◇
人がいちばん記憶に残すのは、匂いだと何かで聞いたことがある。
変な言い方だけど、数年ぶりに入った渚くんの部屋は、ちゃんと渚くんの部屋の匂いがした。洗い立ての服みたいな清潔な匂いと、少しだけ柔軟剤みたいな甘さの混じった、昔から知っているのに今は妙に意識してしまう匂い。
つまり、すごく緊張する。
昔はもっと気軽に出入りしていたはずなのに、今の僕はベッドの手前に置かれたローテーブルの脇で、行儀よく正座なんてしてしまっている。膝の上に置いた手のひらはじっとり汗ばんでいて、落ち着かない。
しばらくして、渚くんが部屋に戻ってきた。
手にはお盆を持っている。
その瞬間、ふわっといい匂いが広がった。
そういえばずっと何も食べていなかったことを思い出したみたいに、急にお腹のあたりが空っぽになる。
渚くんは、僕の姿が見えていないせいか、少し慎重な足取りでローテーブルに近づいてきた。お盆をそっとテーブルに置いてから、僕と向かい合う位置のクッションへ腰を下ろす。
「真尋?」
ためらうみたいに、でも確認するように名前を呼ばれる。
「いるよ」
そう返しながら、僕は少しだけ躊躇って、それでもテーブルの上に出ていた渚くんの手にそっと触れた。
「夕飯、ハンバーグだったよ」
渚くんはそう言って、お皿の方へ目を落とした。
無意識なんだと思う。もう僕の姿が見えているから、必要があるわけでもないのに、触れた僕の手をそのまま軽く握り返している。
そのせいで、僕はひどく落ち着かなかった。
顔が熱くなるのを誤魔化すように、「おいしそう」と少し弾んだ声を出す。
「部屋で食べたいなんて、おばさんに変に思われなかった?」
「ちょっと不審がられた。でも、食べながら考え事したいって言ったら、まあ納得したっぽかったよ……はい、お箸」
そう言って、渚くんは僕の前に箸を差し出してくれる。
ハンバーグは皿にふたつ。
ご飯と味噌汁は、怪しまれないように少し多めに盛られた一人分だ。
少し悪いな、と思う。
でも、空腹だったのも本当で、僕は遠慮せずに渚くんの差し出した箸へ手を伸ばした。
――カランッ。
乾いた音がテーブルの上に落ちた。
「え……」
僕と渚くんの声が、ほとんど同時に漏れる。
箸が、掴めない。
「あ、あれ……なんでだろ……」
焦りながら、でも動揺を隠したくて、無理やり笑ったままもう一度手を伸ばす。
テーブルに落ちた箸に触れようとする。けれど、だめだった。
何度やっても、僕の手は箸をすり抜けてしまう。
「ごめん、ちょっと待って……なんか、集中したらできるとかかも……」
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、もう一度試す。
でも、やっぱりだめだった。
指先が空を切るたびに、胸の奥がじわじわ冷えていく。
こんなことまでできなくなっているんだと思ったら、急に息が詰まった。
そんな僕に気づいたのか、渚くんが静かに身を乗り出し、テーブルに落ちた箸を拾い上げる。
「真尋……」
「ご、ごめんね……せっかく用意してくれたのに」
申し訳なさで、ほとんど泣きそうになりながらそう言うと、渚くんは「いいよ」と短く首を振った。
それから、箸でハンバーグを小さく切り分け、そのひとつを摘まみ上げる。
「はい」
「…………えっ?」
渚くんは、そのハンバーグを僕の口元へ差し出していた。
「食べさせてあげるよ。はい、あーん」
「へぇっ!?」
思わず変な声が出る。
渚くんはどこか平然としていた。
たぶん、ただ困っている僕を助けようとしているだけなんだと思う。優しいから、自然にそうしてくれているだけだ。
でも、僕にとっては全然そんな簡単な話じゃなかった。
だって今、僕たちはテーブル越しに片手を繋いでいて、そのうえで「あーん」だなんて。
そんなの、まるで――こ、恋人みたいだ!
