◇
放課後になると、校門のあたりは一気に騒がしくなる。
友達同士で駅の方へ歩いていくグループ、ジャージ姿で体育館へ急ぐ運動部、アルバイトの話をしながら自転車置き場へ向かう人たち。そんな流れを横目に見送りながら、僕はいつも一人で校門を出る。
特に寄り道をする予定があるわけでもないし、誰かと約束をしているわけでもない。ただ、家に帰るだけだ。
……本当は、まっすぐ帰りたいわけじゃない。
体育館に残って、バスケ部の練習を見ていたい。
コートを走る渚くんの姿を、もう少し近くで眺めていたいのだ。
けれど、それはちょっと難しい。
バスケ部には渚くん以外にも人気のある先輩がいて、公式戦の前になると放課後の体育館に女子たちが集まってくる。扉の外から中を覗き込んで、きゃあきゃあ言いながら練習を眺めているのだ。
その輪の中に混ざる勇気なんて、僕にはない。
そもそも男子がひとりであの場所に立っていたら、それだけでかなり目立つ。
だから、放課後の体育館には近づかないようにしている。
ただ、ひとつだけ例外があって、今度、地区予選の試合がある。
試合の日なら、学校の生徒だけじゃなく、保護者や卒業生、他校の関係者も体育館に出入りする。普段よりずっと人が多くなるはずだ。
そういう日に紛れてしまえば、僕がそこにいても、きっと誰も気にしない。
体育館の隅で、こっそり試合を見ているくらいなら、たぶん大丈夫だ。
だから、その日だけは見に行こうと思っている。
スマートフォンのスケジュールアプリを開き、週末の予定をもう一度確かめた。画面を見ているうちに、自然と口元が緩んでしまう、僕はそのままスマートフォンを胸に抱き寄せた。
楽しみで、なんだか足取りまで軽くなる。
本当ならスキップでもしたい気分だけれど、僕はスキップができない。小さい頃に何度か挑戦したことはあるのに、どうしてもあの独特のリズムがうまくつかめなかったのだ。
だから代わりに、少しだけ早足で駅へ向かい、電車に乗る。
自宅の最寄り駅までは五駅ほど。夕方の車内は、学校帰りの学生や仕事帰りの人たちでほどよく混んでいる。
電車を降りて改札を抜けると、いつもの帰り道だ。
駅前の商店街を抜けて住宅街へ入ると、この道には子どもの頃の記憶がいくつも残っていることに気づく。
よく遊んだ児童公園。
毎日通っていた小学校。
お小遣いを握りしめて、駄菓子を買いに行ったスーパー。
それから、住宅街のマンションと古い家に挟まれた、細い路地。
昼でも少し薄暗いその道の奥に、小さな神社がひっそりと建っている。
背の高い建物に囲まれているせいで、外からはほとんど見えない。石の鳥居と、苔の浮いた石段。境内も広いわけではなく、社殿と古い狛犬、それに小さな祠がいくつか並んでいるだけの、こぢんまりとした神社だ。
僕は、その鳥居の前で足を止めた。
ふと、思い出したのだ。
この日枝神社は、正月でもなければ社務所が開いていることはほとんどない。けれど、閉まった引き戸の脇には小さな木箱が置かれていて、中にお守りがいくつか入っていることがある。『ひとつ三百円』そんな札が添えられた、半分無人頒布みたいな形だ。
たしか、白地に金色の糸で「勝」と刺繍された、小さなお守りだった。よくわからないけれど、たぶん試合に勝つとか、そういう意味なんだと思う。
そのことを思い出した瞬間、僕はひとつ、いいことを思いついてしまった。
それを渚くんに渡す。
……いや、渡すというより、そのことを口実に、もう少しちゃんと話すきっかけにできるかもしれない。
渚くんは、なかなか僕を見てくれない。けれど、嫌なことを言ってきたり、意地悪をされたりしたことは一度もない。だから、お守りを渡すくらいなら、できるような気がしている。
それに、もしかしたら少しくらいは喜んでくれるかもしれない。
そう考えたら、立ち止まっていた足が自然と鳥居の先へと向かった。
石段の先の小さな境内は人の気配がなく、しんと静まりかえっている。
