◇
ぱちっと、まぶたが持ち上がる。
明るい。
そう思った次に、慣れた匂いと感触が一気に押し寄せてきた。柔らかい布団。肌に馴染んだシーツの手触り。鼻の奥に残る、自分の部屋の空気。それから、理由のわからない安心感。
その一方で、やけに冴えた頭が、妙な既視感を連れてくる。
よく眠れた――そう感じた次の瞬間、ここ最近は、そのあとに必ず何か良くないことが起きていたのだと思い出して、僕は勢いよくベッドから飛び起きた。
僕の部屋だ。
壁際の本棚。教科書や漫画がぎゅうぎゅうに詰まった棚の端に、積みっぱなしのノートが少し傾いている。窓の下の机には、ペン立てと読みかけの文庫本。椅子の背もたれには制服の上着が雑にかけられていて、ベッドの足元には脱ぎっぱなしの靴下まで転がっていた。
見慣れた、自分の部屋。
「あ……れ……?」
一瞬、記憶が混濁する。
なんで僕はここにいるんだろう。
今まで、僕はどこにいたんだっけ。
部屋の向こう、キッチンの方から、トントントントン、と耳慣れた音が聞こえてくる。
「母さん……」
布団を蹴るみたいにして立ち上がり、僕は部屋を飛び出した。
リビングへ向かうと、母さんが台所でフライパンに卵を落としたところだった。開け放たれたカーテンから朝の光が入り込んで、ダイニングテーブルでは父さんがタブレットを眺めながらコーヒーを飲んでいる。
「夢……?」
思わずそう口に出すと、ふっと父さんが顔を上げた。
「真尋、おはよう」
「え……」
その視線は、はっきりと僕を捉えていた。
そのあとで、くっと目が細まる。
「相変わらず芸術的な寝癖だな」
そう言って父さんが笑う。
母さんもフライパンから顔を上げて、「本当だ」と笑った。
僕は二人の言葉につられるみたいに、自分の頭へ手をやった。あちこち好き勝手に跳ねた髪が、指先に絡まる。
「顔洗っといで。卵二個でいいよね?」
「うん……」
母さんの言葉に頷いて、僕は洗面所へ向かった。
蛇口をひねって水を出す。冷たい水で顔を洗い、タオルで拭いながら、ふと鏡を見上げた。
鏡の中の僕と、目が合う。
「ちゃんと……映ってる」
小さく呟いて、ぺちっと頬を叩いてみる。手にも頬にも、ちゃんと感触が返ってきた。
夢じゃない。
寝巻きのまま食卓につくと、トーストとハムエッグとサラダが並んでいた。トーストをひとくち齧りながら、僕はこっそり父さんと母さんの様子をうかがう。
いつも通りだ。
本当に、何もなかったみたいに。
「二人とも、僕が戻ってきて驚いてないの?」
そう尋ねると、二人そろって「ん?」と眉を上げてこっちを見る。夫婦だから血のつながりなんてないはずなのに、こういう時の表情はなぜかよく似ていた。
「なぁに? どういうこと?」
母さんが、不思議そうに首をかしげる。
「なんでも……ない」
僕はそう返した。
なかったことになっている。
「夢を……見てさ」
夢、だったんだろうか。
「僕が、誰からも見えなくなるっていう」
「透明人間になる夢か」
父さんはタブレットの画面をカチッと暗くして脇へ置くと、立ち上がってコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。そのまま、ちょうど席についた母さんの前へそれを置く。
「夢って、なんか理由があるのよね」
「理由?」
「そうそう。普段の願望とか不安とか、そういうのが夢に出るんだって」
「へぇ……」
母さんの言葉に相槌を打ってから、僕はトーストをもう一口齧った。
夢にしては、鮮明すぎた。
制服に着替えてマンションを出てからも、僕は改めてその『夢』のことを考えていた。
夢の中で感じた気持ちまで、やけに生々しい。曖昧な残像なんかじゃなくて、ちゃんと触れられる記憶みたいに胸の中に残っている。
しかも、日付だけ見れば、夢の中で過ごしたぶんだけ現実の時間も飛び越えているのだ。
ただ、父さんと母さんの中からは、僕がいなかったという事実だけが、ぽっかり抜け落ちているみたいだった。
それが、どうにも変な感じがした。
電車に乗り込んで、僕はスマートフォンを取り出す。
少し迷ってから、検索欄に言葉を打ち込んだ。
――自分が透明人間になる夢。
いくつか出てきた夢占いのページを流し読みする。
『透明人間になる夢は、周囲の目を気にして本当はやりたいことに踏み出せずにいる心理の表れ。
あるいは、運命が変わるきっかけが近づいている暗示。
不安と願望が混ざった夢で、思い切って行動すると良い結果につながることもある――』
「願望、と……不安……」
小さく呟いて、僕はスマホの画面を見つめた。
たしかに、当たっているような気もする。
父さんと母さんだけじゃなくて、学校の様子もいつも通りだった。僕が数日間休んでいたことも、どうやらなかったことになっているらしい。先生はいつも通り「全員いるなー」なんて言いながら、さっさと授業を始めるし、僕が席に座っていても、誰も何も気にしていない。
ちらりと視線を上げた先に、渚くんがいる。
渚くんも、いつも通りだった。