「食べないの?」
「た、食べる!」
半分反射でそう答えて、僕は差し出されたハンバーグにぱくりとかじりついた。
渚くんのお母さんは料理が上手だ。
きっと、今日のハンバーグもちゃんとおいしいんだと思う。
でも、味なんてほとんどわからなかった。
それどころじゃないくらい、緊張していたからだ。
それでも僕は、どうにかこの恥ずかしさと胸の高鳴りを誤魔化したくて、飲み込んでから無理やり笑う。
「……おいしいね」
そう言うと、渚くんは「でしょ」と短く返した。
それから、ゆっくりと、ほんの少しだけ口角を上げて笑う。
僕に向かって、渚くんが笑った。
たぶん、それはものすごく久しぶりのことだ。
あまりに不意打ちで、僕はその場で固まってしまう。
少し遅れて、今度は別の意味で息が詰まった。
泣きそうになる。そんなの絶対に気づかれたくなくて、僕は慌てて俯き、ぐっと唇を噛んでやり過ごした。
もしかして、これ、夢なんじゃないだろうか。
そんなことまで考えてしまうくらいには、今の僕には出来すぎた出来事だった。
「何か法則があるのかな……」
夕食を食べ終えて、食器を片づけたあとも、僕たちは相変わらず手を繋いだままだった。
クッションに横並びで座って、少しだけ落ち着いたころ、渚くんが考え込むみたいにぽつりと呟く。
「法則?」
「うん」
僕が聞き返すと、渚くんはテーブルの端に置いてあったノートを引き寄せた。
空白のページを開いて、シャーペンを走らせる。
『できたこと』
『できなかったこと』
そう横並びに書いて、そのあいだへ一本、まっすぐ線を引く。
「まず、真尋は自分の家のドアは開けられた」
そう言いながら、渚くんは「できたこと」の下に、自分の家に入る、と書きつけた。
「うん。今朝は普通に部屋で起きて、歯磨きとかもして……だから、しばらく自分が見えてないってことにも気づかなかったんだ」
僕がそう言うと、渚くんは小さく頷く。
「だけど、さっき俺の部屋のドアは開けられなかったよね。それから、うちの箸も掴めなかった」
「うん……」
もう一度頷くと、渚くんは今度は「できなかったこと」の方に、その内容を書き足していく。
それから、シャーペンの先を止めたまま、少しノートを見つめていた。
「これってさ」
やがて、考えを確かめるみたいに口を開く。
「真尋が、自分のものとして認識してるかどうか、なんじゃないかな」
「え?」
「つまり、自分の家は真尋にとって自分のものだから、普通に触れる。でも俺の家は、真尋にとっては自分のものじゃないだろ?」
「あ、な、なるほど……」
たしかに、そう言われると筋が通っている気がする。
さっきから渚くんのノートにも何度か手を伸ばしてみていたけれど、やっぱり指先は紙に触れられなかった。
「あ、でも、学校は平気だったよ? トイレのドアとか……」
「うーん……もしかしたらそれは、自分の活動場所だから、とかかな。だとすると、自分のものかどうかっていうより、人のものって認識してると触れない、なのかも」
呟きながら、渚くんはまた「できたこと」の側に学校と書き足した。
その文字を見ていた時、ふいに別のことが頭に浮かぶ。
「あ、そっか……だから、お守り……」
思わず漏れた声に、渚くんが顔を上げた。
「あのさ、僕の荷物って、渚くんも手を離したら見えないでしょ?」
僕は学校の鞄を今も持ち歩いているけれど、みんなに僕が見えないなら、鞄だけが宙に浮いて見える、なんてことになってしまう。でも実際はそうなっていない。ということは、鞄も僕と一緒に見えなくなっているはずだ。
渚くんは、僕の言葉の意味を確かめるみたいに少しだけ考えてから、「うん」と頷いた。
「でも、お守りを……渚くんに渡すことはできた」
テーブルの隅に置かれたそれへ僕が視線を向けると、渚くんもまた同じように目を向けた。
