◇
僕は昔から、声が小さい。しゃべるのも得意じゃないし、背だって低い。だから、ぜんぜん目立たない。
でも、それで別によかった。
目立ったところで、渚くんみたいにかっこいいわけじゃないし。みんなに見てほしいところなんて、ひとつもないと思っていた。
それに、両親や祖父母、それから、昔は渚くんも。そういう大切な人たちは、ちゃんと僕を見てくれていたから、それで十分だったのだ。
だけど、今の僕は、それさえ失ってしまったみたいだった。
誰からも、僕は見えない。
しばらくのあいだ、僕は母さんの横で必死に声をかけ続けていた。大丈夫だよ、とか。ここにいるよ、とか。泣かないで、とか。思いつく限りの言葉を口にしたのに、母さんは一度も僕に気づかなかった。
僕の名前を呼びながら、ずっと泣いている母さんを見ているのが、とうとう耐えられなくなった。
それで今、僕は家を出て、また学校へ戻ってきている。
教室に鞄を置きっぱなしだった、なんて、こんな状況ではどうでもいいことなのかもしれない。けれど、ほかにどうしたらいいのかわからなくて、気がついたらそういう理由をつけて学校へ向かっていた。
日が落ちたあとの校舎は、昼間とはまるで別の場所みたいに見える。
薄暗い道を歩いて校門まで戻るあいだ、部活帰りの生徒と何人もすれ違った。ラケットケースを背負っている人、ジャージ姿のまま友達と喋っている人、自転車を押して歩いている人。みんなそれぞれの放課後の続きの中にいて、肩を落として校舎へ向かう僕のことなんて、誰ひとり気に留めない。
しんとした教室に置き去りにされていた鞄をとって、また校舎を出る。
ひとつ目的がなくなってしまって、僕はもうどこに行っていいのかわからなくなった。
僕は、どうなってしまったんだろう。
この世に、もう僕のことが見える人はいないんだろうか。
そう思った途端、怖さと寂しさがいっぺんに込み上げてきて、鞄を胸に抱えたまま、危うくその場でしゃがみ込んでしまいそうになる。
そのとき、ふいに、遠くから聞き覚えのある音が届いた。
顔を上げる。
こんな時間なのに、体育館にはまだ明かりがついていた。
ドン、ドン、とボールを弾く音。
キュッ、と靴底が床を擦る音。
その音を聞くと、僕は胸が高鳴る。
渚くんのことを思い浮かべてしまうからだ。
吸い寄せられるみたいに、そのまま体育館へ向かう。
中を覗くと、やっぱり渚くんがいた。
もう部活そのものは終わったらしい。ほかの部員の姿はなく、広いコートにいるのは渚くんひとりだけだった。壁際にはバスケットボールの入ったカゴが置いてあって、その横にタオルや荷物がまとめてある。たぶん、みんなが帰ったあとも、こうして残って自主練をしているのだろう。
こんなときだって、渚くんを見ると胸の奥がきゅっと心地よく疼く。
でも今は、その感覚に不安が重なって、また泣きそうになってしまう。
僕は体育館の入り口脇に腰を下ろした。
鞄を抱えたまま、できるだけ邪魔にならないように小さくなる。
渚くんは何本目かのシュートを放ったあと、自分でこぼれたボールを拾いに走る。額にかかった前髪を片手でかき上げ、息を整える間もなく次の一本を打つ。リングに弾かれた球が遠くへ転がれば、すぐに追いついて拾い、ドリブルで戻って、また同じ位置から跳ぶ。フォームはぶれなくて、着地のたびにシューズが床を鳴らした。何度も繰り返しているはずなのに、動きに雑さがない。
渚くんは、勉強もバスケも、なんでもできる人みたいに思われがちだ。
でも本当は、昔からこうやってちゃんと努力する人だった。
そういうところが、僕はずっとかっこいいと思っている。
こんなふうに、周りの目を気にせず渚くんの練習風景を見ていられることなんて、今まではなかった。こんなことになって、怖くてたまらないのに、それだけは少しだけよかったのかもしれない。
抱えた膝に顎を乗せたまま、そんなことを考えていた。
「かっこいいなぁ……」
首筋に光る汗を眺めながら、思わずそんなふうに呟いてしまう。
すると、その瞬間だった。
ボールを手にした渚くんが、ふいに動きを止めた。
視線が、まっすぐこちらを向く。
目が合った――そう思って、息が止まった。