僕のことが見えていないみたいに、少しもこっちを見てくれない渚くん。
(そっか……夢……だったのか)
胸の中で、期待がしゅるしゅると萎んでいく。
結局、現実は何も変わっていないみたいだ。
僕は、実際に見えているかどうかにかかわらず、相変わらず透明人間みたいに存在が薄い。
でも、夢の中では。
夢の中でだけは、渚くんからちゃんと見てもらえていたのにな。
放課後になって、僕はいつものようにそのまま昇降口へ向かった。
特に寄る場所も、やることもない。鞄を肩に掛け直しながら顔を上げて、僕ははっと足を止めた。
渚くんだ。
ちょうど下駄箱のところで、靴を履き替えている。今日は部活が休みなんだろうか。このまま家に帰るのかもしれない。
だとしたら、方向は一緒だ。
声をかけてみようかな。
でも、また冷たくされたらどうしよう。
そんなふうに思うと、足が前に出ない。
そうしているうちに、僕を追い越していったクラスメイトが渚くんへ気軽に声をかけた。
「渚、今日、部活休みなのー?」
「うん、都大会まで少し日があるから、休息日だって」
「地区予選優勝したんだってな。すげぇじゃん、おめでとう」
「ありがとう」
そんな会話が聞こえてくる。
どうやら、渚くんは現実でもバスケの試合に勝ったみたいだ。
よかった。
そう思って、僕は少しだけほっとした。
そのまま肩をすぼめるみたいにしながら、僕は自分の下駄箱へ向かった。無意識に、存在を隠すみたいな動きになっていた。
こそこそと靴をしまっていたつもりだったのに、渚くんに話しかけていた同級生が僕に気づいて、
「永野、またなー」
と思いがけず気さくに声をかけてくる。
僕はびくっとしながらも、「う、うん、バイバイ」とどうにか頷き返した。
その流れで、つい渚くんの方へ視線が向く。
こっちを、見ている。
そのことに、心臓がまた大きく跳ねた。
がちがちに緊張したまま、それでも僕は、どうにか声を絞り出す。
「渚くん……も、バイバイ……」
渚くんは、少しだけ間を置いた。
それから、
「うん、バイバイ」
と頷いた。
(しゃ、喋れた!)
興奮で一気に顔が熱くなる。
でも、そんなの気づかれたくない。僕は必死に顔に力を入れながら、そそくさと靴を履き替えた。
まだ何か雑談を続けている二人の近くには、帰り支度をした同級生たちが他にも集まってきている。僕はその脇を、できるだけ目立たないようにすり抜けようとした。
その途中で、不意に見覚えのあるものが目に入る。
「あ……」
思わず、小さく声が漏れた。
渚くんの鞄の持ち手。
そこに、お守りがついていた。
夢の中であげたのと、同じものだ。
僕の小さな声に気づいたのか、渚くんがふとこちらに視線を向けた。
ばちっと目が合ってしまって、そのせいで僕の顔はさらに熱くなる。
「部活休みならさ、たまにはみんなでカラオケとか行かね?」
「いいねー! 行こ行こ!」
「他のバスケ部のやつとかにも声かけてみようぜ」
そんなふうに盛り上がる声がして、誰かが渚くんの肩に手を置いている。
僕は思いがけず合ってしまった視線を逸らして、そのまま昇降口の方へ歩き出した。
「ごめん」
背中の方で、渚くんの声がする。
「今日、約束あってさ」
「え、そうなんだ、残念」
「約束ってなに? あ! まさか! 清水さんとデートじゃないだろうな!」
「違うってば」
清水さん、という名前にちくりと胸を痛めながらも、僕はみんなの会話を耳に入れつつ足を止めなかった。
「じゃあね」
「ばいばーい」
「また明日ー」
「気をつけて帰れよー」
そんな声があちこちで飛び交う。昇降口には、部活帰りの生徒や、もうネクタイをゆるめた生徒たちが次々に流れ込んできて、靴箱の前はちょっとした渋滞みたいになっていた。笑い声と、靴を履き替える音と、扉の開く音が重なって、放課後らしいざわめきが広がっている。
僕はその流れに紛れるように、なるべく目立たない足取りでその場を離れた。
「真尋!」
ざわめきに混じって、ふいに自分の名前が耳に引っかかる。
立ち止まって振り返ると、渚くんが小走りでこっちへ向かってきていた。
「え、えっ?」
思わず、間抜けな声が出た。
「ど、どうしたの、渚くん」
できるだけ自然に言おうとしたのに、咄嗟のことだったせいで声が少し裏返ってしまう。
「真尋……あのさ……」
渚くんは僕の前で足を止めると、何か言いかけて、少しだけ言葉に迷うみたいに視線を揺らした。
なんだろう。
渚くんが、僕に用だなんて。
期待と不安がいっぺんに胸の中で膨らんで、落ち着かないまま、僕はその続きを待った。
「一緒に帰ろ」
その言葉に、思わず瞬いた。
でもすぐに、渚くんが少しだけ不安そうな顔をしていることに気づく。意を決して声をかけてくれた、そんな表情だった。
だから僕は慌てて、
「う、うん。帰ろ」
と頷く。
すると渚くんは、ほんの少しだけ肩の力を抜いて、ほっとしたように息をついた。
夢の中で僕は、渚くんと手を繋いで歩いた。抱きしめられたし、キスまでした。
