◇
渚くんと僕は、同じマンションに住んでいる。
渚くんの家が二階で、僕の家は六階だ。
だから、親同士も顔見知りだし、僕たちは小さい頃から、よくお互いの家を行き来していた。
エレベーターに乗り込むと、ちょうど帰宅してきたらしい別の階の住人が乗り合わせた。
その人は渚くんに気づいて、軽く会釈をする。
僕もつられて「こんばんは」と声をかけてみたけれど、やっぱりその人は僕の方を見ない。
見えていないのだと思うと、もう驚くより先に、胸の奥が少し冷たくなる。
そのまま六階で降りて、僕たちは家の前まで手を繋いだまま歩いた。
「押すよ?」
玄関の前で、渚くんが小さくそう言う。
僕が頷くと、渚くんはゆっくりインターホンへ指を伸ばした。
電子音が鳴った、そのすぐあとだった。
インターホン越しに応答が返るより先に、扉の向こうからばたばたと駆け寄ってくる足音がする。
次の瞬間、玄関の扉が勢いよく開いた。
「真尋!?」
飛び出してきたのは、必死な顔をした母さんだった。
僕が帰ってきたと思ったのかもしれない。
けれど、扉の前に立っていたのが渚くん一人だけだとわかった途端、その表情が目に見えてしぼんでいく。
「渚くん……こんばんは」
「こんばんは。突然すみません」
渚くんがそう返すと、母さんは自分の今の慌てぶりを少し恥じたみたいに、眉を下げてかすかに苦笑した。
「まだ、あの子戻らないのよ」
そう言いながら、母さんは中途半端に開いていた扉をさらに押し広げた。
外廊下で立ち話をさせるつもりはないらしく、そのまま渚くんを玄関の中へ促している。
渚くんは僕の手を引いたまま、一歩だけ中へ入った。
母さんは、そのまま上がっていくかと勧めるみたいにスリッパを揃える。けれど渚くんは軽く首を振って、
「すぐ帰るので」
と静かに言ったあと、ちらりと僕の方を見た。
さっき二人で話した、「母さんとも手を繋いでみよう」という提案のことを思い出す。
「ほんとにどこ行っちゃったのかしらね、あの子」
渚くんの前だからか、母さんは少しだけ気丈に振る舞うような口調だった。
僕は胸の前で組まれたその手に、そっと自分の手を伸ばす。
「俺も、さりげなくクラスのやつらに聞いてみたんですけど、誰かの家に泊まってるとかはなさそうでした……」
渚くんがそんなふうに場を繋いでくれている。
僕は渚くんと繋いでいた手を、ゆっくりと離した。
そのまま両手で母さんの手を包み込む。すぐ目の前まで顔を寄せて覗き込んでみるけれど、母さんは不安げに視線を落としたままだ。ちゃんと触れている。しっかり手を握っている。なのに、やっぱり僕のことは見えていないみたいだった。
僕は振り返って渚くんに首を振る。
けれど、渚くんは何の反応も返さない。
――そうだ。
僕は慌てて思い出す。渚くんも、触れていなければ僕が見えないのだ。
すぐに渚くんの手を掴み直す。
それからもう一度、だめだった、というように首を横に振ってみせた。
「気になって来てみたんですけど、何もいい話ができなくてすみません」
そう言って、渚くんは母さんに頭を下げる。
「そんな、いいのよ、渚くん。むしろありがとうね。いつもあの子のこと気にしてくれて」
母さんはそう言って、渚くんの肩にそっと手を置いた。
「あの子、ちょっと引っ込み思案なところがあるから。渚くんみたいな子に仲良くしてもらえて、本当によかったって思ってるわ」
「……はい……」
渚くんは少しだけ気まずそうに視線を伏せて、それから小さく頷いた。
会話はそれきりだった。
「じゃあまた、何かわかることがあれば連絡します」と渚くんが言い残し、僕たちはそのまま玄関の外へ出る。
扉から少し離れた廊下の端まで歩いて、そこでようやく渚くんが足を止めた。
手を繋いだまま、正面を見たままの姿勢で、
「……だめだった?」
と僕に尋ねる。
「うん……」
僕は頷いた。
「しっかり握ったけど、だめだった」
「そっか……」
渚くんはそう言ってから、考え込むように視線を落とした。
手を繋げば、母さんにも僕が見えるようになるかもしれない。
そんな不思議な法則に期待していたけれど、そう簡単にはいかなかった。この先どうすればいいんだろう、という気持ちと、僕はこのままどうなってしまうんだろう、という気持ちで、ただ途方に暮れる。
泣き出しそうになるのを堪えながら、僕は渚くんの横顔を窺った。
渚くんはまだ、何かを考え続けている。
「……ごめんね……」
そう声をかけると、渚くんが「え?」とようやく顔を上げた。
「こんな、よくわかんない状況に巻き込んで……迷惑かけて……」
