◇
日枝神社の境内は、相変わらず昼間だというのに薄暗かった。
僕は拝殿の前の石段に腰を下ろし、膝を抱えて「はぁ……」と息を吐く。
渚くんの試合が終わったあと、僕はひとりで、あの日の行動をもう一度たどっていた。
日曜日の校舎には入れなかったから、スタートは校門から、ということになる。
そうして考えてみても、やっぱりあの日、特別変わったことは何もしていない。
まっすぐ家に帰ろうとして、
その途中で、この神社に寄った。
本当に、それくらいだ。
何度思い返してみても、戻る方法なんてさっぱりわからなかった。
「やっぱり、ダメなのかなぁ」
もう戻れない。そんな不安を、あえて声に出して紛らわせてみる。
「でもさぁ、四十九日までまだだいぶあるよ。もう少し待遇良くしてくれてもいいと思うけどなぁ」
神社って、神様がいる場所なんだっけ。
その神様に向けて、僕は少しだけ悪態をついた。
でも、もしかしたら神様は優しいのかもしれない。
僕の願いを、最後に叶えてくれた。
渚くんの試合を見たい。
渚くんともっと話したかった。
それから――
ふっと、触れ合った唇の感触を思い出す。
渚くん、まつげ、長かったなぁ。
今さらみたいに顔が熱くなってきて、誰にも見られていないのに、僕は両手で頬を覆った。
最後に神様が見せてくれた、すごく都合のいい夢。
そんなふうにも思える。
だったら、感謝するべきなんだろうか。
でも、あんなことがあったら、余計に未練が残ってしまう。
渚くんとのこの先を、ほんの少しだけ期待してしまった。
けれど、それももう無理なんだろうな、と思うと、やっぱり気持ちは沈んだ。
その時、ふっと視界の端に何かが引っかかった。
「あれ……」
気になって、僕は石段から立ち上がる。
地面に転がっていたのは、丸みを帯びた小さな石だった。
でも、ただの石にしては形ができすぎている。周囲の石や土の中で、それだけが妙に意思のある輪郭をしていた。
僕はそっと歩み寄る。
拾い上げてみると、それは何かをかたどった小さな像のようだった。狐なのか、狸なのか、猫にも見えなくはない。そもそも上下がどちらなのかもぱっと見ではわからない。けれど、なんとも呑気で、少し気の抜けたような、妙に可愛らしい顔をしている。
その姿を見た瞬間、頭の奥で何かがひっかかった。
――見たことがある。
そんな感覚が、急に胸の内に広がる。
同じような光景を、僕はどこかで見た。
気のせいじゃない。
ざわ、と背筋が粟立った。
その時、ふいに渚くんの言葉が蘇る。
――『もしかしたら、それだけじゃなくて別のきっかけがあるのかもしれないし、真尋が何か忘れてるのかも』
「忘れてる……こと……」
僕はその小さな神像を手のひらに乗せたまま、ゆっくり顔を上げた。
拝殿の脇。
少し奥まったところに、小さな祠が見える。
こんなの、あったっけ。
そう思ったのに、同時に、僕はこれを知っているとも思った。
記憶の底に沈んでいたものが、かすかに、少しずつ輪郭を取り戻していく。
――あの日。
僕は、この祠を見つけたのだ。
歩み寄ると、正面の観音開きの板戸が開いていた。
中には、掌に乗りそうなくらいの小さな神像がいくつも並んでいる。狐にも狛犬にも見える眷属めいた像や、丸みのある石の像が、どれもきちんと正面を向いていた。白木の台の上に整然と置かれ、細い注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)まで添えられている。
その列の端だけが、ひとつ分だけ、ぽっかりと空いていた。
僕の目は、そこに吸い寄せられていく。
まるで、ずっと足りなかったピースを元の場所に戻すみたいに、僕は手の中の神像をそこへ置いた。
すると、ぴたりと収まった、という感覚があった。
心なしか、その像の顔つきまで、ほっとしたみたいに見える。
そんなことを思ったら、なんだか少しだけ、良いことをしたような気がした。
「よし」
誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟いて、僕は踵を返す。
数歩歩いてから、ふと立ち止まった。
――これから、どこに行こう。
あとどれくらい時間が残されているのか、もう本当に渚くんからも誰からも見えないままなのか、何ひとつわからない。
とりあえず、渚くんの家にはもう戻れない。
でも、自分の家なら、たぶんまだドアに触れられるかもしれない。
母さんと父さんのことも気になる。
落ち込んでいる二人をそばで見るのは、たぶん苦しい。心が痛くなる。
それでも、残された時間が少ないのかもしれないなら、せめて最後は二人のそばにいたい。
そう決めた、その時だった。
境内を、ふっと強い風が吹き抜けていく。
髪が大きく揺れ、服の裾がはためいて、体じゅうがその風を受けた。
「な、なにっ……あっ……!」
――ずるっ。
スニーカーの裏が地面を擦る。
その感覚に、僕は思わず声を上げた。
ただ風に押されているのとは違う。背中側から、何か強い力で吸い寄せられている。
そう気づいた瞬間、ぞっとして、僕はとっさに身を低くした。両足に力を込めて踏ん張りながら、どうにか首だけを振り返る。
さっきの祠だった。
小さな神像が並んでいた、あの祠。
観音開きの扉の奥が、今は真っ黒に口を開けているように見える。
神像たちはこんな強い風の中でも、その場でかたかたと細かく震えているだけなのに、落ち葉や砂だけが、そこへ向かって吸い込まれていく。
僕は息を呑んだ。
どういうわけか、わかってしまった。
あの黒い穴は、僕を吸い込もうとしている。
僕は、あそこへ連れていかれる。
死ぬのなんて初めてだから、そんなこと本当はわかるはずもない。けれど、あれがこの世のものじゃないことだけは、はっきりしていた。あの世の入り口とか、そういうものなんじゃないかと、頭のどこかが勝手に理解してしまう。
そう思った途端、背筋が冷たくなった。
嫌だ。
あんなところの向こうに、救いみたいなものがある気がしない。
天国とか、そういう優しいものじゃない。地獄というほどはっきりした恐ろしさですらなくて、もっと輪郭のない、底の見えない暗さだった。
何もない場所。
音も、光も、匂いも、温度も、名前も、気持ちも、全部が溶けてなくなってしまうみたいな、果てのない虚ろ。
僕が僕でいられなくなる場所。
そんなものの中へ引きずり込まれるのだと思ったら、全身がぶるっと震えた。
「やだ……!」
叫んでも、風に声がちぎれていく。
足を踏ん張っているのに、ずるずると体が後ろへ滑っていった。地面の砂利が靴の裏で嫌な音を立てて、ふくらはぎが引きつるくらい力を入れても止まらない。
「やだ、やだっ……!」
爪先が、少しずつ祠の方へ削られていく。
だめだ。
このままじゃ、本当に連れていかれる。
僕は半ば転ぶようにしながら、必死で近くの石灯籠へ手を伸ばした。指先が冷たい石肌を捉える。そこへしがみつくように腕に力を込めて、ぎゅっと目をつぶった瞬間、僕の耳に幻聴が飛び込んでくる。
「真尋――!」
渚くんの声だ。
思わず目を開く。強い風に煽られて、乾いた空気が目に刺さる。滲んだ視界の向こう、髪も服も激しく揺らしながら、境内へ駆け込んでくる人影があった。幻聴じゃ……ない。
「あぁっ……」
情けないほど縋るような声が、僕の喉からこぼれる。
「渚くん……」
渚くんだ。
試合のあとに制服へ着替えたのだろう。肩で荒く息をしながら、渚くんは境内の石畳を踏みしめていた。強風がその髪を乱し、シャツの裾をばたばたと打ちつけている。
「なんだこれ……」
渚くんの表情が歪む。
その足元が、ほんの少しだけ後ろへずれた気がして、僕ははっとした。
「渚くん、だめ、来ないで!」
このままだと、渚くんまで一緒にあの黒い中へ引き込まれてしまうかもしれない。
けれど、やっぱり僕の声は届かないみたいだった。
僕の姿も、まだ見えていない。
