渚くんには僕が見えない



耳慣れた音が、扉の向こう、リビングの方から聞こえてくる。

まな板を包丁が叩く音。食器を並べる音。フライパンの上で何かがじわっと焼ける音。朝の情報番組の声。
それから、父さんと母さんが何か言葉を交わしている気配。

いつもの朝だ、と思いながら、僕は目を覚ました。

布団の中で一度だけ大きく伸びをして、それから部屋を出る。まだ少し眠たいままリビングを覗き込んで、

「おはよー」

と声をかけた。

すると、台所に立っていた母さんが振り向きもせず、

「おはよ、真尋。目玉焼きふたつ?」

と返してくる。
ダイニングテーブルでタブレットを見ていた父さんも顔を上げて、

「おはよう。寝癖すごいぞ」

と、いつもの調子で言った。

「たまごふたつ」

そう答えながら、僕は手のひらで寝癖頭を撫でつける。
そのまま洗面所へ向かい、鏡の前に立って歯を磨いた。

父さんの言う通り、寝癖がひどい。
あっちこっち好き勝手に跳ねた髪を見ながら、ぼんやりと歯ブラシを動かしていて、ふと気がつく。

――あれ、僕……見えてる……?

その考えが浮かんだ瞬間、僕は歯ブラシをくわえたまま慌ててリビングへ駆け戻った。

「母さん、父さん、僕のこと見えるの?!」

そう尋ねると、二人はそろって顔を上げて、こちらを振り返った。
ぱちぱちと目を瞬かせたあと、何を言っているの、という顔で小さく笑う。

「いいから、早くご飯食べなさい。学校遅れるよ」

母さんが、聞き慣れた声でそう言って、ダイニングテーブルの僕の席に目玉焼きがふたつ並んだ皿を置いた。

――夢だったんだ。

身支度を終えて家を出た僕は、小走りで駅へ向かった。

――全部、夢だった。

そうだ。誰からも自分が見えなくなるなんて、そんな非現実的なことが本当に起こるわけがない。
バカみたいだった。あんなに焦って、あんなに怖がって。

でも、もう大丈夫だ。

そう思った途端、自然と足取りが軽くなる。
電車の中で席を譲ったおばあさんも、ちゃんと僕を見ていた。ホームで肩が触れてしまった人も、振り返って「あ、すみません」と言った。みんな、僕のことが見えている。