「うん」
短く返してから、渚くんはそのお守りをじっと見る。
「真尋が俺に渡して、自分のものじゃなくなったから……?」
「……そう、だと思う」
そう言いながら、僕はそのお守りへ手を伸ばした。
渡す前までは、たしかに自分で握れていたはずなのに。
今はもう、指先がそれに触れられない。
すり抜けるみたいに、届かない。
渚くんはそれを確かめると、ノートの「できたこと」の側にお守りと書き、その文字から矢印を引いて、「できなかったこと」の側へまっすぐ伸ばした。
「それから、いるってこと自体には条件がないみたいだね」
「……ん?」
言われた意味がすぐにはわからなくて、僕は小さく首を傾げる。
「つまり、自分から持つとか、触るとか、人のものだって認識してるものには干渉できない。でも真尋は俺の部屋にいること自体はできてる。ここマンションだし、それすら無理なら、床に立てないとか、変なことになってるはずでしょ?」
「あー……! そっか、たしかに」
渚くんのおかげで、かなり状況が整理されてきた。
僕は人のものには触れない。
でも、人の空間にいることはできる。
それから、僕が持っているものや、僕自身の姿は、ほかの人からは見えない。
「……でも、渚くんと手を繋ぐと、渚くんにだけ僕は見える」
ノートに書かれた文字を順に目で追ってから、僕はそう結論みたいに口にした。
その言葉の後で、渚くんが僕の手を握る力がほんの少しだけ強くなった気がしたけど、気のせいかもしれない。
「手……だけなのかな?」
「うん?」
渚くんの呟きに僕は顔を上げた。渚くんがこっちを見ていたせいで間近で目があって、僕は思わず視線を泳がせた。
「手を繋ぐっていうより、触れてること自体が条件なのかも」
「触れ……てる……」
「うん」
渚くんが頷く。
それから、体を少しだけ僕の方へ向け直した。
「真尋さ……」
「うん?」
どうにか気持ちを落ち着けて、僕は渚くんの顔を見上げる。
「ちょっと、触ってみて。手以外のところ」
「…………へっ? えっ、えぇっ?!」
やっと少し落ち着いてきたところだったのに、そんなことを言われて、一気に顔が熱くなる。
「さ、さわっ……触る?!」
違う、落ち着け。
渚くんは別に変な意味で言ってるわけじゃない。状況を確かめるために必要だから言ってるだけだ。そう自分に何度も言い聞かせるのに、変な声が出てしまって、もうそれだけで恥ずかしすぎる。
そんな僕をよそに、渚くんは少しだけ距離を詰めてきた。片手だけ繋いでいたはずなのに、向かい合ったまま、もう片方の手まで取られる。
「触るって……ど、どこ……とか?」
今の言い方気持ち悪かったな、と自分でも思った。だけど、言葉はもう戻ってこない。
幸い、渚くんは気にした様子もなく、僕の手を握ったままだった。
「ほっぺとか」
そう言って、両手ごと引き寄せられる。
次の瞬間、僕の手のひらは渚くんの頬に当てられていた。
ほっぺって言い方かわいいな。
バクバクと心臓を鳴らしながらも、ちょっと呑気に、そんなことを思ってしまう。
触れた頬は、思っていたより柔らかい。
その上から渚くんの手のひらが重なって、僕の手が離れないようにそっと押さえている。
向かい合ったまま、しばらく僕はどうしていいかわからなかった。
目の前にある渚くんの顔があまりにも整いすぎていて、うっかり見惚れてしまう。
「手、離してみるね?」
その声で、ようやく本来の目的を思い出す。
「う、うん」
僕は慌てて頷いた。
渚くんの手のひらが、僕の手のひらからゆっくり離れていく。
でも、渚くんの視線はまっすぐ僕を捉えたままだった。
「み、見えてる……?」
「うん、見えてる」
渚くんが頷く。