僕にも解決方法なんてわからないし、渚くんにだってわかるはずがない。そんな中で、僕のことが見えるのが渚くんだけだなんて、あまりにも厄介だ。そう思うと、ひたすら申し訳なくなってくる。
「僕、一旦家に戻るね」
そう言いながら、繋いでいた手を離そうとした。
すると、渚くんがその手を握り返してきた。
「戻って、どうするの?」
「え……だって、僕の家だし」
「おばさんにも真尋が見えないんだよ?」
「そうだけど……」
改めて事実を突きつけられて、肩が落ちる。
「ごはんとか、どうするの。それに、誰にも声が聞こえないんじゃ……真尋、さみしいでしょ」
その言葉に、僕ははっとした。
思わず、繋いだ渚くんの手を強く握り返してしまう。
そうだ。
誰にも声が届かなくて、誰にも見てもらえない。
この状況は、本当に怖くてたまらないのだ。
僕のことが見えるのは、渚くんだけ。
それも、この手を離してしまえば、また見えなくなる。
そうしたら僕は、本当にどこにもいないみたいになってしまう。
だから、渚くんの言葉に、僕は思わず強く頷いてしまった。
「……さみしい……」
それが声になっていたのは、ほとんど無意識だった。
「うちに来なよ」
俯いていた僕の頭の上に、その声が落ちてくる。
それが渚くんの言葉だと理解するまで、ほんの数秒かかった。僕は遅れて顔を上げる。
「うちにいなよ、しばらく。解決方法が見つかるまで」
「でも……」
「どうせ、俺以外には見えないんだし、泊まり込んでも大丈夫だよ。それに、うちなら真尋の家も近いし、その方が安心なんじゃない?」
そう言いながら、渚くんはなぜか少し気まずそうに視線を逸らした。
「い、いいの……?」
おそるおそる尋ねると、渚くんは「いいよ」と頷く。
その提案は、ありがたかった。
とにかく今は不安で、僕のことが見える相手と一緒にいられるだけで、どれだけ心強いかわからない。
その一方で、こんな状況にはまるでそぐわない、よくない考えも浮かんでしまう。渚くんの家に行けること。渚くんと一緒に過ごせること。その事実に、胸が妙に高鳴ってしまった。
でも、そんなことは絶対に悟られたくない。
顔が熱くなっていくのを自覚しながら、僕はどうにか「ありがとう」とだけ言った。
それから、小さく付け足す。
「……うれしい」
そうして、繋いだままだった渚くんの手を、僕はもう一度そっと握り直した。
渚くんと僕は、同じマンションに住んでいる。
渚くんの家が二階で、僕の家は六階だ。
だから、親同士も顔見知りだし、僕たちは小さい頃から、よくお互いの家を行き来していた。
エレベーターに乗り込むと、ちょうど帰宅してきたらしい別の階の住人が乗り合わせた。
その人は渚くんに気づいて、軽く会釈をする。
僕もつられて「こんばんは」と声をかけてみたけれど、やっぱりその人は僕の方を見ない。
見えていないのだと思うと、もう驚くより先に、胸の奥が少し冷たくなる。
そのまま六階で降りて、僕たちは家の前まで手を繋いだまま歩いた。
「押すよ?」
玄関の前で、渚くんが小さくそう言う。
僕が頷くと、渚くんはゆっくりインターホンへ指を伸ばした。
電子音が鳴った、そのすぐあとだった。
インターホン越しに応答が返るより先に、扉の向こうからばたばたと駆け寄ってくる足音がする。
次の瞬間、玄関の扉が勢いよく開いた。
「真尋!?」
飛び出してきたのは、必死な顔をした母さんだった。
僕が帰ってきたと思ったのかもしれない。
けれど、扉の前に立っていたのが渚くん一人だけだとわかった途端、その表情が目に見えてしぼんでいく。
「渚くん……こんばんは」
「こんばんは。突然すみません」
渚くんがそう返すと、母さんは自分の今の慌てぶりを少し恥じたみたいに、眉を下げてかすかに苦笑した。
「まだ、あの子戻らないのよ」
そう言いながら、母さんは中途半端に開いていた扉をさらに押し広げた。
外廊下で立ち話をさせるつもりはないらしく、そのまま渚くんを玄関の中へ促している。
渚くんは僕の手を引いたまま、一歩だけ中へ入った。
母さんは、そのまま上がっていくかと勧めるみたいにスリッパを揃える。けれど渚くんは軽く首を振って、
「すぐ帰るので」
と静かに言ったあと、ちらりと僕の方を見た。
さっき二人で話した、「母さんとも手を繋いでみよう」という提案のことを思い出す。
「ほんとにどこ行っちゃったのかしらね、あの子」
渚くんの前だからか、母さんは少しだけ気丈に振る舞うような口調だった。
僕は胸の前で組まれたその手に、そっと自分の手を伸ばす。
「俺も、さりげなくクラスのやつらに聞いてみたんですけど、誰かの家に泊まってるとかはなさそうでした……」
渚くんがそんなふうに場を繋いでくれている。