同じ制服を着た生徒たちの流れに紛れながら駅を出て、そのまま学校への道を歩く。
その人波の中で、僕は見覚えのある背中を見つけた。

渚くんだ。

嬉しくて、思わず走り出してしまう。

「渚くん!」

声をかけて、その横に並ぶ。

「ねぇ、聞いてよ。全部夢だったんだ」

自分でもちょっとおかしくて、笑いながらそう言った。

「母さんも父さんも、通りすがりの人もみんな、ちゃんと僕のこと見えてたよ。本当よかったよ、ただの夢で……」

そう言って、ほっと息を吐きながら、僕は渚くんの横顔を見上げる。

「あ……」

息が止まる。

渚くんの視線は前を向いたままで、僕を捉えていなかった。

ああ、そうだ。

全部、夢だったということは――
また、渚くんには僕が見えなくなってしまったということだ。

話しかけても、答えてくれない。
目も、合わせてくれない。

ふと視線を落とす。
渚くんの手を見つめる。

――手も、繋げない……

さっきまで、あんなに安心していたのに。
ほっとして、浮かれてさえいたのに。急に胸の奥がきりきりと痛みはじめる。

「渚くん……」

呼んでみる。
やっぱり返事はない。

じわっと目の奥が熱くなった。

「渚くん……僕を……見てほしい……」

呟いた言葉は、届かないままアスファルトへ落ちる。

「渚くん……」

僕はその場に立ち止まり、ぐっと息を呑んだ。
渚くんの背中だけが、少しずつ制服の人波の中へ遠ざかっていった。

だんだん視界が白くなっていく。

――真尋……

ふいに、柔らかく名前を呼ばれた気がした。
同時に、肩に何かが触れる感覚がある。

そこで、僕は目を覚ました。

はっと瞼を開く。

目の前にあったのは、僕の顔を覗き込む渚くんの瞳だった。

「――っ!」

思わず息が止まる。

何がどうなっているのか理解するまで、数秒かかった。

同じベッドの中で、僕と渚くんは向かい合うように寝ていて、渚くんは僕の手を握っている。

「あ、あの、あの……」

距離は近いし、同じベッドの中だし、状況を理解した途端、顔に一気に熱が集まった。
僕はただ口をぱくぱくさせることしかできない。

そんな僕に、渚くんは少しだけ目を細めて言った。

「おはよう、真尋」

「あ……お、おはよう……」

そうだ。

みんなから姿が見えなくなってしまった僕を、昨日、渚くんは部屋に泊めてくれたのだ。

でも、渚くんのお母さんたちには僕の姿が見えない。だから布団を敷くのはさすがに不自然だ、という話になって、それで結局、同じベッドで寝ることになってしまったのだった。

そこまで思い出したところで、また一気に顔が熱くなる。

見られるのが恥ずかしくて、僕は思わず両手で顔を隠した。
そのあいだも渚くんは、僕を見失わないようにするためなのか、手首のあたりをやわらかく握ったままでいてくれる。

寝起きの体温が変に生々しい。
そこが心臓にでもなったみたいに、どくどくと脈打っていた。

昨日はベッドに入った途端、渚くんはすぐにこっちへ背を向けて眠ってしまったというのに、寝起きにこれは心臓に悪い。

「真尋、俺の名前呼んでたよ……」

「えっ?!」

指摘されて、息が止まる。

「そ、そうっ? よ、呼んでた?」

「うん。渚くん、って。何か夢見た?」

――夢。

夢は、どっちなんだろう。

僕を見ようともしない渚くんと、今こうしてまっすぐ僕を見てくれる渚くん。
どっちが現実で、どっちが夢なんだろう。

「忘れ……ちゃった」

そう答えると、渚くんは「そっか」とだけ言って、小さく笑った。



昨日、渚くんと一緒に整理した内容に加えて、もうひとつわかったことがある。

「俺から真尋にものを渡すこともできるんだね」

コンビニで渚くんが買ってくれたメロンパンにかじりつく僕を見ながら、渚くんがひとりごとみたいな小さな声でそう言った。

これは、周りの人に変に思われないための配慮だ。
今、僕の姿が見えているのは、手を繋いでいる渚くんだけ。だから、普通の声で話されると、傍から見れば渚くんは誰もいないところに向かって話しかけている、ちょっと怪しい人になってしまう。

「ごめんね。夕飯に引き続き朝ごはんも、ってなると、さすがに変に思われちゃうからさ」

そう言う渚くんに、僕は慌てて首を振った。

「んーん、メロンパン好きだから嬉しいよ。ありがとう、渚くん」

そう言って、もうひとくちかじる。表面のさくっとした甘い生地が歯の先で崩れて、中のふわふわしたパンがじんわりバターの風味を広げた。

渚くんは、その様子を見てふっと目を細めた。

それだけで、また胸が落ち着かなくなる。
昨日からずっとそうだ。渚くんが目の前で笑うだけで、現実のはずなのに、どこか夢みたいな気分になってしまう。嬉しいのに、不安で、その二つがいっぺんに込み上げてくる感じだった。

「真尋は、昔からメロンパン好きだよね」

「う……うん」

片手にはメロンパン。
もう片方の手は、向かい合った渚くんが握ってくれている。

「じゃ、行こっか」

そう声をかけられて、僕たちは手を繋いだまま学校へ向かった。

同じ制服を着た生徒たちの流れの中を、渚くんと並んで歩く。
しかも、手を繋いだまま。

その事実を改めて意識すると、自分の置かれている状況があまりにも現実離れしていて、ちょっとくらくらする。

呑気だな、と自分でも思う。

誰からも見えなくなってしまったという、とんでもなく大きな不安は、もちろんまだ消えていない。消えていないのに、今この瞬間だけは、それよりも渚くんと急に縮まってしまった距離の方が、僕の頭の中を埋め尽くしていた。