「あ、てことは……手を握るのが条件じゃなくて、渚くんに触ってるっていうことが条件?」
「そうだね」
また渚くんが頷いた。
そこで、なぜだかふたりとも言葉が途切れてしまう。
妙な間が落ちて、なんとなく同時に視線を逸らした。
渚くんの頬から手を離したら、また僕が見えなくなってしまう。
そう思ったのか、渚くんはすぐに僕の手を取り直してくれた。
「思ったんだけどさ、ちょっといい案がある」
その言葉に、僕は熱くなっていた顔を上げる。
「手紙はどうかな?」
「手紙?」
首を傾げると、渚くんは「うん」と頷いた。
「荷物の中に、真尋のノートあるでしょ?」
「あ……」
渚くんが指さした僕の鞄に目を向けて、僕ははっとする。
僕は、自分の荷物には触れられる。
そして、それを誰かに渡したら、その相手には見えるようになる。
「手紙を書くんだよ。それを俺が預かって、おばさんに渡す」
「す、すごい! 渚くん! それなら、きっと母さんに僕の言葉が伝えられる!」
つい興奮して、僕は両手で渚くんの手をぎゅっと握ってしまった。
渚くんが少しだけ身を引いて、驚いたように目を見開く。
そこで僕はようやく我に返った。
「ご、ごめん」
おずおずと、乗り出していた体を引く。
とにかく、手紙を書いてみよう。
僕は自分の鞄からノートを取り出して、空白のページをテーブルの上に開いた。
それからペンケースからシャーペンを取り出す。
母さんに手紙なんて、小学校の低学年のころ、母の日に書いて以来かもしれない。
何て書けばいいのか、すぐには思いつかないまま、僕はシャーペンの先をノートの上にちょこんと置いた。
けれど、そこでふいに手が止まる。
書きたいことがないわけじゃない。
「僕からの手紙、受け取って……母さん、どんなふうに思うかなぁ?」
「え?」
渚くんが首を傾げて、僕の顔を覗き込む。
「手紙を渡せたとしても、母さんには僕の姿が見えないよね。見えないけど、僕はここにいるよって伝えるの……母さん、それを信じるかな。なんだかわけのわからないことになって、余計に混乱させたり、悲しませたりすることにならないかな」
言いながら、自分でもだんだん不安になってくる。
渚くんは少し俯いたまま、黙ってしまった。
「ご、ごめん! 渚くんがせっかく僕のために考えてくれたのに!」
「いや……」
慌てた僕の言葉を、渚くんが静かに遮る。
「たしかに、真尋の言う通りだと思う」
少し考えるように間を置いてから、渚くんは続けた。
「手紙は、本当に最終手段にした方がいいかも。今は、真尋の姿がみんなにも見えるようになる方法を探す方が先だよね」
「見えるように……なる方法……」
そんなもの、本当にあるんだろうか。
不安がそのまま言葉になりそうになって、僕は思わず口をつぐむ。
けれど、そんな僕の様子を察したのか、渚くんは「真尋……」と、優しく名前を呼んだ。
そして少しだけ体をずらして、僕の方へ向き直る。
「大丈夫。俺には今、ちゃんと真尋が見えてる。だから、きっと他の人にも見えるようになる条件があるよ」
「そ、そうかなぁ……」
「うん、ある。きっと。だから、一緒に考えよ」
「一緒……に……」
その言葉を、僕は胸の中でそっと繰り返した。
繋がれたままの手を、ゆっくり見下ろす。
渚くんの手は、僕の手を包むみたいに触れていて、その力は強すぎないのに、簡単にはほどけそうにない。ためらいながら握り返すと、渚くんもまた、わずかに応えるみたいに指先へ力を返してくれた。
不安でたまらない。
この先どうなるのかも、どうすれば元に戻れるのかも、何ひとつわからない。
それでも、今こうして渚くんの手から伝わってくる体温だけが、ばらばらになりそうな僕の気持ちを、ほんの少しだけ落ち着かせてくれていた。
人がいちばん記憶に残すのは、匂いだと何かで聞いたことがある。