渚くんは僕を探すように視線をあちこちへ走らせながら、それでも足を踏ん張って、少しずつこちらへ近づいてくる。
「真尋! どこ! いるんでしょ! 答えて!」
「渚くん……」
ぐっと、喉の奥に熱いものがこみ上げた。
渚くんは僕を探しに来てくれた。
「渚くん……ここに、いるよ……」
涙にまじった、ひどく頼りない声がこぼれる。
「真尋!」
「渚くん……」
やっぱり、届かない。
石灯籠にしがみついたまま、僕は空いている方の手を渚くんへ伸ばした。
背後には、あの黒々とした気配がある。
底の見えない、何もかもを飲み込んでしまいそうな場所。
あんなところへ、ひとりで行くのは怖い。
――僕がこの手を伸ばして、渚くんを引っ張れば、一緒に来てくれるんだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎった。
でも、すぐにそれを振り払う。
だめだ。
連れていっちゃいけない。渚くんを。
僕は伸ばした手を、ゆっくり引っ込めた。
風はさらに強くなる。もう石灯籠に掴まっているだけでは、支えきれないほどの力だった。腕が震えて、指先がずるずると滑る。
このままじゃ、渚くんも危ない。
――もう、きっと、その時なんだ。
そう思った。
「渚くん……バイバイ……」
石灯籠を掴んでいた腕から、少しずつ力を抜いていく。
指先が離れる。
一気に体が軽くなって、ぐらりと後ろへ傾いだ。服の裾が大きくはためき、足元の砂がざっと舞い上がる。背中側から強い力で引かれて、僕の体が宙へさらわれるみたいに浮き上がった。
「真尋!」
鋭い叫びと一緒に、手首へ熱い衝撃が走る。
「……っ!」
渚くんの手だ。
渚くんが僕の腕を掴んでいた。
そのまま勢いで僕の体が前へ引き戻される。黒い穴の方へ持っていかれそうになる力と、渚くんが引く力がぶつかり合って、肩がきしむ。渚くんは僕の腕を掴んだまま、もう片方の手で僕の背中を抱き寄せるように引き込んだ。
「渚くん……!」
胸と胸がぶつかるくらい近くで、渚くんも必死に風へ逆らっている。足を踏ん張り、歯を食いしばって、僕を離すまいと全身に力を入れていた。
「渚くん、離して! 危ないよ!」
僕が叫ぶ。けれど渚くんは首を振る。
「嫌だ! 絶対離さない!」
風がごうごうと耳を塞ぐ。その中でも、渚くんの声だけははっきり聞こえた。
「だめだよ! このままじゃ二人とも――」
「嫌だ!」
渚くんの声が、風を突き破るみたいに強く響く。
その目は、まっすぐ僕を見ていた。
今度こそ、ちゃんと。
「絶対嫌だ!」
腕にさらに力がこもる。僕の体を抱き込むみたいに引き寄せて、渚くんは叫んだ。
「真尋、好きだよ……!」
その言葉に、僕の呼吸が止まる。
「大好きだよ……! だから、俺の前からいなくならないで!」
渚くんの必死の叫びが、胸のいちばん深いところまで突き刺さった。
喉が震える。
それは、僕がずっと心の中で抱えていた言葉だった。ずっと伝えたかったのに、渚くんには言えなかった言葉。見えなくなって、聞こえなくなって、それでももう届かない場所にいると思ったからこそ、ようやく口にできた言葉。
「僕だって……」
渚くんにしがみつく腕に、ぐっと力がこもる。
「僕だって……渚くんが、大好きだよ……!」
風に煽られて、息がうまく吸えない。
それでも、もう止めたくなかった。
いなくなりたくない。
ずっと一緒にいたい。
もっといっぱい話したい。
うまくいかなくなってしまっていたこの数年を、これから少しずつでも取り戻していきたい。
だから、僕はまだ渚くんと――
「渚くんと、一緒にいたい!」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に決壊するみたいだった。怖いとか、苦しいとか、そういうものの下に押し込めていた本当の気持ちが、もう隠しきれなくなる。
「離れたくない! 僕は、ここにいたい!」
その叫びとほとんど同時だった。