「渚……くん?」
けれど、すぐに勘違いだったのだとわかった。
僕の呼びかけに応えることもなく、渚くんはまたゴールへ向き直る。
――パシュッ。
心地よい音が、静かな体育館に響いた。
どうやら、それで終わりらしい。渚くんは手にしていたボールをカゴに戻しはじめた。
「お疲れ様……渚くん」
そう声をかけてみる。
もちろん返事はない。けれど、無視されているわけじゃないのだと思うと、いつもより少しだけ気が楽だった。
僕は立ち上がり、ボールの入ったカゴを体育倉庫へ運ぶ渚くんの隣に並ぶ。
「すごいね、毎日こんなふうにひとりで残ってるの?」
答えは返ってこない。
それでも、また話しかける。
「試合……どうだったのかな。こんな遅くまで練習してるってことは、次もあるの?」
渚くんはカゴを収め、体育倉庫の扉を閉めた。
そのまま荷物の置いてある場所へ戻りながら、袖で額の汗を拭っている。
「渚くん、レギュラーだもんね。シュートいっぱい決めた? 観たかったなぁ」
変な話だ。
こんなことになってしまったから、こうして渚くんに話しかけられる。
明日も練習を見られるかもしれないし、もしかしたら試合だって、ベンチのすぐそばで観ていても誰にも気づかれないんじゃないだろうか。
「ねぇ、渚くん、僕さ――ひゃっ!」
目の前で渚くんが急にTシャツを脱いだので、僕は反射的に両手で顔を覆って、その場で背を向けた。
練習を終えて、汗をかいた服を着替えるつもりなのだろう。
わかってはいるのに、一瞬目に入ってしまった背中のせいで、ぶわっと顔が熱くなる。
見ちゃだめだ。
でも、見たい。
そんな、後ろめたいような気持ちのまま、僕はそろそろと振り返り、指の隙間から渚くんの様子を窺った。
渚くんはシャツを脱いだまま、汗拭きシートで首筋や腕を拭っている。
――これは、さすがに、見ていいやつじゃないな。
気づかれていないとはいえ、妙に罪悪感が湧いてきて、僕は慌てて視線を外し、少し距離を取った。
そのとき、ふと思い出す。
――そうだ、お守り。
渡せなかったそれが、まだ鞄のポケットに入ったままだった。
肩にかけていた鞄から取り出してみる。
これって、僕の持ち物も人から見えなくなっているんだろうか。
……だったら、渡せるかもしれない。
僕は手の中のお守りを見下ろしてから、そっと渚くんの荷物の方へ近づいた。
荷物の横に置かれていたブレザーのポケットに、できるだけ静かにそれを差し入れる。
――渚くんが怪我しませんように。
――試合で勝てますように。
そんなことを思いながら買ったお守りだ。
見えなくてもいい。
ちゃんと届いてくれたら、それで。
練習を終えた渚くんは、体育館の鍵を閉めると職員室へ向かった。顧問の先生に鍵を返し、短く挨拶をして、そのまま校舎を出る。僕は少し距離を空けたまま、そのあとをついて歩いた。
先生も渚くんも、やはり僕には気づかない。
「日が落ちても、最近あんまり寒くなくなったね」
校門を出て、夜道を歩きながら、そんなふうに話しかけてみる。返事はない。けれど、こうして言葉にしてみるだけで、ほんの少しだけ昔に戻れたような気がした。
前は、もっとどうでもいいことばかり話していた。
今日の給食のこととか、昨日見たテレビのこととか、帰りにどこへ寄るかとか。そんな他愛ないことを、いちいち考えもせず口にしていた。
並んだ渚くんの横顔を見上げる。
前は、ちゃんと僕の方を見てくれていた。要領を得ない僕の話にも、うんうんと頷いて付き合ってくれていた。けれど、ここ最近は、こうして横顔をしっかり見ることさえ、なんだかできなくなっていた気がする。
今なら、と思って、少しだけ前へ回り込んでみる。
やっぱり、気づかない。
寂しいような、でも少しだけ得をしたような、うまく言葉にできない気持ちになる。
渚くんはこのところ、また少し背が伸びたみたいだった。顔立ちも前より大人びて見える。こんなふうに近くで眺めると、なおさらそう思う。
女の子にもモテるし、そのうち彼女なんてすぐできてしまうんだろうな、とぼんやり考える。そうなったら、やっぱり寂しい。
「僕たち、どうやったら友達に戻れる?」
