渚くんには僕が見えない



僕はまるで透明人間だ。
嫌われてもないけど、好かれてもいない。
無視されてるわけじゃないけど、目立たないから気が付かれない。
それがいいのか悪いのか、まだちょっと判断がつけられないけど、なんだか寂しい気持ちになるのは確かだ。
小さくこぼした「おはよう」は誰にも拾われないまま、教室のざわめきに消えていく。
窓側から二列目の後ろから二番目。皮肉にも多分ここが、一番この教室で目立たない位置の席なんじゃないか、そんな気さえする。

「えーっと、今日の欠席は……永野だけか?」

「え……?」

朝のホームルームをはじめた担任の先生の声に、僕は顔を上げる。
最初受けもしない冗談を言っているのかと思ったけど、先生は特にそんな様子もなく出席簿にボールペンを走らせている。

「あ、あの……永野……います」

遠慮がちに手を挙げてみる。
でも、どういうわけか先生は気づかない。

教室を見回しても、クラスメイトたちが何か言ってくれる気配もなかった。
みんなそれぞれ自分の机や前の黒板を見ていて、僕の方なんて誰も見ていない。

この場で、もう一度大きな声を出して主張するのも妙に恥ずかしい。

ホームルームが終わったら、こっそり先生に声をかけよう。

そう思って、僕は挙げていた手をおずおずと下ろした。

おかしい、と、はっきり思ったのはそのあとだった。

ホームルームが終わるや否や、僕は教室を出ていく先生の背中を慌てて追いかけた。

「あの、先生……僕、永野です。ずっと教室にいました。欠席じゃないです」

そう声をかけたのに、山下先生は僕の方を振り向きもせず、そのまま廊下を歩いていく。

「あの! 山下先生!」

今度はさっきより大きな声を出した。
それでも先生は足を止めない。聞こえていないみたいに、ただすたすたと遠ざかっていく。

僕は廊下の真ん中で立ち尽くしたまま、その背中を見送るしかなかった。

担任の山下先生は三十代後半くらいの男性教師で、厳しすぎも優しすぎもせず、いつも淡々としている。生徒をわざと無視するような意地悪をする人には見えないし、そもそも僕は先生を怒らせるようなことをした覚えもない。

「なんで……だろ」

小さく呟いてみても、答えが返ってくるわけじゃない。

人に無視されるのは、やっぱり悲しい。そういうのがしんどいから、僕はもともとあまり自分から人の輪に入っていけないところがあるのに、教室にちゃんといるのに欠席扱いされるほど存在感が薄いとなると、さすがにいろいろ困る。苦手だとか恥ずかしいだとか言っている場合じゃない。今日中に、また山下先生に話しかけなければ。

とはいえ、一限目の準備をしないわけにもいかない。僕はなんとも言えない心境のまま教室へ戻った。

ふと黒板の横の時間割に目をやる。今日は木曜日、一限目は数学か――そう思ったところで、そこに書かれていた数字が目に入って、僕は思わず「え?」と声を漏らした。

おかしい。

僕は渚くんの試合を楽しみにしていたから、その日付はちゃんと覚えていた。なのに、今日の日付は、その週末を飛び越えてしまっている。

一瞬、ぞっとした。
でも、すぐに首を振る。きっと誰かが書き間違えただけだ。カレンダーを一週間ずらして見たとか、そんな単純な話に違いない。

僕は席に座り、スマートフォンを取り出した。

「え……な、なんで……」

心臓が大きく脈打つ。

黒板に書かれていたのと同じ日付が、スマートフォンの画面にも表示されていた。僕の感覚だけが、一週間まるごと置き去りにされているみたいだった。

違和感がすごい。
でも、生きていれば、こんな変な感覚に襲われることもあるんだろうか。デジャヴとか、ゲシュタルト崩壊とか、そういう脳の錯覚みたいなものなのかもしれない。

