどうでもよくなっている。
「……大丈夫です」
凪は、何事もなかったみたいに言う。
何が、とは聞けなかった。
理解できないで止まってる、
心臓の音だけが、やけにうるさい。
ネオンはくたびれてるし、コンビニの灯りはやけに白い。
昼間なら気にも留めないようなことが、妙に目につく。
たとえば——人の少なさとか。
たとえば——やけに静かな足音とか。
「……また会いましたね」
声をかけられて、振り返る。
見覚えのある顔だった。
同じ時間帯、同じ道で、何度かすれ違ったことがある。
大学生。たぶん。
年齢のわりに落ち着いて見えるけど、目が合うと、少しだけ——違和感が残る。
うまく言えないけど、
人と目を合わせる“間”が、ほんの少しだけずれている。
「こんばんは」
当たり障りのない挨拶を返すと、彼は少しだけ笑った。
ちゃんとした笑い方だった。
教科書に載っていそうなくらい、整った。
——だから余計に、気持ち悪い。
「帰りですか」
「まあ、そんなとこ」
短く返すと、彼は自然な足取りで僕の隣に並んだ。
許可は、取られなかった。
でも、不思議と振り払う気にもならない。
「この時間、危ないですよ」
「君に言われると説得力ないな」
軽く返すと、彼は一瞬だけ考える素振りを見せてから、頷いた。
「確かに」
——否定しないんだ、と思う。
普通なら、少しくらい取り繕うだろうに。
その“素直さ”が、逆に引っかかる。
信号が赤に変わる。
足を止めると、彼も同じタイミングで止まった。
ぴたりと。
一歩もずれずに。
「……」
横目で見る。
近い。
さっきまで気にならなかった距離が、急に現実味を持つ。
「距離、近くない?」
言うと、彼は少しだけ首を傾げた。
「そうですか?」
本気でわかっていない顔だった。
——ああ、なるほど。
この違和感の正体は、たぶんこれだ。
この人は、“線”を知らない。
人と人の間にある、見えない境界線。
踏み越えたらいけない距離。
そういうものを——
「教えてもらわなかったんやろな」
思ったよりも、優しい声が出た。
自分でも少し驚く。
彼はその言葉に、少しだけ目を細めた。
嬉しそうにも見えたし、
逆に、なにかを見透かされたようにも見えた。
「じゃあ」
彼が言う。
「教えてくださいよ」
信号が青に変わる。
歩き出すタイミングが、またぴったり揃う。
「あんたの“普通”」
——その言い方が、少しだけ引っかかった。
でもそのときは、まだ。
それがどれだけ危ない意味を持つのか、考えなかった。
信号を渡りきっても、彼は自然に隣を歩き続けた。
会話が途切れても気まずくならないのは、社会人になってから身についた癖だ。
無理に話題を探す必要もないし、沈黙を埋める義務もない。
——ただ。
この沈黙は、少しだけ質が違う。
隣を歩く人間が変わるだけで、こんなにも空気が変わるものなのかと、妙に感心する。
「君、大学生?大学、近いの?」
なんとなく聞いた。
意味はない。
ただ、この違和感に名前をつけたくなっただけだ。
「近いですよ」
彼はすぐに答えた。
「歩いて十五分くらいです」
「へえ」
普通だ。
距離も、答え方も、全部。
なのに、なぜか。
ちゃんと準備された答えみたいに聞こえる。
「あなたは?」
「会社はもう少し先」
それだけ言うと、彼は小さく頷いた。
「大変ですね」
「まあな」
また、沈黙。
街灯の下を通るたびに、影が伸びては縮む。
ふと、視界の端でそれがずれる。
——いや。
正確には、彼の影だけが、ほんの少し遅れて動いた気がした。
足を止める。
「……どうかしました?」
隣で、彼も同時に止まる。
ぴたりと。
やっぱり、ずれない。
「いや」
視線を足元に落とす。
影は、ちゃんと二つ並んでいた。
さっき見えたものは、ただの見間違いだろう。
そう結論づけるには、十分すぎるくらい整っている。
「なんでもない」
顔を上げると、彼は少しだけこちらを見ていた。
なにか探るような目。
それが一瞬で消えて、また普通に戻る。
「疲れてるんじゃないですか」
「そうかもな」
軽く笑って流すと、彼も同じように笑った。
やっぱり、綺麗な笑い方だった。
「送りますよ」
不意に言われる。
「大丈夫だって。君の方が子供だろ」
「でも」
彼は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「この辺、あんまり良くないんで」
その言い方が、引っかかった。