変な言い方だけど、数年ぶりに入った渚くんの部屋は、ちゃんと渚くんの部屋の匂いがした。洗い立ての服みたいな清潔な匂いと、少しだけ柔軟剤みたいな甘さの混じった、昔から知っているのに今は妙に意識してしまう匂い。
つまり、すごく緊張する。
昔はもっと気軽に出入りしていたはずなのに、今の僕はベッドの手前に置かれたローテーブルの脇で、行儀よく正座なんてしてしまっている。膝の上に置いた手のひらはじっとり汗ばんでいて、落ち着かない。
しばらくして、渚くんが部屋に戻ってきた。
手にはお盆を持っている。
その瞬間、ふわっといい匂いが広がった。
そういえばずっと何も食べていなかったことを思い出したみたいに、急にお腹のあたりが空っぽになる。
渚くんは、僕の姿が見えていないせいか、少し慎重な足取りでローテーブルに近づいてきた。お盆をそっとテーブルに置いてから、僕と向かい合う位置のクッションへ腰を下ろす。
「真尋?」
ためらうみたいに、でも確認するように名前を呼ばれる。
「いるよ」
そう返しながら、僕は少しだけ躊躇って、それでもテーブルの上に出ていた渚くんの手にそっと触れた。
「夕飯、ハンバーグだったよ」
渚くんはそう言って、お皿の方へ目を落とした。
無意識なんだと思う。もう僕の姿が見えているから、必要があるわけでもないのに、触れた僕の手をそのまま軽く握り返している。
そのせいで、僕はひどく落ち着かなかった。
顔が熱くなるのを誤魔化すように、「おいしそう」と少し弾んだ声を出す。
「部屋で食べたいなんて、おばさんに変に思われなかった?」
「ちょっと不審がられた。でも、食べながら考え事したいって言ったら、まあ納得したっぽかったよ……はい、お箸」
そう言って、渚くんは僕の前に箸を差し出してくれる。
ハンバーグは皿にふたつ。
ご飯と味噌汁は、怪しまれないように少し多めに盛られた一人分だ。
少し悪いな、と思う。
でも、空腹だったのも本当で、僕は遠慮せずに渚くんの差し出した箸へ手を伸ばした。
――カランッ。
乾いた音がテーブルの上に落ちた。
「え……」
僕と渚くんの声が、ほとんど同時に漏れる。
箸が、掴めない。
「あ、あれ……なんでだろ……」
焦りながら、でも動揺を隠したくて、無理やり笑ったままもう一度手を伸ばす。
テーブルに落ちた箸に触れようとする。けれど、だめだった。
何度やっても、僕の手は箸をすり抜けてしまう。
「ごめん、ちょっと待って……なんか、集中したらできるとかかも……」
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、もう一度試す。
でも、やっぱりだめだった。
指先が空を切るたびに、胸の奥がじわじわ冷えていく。
こんなことまでできなくなっているんだと思ったら、急に息が詰まった。
そんな僕に気づいたのか、渚くんが静かに身を乗り出し、テーブルに落ちた箸を拾い上げる。
「真尋……」
「ご、ごめんね……せっかく用意してくれたのに」
申し訳なさで、ほとんど泣きそうになりながらそう言うと、渚くんは「いいよ」と短く首を振った。
それから、箸でハンバーグを小さく切り分け、そのひとつを摘まみ上げる。
「はい」
「…………えっ?」
渚くんは、そのハンバーグを僕の口元へ差し出していた。
「食べさせてあげるよ。はい、あーん」
「へぇっ!?」
思わず変な声が出る。
渚くんはどこか平然としていた。
たぶん、ただ困っている僕を助けようとしているだけなんだと思う。優しいから、自然にそうしてくれているだけだ。
でも、僕にとっては全然そんな簡単な話じゃなかった。
だって今、僕たちはテーブル越しに片手を繋いでいて、そのうえで「あーん」だなんて。
そんなの、まるで――こ、恋人みたいだ!