けれど、問題はそこじゃない。

大きな問題は、渚くんの試合の日を過ぎてしまっているということだ。

僕は顔を上げて教室の中を見渡した。みんな席にはついているけれど、まだ始業前だからか、それぞれ近くの席の人と雑談していたり、机の中を整理していたりする。

このクラスにはバスケ部の人が何人かいるけど、思い切って、渚くん本人に聞いてみようか。試合はどうだったのか、勝ったのだとしたら次の試合はいつなのか。

でも、朝の渚くんの様子を思い出すと、とてもじゃないけれど声をかける勇気は出なかった。

僕は渚くんを諦めて、斜め前の席に座っているバスケ部男子のひとりに聞いてみることにした。

席に着いたまま、小さく声をかける。

「あの……」

一度目は聞こえなかったみたいだ。
僕は少しだけ身を乗り出して、もう一度声を張る。

「あの!」

そのタイミングで、ようやく相手がこちらを振り返った。

「え、えっと……この前、試合だったでしょ? 結果って……ど、どうだった?」

そう尋ねても、彼はすぐには答えなかった。視線は僕に向くことなく、なぜか僕の机のあたりへ落ちたままだ。普段から親しく話す相手ではないにせよ、さすがにこの反応は妙だった。わざと無視するような性格には見えないし、僕が何か彼の機嫌を損ねるようなことをした覚えもない。

「なぁ……」

少しして、ようやく彼が口を開く。答えてくれるのだと身構えたのも束の間、その視線は僕ではなく、後ろの席の男子へ向けられた。

「永野って、もう一週間くらい休んでるけど、インフルかなんか?」

一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

話を向けられたもうひとりの男子は、「こんな時期にインフル?」と肩をすくめる。

「あ、あの……僕、います……けど……」

声に出してみても、二人はぴくりともしない。

胸のあたりが、じわじわと冷えていく。嫌な汗がにじみ、うまく息が吸えない。おかしい。みんなが僕を無視している。いや、無視しているというより――

「ねぇ、あの! 僕いますよ!」

気づけば、僕は椅子を引いて立ち上がっていた。目の前の男子へ身を乗り出し、顔の前で手を振る。普段なら、こんなことは絶対にしない。けれど、いまはそんなことを言っている場合じゃなかった。

それでも、反応はない。

「ねぇ、います! ここに!」

声を張り上げ、教室のあちこちへ向かって呼びかけてみる。けれど、誰もこちらを見ない。近くの席のクラスメイトたちは雑談を続けたままだし、前の列では教科書を開く音がしている。僕の声だけが、まるで最初から存在しなかったみたいに、何ひとつ引っかからずに空気の中へ沈んでいった。

そこでようやく、認めたくもない考えが形を取る。

――これじゃまるで、誰にも僕が見えていないみたいだ。

その瞬間、ぞっとした。呼吸がさらに浅くなる。わけがわからない。こんなこと、あるはずがない。

恐る恐る顔を上げて、窓際のいちばん前の席を見る。

渚くんは、そこにいた。頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めている。

「渚くん……」

ほとんど縋るような気持ちでその名前を呼び、そばまで歩み寄る。けれど、やはり反応はなかった。肩も、睫毛も、指先ひとつ動かない。

渚くんまで、僕のことが見えていない。

動揺で目の前がぐらりと揺れた気がした。僕はそのまま教室を飛び出し、近くのトイレに駆け込んだ。
悪い夢を見てるんだ。きっと、絶対そうに違いない。
勢いよく水道を捻り、ざぶざぶと顔を洗う。
 