問いかけても、返事はない。
もう、この先ずっと、誰とも……渚くんとも話せないんだろうか。僕の声は、もう誰にも届かないんだろうか。
横断歩道の信号が青に変わる。
渚くんと並んで渡りきったところで、僕はぽつりと呟いた。
「もっと……渚くんと、話したかったなぁ……」
つん、と鼻の奥が痛くなって、少しだけ顎を上げる。見えない僕にも涙は流れるんだろうか、そんなことを考えながら鼻を啜った、そのとき。
ふいに、渚くんがブレザーのポケットへ手を入れた。
一歩前を歩いていた足が、ぴたりと止まる。
僕もつられて足を止めた。
どうしたんだろう。
渚くんはその場で一瞬だけ固まったまま、ポケットの中を探るように指先を動かし、それから何かを取り出して、ゆっくり手元へ視線を落とした。
「――あっ」
思わず声が漏れる。
渚くんの手の中にあるのは、お守りだった。僕がさっき、こっそりブレザーのポケットへ入れた、「勝」の刺繍のお守り。
見えてる。
渚くんには、それが見えている。
そのとき、渚くんのもう片方の手の中で、スマートフォンの画面がふっと明るくなった。反射的に覗き込む。表示されていたのはメッセージアプリで、送り先も本文も、一瞬で目に入った。
――どこにいるの?
僕宛てだった。
息が詰まる。
慌てて自分のスマートフォンを取り出す。けれど、画面の端にはずっと圏外の表示がある。やっぱり届いていない。
でも、渚くんは僕にメッセージを送っていた。
探してくれていたんだ。
そう思っただけで、胸の奥が苦しくなる。
渚くんは小さく息を吐き、お守りを握ったまま何かを考えるように眉を寄せた。
「……真尋……?」
はっきりした声で、僕の名前がこぼれる。
「……え?」
心臓が跳ね上がった。
渚くんの口から僕の名前を聞いたのなんて、いったいいつぶりだろう。
「渚くん、僕ここに――」
思わず声を上げる。
けれど、顔を上げた渚くんの視線は、やっぱり僕を捉えていなかった。ただ何かを探すように、あたりを見回している。
「渚くん、ここだよ!」
そう叫んでも反応はない。声も届かないし、姿も見えていないみたいだった。
でも、渚くんはお守りを強く握りしめたまま、突然、さっき歩いてきた学校の方を振り返り、そのまま車道へ踏み出しかけた。
「危ない!」
ほとんど反射だった。
右から曲がってきたオートバイのライトが視界の端で跳ねる。渚くんはまだ気づいていない。
考えるより先に腕を伸ばした。
触れられるはずがない、と思う間もなく、指先が制服の袖を捉える。布を掴んだ感触が、たしかにあった。
「渚くん!」
そのままこちらへ引き戻す。
渚くんの体が大きくよろめき、つられて僕も足元を崩した。二人そろって歩道側へもつれるように倒れ込み、次の瞬間、目の前をオートバイが風を裂いて走り抜けていった。
強い風圧だけが遅れて頬を打つ。
僕は呆然としたまま、アスファルトに手をついていた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
すぐ隣で、渚くんも片手をついたまま固まっていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
その目が、まっすぐ僕を捉えた。
「……真尋?」
今度は、疑いようがなかった。
渚くんは、はっきりと僕を見ていた。
驚いて、無意識に握っていた渚くんの手を反射的に離す。
その途端――
「あ、待って、真尋!」
――ぱしっ。
今度は渚くんの方が、僕の腕を掴んだ。
歩道に座り込んだまま、僕たちは向かい合う。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ただ互いの顔を見ていた。二人とも、何が起こっているのか、まだうまく掴めていない。とにかく驚いている。
「渚くん……僕のこと……見えて――」
「どこにいたんだよ!」
僕の言葉を遮るように、渚くんが声を上げた。
その必死な顔に、僕は思わず口をつぐむ。
いつもの穏やかな声音とは違う。切羽詰まったみたいな響きだ。
「なんで……こんな、何日も……心配してたんだからな!」
――渚くんが、僕を心配?