「食べないの?」
「た、食べる!」
半分反射でそう答えて、僕は差し出されたハンバーグにぱくりとかじりついた。
渚くんのお母さんは料理が上手だ。
きっと、今日のハンバーグもちゃんとおいしいんだと思う。
でも、味なんてほとんどわからなかった。
それどころじゃないくらい、緊張していたからだ。
それでも僕は、どうにかこの恥ずかしさと胸の高鳴りを誤魔化したくて、飲み込んでから無理やり笑う。
「……おいしいね」
そう言うと、渚くんは「でしょ」と短く返した。
それから、ゆっくりと、ほんの少しだけ口角を上げて笑う。
僕に向かって、渚くんが笑った。
たぶん、それはものすごく久しぶりのことだ。
あまりに不意打ちで、僕はその場で固まってしまう。
少し遅れて、今度は別の意味で息が詰まった。
泣きそうになる。そんなの絶対に気づかれたくなくて、僕は慌てて俯き、ぐっと唇を噛んでやり過ごした。
もしかして、これ、夢なんじゃないだろうか。
そんなことまで考えてしまうくらいには、今の僕には出来すぎた出来事だった。
「何か法則があるのかな……」
夕食を食べ終えて、食器を片づけたあとも、僕たちは相変わらず手を繋いだままだった。
クッションに横並びで座って、少しだけ落ち着いたころ、渚くんが考え込むみたいにぽつりと呟く。
「法則?」
「うん」
僕が聞き返すと、渚くんはテーブルの端に置いてあったノートを引き寄せた。
空白のページを開いて、シャーペンを走らせる。
『できたこと』
『できなかったこと』
そう横並びに書いて、そのあいだへ一本、まっすぐ線を引く。
「まず、真尋は自分の家のドアは開けられた」
そう言いながら、渚くんは「できたこと」の下に、自分の家に入る、と書きつけた。
「うん。今朝は普通に部屋で起きて、歯磨きとかもして……だから、しばらく自分が見えてないってことにも気づかなかったんだ」
僕がそう言うと、渚くんは小さく頷く。
「だけど、さっき俺の部屋のドアは開けられなかったよね。それから、うちの箸も掴めなかった」
「うん……」
もう一度頷くと、渚くんは今度は「できなかったこと」の方に、その内容を書き足していく。
それから、シャーペンの先を止めたまま、少しノートを見つめていた。
「これってさ」
やがて、考えを確かめるみたいに口を開く。
「真尋が、自分のものとして認識してるかどうか、なんじゃないかな」
「え?」
「つまり、自分の家は真尋にとって自分のものだから、普通に触れる。でも俺の家は、真尋にとっては自分のものじゃないだろ?」
「あ、な、なるほど……」
たしかに、そう言われると筋が通っている気がする。
さっきから渚くんのノートにも何度か手を伸ばしてみていたけれど、やっぱり指先は紙に触れられなかった。
「あ、でも、学校は平気だったよ? トイレのドアとか……」
「うーん……もしかしたらそれは、自分の活動場所だから、とかかな。だとすると、自分のものかどうかっていうより、人のものって認識してると触れない、なのかも」
呟きながら、渚くんはまた「できたこと」の側に学校と書き足した。
その文字を見ていた時、ふいに別のことが頭に浮かぶ。
「あ、そっか……だから、お守り……」
思わず漏れた声に、渚くんが顔を上げた。
「あのさ、僕の荷物って、渚くんも手を離したら見えないでしょ?」
僕は学校の鞄を今も持ち歩いているけれど、みんなに僕が見えないなら、鞄だけが宙に浮いて見える、なんてことになってしまう。でも実際はそうなっていない。ということは、鞄も僕と一緒に見えなくなっているはずだ。
渚くんは、僕の言葉の意味を確かめるみたいに少しだけ考えてから、「うん」と頷いた。
「でも、お守りを……渚くんに渡すことはできた」