それなのに今は、少し距離を空けて隣を歩いているだけで、喉の奥から心臓が飛び出してきそうだった。
たまたま帰るタイミングが一緒で、声をかけてくれたんだ。
せっかくなら、ちゃんと何か話さなきゃ。渚くんが、僕と一緒に帰ってよかったとか、話せて楽しかったとか、そう思ってくれるようなことを。
そう思うのに、頭の中がぐるぐるするばかりで、ちっとも言葉が出てこない。
気づけば、僕たちはしばらく何も話さないまま歩いていた。
やばい。
早く、何か。話題を――。
「や、約束って……だれと?」
「え?」
聞き返されて、僕は内心で一気に固まる。
間違えた。
こんなの、探るみたいじゃん。干渉しすぎだし、気持ち悪いかもしれない。
もっとこう、天気の話とか。今日の先生の話とか。
いやでも、そんなのも全然面白くない。そもそも僕は、普通の雑談がそんなに得意じゃない。どうしよう。
「あ、あの、あのさ……」
舌がもつれて、情けないくらい言葉にならない。
僕がそんなふうに馬鹿みたいに口をぱくぱくさせていると、渚くんが「ああ」と何か思い当たったみたいに視線を上げた。
「あれね。嘘だよ」
「う、嘘?」
僕はおずおずと首を傾げる。
「うん。約束なんてないよ」
「え、じゃ、じゃあ……なんで……」
そこまで言ってから、また声が小さくなる。
渚くんは少しだけ視線を逸らしたあと、でもちゃんと聞こえる声で言った。
「真尋と……たまには、一緒に帰りたいなって思って」
「んぐっ……!」
変なところで空気を吸い込んでしまって、僕は思いきり喉を詰まらせた。
「嫌だった?」
そんな僕の顔を、渚くんが不意に覗き込んでくる。
だめだ。心臓がもたない。
僕はきゅっと表情を引き結んで、必死に首を横に振った。
「い、嫌じゃないっ……嬉しいっ……」
そう言うと、渚くんは少し安心したみたいに、ふっと口角を上げた。
「よかった……」
小さくそう呟かれて、今度は僕の方がまともに前を向けなくなる。
「お礼、言いたかったんだ。真尋に」
「お礼? なんの?」
「これ……さ」
そう言いながら、渚くんは鞄につけたお守りを軽く摘んだ。
「くれたの、真尋でしょ?」
「あ……えっと……」
言葉に詰まったのは、恥ずかしかったからというのもある。けれどそれだけじゃなくて、実際、そのお守りが本当に僕があげたものなのか、自分でも少し自信がなかった。
夢の中で、たしかに僕はこれと同じものを渚くんに渡した。
でも、現実ではどういうことになっているんだろう。
「ブレザーのポケットに急に入ってたからさ、びっくりした」
その時のことを思い出すみたいに、渚くんは進む先の少し前へ視線を落として、目を細めた。
それは、夢の中で僕がしたのと同じだ。
じゃあ、これは僕があげたお守りってことで、たぶん、いいんだろう。
「ごめんね……驚かせて」
「んーん、嬉しかった」
渚くんのその「嬉しかった」を、僕は心の中で何度も反芻した。
口元が緩みそうになるのを誤魔化すみたいに、少しだけ俯く。
「必勝祈願したんだ」
そう言うと、渚くんが「そっか」と小さく笑った。
「ちゃんと効いたね」
「うん」
もちろん、渚くん自身の努力があったからこそ、とは思う。
けれど、そういう言い方をしてくれる渚くんの優しさが嬉しくて、僕は素直に頷いた。
「じゃあさ」
少しの沈黙のあと、渚くんがお守りを指先で揺らしながら言う。
「今から、お礼言いに行かない?」
「お礼……?」
「これ、日枝神社のやつでしょ? お礼参りっていうの? 行こうよ」
その言葉に、僕は思わず足を止めそうになった。
神社。
日枝神社。
夢で、見た気がする。
でも、そこでふと気がついた。今朝までは鮮明だったはずの『夢』の中の出来事が、少しずつ曖昧になってきている。何か大事なことがあった気がするのに、思い出そうとすると、その先だけが霞んでいく。
「真尋?」
「ん、えっ?」
「行かない?」
記憶をたどっているうちに、変な間が空いてしまっていたらしい。
僕は慌てて、
「行く!」
と大きく頷いた。
◇
久しぶりに、渚くんと二人で訪れた日枝神社の境内は、まだ明るい時間なのに、相変わらず少し薄暗くて、ひんやりとした空気をまとっていた。
「なんか、久しぶりなはずなのに……そんな感じがしないな」
渚くんが、鳥居をくぐりながらそんなふうに呟く。
僕はその横顔をちらりと見上げた。
たしかに、僕も似たようなことを感じていた。二週間ほど前にもきた場所ではある。けれど、それだけじゃない。もっと最近ここにいたような、ついさっきまでこの石段や、苔の浮いた狛犬や、薄暗い境内を見ていたような、妙に生々しい既視感が胸の奥に残っている。
でも、その輪郭だけが曖昧だった。
静かなはずの境内で、ふいに、ざりっと砂を踏む音がした。
普段なら人なんてほとんどいないのに、今日は先客がいた。僕たちのおばあちゃんくらいの年齢の女性で、作業着みたいなジャンパーを着ている。足元には箒と塵取り、それから手には雑巾。拝殿の横にある小さな祠を、丁寧に拭いていた。
「こんにちは」
先に声をかけたのは渚くんだった。僕もそれに続いて頭を下げる。