その言葉が、うまく胸に落ちてこない。
「な、なんで?」
ずっと、渚くんは僕のことなんて見えていないみたいだったのに。話しかけても、目も合わせてくれなかったのに。どうして今、そんなことを言うんだろう。
僕が首を傾げると、渚くんは「なんでって……」と小さく呟いて、それきり口を閉ざした。
少し気まずそうに俯いた視線が、僕の腕を掴んでいる自分の手に落ちる。
それにつられて、僕もはっとした。
慌てて、その手を離す。
「あ――」
渚くんが、小さく息を吐くのがわかった。
次の瞬間、その表情がまた一気に変わる。
何かに気づいたみたいに目を見開いて、僕のいたあたりを探るように顔を上げた。
「真尋……なんで、どこ!」
「……え?」
渚くんは勢いよく立ち上がって、きょろきょろと周囲を見回している。
さっきまで確かに僕を見ていたはずなのに、今はもう、その視線は僕を素通りしていた。
「真尋?!」
「渚くん、僕ここだよ!」
思わず声を張り上げる。
その場でぴょんぴょん飛び跳ねてみても、やっぱり渚くんは気づかない。
どういうことだろう。
さっきは見えていた。
ちゃんと目も合った。名前だって呼ばれた。
なのに、今はまた見えていない。
混乱しているうちに、渚くんがまた駆け出しそうな気配を見せた。
僕は反射的に手を伸ばす。
「渚くん!」
もう一度、腕を掴んで引き止める。
その瞬間、渚くんの目がまっすぐ僕を捉えた。
「あ……」
二人とも、ぴたりと固まる。
見えてる。
また、見えてる。
驚いたような視線のまま、渚くんが低く呟いた。
「なんで……どういうこと……」
そう口にしたのは、渚くんの方だった。
「渚くん……僕……」
何から説明すればいいのか、一瞬わからなくなる。
というか、説明しようにも、僕だってまだ状況をちゃんと理解できているわけじゃない。とにかく、今わかっていることだけを伝えるしかないのだろう。
「渚くん……僕……透明人間に、なっちゃったみたい」
手を握ったままそう言うと、渚くんは眉を寄せて、「は……」と小さく呟き、首を傾げた。
僕は昔から、声が小さい。しゃべるのも得意じゃないし、背だって低い。だから、ぜんぜん目立たない。
でも、それで別によかった。
目立ったところで、渚くんみたいにかっこいいわけじゃないし。みんなに見てほしいところなんて、ひとつもないと思っていた。
それに、両親や祖父母、それから、昔は渚くんも。そういう大切な人たちは、ちゃんと僕を見てくれていたから、それで十分だったのだ。
だけど、今の僕は、それさえ失ってしまったみたいだった。
誰からも、僕は見えない。
しばらくのあいだ、僕は母さんの横で必死に声をかけ続けていた。大丈夫だよ、とか。ここにいるよ、とか。泣かないで、とか。思いつく限りの言葉を口にしたのに、母さんは一度も僕に気づかなかった。
僕の名前を呼びながら、ずっと泣いている母さんを見ているのが、とうとう耐えられなくなった。
それで今、僕は家を出て、また学校へ戻ってきている。
教室に鞄を置きっぱなしだった、なんて、こんな状況ではどうでもいいことなのかもしれない。けれど、ほかにどうしたらいいのかわからなくて、気がついたらそういう理由をつけて学校へ向かっていた。
日が落ちたあとの校舎は、昼間とはまるで別の場所みたいに見える。
薄暗い道を歩いて校門まで戻るあいだ、部活帰りの生徒と何人もすれ違った。ラケットケースを背負っている人、ジャージ姿のまま友達と喋っている人、自転車を押して歩いている人。みんなそれぞれの放課後の続きの中にいて、肩を落として校舎へ向かう僕のことなんて、誰ひとり気に留めない。
しんとした教室に置き去りにされていた鞄をとって、また校舎を出る。
ひとつ目的がなくなってしまって、僕はもうどこに行っていいのかわからなくなった。
僕は、どうなってしまったんだろう。