テーブルの隅に置かれたそれへ僕が視線を向けると、渚くんもまた同じように目を向けた。
「うん」
短く返してから、渚くんはそのお守りをじっと見る。
「真尋が俺に渡して、自分のものじゃなくなったから……?」
「……そう、だと思う」
そう言いながら、僕はそのお守りへ手を伸ばした。
渡す前までは、たしかに自分で握れていたはずなのに。
今はもう、指先がそれに触れられない。
すり抜けるみたいに、届かない。
渚くんはそれを確かめると、ノートの「できたこと」の側にお守りと書き、その文字から矢印を引いて、「できなかったこと」の側へまっすぐ伸ばした。
「それから、いるってこと自体には条件がないみたいだね」
「……ん?」
言われた意味がすぐにはわからなくて、僕は小さく首を傾げる。
「つまり、自分から持つとか、触るとか、人のものだって認識してるものには干渉できない。でも真尋は俺の部屋にいること自体はできてる。ここマンションだし、それすら無理なら、床に立てないとか、変なことになってるはずでしょ?」
「あー……! そっか、たしかに」
渚くんのおかげで、かなり状況が整理されてきた。
僕は人のものには触れない。
でも、人の空間にいることはできる。
それから、僕が持っているものや、僕自身の姿は、ほかの人からは見えない。
「……でも、渚くんと手を繋ぐと、渚くんにだけ僕は見える」
ノートに書かれた文字を順に目で追ってから、僕はそう結論みたいに口にした。
その言葉の後で、渚くんが僕の手を握る力がほんの少しだけ強くなった気がしたけど、気のせいかもしれない。
「手……だけなのかな?」
「うん?」
渚くんの呟きに僕は顔を上げた。渚くんがこっちを見ていたせいで間近で目があって、僕は思わず視線を泳がせた。
「手を繋ぐっていうより、触れてること自体が条件なのかも」
「触れ……てる……」
「うん」
渚くんが頷く。
それから、体を少しだけ僕の方へ向け直した。
「真尋さ……」
「うん?」
どうにか気持ちを落ち着けて、僕は渚くんの顔を見上げる。
「ちょっと、触ってみて。手以外のところ」
「…………へっ? えっ、えぇっ?!」
やっと少し落ち着いてきたところだったのに、そんなことを言われて、一気に顔が熱くなる。
「さ、さわっ……触る?!」
違う、落ち着け。
渚くんは別に変な意味で言ってるわけじゃない。状況を確かめるために必要だから言ってるだけだ。そう自分に何度も言い聞かせるのに、変な声が出てしまって、もうそれだけで恥ずかしすぎる。
そんな僕をよそに、渚くんは少しだけ距離を詰めてきた。片手だけ繋いでいたはずなのに、向かい合ったまま、もう片方の手まで取られる。
「触るって……ど、どこ……とか?」
今の言い方気持ち悪かったな、と自分でも思った。だけど、言葉はもう戻ってこない。
幸い、渚くんは気にした様子もなく、僕の手を握ったままだった。
「ほっぺとか」
そう言って、両手ごと引き寄せられる。
次の瞬間、僕の手のひらは渚くんの頬に当てられていた。
ほっぺって言い方かわいいな。
バクバクと心臓を鳴らしながらも、ちょっと呑気に、そんなことを思ってしまう。
触れた頬は、思っていたより柔らかい。
その上から渚くんの手のひらが重なって、僕の手が離れないようにそっと押さえている。
向かい合ったまま、しばらく僕はどうしていいかわからなかった。
目の前にある渚くんの顔があまりにも整いすぎていて、うっかり見惚れてしまう。
「手、離してみるね?」
その声で、ようやく本来の目的を思い出す。
「う、うん」
僕は慌てて頷いた。
渚くんの手のひらが、僕の手のひらからゆっくり離れていく。
でも、渚くんの視線はまっすぐ僕を捉えたままだった。
「み、見えてる……?」
「うん、見えてる」
渚くんが頷く。