ここで、よく渚くんと遊んだ。
僕たちの住んでいるマンションは、この神社から歩いてすぐのところにある。だから放課後でも休みの日でも、なんとなくふたりで来て、石段に座って駄菓子を食べたり、境内の隅でくだらない話をしたりしていた。
ほとんどが楽しかった思い出ばかりだ。
けれど、この場所での最後の記憶に触れると、胸の奥が少しだけ重くなる。
たぶん、あれがきっかけだった。
僕は、いつものじゃれ合いの延長みたいなつもりで、渚くんに抱きついたのだ。
……いや、正直に言えば、その頃にはもう少し気づいていたのかもしれない。
渚くんが、前みたいには僕に触れなくなったこと。話していても、どこか微妙に距離があること。はっきり何かが変わったわけじゃないのに、前とは少し違う空気があること。
それが不安で……だから、渚くんは今もちゃんと僕の友達なんだって、確かめたかった。
そんな気持ちがどこかにあって、僕は子どもの頃みたいに、何も考えずに抱きついてしまったのだ。
でも、たぶん、あれがいけなかったのだと思う。
もうあの時、僕たちは中学生。
小学生の頃みたいな距離感のままでいていいはずがなかったのに、僕だけがそこに置き去りのままだった。
渚くんは、すごく嫌がって、反射みたいに僕を突き飛ばしたのだ。僕は相変わらず運動神経が鈍かったから、そのまま派手に転んでしまって、よりによって石段で頭を打った。
血が出てしまった僕を見て、渚くんは真っ青な顔で大人を呼びに行って、そのまま病院にも付き添ってくれた。傷は思ったより浅くて、何針か縫っただけですんだし、傷跡だって今はほとんど残っていない。
でも。
あの時から、僕たちはうまく話せなくなった。
最初は少し気まずいだけだったはずなのに、気づけばそのまま距離は広がっていって、元に戻すきっかけもないまま、今に至ってしまった。
そんな、少し苦い思い出の残る場所を、けれどどこか懐かしい気持ちで眺める。
久しぶりに来たせいか、小さい頃に見ていたよりも、何もかもが少しずつ小さく見えた。石段も、社殿も、端に並んだ古い祠も、記憶の中よりひと回り縮んでしまったみたいだ。
「あれ」
ふと目に留まったのは、拝殿の脇、少し奥まったところにある小さな祠だった。
昔からそこにあったはずなのに、こんなふうに意識して見たことはなかった気がする。正面の観音開きの板戸が、開いていたのだ。
中には、掌に乗りそうなくらいの小さな神像がいくつか並んでいた。白木の台の上に整然と置かれ、細い注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)まで添えられている。狐にも狛犬にも見える眷属めいた像や、丸みのある石の像が、どれもきちんと前を向いていた。
こんなものがあったなら、きっと覚えているはずだ。
子どもの頃の僕は、渚くんと一緒にこの神社の隅々まで見て回ったし、珍しいものを見つければ騒いでいた。小さくても、こういう可愛らしいものが並んでいたなら、見落とすはずがない。
なのに記憶にない。
不思議に思って、もう少し近づいてみる。
きれいに並んだ神像の列の端、そこだけが、ひとつ分だけぽっかりと不自然に空いていた。
周りはうっすら埃をかぶっているのに、その場所だけは輪郭がくっきり残っていて、ついさっきまで何かが置かれていたみたいに見える。台座の木肌の色まで、そこだけわずかに違っていた。
何気なく足元に目を落とすと、土の上にまるいものが転がっていた。
ぱっと見は石ころにも見える。けれど拾い上げて裏返してみると、どうやら何かの像らしい。狐なのか狸なのか、猫にも見えなくはないし、そもそも上下が合っているのかどうかも怪しい。けれど、なんとも呑気で可愛らしい顔をしていて、思わず口元が緩んだ。
「風で落ちちゃったのかな」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、僕はその小さな像を空いていた場所へそっと戻した。少し下がって眺めてみると、さっきまでの妙な欠け方がなくなって、全体がきちんと収まった気がする。
