渚くんには僕が見えない



渚くんと僕は、同じマンションに住んでいる。
渚くんの家が二階で、僕の家は六階だ。

だから、親同士も顔見知りだし、僕たちは小さい頃から、よくお互いの家を行き来していた。

エレベーターに乗り込むと、ちょうど帰宅してきたらしい別の階の住人が乗り合わせた。
その人は渚くんに気づいて、軽く会釈をする。

僕もつられて「こんばんは」と声をかけてみたけれど、やっぱりその人は僕の方を見ない。
見えていないのだと思うと、もう驚くより先に、胸の奥が少し冷たくなる。

そのまま六階で降りて、僕たちは家の前まで手を繋いだまま歩いた。

「押すよ?」

玄関の前で、渚くんが小さくそう言う。
僕が頷くと、渚くんはゆっくりインターホンへ指を伸ばした。

電子音が鳴った、そのすぐあとだった。
インターホン越しに応答が返るより先に、扉の向こうからばたばたと駆け寄ってくる足音がする。

次の瞬間、玄関の扉が勢いよく開いた。

「真尋!?」

飛び出してきたのは、必死な顔をした母さんだった。

僕が帰ってきたと思ったのかもしれない。
けれど、扉の前に立っていたのが渚くん一人だけだとわかった途端、その表情が目に見えてしぼんでいく。

「渚くん……こんばんは」

「こんばんは。突然すみません」

渚くんがそう返すと、母さんは自分の今の慌てぶりを少し恥じたみたいに、眉を下げてかすかに苦笑した。

「まだ、あの子戻らないのよ」

そう言いながら、母さんは中途半端に開いていた扉をさらに押し広げた。
外廊下で立ち話をさせるつもりはないらしく、そのまま渚くんを玄関の中へ促している。

渚くんは僕の手を引いたまま、一歩だけ中へ入った。

母さんは、そのまま上がっていくかと勧めるみたいにスリッパを揃える。けれど渚くんは軽く首を振って、

「すぐ帰るので」

と静かに言ったあと、ちらりと僕の方を見た。
さっき二人で話した、「母さんとも手を繋いでみよう」という提案のことを思い出す。

「ほんとにどこ行っちゃったのかしらね、あの子」

渚くんの前だからか、母さんは少しだけ気丈に振る舞うような口調だった。
僕は胸の前で組まれたその手に、そっと自分の手を伸ばす。

「俺も、さりげなくクラスのやつらに聞いてみたんですけど、誰かの家に泊まってるとかはなさそうでした……」

渚くんがそんなふうに場を繋いでくれている。

僕は渚くんと繋いでいた手を、ゆっくりと離した。
そのまま両手で母さんの手を包み込む。すぐ目の前まで顔を寄せて覗き込んでみるけれど、母さんは不安げに視線を落としたままだ。ちゃんと触れている。しっかり手を握っている。なのに、やっぱり僕のことは見えていないみたいだった。

僕は振り返って渚くんに首を振る。
けれど、渚くんは何の反応も返さない。

――そうだ。

僕は慌てて思い出す。渚くんも、触れていなければ僕が見えないのだ。

すぐに渚くんの手を掴み直す。
それからもう一度、だめだった、というように首を横に振ってみせた。

「気になって来てみたんですけど、何もいい話ができなくてすみません」

そう言って、渚くんは母さんに頭を下げる。

「そんな、いいのよ、渚くん。むしろありがとうね。いつもあの子のこと気にしてくれて」

母さんはそう言って、渚くんの肩にそっと手を置いた。

「あの子、ちょっと引っ込み思案なところがあるから。渚くんみたいな子に仲良くしてもらえて、本当によかったって思ってるわ」

「……はい……」

渚くんは少しだけ気まずそうに視線を伏せて、それから小さく頷いた。

会話はそれきりだった。
「じゃあまた、何かわかることがあれば連絡します」と渚くんが言い残し、僕たちはそのまま玄関の外へ出る。

扉から少し離れた廊下の端まで歩いて、そこでようやく渚くんが足を止めた。
手を繋いだまま、正面を見たままの姿勢で、

「……だめだった?」

と僕に尋ねる。

「うん……」

僕は頷いた。

「しっかり握ったけど、だめだった」

「そっか……」

渚くんはそう言ってから、考え込むように視線を落とした。

手を繋げば、母さんにも僕が見えるようになるかもしれない。
そんな不思議な法則に期待していたけれど、そう簡単にはいかなかった。この先どうすればいいんだろう、という気持ちと、僕はこのままどうなってしまうんだろう、という気持ちで、ただ途方に暮れる。

泣き出しそうになるのを堪えながら、僕は渚くんの横顔を窺った。
渚くんはまだ、何かを考え続けている。

「……ごめんね……」

そう声をかけると、渚くんが「え?」とようやく顔を上げた。

「こんな、よくわかんない状況に巻き込んで……迷惑かけて……」

僕にも解決方法なんてわからないし、渚くんにだってわかるはずがない。そんな中で、僕のことが見えるのが渚くんだけだなんて、あまりにも厄介だ。そう思うと、ひたすら申し訳なくなってくる。

「僕、一旦家に戻るね」

そう言いながら、繋いでいた手を離そうとした。
すると、渚くんがその手を握り返してきた。

「戻って、どうするの?」

「え……だって、僕の家だし」

「おばさんにも真尋が見えないんだよ?」

「そうだけど……」

改めて事実を突きつけられて、肩が落ちる。

「ごはんとか、どうするの。それに、誰にも声が聞こえないんじゃ……真尋、さみしいでしょ」

その言葉に、僕ははっとした。

思わず、繋いだ渚くんの手を強く握り返してしまう。

そうだ。
誰にも声が届かなくて、誰にも見てもらえない。
この状況は、本当に怖くてたまらないのだ。

僕のことが見えるのは、渚くんだけ。
それも、この手を離してしまえば、また見えなくなる。
そうしたら僕は、本当にどこにもいないみたいになってしまう。

だから、渚くんの言葉に、僕は思わず強く頷いてしまった。

「……さみしい……」

それが声になっていたのは、ほとんど無意識だった。

「うちに来なよ」

俯いていた僕の頭の上に、その声が落ちてくる。
それが渚くんの言葉だと理解するまで、ほんの数秒かかった。僕は遅れて顔を上げる。

「うちにいなよ、しばらく。解決方法が見つかるまで」

「でも……」

「どうせ、俺以外には見えないんだし、泊まり込んでも大丈夫だよ。それに、うちなら真尋の家も近いし、その方が安心なんじゃない?」

そう言いながら、渚くんはなぜか少し気まずそうに視線を逸らした。

「い、いいの……?」

おそるおそる尋ねると、渚くんは「いいよ」と頷く。

その提案は、ありがたかった。
とにかく今は不安で、僕のことが見える相手と一緒にいられるだけで、どれだけ心強いかわからない。

その一方で、こんな状況にはまるでそぐわない、よくない考えも浮かんでしまう。渚くんの家に行けること。渚くんと一緒に過ごせること。その事実に、胸が妙に高鳴ってしまった。

でも、そんなことは絶対に悟られたくない。

顔が熱くなっていくのを自覚しながら、僕はどうにか「ありがとう」とだけ言った。
それから、小さく付け足す。

「……うれしい」

そうして、繋いだままだった渚くんの手を、僕はもう一度そっと握り直した。