おばあさんは顔を上げて、「ああ、どうもこんにちは」と愛想よく答えてから、また祠を拭き始めた。
「あんなところに、あったっけ?」
僕がさっき思ったことを、そのまま渚くんが口にする。
「ね、あったっけ」
と、僕も小さく相槌を返した。
祠の両開きの小さな戸は閉じられていて、中に何が祀られているのかは見えない。最近置かれたにしては木の色に年季があるし、僕たちが遊びに夢中で気づいていなかっただけなんだろうか。
僕たちの声が聞こえていたのか、おばあさんが手を止めてこちらを見た。
「ああ、これねぇ。昔っからあるのよ」
「そうなんですか」
渚くんがそう返すと、おばあさんは雑巾で祠の角を撫でながら、少しだけ目を細めた。
「小さい祠だけどね、ここの神様はよう気がつくって言われてるの。ちゃんと手をかけたり、心をこめてお願いしたりした人には、きちんと返してくれるんだってさ」
「返してくれる?」
僕が聞き返すと、おばあさんは、うんうんと頷く。
「なくしたもんとか、切れかけた縁とかね。そういうのを、するっと元のところに戻してくれるって。昔はこの辺でも、よう言われとったよ」
穏やかな口ぶりだった。いかにも昔話をそのまま信じてます、みたいな押しつけがましさもなくて、ただ、そういう話があるんだよと教えてくれる感じだった。
「へぇ……」
渚くんが感心したみたいに声を漏らす。僕もつられて、「へぇ……」と同じような相槌を打った。
なくしたもの。切れかけた縁。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちたきがした。
おばあさんは拭き掃除を終えたらしく、しゃがんでいた膝を伸ばして立ち上がった。それから足元の箒と塵取りを手に取る。
「ほら、あんまりのんびりしてると暗くなるよ」
子どもに言い聞かせるみたいな優しい口調で、そう言って笑う。
「気をつけて帰りなさいね」
「はい」
「ありがとうございます」
僕たちがそれぞれ返事をすると、おばあさんは満足そうに頷いて、鳥居の向こうへゆっくり歩いていった。
さっきから胸に残っている不思議な感覚。
拝殿の前まで来て、渚くんと並んで立つ。鞄の中の財布を漁りながら、僕は頭の中でもやついていたものを、ぽつぽつと言葉にした。
「なんかね、僕……変な夢みたんだよね」
「夢?」
財布から百円玉を取り出した渚くんが、顔を上げる。
「うん、そう……すっごく変な夢」
「どんな?」
そう言って、渚くんが賽銭箱に硬貨を入れると、からん、と乾いた音が境内に響いた。
「うんと、ちょっとあやふやなんだけどね……僕、夢の中で渚くんと、昔みたいにいっぱい話した気がする」
「どんな、話した?」
「うーん、ほとんど覚えてないんだけど」
僕も小銭を投げ入れ、手を合わせる。
なんだっけ。さっきまではもっと覚えていた気がするのに、思い出そうとすると、その先だけが霞んでいく。
でも、ひとつだけ浮かんだ。
「僕は渚くんと、約束をした」
「どんな?」
そう聞きながら、渚くんは手を合わせて、ゆっくり瞼を閉じていく。
このまま話し続けていいのかな、と思いつつも、忘れる前に、僕は口に出していた。
「試合に勝ったら、ハイタッチしようねって」
ちょっと幼稚だけど、思わず口元が綻んでしまうような、そんな約束。
僕は渚くんと同じように、手を合わせてゆっくり目を閉じた。
何をお願いしようかな。
まずは、渚くんの試合を見守ってくれてありがとうございます。
それから、今日、渚くんと一緒に帰れて嬉しい。
でも、もう少し、もっといっぱい話がしたい。
それから、それから――
「真尋」
不意に名前を呼ばれて、僕は目を開いた。
それとほとんど同時に、ふっと目の前に影が落ちる。
手を包む温かい感触のあと、渚くんの唇が、そっと僕の唇に重なった。
驚いて目を見開いてしまう。
でも、なぜか目の前にある長いまつげを、この距離で見たことがあるような気がした。
今日は不思議なことが続いている。
呆然と立ち尽くした僕の手を握ったまま、渚くんはゆっくりと顔を離していった。
「あ、あの……」
戸惑う僕に、渚くんは穏やかで、でも少しだけいたずらっぽい笑みを返した。
「俺、試合に勝ったから、ハイタッチしよ」
そう言って、握った僕の手を胸の高さまで持ち上げる。
もう繋いでいたはずなのに、そこから向きを変えて、ハイタッチをするみたいに、お互い向かい合って手を合わせた。
「な、渚くん……い、今の……」
「俺もね、真尋」
「ふ、ふぇっ?!」
こんな時に、なんでアホみたいな声が出るんだろう。
遅れて熱が込み上げてきた。顔の奥がかっと熱くなって、胸のあたりが苦しいくらい脈打つ。呼吸までうまくできなくなって、立っているだけで精一杯だった。
「俺も、真尋と、同じ夢を見たよ」
きゅっと、合わせた指が絡み合った。
渚くんの表情は、どこか照れたみたいでもあり、でもちゃんとまっすぐに僕を見ている。
その視線に引っ張られるみたいに、僕はそっと目を閉じた。
おわり