なんとなく、その様子をスマートフォンで一枚だけ撮ってから、僕は社務所脇の木箱へ向かった。百円玉を三枚入れて、「勝」と刺繍された小さなお守りをひとつ取り出し、制服のポケットに滑り込ませる。
そのまま帰ろうとして、ふと足が止まった。
少し迷ってから拝殿を振り返り、小銭入れの中から五円玉を取り出す。賽銭箱に放り入れると、乾いた音が静かな境内に小さく響いた。
鈴緒を掴んで、鈴を鳴らす。
がらがら、と少しくたびれた音が鳴って、僕は二度、手を打った。
それから目を閉じて、頭を下げる。
「渚くんが、試合で怪我しませんように。勝てますように」
声に出して願った、その直後だった。
――カタッ。
すぐ近くで、小さな硬い音がした気がして、ひやりと背筋が冷える。思わず顔を上げて振り返ったけれど、もちろん誰もいない。境内は相変わらずしんとしていて、聞こえるのは遠くの車の音くらいだ。
……よかった。誰かに聞かれたわけじゃないらしい。
胸を撫で下ろして拝殿の方へ向き直りかけたところで、また、さっきの小さな祠が目に入った。
並んだ偶像たちが、じっとこちらを見ているような気がして、なんだか急に落ち着かなくなる。
僕は少しためらってから、もう一枚、十円玉を賽銭箱に入れた。
鈴は鳴らさず、もう一度だけ手を打つ。
それから、今度は声に出さずに、心の中でそっと呟いた。
渚くんが、僕を見てくれますように。
また仲良くなれますように。
その瞬間、どこからともなく風が吹き込んだ。
木々がさわりと揺れて、境内の空気がひやりと動く。
遅れて、拝殿の鈴が小さく鳴った。
――からん。
僕は思わず顔を上げる。
さっきまで誰もいなかった境内は、やっぱり変わらず静かなままだった。
十円ぽっちで、そんな都合のいい願いが叶うわけないと、神様に笑われたのかもしれない。
放課後になると、校門のあたりは一気に騒がしくなる。
友達同士で駅の方へ歩いていくグループ、ジャージ姿で体育館へ急ぐ運動部、アルバイトの話をしながら自転車置き場へ向かう人たち。そんな流れを横目に見送りながら、僕はいつも一人で校門を出る。
特に寄り道をする予定があるわけでもないし、誰かと約束をしているわけでもない。ただ、家に帰るだけだ。
……本当は、まっすぐ帰りたいわけじゃない。
体育館に残って、バスケ部の練習を見ていたい。
コートを走る渚くんの姿を、もう少し近くで眺めていたいのだ。
けれど、それはちょっと難しい。
バスケ部には渚くん以外にも人気のある先輩がいて、公式戦の前になると放課後の体育館に女子たちが集まってくる。扉の外から中を覗き込んで、きゃあきゃあ言いながら練習を眺めているのだ。
その輪の中に混ざる勇気なんて、僕にはない。
そもそも男子がひとりであの場所に立っていたら、それだけでかなり目立つ。
だから、放課後の体育館には近づかないようにしている。
ただ、ひとつだけ例外があって、今度、地区予選の試合がある。
試合の日なら、学校の生徒だけじゃなく、保護者や卒業生、他校の関係者も体育館に出入りする。普段よりずっと人が多くなるはずだ。
そういう日に紛れてしまえば、僕がそこにいても、きっと誰も気にしない。
体育館の隅で、こっそり試合を見ているくらいなら、たぶん大丈夫だ。
だから、その日だけは見に行こうと思っている。
スマートフォンのスケジュールアプリを開き、週末の予定をもう一度確かめた。画面を見ているうちに、自然と口元が緩んでしまう、僕はそのままスマートフォンを胸に抱き寄せた。
楽しみで、なんだか足取りまで軽くなる。
本当ならスキップでもしたい気分だけれど、僕はスキップができない。小さい頃に何度か挑戦したことはあるのに、どうしてもあの独特のリズムがうまくつかめなかったのだ。
だから代わりに、少しだけ早足で駅へ向かい、電車に乗る。
