渚くんには僕が見えない



すごくよく寝た気がした。

アラームの音で叩き起こされたわけでもなく、母さんに呼ばれたわけでもない。ふっと自然に瞼が開いて、その瞬間、妙に頭がすっきりしていることに気づく。けれど次の瞬間には、嫌な予感が背筋を走った。

やってしまった。

枕の下に半分埋もれていたスマートフォンを手探りで引っぱり出して画面を見た途端、僕は飛び起きた。

「やっば!」

時刻は八時を過ぎている。

いつもなら、家を出る時間だ。
ベッドから転がるように降りて、僕はあわあわと洗面所へ駆け込んだ。

リビングの方からは、朝の情報番組の音が聞こえてくる。父さんはこの時間にはもう会社へ行っているはずだから、いるとしたら母さんだろう。

「なんで起こしてくれないの!」

半分寝ぼけたままの理不尽な抗議をぶつけつつ、歯ブラシに歯磨き粉を絞って口に突っ込む。そのままもごもごしながらリビングを覗くと、母さんはダイニングテーブルに座って、こちらに背を向けていた。

「母さん?」

呼んでみても、返事がない。

さっきの言い方で機嫌を損ねたのかもしれない。
こういう時は、触らぬ神に祟りなしだ。だいたい夜になればけろっとしているし、今は母さんの機嫌をうかがっている場合でもない。

僕はそのまま洗面所に引き返し、口をゆすいで、顔を雑に洗ってタオルでがしがしと拭う。鏡を見る余裕もないまま、適当に濡れた手で髪を撫でつけ、部屋に戻って制服に着替えた。

鞄を掴んで玄関から外へ飛び出す。
もう絶対に間に合わないなら諦めもつくけれど、この微妙な時間がいちばん嫌だ。

小走りのまま駅に向かい、改札を抜け、そのまま滑り込んできた電車に飛び乗った。

喉が張り付くほど上がった息をどうにか整えながら、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して時間を確かめる。画面に表示された時刻を見て、僕はようやく少しだけ肩の力を抜いた。なんだかんだで、いつもより一本遅い電車に乗っただけで済んだらしい。

ほっと胸を撫で下ろしながらロックを解除すると、昨日寝る前に開いていたままの画面がそのまま現れる。

SNSのトーク画面だ。

相手は渚くん。

今年の正月に、あけましておめでとう、と送ったメッセージに、干支のスタンプがひとつ返ってきて……それきり、会話は止まっている。

昨日の夜、僕はこの画面を前にして、またずいぶん長いこと悩んでいた。

日枝神社で買ったお守りを、今週末の試合の前に渡したい。
ただそれだけのことだ。

同じマンションに住んでいるのだから、数分どころか、数十秒でも時間をもらえれば済む話のはずなのに、それすらなかなか言い出せないまま、昨日は寝落ちしてしまったらしい。

小さくため息がこぼれる。

やっぱり、今日、学校で直接渡した方がいいんだろうか。
でも、急に呼び止めたら変じゃないかな。
迷惑だったらどうしよう。

そんなことを考えているうちに、電車は学校の最寄り駅へ滑り込んだ。

ターミナル駅でもあるその駅では、朝の改札を同じ制服の人波が次々と抜けていく。各沿線から集まってきた生徒たちの流れに、僕も紛れ込むようにして歩き出した。

「――あっ」

思わず、小さく声が漏れた。

雑踏の少し先、数メートル前を歩く、背の高いすらりとした後ろ姿。
間違いなく、渚くんだ。

そう認識した途端、緊張で鼓動が早まる。
僕は頭の中で、できるだけ自然で、気負っていない、違和感のない挨拶をシミュレーションした。

少し早歩きで渚くんの斜め後ろまで近づいて、意を決して口を開く。

「あ、あの、おは――」

「渚、おはよー!」

僕の声は、横からひょいと現れた同級生の明るい声にあっさりかき消された。
その同級生は何か急いでいるのか、通りすがりに渚くんの肩を叩いて、そのままさっさと前へ行ってしまう。

渚くんは「おはよ」と軽く手を上げ、穏やかにそれに返した。

そのやり取りを見ているうちに、僕の体は勝手に防御態勢に入ってしまった。
胸の前でスクールバッグをぎゅっと抱え込み、落ち着け、と心の中で自分に言い聞かせる。

失敗した。
タイミングを逃した。

この距離で、渚くんが僕の存在に気づいていないとは思えない。
でも、会話のきっかけをひとつ失ったのは確かだった。

それでも、ここで引いたら意味がない。

僕はもう一度だけ勇気を振り絞る。

「お、おはよう……渚くん」

渚くんは前を向いたまま、一瞥もくれなかった。
見えるのは、歩くたびに少しずつ角度を変える綺麗な横顔だけだ。

無視されてしまった。

そう思った瞬間、顔がひきつる。
僕は口元を不自然に結んだまま、どうにか笑っているような顔を作った。

「きょ、今日さ、寝坊しちゃって……びっくりしたけど、もう、ほんと、すごいスピードで支度したら、なんだかんだで間に合って」

へへっ、と、ごまかしながら何気ない話題を振ってみるが、やっぱり反応はない。

これは遠回しにしてもきっとだめだ。さっさと本題を言わないと、もう何も言えなくなる。

「あ、あのさ! 渚くん」

呼びかけても、渚くんは前を向いたまま、やっぱり、僕のことなんて見えていないみたいな態度。

それでも、僕は続けた。

「こ、これ!」

ポケットから取り出した「勝」の字の刺繍されたお守りを、体の前に差し出してみる。

「今度、試合だよね! これさ、日枝神社で買ったんだ。良かったら、もらっ――」

そこまで言ったところで、声がしぼんだ。

最後まで言い切れなかった。
言葉の途中で、渚くんが本当に一度もこちらを見てくれないことに、急に自信がなくなってしまったのだ。

歩く足まで止まってしまう。

それでも、渚くんは僕のことを無視したままだ。
そのまま何事もなかったみたいに、校門の方へすたすた歩いていく。

僕はただ、その背中を見ているだけ。

手の中のお守りを、ぎゅっと握りしめた。

こんなの、古くさくて恥ずかしいって思ったのかな。
それとも、僕からもらうのが微妙だったのかもしれない。

考えれば考えるほど、胸のあたりがじわっと重くなって、小さくため息がこぼれる。

僕はお守りをポケットにしまいこんで、そのままとぼとぼ教室へ向かった。