知っている人間の言い方だった。
「詳しいな」
「……まあ」
曖昧に笑う。
その一瞬だけ、完璧だった表情が崩れた気がした。
「じゃあ、ここまでで」
適当なところで足を止める。
これ以上踏み込ませる理由もない。
「ありがとう」
そう言うと、彼は素直に頷いた。
「はい」
それだけで、引き下がる。
あっさりしすぎていて、逆に違和感が残る。
普通なら、もう一言くらい何かあるだろうに。
「じゃあ」
背を向ける。
数歩歩いてから、なんとなく振り返った。
——まだ、いる。
同じ場所に立ったまま、こちらを見ていた。
目が合う。
彼は軽く笑顔で手を振った。
それも、どこか教科書通りの動きで。
「……」
手を上げ返して、そのまま歩き出す。
角を曲がる直前、もう一度だけ振り返った。
今度はもう、いなかった。
足音もしない。
気配も、残っていない。
まるで最初から——
いなかったみたいに。
____
家に帰って、スーツの上着を脱ぐ。
スマホをテーブルに置いたとき、通知が一件入った。
知らない番号からのメッセージ。
『ちゃんと帰れましたか』
一瞬、思考が止まる。
連絡先なんて、交換していない。
そもそも、名前すら知らない。
画面を見つめたまま、指が動かない。
数秒遅れて、既読がついた。
——勝手に。
「……は?」
思わず声が出る。
続けて、もう一件。
『よかったです』
喉の奥が、少しだけ冷える。
ゆっくりと息を吐いてから、画面を閉じた。
考えすぎだ。
そういうことにしておくのが、一番楽だ。
——なのに。
頭のどこかで、妙に納得している自分がいる。
ああ、やっぱり。
「普通じゃないな、あいつ」
ソファに体を預ける。
天井を見上げて、目を閉じた。
怖い、とは思わなかった。
それよりも先に浮かんだのは——
「……面倒なことになりそうだ」
そんな、どうでもいい感想だった。
スマホを伏せて、しばらくそのまま動かなかった。
静かな部屋に、自分の呼吸だけがやけに響く。
——おかしい。
そう思う感覚は、ちゃんとある。
あるはずなのに。
「……まあ、大丈夫か」
呟いてしまう自分の方が、よっぽどおかしかった。
普通なら、もっと警戒するべきだ。
関わらない方がいいと、判断するべきだ。
それくらいのことは、もう分かる年齢だ。
なのに。
「……なんで」
さっきのやり取りを、もう一度思い出す。
距離感のなさも、妙な素直さも。
全部含めて——
不思議と、嫌じゃなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ。
「……安心した」
自分で言って、意味が分からなくなる。
あんな得体の知れないやつ相手に。
大学生相手に。
そんな感情を持つこと自体が、普通じゃない。
「——まあ」
小さく息を吐く。
ソファから立ち上がり、部屋の電気を消した。
暗闇の中で、スマホの画面だけが一瞬光る。
通知は、もう来ていない。
それを確認してから、ベッドに潜り込む。
目を閉じる。
その直前。
ふと、思った。
——もし、また明日も会えたら。
「……名前、聞くか」
それが。
この先どれだけ面倒なことになるのか。
そのときの自分は、まだ知らなかった。
朝は、嫌いじゃない。
人が多くて、音が多くて、全部がうるさいから。
一つひとつに意識を向けなくて済む。
大学の構内は、特に楽だった。
笑い声も、足音も、会話も。
全部が均等に混ざって、ひとつの音になる。
その中に紛れていれば、自分も普通になれる気がする。
「おはよ」
声をかけられて、振り向く。
同じ講義のやつ。名前は、まだ覚えてない。
「おはよう」
たぶん正しいトーンで返す。
相手は特に気にした様子もなく、隣に並んだ。
こういうのは、もう慣れた。
笑うタイミングとか、相槌とか。
全部あとから覚えたものだ。
間違ってなければ、それでいい。
「昨日さー」
適当に話を聞きながら、頷く。
意味は半分も理解してない。
でも、困ることはない。
——困るのは、静かなときだ。
人が少なくなると、音が減る。
そうすると、余計なことを考える。
思い出したくないこととか。
思い出す必要のないこととか。
思い出すと苦しい音も。
「じゃあな」
講義が終わって、自然に別れる。
ひとりになる。
その瞬間だけ、少しだけ息が楽になる。
ポケットからスマホを取り出す。
履歴を開く。
昨日のメッセージは、そのまま残っている。
『ちゃんと帰れましたか』