冷たい。なんで。
 
そういえば、朝だって顔を洗った時の水は冷たかった。
 
そんな、これは……夢じゃないのか。
 
呼吸がますます荒くなる。喉がひきつって、うまく息が吸えない。洗面台に両手をついたまま、僕はゆっくりと顔を上げた。

そして、そこで息を呑んだ。

手洗い場の前にある鏡。
そこには、僕の姿が映っていない。

「うわっ――!?」

思わずのけぞった拍子に、そのまま床へ尻餅をつく。
あわてて自分の手を見る。腕を見る。制服の胸元を掴み、頬や肩を確かめるように触る。

見えている。
触れられる。
ちゃんと、ここにある。

僕には、僕がいる。

それなのに。

見間違いだ。
錯覚だ。
そんなはずない。

口の中で言い訳みたいにその言葉を転がしながら、僕はもう一度だけ立ち上がった。
今度は壊れ物に触るみたいに、そっと鏡へ近づいて、こわごわ覗き込む。

やっぱり、何も映っていない。
見間違いなんかじゃなかった。

怖くて、手が震えた。

どうしたらいいのかわからない。
助けて、と叫びたくなる。けれど、そもそもこの声は誰にも届かないんじゃないか――そんな考えが浮かんでしまって、余計に喉が締まる。

ふらふらと立ち上がりながら、僕はポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。

母さんに電話しよう。
とにかく、母さんに。

そう思ったのに、画面を見た瞬間、また息が詰まる。

「あ、あれ……なんで……」

どういうわけか、スマートフォンは圏外表示になっていて、ネットも電話もまったく繋がらない。

そんなこと、あるはずがない。
学校の中だって、家の近くだって、圏外になるような場所じゃないのに。

僕はそのままトイレを飛び出した。

廊下を抜け、昇降口を抜け、校門を出る。
通りすがる人に、片っ端から声をかけた。

「あの!」
「すみません!」

けれど、誰も振り向かない。

駅まで走って、ホームに滑り込み、やってきた電車に飛び乗る。車内でも、近くに立っていた人や座っている人に声をかけてみた。

「誰か……!」
「誰か、僕が見えませんか?!」

返ってくるのは、沈黙だけだ。

目の前の人たちは、僕のすぐそばでスマートフォンを見たり、あくびをしたり、窓の外を眺めたりしている。僕の声はまるで聞こえていないようだ。

マンションに辿り着き、エレベーターで自宅の階まで上がる。
震える指でドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。

ひらいた玄関の先に、母さんの靴が見える。

「母さん!」

転がるようにリビングへ駆け込み、声を張った。

「うん」

こちらに背を向けたままソファに座っている母さんが、たしかにそう答えた。

聞こえた。

その瞬間、一気に胸が熱くなる。
よかった。母さんには聞こえてる。母さんなら――

「母さん、おかしいんだ。どうしてか、みんな僕のことが見えないみたいで、声も――」

歩み寄りながら必死に言いかけて、僕は途中で息を止めた。

母さんは、電話をしていた。

耳にスマートフォンを当てたまま、僕の方を見ることもなく、ただ俯いている。

そして、やっぱり、僕には反応しない。

「そうなの……もう、一週間、携帯も繋がらなくて……」

その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。

それが、僕の話なのだと、直感でわかったからだ。

「警察にも相談したんだけど、それらしい事故とかはないって言われて……うん、そうなの、喧嘩したわけでもないし……ほんとに……いつも通りだったのに……」

だんだん語尾が震えていく。
母はそのまま体を縮こまらせるように俯き、肩を揺らした。

泣いているのだ。

「母さん……」

僕はたまらず歩み寄って声をかけ、その肩に手を伸ばす。触れた。ちゃんと、触れられた。服越しのぬくもりもわかるのに、母はぴくりともしない。

まるで、そこにあるはずの感覚だけが、すっぽり抜け落ちてしまったみたいだった。

「母さん、僕ここにいるよ……」
 
母は何も感じていないみたいに、ただ電話口に向かって声を震わせるだけだ。

「泣かないで。大丈夫だから。ここにいるから、母さん、気づいて……!」

言葉は空しくこぼれていく。
僕の声は、目の前にいるはずの母にさえ届かない。
  
「どうしよう……あの子に何かあったら……」

声を震わせたまま、母は泣き続けていた。