ごう、と唸っていた風が、ふいに音を失う。
あまりにも唐突で、最初は何が起きたのかわからなかった。
さっきまで全身を引き裂くみたいに吹き荒れていた力が、糸を断ち切られたみたいに、ぴたりと消える。
舞い上がっていた砂が、ぱらぱらと地面に落ちた。
木々の葉の震えも止まり、祠の奥で黒々と口を開けていた闇も、気づけばただの薄暗い影に戻っている。
「……っ」
渚くんも、僕も、しばらく息を止めたまま動けなかった。
渚くんの腕はまだ僕をきつく抱きしめていて、その温度だけが、今ここに起きたことが夢じゃないと教えてくる。
やがて、おそるおそる顔を上げる。
目の前には、渚くんがいた。
風に乱された前髪の隙間から覗く目が、まっすぐ僕を見ている。
探るような視線じゃない。怯えたように彷徨う目でもない。
ちゃんと、僕を捉えていた。
「……真尋」
かすれた声で、渚くんが僕の名前を呼ぶ。
さの手が、確かめるみたいに僕の頬へ触れる。
指先が、こめかみから頬骨のあたりをそっとなぞって、それから少し震えながら輪郭を辿った。
見えてる。
触れられてる。
今、ちゃんと。
そのことが信じられなくて、僕はただ瞬いた。
「……見える……の?」
情けないくらい小さな声でそう聞くと、渚くんは泣きそうな顔で、でもちゃんと笑った。
「見えるよ」
その一言で、全身から力が抜けた。
僕はまた渚くんの胸元に額を押しつける。今度は吸い込まれないようにじゃなく、確かめるために。ここにいていいんだと、そう思うために。
渚くんの腕が、もう一度僕を抱きしめ直した。
日枝神社の境内は、相変わらず昼間だというのに薄暗かった。
僕は拝殿の前の石段に腰を下ろし、膝を抱えて「はぁ……」と息を吐く。
渚くんの試合が終わったあと、僕はひとりで、あの日の行動をもう一度たどっていた。
日曜日の校舎には入れなかったから、スタートは校門から、ということになる。
そうして考えてみても、やっぱりあの日、特別変わったことは何もしていない。
まっすぐ家に帰ろうとして、
その途中で、この神社に寄った。
本当に、それくらいだ。
何度思い返してみても、戻る方法なんてさっぱりわからなかった。
「やっぱり、ダメなのかなぁ」
もう戻れない。そんな不安を、あえて声に出して紛らわせてみる。
「でもさぁ、四十九日までまだだいぶあるよ。もう少し待遇良くしてくれてもいいと思うけどなぁ」
神社って、神様がいる場所なんだっけ。
その神様に向けて、僕は少しだけ悪態をついた。
でも、もしかしたら神様は優しいのかもしれない。
僕の願いを、最後に叶えてくれた。
渚くんの試合を見たい。
渚くんともっと話したかった。
それから――
ふっと、触れ合った唇の感触を思い出す。
渚くん、まつげ、長かったなぁ。
今さらみたいに顔が熱くなってきて、誰にも見られていないのに、僕は両手で頬を覆った。
最後に神様が見せてくれた、すごく都合のいい夢。
そんなふうにも思える。
だったら、感謝するべきなんだろうか。
でも、あんなことがあったら、余計に未練が残ってしまう。
渚くんとのこの先を、ほんの少しだけ期待してしまった。
けれど、それももう無理なんだろうな、と思うと、やっぱり気持ちは沈んだ。
その時、ふっと視界の端に何かが引っかかった。
「あれ……」
気になって、僕は石段から立ち上がる。
地面に転がっていたのは、丸みを帯びた小さな石だった。
でも、ただの石にしては形ができすぎている。周囲の石や土の中で、それだけが妙に意思のある輪郭をしていた。
僕はそっと歩み寄る。
拾い上げてみると、それは何かをかたどった小さな像のようだった。狐なのか、狸なのか、猫にも見えなくはない。そもそも上下がどちらなのかもぱっと見ではわからない。けれど、なんとも呑気で、少し気の抜けたような、妙に可愛らしい顔をしている。
その姿を見た瞬間、頭の奥で何かがひっかかった。
――見たことがある。
そんな感覚が、急に胸の内に広がる。