既読はついてる。
返信は、ない。
——それでいい。
無理に続けるものじゃないのは分かってる。
分かってるけど。
画面を閉じて、ポケットに戻す。
足が、勝手に動く。
大学の外に出る。
境界を越えた、って感覚がある。
理由はうまく説明できないけど。
中と外では、ルールが違う。
——いや。
守らなくていいだけか。
「……」
視線を上げる。
人の流れが、さっきより少ない。
音も、減っている。
その分だけ、思考が浮かぶ。
昔のこと。
呼ばれ方とか、場所とか。
「——立ってろ」
声がする。
反射的に体が止まる。
違う、とすぐに分かる。
ここには、もういない。
そういう場所じゃない。
なのに、身体の方が先に思い出す。
殴られる前の、あの一瞬の空気。
何も考えない方が楽だった。
考えると、痛みが増えるから。
「……別に」
小さく吐き出す。
今は、違う。
少なくとも、ここでは。
ちゃんと、普通にしていれば。
——大丈夫だ。
たぶん。
そうすれば、目をつけられない。
足を止める。
見覚えのある道。
昨日と同じ時間。
同じ場所。
「……来るかな」
誰に聞くでもなく、呟く。
来なくてもいい。
それでもいい。
ただ、あの人は——
「普通」を教えてくれそうだった。
距離の取り方とか。
言葉の選び方とか。
そういうの。
全部、後から覚えたものばっかりだから。
正解がよく分からない。
「……」
昨日のことを思い出す。
距離が近いって言われた。
あれは、間違いなんだと思う。
でも。
どれくらい離れればいいのかは、教わってない。
誰も、教えてくれなかった。
「……まあ」
少しだけ笑う。
自分でも、変な感覚だと思う。
あんな風に言われて。
嫌がられてもおかしくないのに。
「……また会いたいな」
理由は、よく分からない。
ただ。
あの人といるときだけ。
ほんの少しだけ。
——ちゃんと“人間”になれてる気がした。
ほんの少しだけ。
そう思っただけなのに、足はその場に残ったままだった。
帰る理由はある。
やることも、ないわけじゃない。
でも、このこわばった足が動くきっかけが見つからない。
ポケットの中で、スマホが軽く当たる。
取り出して、画面を見る。
新しい通知は、ない。
分かっていたことなのに、確認してしまう。
「……」
小さく息を吐いて、顔を上げた。
人が少しずつ増えてきている。
帰宅する時間帯が重なって、さっきよりも音が戻ってきた。
それだけで、少し楽になる。
——紛れていれば、大丈夫だ。
そう思いながら歩き出したとき。
「……あ」
前から歩いてくる人影に、目が止まる。
見間違えるはずがない。
同じ歩幅。
同じ癖。
少しだけ疲れたみたいに、肩が落ちている。
「お兄さん」
呼ぶと、相手は一瞬だけ驚いた顔をした。
すぐに、いつもの表情に戻る。
「……なんだ、またか」
「はい」
素直に頷く。
「待ってました」
言ってから、少しだけ間違えた気がした。
でも、訂正の仕方が分からない。
数秒だけこちらを見て、それから小さく笑った。
「正直やな」
怒っている感じではない。
それで十分だった。
「帰りですか?」
「そうだよ」
少しだけ視線を逸らされる。
それから、また戻ってくる。
「……途中までなら、一緒でもいい...か...」
許可、というより。
確認みたいな言い方だった。
「はい」
今度は間違えないように、少しだけ間を置いてから答える。
隣に並ぶ。
昨日と同じ距離。
——いや。
ほんの少しだけ、近い。
でも今回は、何も言われなかった。
歩き出す。
会話は、すぐには続かない。
それでも、不思議と気まずくなかった。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
歩きながら、なんとなく聞かれた。
少しだけ間を置いてから、答えた。
「神代|《くましろ》です」
「苗字?名前は?」
「……凪」
少しだけ、言い直す。
「神代 凪|《くましろ なぎ》です」
「へえ、かっこいい名前してるんだな」
思ったより、いい反応された、褒められた。
「お兄さんは?」
「水城|《みずき》」
ついでみたいに名乗る。
「水城 柊真|《みずき しゅうま》」
その名前を、一度だけ口の中で転がすみたいに繰り返した。
「……水城さん」
「漢字は!?」
「水の城って書いてみずき、木へんに冬で真っ直ぐの真でしゅうま。名前、名前って感じするよな」