ぱちっと、まぶたが持ち上がる。
明るい。
そう思った次に、慣れた匂いと感触が一気に押し寄せてきた。柔らかい布団。肌に馴染んだシーツの手触り。鼻の奥に残る、自分の部屋の空気。それから、理由のわからない安心感。
その一方で、やけに冴えた頭が、妙な既視感を連れてくる。
よく眠れた――そう感じた次の瞬間、ここ最近は、そのあとに必ず何か良くないことが起きていたのだと思い出して、僕は勢いよくベッドから飛び起きた。
僕の部屋だ。
壁際の本棚。教科書や漫画がぎゅうぎゅうに詰まった棚の端に、積みっぱなしのノートが少し傾いている。窓の下の机には、ペン立てと読みかけの文庫本。椅子の背もたれには制服の上着が雑にかけられていて、ベッドの足元には脱ぎっぱなしの靴下まで転がっていた。
見慣れた、自分の部屋。
「あ……れ……?」
一瞬、記憶が混濁する。
なんで僕はここにいるんだろう。
今まで、僕はどこにいたんだっけ。
部屋の向こう、キッチンの方から、トントントントン、と耳慣れた音が聞こえてくる。
「母さん……」
布団を蹴るみたいにして立ち上がり、僕は部屋を飛び出した。
リビングへ向かうと、母さんが台所でフライパンに卵を落としたところだった。開け放たれたカーテンから朝の光が入り込んで、ダイニングテーブルでは父さんがタブレットを眺めながらコーヒーを飲んでいる。
「夢……?」
思わずそう口に出すと、ふっと父さんが顔を上げた。
「真尋、おはよう」
「え……」
その視線は、はっきりと僕を捉えていた。
そのあとで、くっと目が細まる。
「相変わらず芸術的な寝癖だな」
そう言って父さんが笑う。
母さんもフライパンから顔を上げて、「本当だ」と笑った。
僕は二人の言葉につられるみたいに、自分の頭へ手をやった。あちこち好き勝手に跳ねた髪が、指先に絡まる。
「顔洗っといで。卵二個でいいよね?」
「うん……」
母さんの言葉に頷いて、僕は洗面所へ向かった。
蛇口をひねって水を出す。冷たい水で顔を洗い、タオルで拭いながら、ふと鏡を見上げた。
鏡の中の僕と、目が合う。
「ちゃんと……映ってる」
小さく呟いて、ぺちっと頬を叩いてみる。手にも頬にも、ちゃんと感触が返ってきた。
夢じゃない。
寝巻きのまま食卓につくと、トーストとハムエッグとサラダが並んでいた。トーストをひとくち齧りながら、僕はこっそり父さんと母さんの様子をうかがう。
いつも通りだ。
本当に、何もなかったみたいに。
「二人とも、僕が戻ってきて驚いてないの?」
そう尋ねると、二人そろって「ん?」と眉を上げてこっちを見る。夫婦だから血のつながりなんてないはずなのに、こういう時の表情はなぜかよく似ていた。
「なぁに? どういうこと?」
母さんが、不思議そうに首をかしげる。
「なんでも……ない」
僕はそう返した。
なかったことになっている。
「夢を……見てさ」
夢、だったんだろうか。
「僕が、誰からも見えなくなるっていう」
「透明人間になる夢か」
父さんはタブレットの画面をカチッと暗くして脇へ置くと、立ち上がってコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。そのまま、ちょうど席についた母さんの前へそれを置く。
「夢って、なんか理由があるのよね」
「理由?」
「そうそう。普段の願望とか不安とか、そういうのが夢に出るんだって」
「へぇ……」
母さんの言葉に相槌を打ってから、僕はトーストをもう一口齧った。
夢にしては、鮮明すぎた。
制服に着替えてマンションを出てからも、僕は改めてその『夢』のことを考えていた。
夢の中で感じた気持ちまで、やけに生々しい。曖昧な残像なんかじゃなくて、ちゃんと触れられる記憶みたいに胸の中に残っている。
しかも、日付だけ見れば、夢の中で過ごしたぶんだけ現実の時間も飛び越えているのだ。
ただ、父さんと母さんの中からは、僕がいなかったという事実だけが、ぽっかり抜け落ちているみたいだった。
それが、どうにも変な感じがした。
電車に乗り込んで、僕はスマートフォンを取り出す。
少し迷ってから、検索欄に言葉を打ち込んだ。
――自分が透明人間になる夢。
いくつか出てきた夢占いのページを流し読みする。
『透明人間になる夢は、周囲の目を気にして本当はやりたいことに踏み出せずにいる心理の表れ。
あるいは、運命が変わるきっかけが近づいている暗示。
不安と願望が混ざった夢で、思い切って行動すると良い結果につながることもある――』
「願望、と……不安……」
小さく呟いて、僕はスマホの画面を見つめた。
たしかに、当たっているような気もする。
父さんと母さんだけじゃなくて、学校の様子もいつも通りだった。僕が数日間休んでいたことも、どうやらなかったことになっているらしい。先生はいつも通り「全員いるなー」なんて言いながら、さっさと授業を始めるし、僕が席に座っていても、誰も何も気にしていない。
ちらりと視線を上げた先に、渚くんがいる。
渚くんも、いつも通りだった。