この世に、もう僕のことが見える人はいないんだろうか。
そう思った途端、怖さと寂しさがいっぺんに込み上げてきて、鞄を胸に抱えたまま、危うくその場でしゃがみ込んでしまいそうになる。
そのとき、ふいに、遠くから聞き覚えのある音が届いた。
顔を上げる。
こんな時間なのに、体育館にはまだ明かりがついていた。
ドン、ドン、とボールを弾く音。
キュッ、と靴底が床を擦る音。
その音を聞くと、僕は胸が高鳴る。
渚くんのことを思い浮かべてしまうからだ。
吸い寄せられるみたいに、そのまま体育館へ向かう。
中を覗くと、やっぱり渚くんがいた。
もう部活そのものは終わったらしい。ほかの部員の姿はなく、広いコートにいるのは渚くんひとりだけだった。壁際にはバスケットボールの入ったカゴが置いてあって、その横にタオルや荷物がまとめてある。たぶん、みんなが帰ったあとも、こうして残って自主練をしているのだろう。
こんなときだって、渚くんを見ると胸の奥がきゅっと心地よく疼く。
でも今は、その感覚に不安が重なって、また泣きそうになってしまう。
僕は体育館の入り口脇に腰を下ろした。
鞄を抱えたまま、できるだけ邪魔にならないように小さくなる。
渚くんは何本目かのシュートを放ったあと、自分でこぼれたボールを拾いに走る。額にかかった前髪を片手でかき上げ、息を整える間もなく次の一本を打つ。リングに弾かれた球が遠くへ転がれば、すぐに追いついて拾い、ドリブルで戻って、また同じ位置から跳ぶ。フォームはぶれなくて、着地のたびにシューズが床を鳴らした。何度も繰り返しているはずなのに、動きに雑さがない。
渚くんは、勉強もバスケも、なんでもできる人みたいに思われがちだ。
でも本当は、昔からこうやってちゃんと努力する人だった。
そういうところが、僕はずっとかっこいいと思っている。
こんなふうに、周りの目を気にせず渚くんの練習風景を見ていられることなんて、今まではなかった。こんなことになって、怖くてたまらないのに、それだけは少しだけよかったのかもしれない。
抱えた膝に顎を乗せたまま、そんなことを考えていた。
「かっこいいなぁ……」
首筋に光る汗を眺めながら、思わずそんなふうに呟いてしまう。
すると、その瞬間だった。
ボールを手にした渚くんが、ふいに動きを止めた。
視線が、まっすぐこちらを向く。
目が合った――そう思って、息が止まった。
「渚……くん?」
けれど、すぐに勘違いだったのだとわかった。
僕の呼びかけに応えることもなく、渚くんはまたゴールへ向き直る。
――パシュッ。
心地よい音が、静かな体育館に響いた。
どうやら、それで終わりらしい。渚くんは手にしていたボールをカゴに戻しはじめた。
「お疲れ様……渚くん」
そう声をかけてみる。
もちろん返事はない。けれど、無視されているわけじゃないのだと思うと、いつもより少しだけ気が楽だった。
僕は立ち上がり、ボールの入ったカゴを体育倉庫へ運ぶ渚くんの隣に並ぶ。
「すごいね、毎日こんなふうにひとりで残ってるの?」
答えは返ってこない。
それでも、また話しかける。
「試合……どうだったのかな。こんな遅くまで練習してるってことは、次もあるの?」
渚くんはカゴを収め、体育倉庫の扉を閉めた。
そのまま荷物の置いてある場所へ戻りながら、袖で額の汗を拭っている。
「渚くん、レギュラーだもんね。シュートいっぱい決めた? 観たかったなぁ」
変な話だ。
こんなことになってしまったから、こうして渚くんに話しかけられる。
明日も練習を見られるかもしれないし、もしかしたら試合だって、ベンチのすぐそばで観ていても誰にも気づかれないんじゃないだろうか。
「ねぇ、渚くん、僕さ――ひゃっ!」
目の前で渚くんが急にTシャツを脱いだので、僕は反射的に両手で顔を覆って、その場で背を向けた。
練習を終えて、汗をかいた服を着替えるつもりなのだろう。