「可愛い... いい名前ですね。かっこよくて。」
「あ、ありがと」
「大学、どうなん」
不意に、水城が聞いてくる。
「普通です」
「普通って便利な言葉だな」
少し笑っている。
「楽しいか?」
考える。
楽しい、の定義がよく分からない。
でも。
「……たぶん?」
そう答えると、水城は「ふうん」とだけ言った。
それ以上は聞いてこない。
無理に掘り下げない。
その距離感が、少しだけ心地いい。
コンビニの前で足が止まる。
どちらからともなく、という感じだった。
「なんか飲む?」
水城が言う。
「いいんですか」
水城からの誘いに目を輝かせる凪。
「別に大したもんじゃないけど」
店に入る。
明るい光と、一定の音。
さっきまでの静けさが嘘みたいに消える。
棚の前で、少しだけ迷う。
何を選べばいいのか、まだよく分からない。
「これでええやろ」
横から手が伸びて、ペットボトルを一つ取られる。
そのまま、こちらに渡される。
「……ありがとうございます」
ラベルを見る。
見たことはある。
飲んだことは、たぶんない。
レジを済ませて、外に出る。
少しだけ距離を取って、飲む。
甘い。
思っていたより、ずっと。
「どう?嫌い?」
水城が横目で見る。
「……甘いです」
「だろうな」
少しだけ笑う。
その顔を見て、なんとなく分かった。
これは、正解だったらしい。
「こういうの、あんまり飲まないでしょ」
「はい」
「顔に出てる」
言われて、少しだけ困る。
どういう顔をすればいいのか、分からない。
「それ、僕のお気に入り」
水城はそれ以上何も言わなかった。
助かった、と思う。
歩きながら、ペットボトルを持つ手を見る。
少しだけ、冷たい。
その温度が、妙に現実的だった。
「……水城さん」
名前を呼ぶ。
さっき覚えたばかりの響き。
「ん?」
「距離って」
言いかけて、止まる。
うまく言葉が出てこない。
「どれくらいが、普通ですか」
水城は一瞬だけきょとんとしてから、少し考えるように視線を上げた。
「……難しいこと聞くなあ」
苦笑する。
「人による」
「……そうですか」
「だけど」
一歩分だけ、距離を空ける。
「これくらい」
そう言ってから、また元の距離に戻る。
「これくらいでも、別に」
その言い方が、少しだけ曖昧だった。
でも。
「分かりました」
頷く。
正確じゃなくてもいい。
今は、それで十分だった。
それから、しばらく無言で歩いた。
気まずいわけじゃない。
何か話さなあかん、という感じでもない。
ただ、隣に人がいるだけで、十分だった。
こんな感覚は、あまり知らない。
「ここでいい?」
水城が足を止める。
昨日と、だいたい同じ場所。
「もう十分です」
そう言うと、水城は少しだけ笑った。
「律儀なんだな」
「そうですか」
よく分からないけど、否定はしない。
これが正しいなら、そのままでいい。
「じゃあ」
軽く手を上げる。
昨日と同じ動き。
でも、今日は少しだけ違って見えた。
「……はい」
そのまま、背を向ける。
数歩進んで、立ち止まる。
振り返る。
水城は、まだそこにいた。
同じように、こちらを見ている。
目が合う。
一瞬だけ、何か言いそうな顔をした。
でも結局、何も言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ手を振る。
今度は、昨日より自然にできた気がする。
それを確認してから、また歩き出す。
角を曲がる。
視界から消える。
それでも、しばらくはその場の空気が残っている気がした。
ポケットの中のスマホが、また当たる。
取り出して、画面を見る。
新しい通知は——ない。
それでいい、と思う。
昨日みたいに、しない方がいい。
そういうのは、たぶん。
普通じゃないから。
「……普通」
小さく呟く。
今日、一日で聞いた言葉。
教えてもらった距離。
選んでもらった飲み物。
どうでもいい会話。
その全部が、頭の中でゆっくり繋がっていく。
「……」
少しだけ考えてから、スマホを操作する。
連絡先を開く。
新規登録の画面。
指が止まる。
名前の欄に、何も入っていない。
——まだ、聞いていない。
それに気づいて、少しだけ可笑しくなる。
「……水城さん、か」
そのまま入力する。
苗字だけ。
それで、十分な気がした。
保存する。
画面を閉じる。
それだけのことなのに、少しだけ。
ほんの少しだけ。
「……いいな」
そう思った。
理由は、よく分からない。