僕のことが見えていないみたいに、少しもこっちを見てくれない渚くん。
(そっか……夢……だったのか)
胸の中で、期待がしゅるしゅると萎んでいく。
結局、現実は何も変わっていないみたいだ。
僕は、実際に見えているかどうかにかかわらず、相変わらず透明人間みたいに存在が薄い。
でも、夢の中では。
夢の中でだけは、渚くんからちゃんと見てもらえていたのにな。
放課後になって、僕はいつものようにそのまま昇降口へ向かった。
特に寄る場所も、やることもない。鞄を肩に掛け直しながら顔を上げて、僕ははっと足を止めた。
渚くんだ。
ちょうど下駄箱のところで、靴を履き替えている。今日は部活が休みなんだろうか。このまま家に帰るのかもしれない。
だとしたら、方向は一緒だ。
声をかけてみようかな。
でも、また冷たくされたらどうしよう。
そんなふうに思うと、足が前に出ない。
そうしているうちに、僕を追い越していったクラスメイトが渚くんへ気軽に声をかけた。
「渚、今日、部活休みなのー?」
「うん、都大会まで少し日があるから、休息日だって」
「地区予選優勝したんだってな。すげぇじゃん、おめでとう」
「ありがとう」
そんな会話が聞こえてくる。
どうやら、渚くんは現実でもバスケの試合に勝ったみたいだ。
よかった。
そう思って、僕は少しだけほっとした。
そのまま肩をすぼめるみたいにしながら、僕は自分の下駄箱へ向かった。無意識に、存在を隠すみたいな動きになっていた。
こそこそと靴をしまっていたつもりだったのに、渚くんに話しかけていた同級生が僕に気づいて、
「永野、またなー」
と思いがけず気さくに声をかけてくる。
僕はびくっとしながらも、「う、うん、バイバイ」とどうにか頷き返した。
その流れで、つい渚くんの方へ視線が向く。
こっちを、見ている。
そのことに、心臓がまた大きく跳ねた。
がちがちに緊張したまま、それでも僕は、どうにか声を絞り出す。
「渚くん……も、バイバイ……」
渚くんは、少しだけ間を置いた。
それから、
「うん、バイバイ」
と頷いた。
(しゃ、喋れた!)
興奮で一気に顔が熱くなる。
でも、そんなの気づかれたくない。僕は必死に顔に力を入れながら、そそくさと靴を履き替えた。
まだ何か雑談を続けている二人の近くには、帰り支度をした同級生たちが他にも集まってきている。僕はその脇を、できるだけ目立たないようにすり抜けようとした。
その途中で、不意に見覚えのあるものが目に入る。
「あ……」
思わず、小さく声が漏れた。
渚くんの鞄の持ち手。
そこに、お守りがついていた。
夢の中であげたのと、同じものだ。
僕の小さな声に気づいたのか、渚くんがふとこちらに視線を向けた。
ばちっと目が合ってしまって、そのせいで僕の顔はさらに熱くなる。
「部活休みならさ、たまにはみんなでカラオケとか行かね?」
「いいねー! 行こ行こ!」
「他のバスケ部のやつとかにも声かけてみようぜ」
そんなふうに盛り上がる声がして、誰かが渚くんの肩に手を置いている。
僕は思いがけず合ってしまった視線を逸らして、そのまま昇降口の方へ歩き出した。
「ごめん」
背中の方で、渚くんの声がする。
「今日、約束あってさ」
「え、そうなんだ、残念」
「約束ってなに? あ! まさか! 清水さんとデートじゃないだろうな!」
「違うってば」
清水さん、という名前にちくりと胸を痛めながらも、僕はみんなの会話を耳に入れつつ足を止めなかった。
「じゃあね」
「ばいばーい」
「また明日ー」
「気をつけて帰れよー」
そんな声があちこちで飛び交う。昇降口には、部活帰りの生徒や、もうネクタイをゆるめた生徒たちが次々に流れ込んできて、靴箱の前はちょっとした渋滞みたいになっていた。笑い声と、靴を履き替える音と、扉の開く音が重なって、放課後らしいざわめきが広がっている。
僕はその流れに紛れるように、なるべく目立たない足取りでその場を離れた。
「真尋!」
ざわめきに混じって、ふいに自分の名前が耳に引っかかる。
立ち止まって振り返ると、渚くんが小走りでこっちへ向かってきていた。
「え、えっ?」
思わず、間抜けな声が出た。
「ど、どうしたの、渚くん」
できるだけ自然に言おうとしたのに、咄嗟のことだったせいで声が少し裏返ってしまう。
「真尋……あのさ……」
渚くんは僕の前で足を止めると、何か言いかけて、少しだけ言葉に迷うみたいに視線を揺らした。
なんだろう。
渚くんが、僕に用だなんて。
期待と不安がいっぺんに胸の中で膨らんで、落ち着かないまま、僕はその続きを待った。
「一緒に帰ろ」
その言葉に、思わず瞬いた。
でもすぐに、渚くんが少しだけ不安そうな顔をしていることに気づく。意を決して声をかけてくれた、そんな表情だった。
だから僕は慌てて、
「う、うん。帰ろ」
と頷く。
すると渚くんは、ほんの少しだけ肩の力を抜いて、ほっとしたように息をついた。
夢の中で僕は、渚くんと手を繋いで歩いた。抱きしめられたし、キスまでした。