わかってはいるのに、一瞬目に入ってしまった背中のせいで、ぶわっと顔が熱くなる。
見ちゃだめだ。
でも、見たい。
そんな、後ろめたいような気持ちのまま、僕はそろそろと振り返り、指の隙間から渚くんの様子を窺った。
渚くんはシャツを脱いだまま、汗拭きシートで首筋や腕を拭っている。
――これは、さすがに、見ていいやつじゃないな。
気づかれていないとはいえ、妙に罪悪感が湧いてきて、僕は慌てて視線を外し、少し距離を取った。
そのとき、ふと思い出す。
――そうだ、お守り。
渡せなかったそれが、まだ鞄のポケットに入ったままだった。
肩にかけていた鞄から取り出してみる。
これって、僕の持ち物も人から見えなくなっているんだろうか。
……だったら、渡せるかもしれない。
僕は手の中のお守りを見下ろしてから、そっと渚くんの荷物の方へ近づいた。
荷物の横に置かれていたブレザーのポケットに、できるだけ静かにそれを差し入れる。
――渚くんが怪我しませんように。
――試合で勝てますように。
そんなことを思いながら買ったお守りだ。
見えなくてもいい。
ちゃんと届いてくれたら、それで。
練習を終えた渚くんは、体育館の鍵を閉めると職員室へ向かった。顧問の先生に鍵を返し、短く挨拶をして、そのまま校舎を出る。僕は少し距離を空けたまま、そのあとをついて歩いた。
先生も渚くんも、やはり僕には気づかない。
「日が落ちても、最近あんまり寒くなくなったね」
校門を出て、夜道を歩きながら、そんなふうに話しかけてみる。返事はない。けれど、こうして言葉にしてみるだけで、ほんの少しだけ昔に戻れたような気がした。
前は、もっとどうでもいいことばかり話していた。
今日の給食のこととか、昨日見たテレビのこととか、帰りにどこへ寄るかとか。そんな他愛ないことを、いちいち考えもせず口にしていた。
並んだ渚くんの横顔を見上げる。
前は、ちゃんと僕の方を見てくれていた。要領を得ない僕の話にも、うんうんと頷いて付き合ってくれていた。けれど、ここ最近は、こうして横顔をしっかり見ることさえ、なんだかできなくなっていた気がする。
今なら、と思って、少しだけ前へ回り込んでみる。
やっぱり、気づかない。
寂しいような、でも少しだけ得をしたような、うまく言葉にできない気持ちになる。
渚くんはこのところ、また少し背が伸びたみたいだった。顔立ちも前より大人びて見える。こんなふうに近くで眺めると、なおさらそう思う。
女の子にもモテるし、そのうち彼女なんてすぐできてしまうんだろうな、とぼんやり考える。そうなったら、やっぱり寂しい。
「僕たち、どうやったら友達に戻れる?」
問いかけても、返事はない。
もう、この先ずっと、誰とも……渚くんとも話せないんだろうか。僕の声は、もう誰にも届かないんだろうか。
横断歩道の信号が青に変わる。
渚くんと並んで渡りきったところで、僕はぽつりと呟いた。
「もっと……渚くんと、話したかったなぁ……」
つん、と鼻の奥が痛くなって、少しだけ顎を上げる。見えない僕にも涙は流れるんだろうか、そんなことを考えながら鼻を啜った、そのとき。
ふいに、渚くんがブレザーのポケットへ手を入れた。
一歩前を歩いていた足が、ぴたりと止まる。
僕もつられて足を止めた。
どうしたんだろう。
渚くんはその場で一瞬だけ固まったまま、ポケットの中を探るように指先を動かし、それから何かを取り出して、ゆっくり手元へ視線を落とした。
「――あっ」
思わず声が漏れる。
渚くんの手の中にあるのは、お守りだった。僕がさっき、こっそりブレザーのポケットへ入れた、「勝」の刺繍のお守り。
見えてる。
渚くんには、それが見えている。
そのとき、渚くんのもう片方の手の中で、スマートフォンの画面がふっと明るくなった。反射的に覗き込む。表示されていたのはメッセージアプリで、送り先も本文も、一瞬で目に入った。
――どこにいるの?