「あ、てことは……手を握るのが条件じゃなくて、渚くんに触ってるっていうことが条件?」
「そうだね」
また渚くんが頷いた。
そこで、なぜだかふたりとも言葉が途切れてしまう。
妙な間が落ちて、なんとなく同時に視線を逸らした。
渚くんの頬から手を離したら、また僕が見えなくなってしまう。
そう思ったのか、渚くんはすぐに僕の手を取り直してくれた。
「思ったんだけどさ、ちょっといい案がある」
その言葉に、僕は熱くなっていた顔を上げる。
「手紙はどうかな?」
「手紙?」
首を傾げると、渚くんは「うん」と頷いた。
「荷物の中に、真尋のノートあるでしょ?」
「あ……」
渚くんが指さした僕の鞄に目を向けて、僕ははっとする。
僕は、自分の荷物には触れられる。
そして、それを誰かに渡したら、その相手には見えるようになる。
「手紙を書くんだよ。それを俺が預かって、おばさんに渡す」
「す、すごい! 渚くん! それなら、きっと母さんに僕の言葉が伝えられる!」
つい興奮して、僕は両手で渚くんの手をぎゅっと握ってしまった。
渚くんが少しだけ身を引いて、驚いたように目を見開く。
そこで僕はようやく我に返った。
「ご、ごめん」
おずおずと、乗り出していた体を引く。
とにかく、手紙を書いてみよう。
僕は自分の鞄からノートを取り出して、空白のページをテーブルの上に開いた。
それからペンケースからシャーペンを取り出す。
母さんに手紙なんて、小学校の低学年のころ、母の日に書いて以来かもしれない。
何て書けばいいのか、すぐには思いつかないまま、僕はシャーペンの先をノートの上にちょこんと置いた。
けれど、そこでふいに手が止まる。
書きたいことがないわけじゃない。
「僕からの手紙、受け取って……母さん、どんなふうに思うかなぁ?」
「え?」
渚くんが首を傾げて、僕の顔を覗き込む。
「手紙を渡せたとしても、母さんには僕の姿が見えないよね。見えないけど、僕はここにいるよって伝えるの……母さん、それを信じるかな。なんだかわけのわからないことになって、余計に混乱させたり、悲しませたりすることにならないかな」
言いながら、自分でもだんだん不安になってくる。
渚くんは少し俯いたまま、黙ってしまった。
「ご、ごめん! 渚くんがせっかく僕のために考えてくれたのに!」
「いや……」
慌てた僕の言葉を、渚くんが静かに遮る。
「たしかに、真尋の言う通りだと思う」
少し考えるように間を置いてから、渚くんは続けた。
「手紙は、本当に最終手段にした方がいいかも。今は、真尋の姿がみんなにも見えるようになる方法を探す方が先だよね」
「見えるように……なる方法……」
そんなもの、本当にあるんだろうか。
不安がそのまま言葉になりそうになって、僕は思わず口をつぐむ。
けれど、そんな僕の様子を察したのか、渚くんは「真尋……」と、優しく名前を呼んだ。
そして少しだけ体をずらして、僕の方へ向き直る。
「大丈夫。俺には今、ちゃんと真尋が見えてる。だから、きっと他の人にも見えるようになる条件があるよ」
「そ、そうかなぁ……」
「うん、ある。きっと。だから、一緒に考えよ」
「一緒……に……」
その言葉を、僕は胸の中でそっと繰り返した。
繋がれたままの手を、ゆっくり見下ろす。
渚くんの手は、僕の手を包むみたいに触れていて、その力は強すぎないのに、簡単にはほどけそうにない。ためらいながら握り返すと、渚くんもまた、わずかに応えるみたいに指先へ力を返してくれた。
不安でたまらない。
この先どうなるのかも、どうすれば元に戻れるのかも、何ひとつわからない。
それでも、今こうして渚くんの手から伝わってくる体温だけが、ばらばらになりそうな僕の気持ちを、ほんの少しだけ落ち着かせてくれていた。