自宅の最寄り駅までは五駅ほど。夕方の車内は、学校帰りの学生や仕事帰りの人たちでほどよく混んでいる。
電車を降りて改札を抜けると、いつもの帰り道だ。
駅前の商店街を抜けて住宅街へ入ると、この道には子どもの頃の記憶がいくつも残っていることに気づく。
よく遊んだ児童公園。
毎日通っていた小学校。
お小遣いを握りしめて、駄菓子を買いに行ったスーパー。
それから、住宅街のマンションと古い家に挟まれた、細い路地。
昼でも少し薄暗いその道の奥に、小さな神社がひっそりと建っている。
背の高い建物に囲まれているせいで、外からはほとんど見えない。石の鳥居と、苔の浮いた石段。境内も広いわけではなく、社殿と古い狛犬、それに小さな祠がいくつか並んでいるだけの、こぢんまりとした神社だ。
僕は、その鳥居の前で足を止めた。
ふと、思い出したのだ。
この日枝神社は、正月でもなければ社務所が開いていることはほとんどない。けれど、閉まった引き戸の脇には小さな木箱が置かれていて、中にお守りがいくつか入っていることがある。『ひとつ三百円』そんな札が添えられた、半分無人頒布みたいな形だ。
たしか、白地に金色の糸で「勝」と刺繍された、小さなお守りだった。よくわからないけれど、たぶん試合に勝つとか、そういう意味なんだと思う。
そのことを思い出した瞬間、僕はひとつ、いいことを思いついてしまった。
それを渚くんに渡す。
……いや、渡すというより、そのことを口実に、もう少しちゃんと話すきっかけにできるかもしれない。
渚くんは、なかなか僕を見てくれない。けれど、嫌なことを言ってきたり、意地悪をされたりしたことは一度もない。だから、お守りを渡すくらいなら、できるような気がしている。
それに、もしかしたら少しくらいは喜んでくれるかもしれない。
そう考えたら、立ち止まっていた足が自然と鳥居の先へと向かった。
石段の先の小さな境内は人の気配がなく、しんと静まりかえっている。
ここで、よく渚くんと遊んだ。
僕たちの住んでいるマンションは、この神社から歩いてすぐのところにある。だから放課後でも休みの日でも、なんとなくふたりで来て、石段に座って駄菓子を食べたり、境内の隅でくだらない話をしたりしていた。
ほとんどが楽しかった思い出ばかりだ。
けれど、この場所での最後の記憶に触れると、胸の奥が少しだけ重くなる。
たぶん、あれがきっかけだった。
僕は、いつものじゃれ合いの延長みたいなつもりで、渚くんに抱きついたのだ。
……いや、正直に言えば、その頃にはもう少し気づいていたのかもしれない。
渚くんが、前みたいには僕に触れなくなったこと。話していても、どこか微妙に距離があること。はっきり何かが変わったわけじゃないのに、前とは少し違う空気があること。
それが不安で……だから、渚くんは今もちゃんと僕の友達なんだって、確かめたかった。
そんな気持ちがどこかにあって、僕は子どもの頃みたいに、何も考えずに抱きついてしまったのだ。
でも、たぶん、あれがいけなかったのだと思う。
もうあの時、僕たちは中学生。
小学生の頃みたいな距離感のままでいていいはずがなかったのに、僕だけがそこに置き去りのままだった。
渚くんは、すごく嫌がって、反射みたいに僕を突き飛ばしたのだ。僕は相変わらず運動神経が鈍かったから、そのまま派手に転んでしまって、よりによって石段で頭を打った。
血が出てしまった僕を見て、渚くんは真っ青な顔で大人を呼びに行って、そのまま病院にも付き添ってくれた。傷は思ったより浅くて、何針か縫っただけですんだし、傷跡だって今はほとんど残っていない。
でも。
あの時から、僕たちはうまく話せなくなった。
最初は少し気まずいだけだったはずなのに、気づけばそのまま距離は広がっていって、元に戻すきっかけもないまま、今に至ってしまった。
そんな、少し苦い思い出の残る場所を、けれどどこか懐かしい気持ちで眺める。