僕宛てだった。
息が詰まる。
慌てて自分のスマートフォンを取り出す。けれど、画面の端にはずっと圏外の表示がある。やっぱり届いていない。
でも、渚くんは僕にメッセージを送っていた。
探してくれていたんだ。
そう思っただけで、胸の奥が苦しくなる。
渚くんは小さく息を吐き、お守りを握ったまま何かを考えるように眉を寄せた。
「……真尋……?」
はっきりした声で、僕の名前がこぼれる。
「……え?」
心臓が跳ね上がった。
渚くんの口から僕の名前を聞いたのなんて、いったいいつぶりだろう。
「渚くん、僕ここに――」
思わず声を上げる。
けれど、顔を上げた渚くんの視線は、やっぱり僕を捉えていなかった。ただ何かを探すように、あたりを見回している。
「渚くん、ここだよ!」
そう叫んでも反応はない。声も届かないし、姿も見えていないみたいだった。
でも、渚くんはお守りを強く握りしめたまま、突然、さっき歩いてきた学校の方を振り返り、そのまま車道へ踏み出しかけた。
「危ない!」
ほとんど反射だった。
右から曲がってきたオートバイのライトが視界の端で跳ねる。渚くんはまだ気づいていない。
考えるより先に腕を伸ばした。
触れられるはずがない、と思う間もなく、指先が制服の袖を捉える。布を掴んだ感触が、たしかにあった。
「渚くん!」
そのままこちらへ引き戻す。
渚くんの体が大きくよろめき、つられて僕も足元を崩した。二人そろって歩道側へもつれるように倒れ込み、次の瞬間、目の前をオートバイが風を裂いて走り抜けていった。
強い風圧だけが遅れて頬を打つ。
僕は呆然としたまま、アスファルトに手をついていた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
すぐ隣で、渚くんも片手をついたまま固まっていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
その目が、まっすぐ僕を捉えた。
「……真尋?」
今度は、疑いようがなかった。
渚くんは、はっきりと僕を見ていた。
驚いて、無意識に握っていた渚くんの手を反射的に離す。
その途端――
「あ、待って、真尋!」
――ぱしっ。
今度は渚くんの方が、僕の腕を掴んだ。
歩道に座り込んだまま、僕たちは向かい合う。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ただ互いの顔を見ていた。二人とも、何が起こっているのか、まだうまく掴めていない。とにかく驚いている。
「渚くん……僕のこと……見えて――」
「どこにいたんだよ!」
僕の言葉を遮るように、渚くんが声を上げた。
その必死な顔に、僕は思わず口をつぐむ。
いつもの穏やかな声音とは違う。切羽詰まったみたいな響きだ。
「なんで……こんな、何日も……心配してたんだからな!」
――渚くんが、僕を心配?
その言葉が、うまく胸に落ちてこない。
「な、なんで?」
ずっと、渚くんは僕のことなんて見えていないみたいだったのに。話しかけても、目も合わせてくれなかったのに。どうして今、そんなことを言うんだろう。
僕が首を傾げると、渚くんは「なんでって……」と小さく呟いて、それきり口を閉ざした。
少し気まずそうに俯いた視線が、僕の腕を掴んでいる自分の手に落ちる。
それにつられて、僕もはっとした。
慌てて、その手を離す。
「あ――」
渚くんが、小さく息を吐くのがわかった。
次の瞬間、その表情がまた一気に変わる。
何かに気づいたみたいに目を見開いて、僕のいたあたりを探るように顔を上げた。
「真尋……なんで、どこ!」
「……え?」
渚くんは勢いよく立ち上がって、きょろきょろと周囲を見回している。
さっきまで確かに僕を見ていたはずなのに、今はもう、その視線は僕を素通りしていた。
「真尋?!」
「渚くん、僕ここだよ!」
思わず声を張り上げる。
その場でぴょんぴょん飛び跳ねてみても、やっぱり渚くんは気づかない。
どういうことだろう。
さっきは見えていた。
ちゃんと目も合った。名前だって呼ばれた。
なのに、今はまた見えていない。
混乱しているうちに、渚くんがまた駆け出しそうな気配を見せた。
僕は反射的に手を伸ばす。
「渚くん!」
もう一度、腕を掴んで引き止める。
その瞬間、渚くんの目がまっすぐ僕を捉えた。
「あ……」
二人とも、ぴたりと固まる。
見えてる。
また、見えてる。
驚いたような視線のまま、渚くんが低く呟いた。
「なんで……どういうこと……」
そう口にしたのは、渚くんの方だった。
「渚くん……僕……」
何から説明すればいいのか、一瞬わからなくなる。
というか、説明しようにも、僕だってまだ状況をちゃんと理解できているわけじゃない。とにかく、今わかっていることだけを伝えるしかないのだろう。
「渚くん……僕……透明人間に、なっちゃったみたい」
手を握ったままそう言うと、渚くんは眉を寄せて、「は……」と小さく呟き、首を傾げた。