それなのに今は、少し距離を空けて隣を歩いているだけで、喉の奥から心臓が飛び出してきそうだった。
たまたま帰るタイミングが一緒で、声をかけてくれたんだ。
せっかくなら、ちゃんと何か話さなきゃ。渚くんが、僕と一緒に帰ってよかったとか、話せて楽しかったとか、そう思ってくれるようなことを。
そう思うのに、頭の中がぐるぐるするばかりで、ちっとも言葉が出てこない。
気づけば、僕たちはしばらく何も話さないまま歩いていた。
やばい。
早く、何か。話題を――。
「や、約束って……だれと?」
「え?」
聞き返されて、僕は内心で一気に固まる。
間違えた。
こんなの、探るみたいじゃん。干渉しすぎだし、気持ち悪いかもしれない。
もっとこう、天気の話とか。今日の先生の話とか。
いやでも、そんなのも全然面白くない。そもそも僕は、普通の雑談がそんなに得意じゃない。どうしよう。
「あ、あの、あのさ……」
舌がもつれて、情けないくらい言葉にならない。
僕がそんなふうに馬鹿みたいに口をぱくぱくさせていると、渚くんが「ああ」と何か思い当たったみたいに視線を上げた。
「あれね。嘘だよ」
「う、嘘?」
僕はおずおずと首を傾げる。
「うん。約束なんてないよ」
「え、じゃ、じゃあ……なんで……」
そこまで言ってから、また声が小さくなる。
渚くんは少しだけ視線を逸らしたあと、でもちゃんと聞こえる声で言った。
「真尋と……たまには、一緒に帰りたいなって思って」
「んぐっ……!」
変なところで空気を吸い込んでしまって、僕は思いきり喉を詰まらせた。
「嫌だった?」
そんな僕の顔を、渚くんが不意に覗き込んでくる。
だめだ。心臓がもたない。
僕はきゅっと表情を引き結んで、必死に首を横に振った。
「い、嫌じゃないっ……嬉しいっ……」
そう言うと、渚くんは少し安心したみたいに、ふっと口角を上げた。
「よかった……」
小さくそう呟かれて、今度は僕の方がまともに前を向けなくなる。
「お礼、言いたかったんだ。真尋に」
「お礼? なんの?」
「これ……さ」
そう言いながら、渚くんは鞄につけたお守りを軽く摘んだ。
「くれたの、真尋でしょ?」
「あ……えっと……」
言葉に詰まったのは、恥ずかしかったからというのもある。けれどそれだけじゃなくて、実際、そのお守りが本当に僕があげたものなのか、自分でも少し自信がなかった。
夢の中で、たしかに僕はこれと同じものを渚くんに渡した。
でも、現実ではどういうことになっているんだろう。
「ブレザーのポケットに急に入ってたからさ、びっくりした」
その時のことを思い出すみたいに、渚くんは進む先の少し前へ視線を落として、目を細めた。
それは、夢の中で僕がしたのと同じだ。
じゃあ、これは僕があげたお守りってことで、たぶん、いいんだろう。
「ごめんね……驚かせて」
「んーん、嬉しかった」
渚くんのその「嬉しかった」を、僕は心の中で何度も反芻した。
口元が緩みそうになるのを誤魔化すみたいに、少しだけ俯く。
「必勝祈願したんだ」
そう言うと、渚くんが「そっか」と小さく笑った。
「ちゃんと効いたね」
「うん」
もちろん、渚くん自身の努力があったからこそ、とは思う。
けれど、そういう言い方をしてくれる渚くんの優しさが嬉しくて、僕は素直に頷いた。
「じゃあさ」
少しの沈黙のあと、渚くんがお守りを指先で揺らしながら言う。
「今から、お礼言いに行かない?」
「お礼……?」
「これ、日枝神社のやつでしょ? お礼参りっていうの? 行こうよ」
その言葉に、僕は思わず足を止めそうになった。
神社。
日枝神社。
夢で、見た気がする。
でも、そこでふと気がついた。今朝までは鮮明だったはずの『夢』の中の出来事が、少しずつ曖昧になってきている。何か大事なことがあった気がするのに、思い出そうとすると、その先だけが霞んでいく。
「真尋?」
「ん、えっ?」
「行かない?」
記憶をたどっているうちに、変な間が空いてしまっていたらしい。
僕は慌てて、
「行く!」
と大きく頷いた。
◇
久しぶりに、渚くんと二人で訪れた日枝神社の境内は、まだ明るい時間なのに、相変わらず少し薄暗くて、ひんやりとした空気をまとっていた。
「なんか、久しぶりなはずなのに……そんな感じがしないな」
渚くんが、鳥居をくぐりながらそんなふうに呟く。
僕はその横顔をちらりと見上げた。
たしかに、僕も似たようなことを感じていた。二週間ほど前にもきた場所ではある。けれど、それだけじゃない。もっと最近ここにいたような、ついさっきまでこの石段や、苔の浮いた狛犬や、薄暗い境内を見ていたような、妙に生々しい既視感が胸の奥に残っている。
でも、その輪郭だけが曖昧だった。
静かなはずの境内で、ふいに、ざりっと砂を踏む音がした。
普段なら人なんてほとんどいないのに、今日は先客がいた。僕たちのおばあちゃんくらいの年齢の女性で、作業着みたいなジャンパーを着ている。足元には箒と塵取り、それから手には雑巾。拝殿の横にある小さな祠を、丁寧に拭いていた。
「こんにちは」
先に声をかけたのは渚くんだった。僕もそれに続いて頭を下げる。