でも。
また会えたらいい、と思った。
次は、名前をちゃんと呼ぶ。
それくらいなら、たぶん。
普通だ。
——そう思った。
名前を呼ばれたときに、思っていたよりも自然に反応してしまったことに、あとからじわじわと違和感が追いついてくるのを感じながら、それでも足は止めずにそのまま歩き続けていると、隣にいる存在の気配だけが妙に鮮明で、さっきまで気にならなかった距離の近さや、歩幅の揃い方なんかが、遅れて意識に上ってくる。
——水城さん。
たったそれだけの呼び方なのに、妙に引っかかる。
年下に敬称付きで呼ばれることには慣れているはずだし、珍しくもないし、気にするほどのことでもないはずなのに、なぜかそれがこの場面では普通じゃない何かとして残っているのが、自分でも少し面倒くさかった。
「……あいつ」
小さく呟いて、すぐにやめる。
名前を口に出すほどでもない。
けれど、出さないままにしておくには、少しだけ存在が近すぎる。
コンビニの袋が、手の中でわずかに音を立てる。
さっき選んだ飲み物の感触が、まだ指先に残っている気がして、それが妙に現実的で、逆にさっきまでの時間の輪郭を曖昧にする。
——楽しかった、のかもしれない。
そう言い切るには、少しだけ引っかかるものがある。
会話の内容なんて、ほとんど覚えていない。
特別なことをしたわけでもないし、何かが起きたわけでもない。
それでも、あの時間だけが妙に密度を持って記憶に残っているのは、たぶん相手が普通じゃないからで、だからこそ自分の方も、少しだけ基準がずれている気がしてならない。
「……普通、な」
口に出してみると、思ったよりもしっくりこない。
自分が思っている普通と、あいつが言う普通は、たぶん同じ言葉でも中身が違う。
距離の取り方一つであんな風に悩むやつが、同じ基準で生きているとは思えない。
それなのに。
「……嫌じゃないんよな」
足を止める。
誰に聞かせるでもなく、ただ確認するみたいに呟く。
普通じゃない。
分かっている。
関わらない方がいいタイプの人間だということも、経験的に理解しているつもりだった。
なのに。
「……まあ、大丈夫か」
結局、そこに落ち着く。
深く考えるのをやめたときの、自分の癖みたいなものだ。
理由が分からないなら、分からないままでいい。
そうやって切り捨ててきたことは、これまでにもいくらでもあった。
ただ今回は、その切り捨て方が、少しだけ雑な気がした。
スマホを取り出す。
無意識に、連絡先を開く。
登録した覚えのないメッセージが、一番上に表示されている。
『神代 凪』
自分で入れたはずなのに、どこか他人のものみたいに見える。
——凪は、どうしているだろう。
そこまで考えて、手が止まる。
「……は?」
思わず声が出る。
今のは、完全に余計な思考だ。
考える必要も、理由もない。
なのに、自然に浮かんできた。
「……重症かな」
小さく笑う。
呆れているのか、面白がっているのか、自分でもよく分からない。
画面を閉じて、ポケットに戻す。
そのまま歩き出すつもりだった。
——なのに。
足が、さっき別れた場所の方へ向きかけて、わずかに止まる。
行く理由はない。
会う約束もしていない。
そもそも、さっき別れたばかりだ。
普通に考えれば、戻る意味なんてない。
「……」
少しだけ考える。
考えて、やめる。
「……アホらし」
小さく吐き捨てて、今度こそ別の方向へ歩き出す。
背後に、誰かの気配がした気がして、さっきまでなかったはずの気配が、妙に近い、思わず振り返ろうとした瞬間腕を引かれる。
「——動かないで」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
距離が、一気に詰まる。
「……なに」
言いかけた言葉が、途中で止まる。
近すぎる。
顔が、すぐそこにある。
逃げる理由も、動くきっかけも見つからないまま、ただ息だけが浅くなる。
「凪」
名前を呼んだつもりだった。
でも、その音がちゃんと出ていたかは分からない。
次の瞬間、唇に何かが触れた。
ほんの一瞬。
軽く、確かめるみたいな。
それだけで、すぐに離れる。
「……」
何も言えない。
頭が追いつかない。
さっきまであった気配も、もうどうでもよくなっている。
「……大丈夫です」
凪は、何事もなかったみたいに言う。
何が、とは聞けなかった。
理解できないで止まってる、
心臓の音だけが、やけにうるさい。