僕は渚くんと繋いでいた手を、ゆっくりと離した。
そのまま両手で母さんの手を包み込む。すぐ目の前まで顔を寄せて覗き込んでみるけれど、母さんは不安げに視線を落としたままだ。ちゃんと触れている。しっかり手を握っている。なのに、やっぱり僕のことは見えていないみたいだった。
僕は振り返って渚くんに首を振る。
けれど、渚くんは何の反応も返さない。
――そうだ。
僕は慌てて思い出す。渚くんも、触れていなければ僕が見えないのだ。
すぐに渚くんの手を掴み直す。
それからもう一度、だめだった、というように首を横に振ってみせた。
「気になって来てみたんですけど、何もいい話ができなくてすみません」
そう言って、渚くんは母さんに頭を下げる。
「そんな、いいのよ、渚くん。むしろありがとうね。いつもあの子のこと気にしてくれて」
母さんはそう言って、渚くんの肩にそっと手を置いた。
「あの子、ちょっと引っ込み思案なところがあるから。渚くんみたいな子に仲良くしてもらえて、本当によかったって思ってるわ」
「……はい……」
渚くんは少しだけ気まずそうに視線を伏せて、それから小さく頷いた。
会話はそれきりだった。
「じゃあまた、何かわかることがあれば連絡します」と渚くんが言い残し、僕たちはそのまま玄関の外へ出る。
扉から少し離れた廊下の端まで歩いて、そこでようやく渚くんが足を止めた。
手を繋いだまま、正面を見たままの姿勢で、
「……だめだった?」
と僕に尋ねる。
「うん……」
僕は頷いた。
「しっかり握ったけど、だめだった」
「そっか……」
渚くんはそう言ってから、考え込むように視線を落とした。
手を繋げば、母さんにも僕が見えるようになるかもしれない。
そんな不思議な法則に期待していたけれど、そう簡単にはいかなかった。この先どうすればいいんだろう、という気持ちと、僕はこのままどうなってしまうんだろう、という気持ちで、ただ途方に暮れる。
泣き出しそうになるのを堪えながら、僕は渚くんの横顔を窺った。
渚くんはまだ、何かを考え続けている。
「……ごめんね……」
そう声をかけると、渚くんが「え?」とようやく顔を上げた。
「こんな、よくわかんない状況に巻き込んで……迷惑かけて……」
僕にも解決方法なんてわからないし、渚くんにだってわかるはずがない。そんな中で、僕のことが見えるのが渚くんだけだなんて、あまりにも厄介だ。そう思うと、ひたすら申し訳なくなってくる。
「僕、一旦家に戻るね」
そう言いながら、繋いでいた手を離そうとした。
すると、渚くんがその手を握り返してきた。
「戻って、どうするの?」
「え……だって、僕の家だし」
「おばさんにも真尋が見えないんだよ?」
「そうだけど……」
改めて事実を突きつけられて、肩が落ちる。
「ごはんとか、どうするの。それに、誰にも声が聞こえないんじゃ……真尋、さみしいでしょ」
その言葉に、僕ははっとした。
思わず、繋いだ渚くんの手を強く握り返してしまう。
そうだ。
誰にも声が届かなくて、誰にも見てもらえない。
この状況は、本当に怖くてたまらないのだ。
僕のことが見えるのは、渚くんだけ。
それも、この手を離してしまえば、また見えなくなる。
そうしたら僕は、本当にどこにもいないみたいになってしまう。
だから、渚くんの言葉に、僕は思わず強く頷いてしまった。
「……さみしい……」
それが声になっていたのは、ほとんど無意識だった。
「うちに来なよ」
俯いていた僕の頭の上に、その声が落ちてくる。
それが渚くんの言葉だと理解するまで、ほんの数秒かかった。僕は遅れて顔を上げる。
「うちにいなよ、しばらく。解決方法が見つかるまで」
「でも……」
「どうせ、俺以外には見えないんだし、泊まり込んでも大丈夫だよ。それに、うちなら真尋の家も近いし、その方が安心なんじゃない?」
そう言いながら、渚くんはなぜか少し気まずそうに視線を逸らした。
「い、いいの……?」
おそるおそる尋ねると、渚くんは「いいよ」と頷く。
その提案は、ありがたかった。
とにかく今は不安で、僕のことが見える相手と一緒にいられるだけで、どれだけ心強いかわからない。
その一方で、こんな状況にはまるでそぐわない、よくない考えも浮かんでしまう。渚くんの家に行けること。渚くんと一緒に過ごせること。その事実に、胸が妙に高鳴ってしまった。
でも、そんなことは絶対に悟られたくない。
顔が熱くなっていくのを自覚しながら、僕はどうにか「ありがとう」とだけ言った。
それから、小さく付け足す。
「……うれしい」
そうして、繋いだままだった渚くんの手を、僕はもう一度そっと握り直した。