こんなこと、渚くんに伝えたら呆れられてしまうかな、とも思う。
でも、これまでどんなに伝えたくても、喋りたくても、渚くんは僕を見てくれなかったし、僕の声を聞いてくれなかった。そう思うと、今の状況に甘えたくなってしまう。

「渚くんがいてくれてよかった」

そう言うと、渚くんは言葉では答えない。
ただ、僕の手を握る力をわずかに強めた。聞こえてるよ、って意味だ。

それに安心した途端、するすると言葉が出てきてしまう。渚くんは周りの目があるせいで言葉で返せないから、ずっと僕のターンだ。そのことが余計に、僕を饒舌にさせているのかもしれない。

「呑気って思われるかもしれないけど……また、こんなふうに渚くんと話せてうれしい。高校生にもなって、手を繋ぐなんて思ってなかったから、照れるけど」

そこで、くん、と手を引かれて僕は顔を上げた。

気づくと、渚くんがもう片方の手でスマートフォンを握っている。
画面には、『嫌だ?』と打ち込まれていた。

僕は慌てて首を振る。

「い、嫌なわけないよ! うれしい!」

そう言ってから、自分の言葉の意味に気づいて、また顔が熱くなる。

「あ……いや、うれしいっていうのは、その……」

言い訳が思いつかなくなって、しどろもどろになる。
渚くんがふっと僕から視線を外した。

気持ち悪いって思われたかもしれない。
そう焦っていると、また渚くんがスマホに文字を打ち込んで見せてくる。

『俺も、嬉しいよ』

「――へっ!」

間抜けな声が出てしまった。

僕の姿も声も、ほかの人には見えていないことに、この時ばかりは感謝した。

『ごめん、真尋が大変な時に、嬉しいとか』

気のせいか、視線を泳がせた渚くんの頬が少し赤い。
ただ単純に、友達同士でこんな会話をするだけでも気恥ずかしいから――そう思う反面、僕の側にはまぎれもなく下心みたいなものがあるせいで、違う意味まで想像しそうになってしまう。

慌てて、それを打ち消すみたいにぶんぶんと首を振った。

「なんか、夢の中にいるみたい」

やっぱりこれは、なんだか僕に都合のいい夢なんじゃないか、という気がしてしまう。

こんなふうにまた渚くんと並んで、言葉を交わせていること自体、あまりにも現実味がなかった。

だから、もしこれが夢なら、覚めないうちにどっぷり浸かっておきたい気分だった。

「こうなる前の渚くんには、僕が見えてないみたいだったから。変な話だけど、今の方が渚くんに見てもらえてるって感じがする……それが、僕はすごくうれしい」

少し嫌味っぽくなったかな、と思って、冗談めかすように苦笑してみせる。
すると、隣の渚くんが小さく息を呑んだ。

「真尋……それは……」

思わず、というふうに口を開いた渚くん。
でも、その肩をぽん、と誰かが叩いて、言葉はそこで止まってしまった。

「渚ー! おはよ!」

同じクラスのバスケ部の男子だ。
よく渚くんと一緒にいる。僕はほとんど話したことがないけれど、背が高くて、いつも溌剌としている印象のある人。

そのまま彼は渚くんの隣に並んで、今日の部活がどうとか、昨日のテレビ番組がどうとか、そんな話を始める。

彼には、もちろん僕が見えていない。

僕は、渚くんと彼の会話を少し外側からぼんやり眺めた。
これまでと何も変わらない風景。なのに、そのすぐ横で、誰にも見えない場所で、僕と渚くんはしっかり手を繋いでいる。

その、秘密を共有しているみたいな感覚が、こんな状況なのに、また僕の胸を高鳴らせてしまっていた。