おばあさんは顔を上げて、「ああ、どうもこんにちは」と愛想よく答えてから、また祠を拭き始めた。
「あんなところに、あったっけ?」
僕がさっき思ったことを、そのまま渚くんが口にする。
「ね、あったっけ」
と、僕も小さく相槌を返した。
祠の両開きの小さな戸は閉じられていて、中に何が祀られているのかは見えない。最近置かれたにしては木の色に年季があるし、僕たちが遊びに夢中で気づいていなかっただけなんだろうか。
僕たちの声が聞こえていたのか、おばあさんが手を止めてこちらを見た。
「ああ、これねぇ。昔っからあるのよ」
「そうなんですか」
渚くんがそう返すと、おばあさんは雑巾で祠の角を撫でながら、少しだけ目を細めた。
「小さい祠だけどね、ここの神様はよう気がつくって言われてるの。ちゃんと手をかけたり、心をこめてお願いしたりした人には、きちんと返してくれるんだってさ」
「返してくれる?」
僕が聞き返すと、おばあさんは、うんうんと頷く。
「なくしたもんとか、切れかけた縁とかね。そういうのを、するっと元のところに戻してくれるって。昔はこの辺でも、よう言われとったよ」
穏やかな口ぶりだった。いかにも昔話をそのまま信じてます、みたいな押しつけがましさもなくて、ただ、そういう話があるんだよと教えてくれる感じだった。
「へぇ……」
渚くんが感心したみたいに声を漏らす。僕もつられて、「へぇ……」と同じような相槌を打った。
なくしたもの。切れかけた縁。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちたきがした。
おばあさんは拭き掃除を終えたらしく、しゃがんでいた膝を伸ばして立ち上がった。それから足元の箒と塵取りを手に取る。
「ほら、あんまりのんびりしてると暗くなるよ」
子どもに言い聞かせるみたいな優しい口調で、そう言って笑う。
「気をつけて帰りなさいね」
「はい」
「ありがとうございます」
僕たちがそれぞれ返事をすると、おばあさんは満足そうに頷いて、鳥居の向こうへゆっくり歩いていった。
さっきから胸に残っている不思議な感覚。
拝殿の前まで来て、渚くんと並んで立つ。鞄の中の財布を漁りながら、僕は頭の中でもやついていたものを、ぽつぽつと言葉にした。
「なんかね、僕……変な夢みたんだよね」
「夢?」
財布から百円玉を取り出した渚くんが、顔を上げる。
「うん、そう……すっごく変な夢」
「どんな?」
そう言って、渚くんが賽銭箱に硬貨を入れると、からん、と乾いた音が境内に響いた。
「うんと、ちょっとあやふやなんだけどね……僕、夢の中で渚くんと、昔みたいにいっぱい話した気がする」
「どんな、話した?」
「うーん、ほとんど覚えてないんだけど」
僕も小銭を投げ入れ、手を合わせる。
なんだっけ。さっきまではもっと覚えていた気がするのに、思い出そうとすると、その先だけが霞んでいく。
でも、ひとつだけ浮かんだ。
「僕は渚くんと、約束をした」
「どんな?」
そう聞きながら、渚くんは手を合わせて、ゆっくり瞼を閉じていく。
このまま話し続けていいのかな、と思いつつも、忘れる前に、僕は口に出していた。
「試合に勝ったら、ハイタッチしようねって」
ちょっと幼稚だけど、思わず口元が綻んでしまうような、そんな約束。
僕は渚くんと同じように、手を合わせてゆっくり目を閉じた。
何をお願いしようかな。
まずは、渚くんの試合を見守ってくれてありがとうございます。
それから、今日、渚くんと一緒に帰れて嬉しい。
でも、もう少し、もっといっぱい話がしたい。
それから、それから――
「真尋」
不意に名前を呼ばれて、僕は目を開いた。
それとほとんど同時に、ふっと目の前に影が落ちる。
手を包む温かい感触のあと、渚くんの唇が、そっと僕の唇に重なった。
驚いて目を見開いてしまう。
でも、なぜか目の前にある長いまつげを、この距離で見たことがあるような気がした。
今日は不思議なことが続いている。
呆然と立ち尽くした僕の手を握ったまま、渚くんはゆっくりと顔を離していった。
「あ、あの……」
戸惑う僕に、渚くんは穏やかで、でも少しだけいたずらっぽい笑みを返した。
「俺、試合に勝ったから、ハイタッチしよ」
そう言って、握った僕の手を胸の高さまで持ち上げる。
もう繋いでいたはずなのに、そこから向きを変えて、ハイタッチをするみたいに、お互い向かい合って手を合わせた。
「な、渚くん……い、今の……」
「俺もね、真尋」
「ふ、ふぇっ?!」
こんな時に、なんでアホみたいな声が出るんだろう。
遅れて熱が込み上げてきた。顔の奥がかっと熱くなって、胸のあたりが苦しいくらい脈打つ。呼吸までうまくできなくなって、立っているだけで精一杯だった。
「俺も、真尋と、同じ夢を見たよ」
きゅっと、合わせた指が絡み合った。
渚くんの表情は、どこか照れたみたいでもあり、でもちゃんとまっすぐに僕を見ている。
その視線に引っ張られるみたいに、僕はそっと目を閉じた。
おわり