久しぶりに来たせいか、小さい頃に見ていたよりも、何もかもが少しずつ小さく見えた。石段も、社殿も、端に並んだ古い祠も、記憶の中よりひと回り縮んでしまったみたいだ。
「あれ」
ふと目に留まったのは、拝殿の脇、少し奥まったところにある小さな祠だった。
昔からそこにあったはずなのに、こんなふうに意識して見たことはなかった気がする。正面の観音開きの板戸が、開いていたのだ。
中には、掌に乗りそうなくらいの小さな神像がいくつか並んでいた。白木の台の上に整然と置かれ、細い注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)まで添えられている。狐にも狛犬にも見える眷属めいた像や、丸みのある石の像が、どれもきちんと前を向いていた。
こんなものがあったなら、きっと覚えているはずだ。
子どもの頃の僕は、渚くんと一緒にこの神社の隅々まで見て回ったし、珍しいものを見つければ騒いでいた。小さくても、こういう可愛らしいものが並んでいたなら、見落とすはずがない。
なのに記憶にない。
不思議に思って、もう少し近づいてみる。
きれいに並んだ神像の列の端、そこだけが、ひとつ分だけぽっかりと不自然に空いていた。
周りはうっすら埃をかぶっているのに、その場所だけは輪郭がくっきり残っていて、ついさっきまで何かが置かれていたみたいに見える。台座の木肌の色まで、そこだけわずかに違っていた。
何気なく足元に目を落とすと、土の上にまるいものが転がっていた。
ぱっと見は石ころにも見える。けれど拾い上げて裏返してみると、どうやら何かの像らしい。狐なのか狸なのか、猫にも見えなくはないし、そもそも上下が合っているのかどうかも怪しい。けれど、なんとも呑気で可愛らしい顔をしていて、思わず口元が緩んだ。
「風で落ちちゃったのかな」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、僕はその小さな像を空いていた場所へそっと戻した。少し下がって眺めてみると、さっきまでの妙な欠け方がなくなって、全体がきちんと収まった気がする。
なんとなく、その様子をスマートフォンで一枚だけ撮ってから、僕は社務所脇の木箱へ向かった。百円玉を三枚入れて、「勝」と刺繍された小さなお守りをひとつ取り出し、制服のポケットに滑り込ませる。
そのまま帰ろうとして、ふと足が止まった。
少し迷ってから拝殿を振り返り、小銭入れの中から五円玉を取り出す。賽銭箱に放り入れると、乾いた音が静かな境内に小さく響いた。
鈴緒を掴んで、鈴を鳴らす。
がらがら、と少しくたびれた音が鳴って、僕は二度、手を打った。
それから目を閉じて、頭を下げる。
「渚くんが、試合で怪我しませんように。勝てますように」
声に出して願った、その直後だった。
――カタッ。
すぐ近くで、小さな硬い音がした気がして、ひやりと背筋が冷える。思わず顔を上げて振り返ったけれど、もちろん誰もいない。境内は相変わらずしんとしていて、聞こえるのは遠くの車の音くらいだ。
……よかった。誰かに聞かれたわけじゃないらしい。
胸を撫で下ろして拝殿の方へ向き直りかけたところで、また、さっきの小さな祠が目に入った。
並んだ偶像たちが、じっとこちらを見ているような気がして、なんだか急に落ち着かなくなる。
僕は少しためらってから、もう一枚、十円玉を賽銭箱に入れた。
鈴は鳴らさず、もう一度だけ手を打つ。
それから、今度は声に出さずに、心の中でそっと呟いた。
渚くんが、僕を見てくれますように。
また仲良くなれますように。
その瞬間、どこからともなく風が吹き込んだ。
木々がさわりと揺れて、境内の空気がひやりと動く。
遅れて、拝殿の鈴が小さく鳴った。
――からん。
僕は思わず顔を上げる。
さっきまで誰もいなかった境内は、やっぱり変わらず静かなままだった。
十円ぽっちで、そんな都合のいい願いが叶うわけないと、神様に笑われたのかもしれない。