同じような光景を、僕はどこかで見た。
気のせいじゃない。
ざわ、と背筋が粟立った。
その時、ふいに渚くんの言葉が蘇る。
――『もしかしたら、それだけじゃなくて別のきっかけがあるのかもしれないし、真尋が何か忘れてるのかも』
「忘れてる……こと……」
僕はその小さな神像を手のひらに乗せたまま、ゆっくり顔を上げた。
拝殿の脇。
少し奥まったところに、小さな祠が見える。
こんなの、あったっけ。
そう思ったのに、同時に、僕はこれを知っているとも思った。
記憶の底に沈んでいたものが、かすかに、少しずつ輪郭を取り戻していく。
――あの日。
僕は、この祠を見つけたのだ。
歩み寄ると、正面の観音開きの板戸が開いていた。
中には、掌に乗りそうなくらいの小さな神像がいくつも並んでいる。狐にも狛犬にも見える眷属めいた像や、丸みのある石の像が、どれもきちんと正面を向いていた。白木の台の上に整然と置かれ、細い注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)まで添えられている。
その列の端だけが、ひとつ分だけ、ぽっかりと空いていた。
僕の目は、そこに吸い寄せられていく。
まるで、ずっと足りなかったピースを元の場所に戻すみたいに、僕は手の中の神像をそこへ置いた。
すると、ぴたりと収まった、という感覚があった。
心なしか、その像の顔つきまで、ほっとしたみたいに見える。
そんなことを思ったら、なんだか少しだけ、良いことをしたような気がした。
「よし」
誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟いて、僕は踵を返す。
数歩歩いてから、ふと立ち止まった。
――これから、どこに行こう。
あとどれくらい時間が残されているのか、もう本当に渚くんからも誰からも見えないままなのか、何ひとつわからない。
とりあえず、渚くんの家にはもう戻れない。
でも、自分の家なら、たぶんまだドアに触れられるかもしれない。
母さんと父さんのことも気になる。
落ち込んでいる二人をそばで見るのは、たぶん苦しい。心が痛くなる。
それでも、残された時間が少ないのかもしれないなら、せめて最後は二人のそばにいたい。
そう決めた、その時だった。
境内を、ふっと強い風が吹き抜けていく。
髪が大きく揺れ、服の裾がはためいて、体じゅうがその風を受けた。
「な、なにっ……あっ……!」
――ずるっ。
スニーカーの裏が地面を擦る。
その感覚に、僕は思わず声を上げた。
ただ風に押されているのとは違う。背中側から、何か強い力で吸い寄せられている。
そう気づいた瞬間、ぞっとして、僕はとっさに身を低くした。両足に力を込めて踏ん張りながら、どうにか首だけを振り返る。
さっきの祠だった。
小さな神像が並んでいた、あの祠。
観音開きの扉の奥が、今は真っ黒に口を開けているように見える。
神像たちはこんな強い風の中でも、その場でかたかたと細かく震えているだけなのに、落ち葉や砂だけが、そこへ向かって吸い込まれていく。
僕は息を呑んだ。
どういうわけか、わかってしまった。
あの黒い穴は、僕を吸い込もうとしている。
僕は、あそこへ連れていかれる。
死ぬのなんて初めてだから、そんなこと本当はわかるはずもない。けれど、あれがこの世のものじゃないことだけは、はっきりしていた。あの世の入り口とか、そういうものなんじゃないかと、頭のどこかが勝手に理解してしまう。
そう思った途端、背筋が冷たくなった。
嫌だ。
あんなところの向こうに、救いみたいなものがある気がしない。
天国とか、そういう優しいものじゃない。地獄というほどはっきりした恐ろしさですらなくて、もっと輪郭のない、底の見えない暗さだった。
何もない場所。
音も、光も、匂いも、温度も、名前も、気持ちも、全部が溶けてなくなってしまうみたいな、果てのない虚ろ。
僕が僕でいられなくなる場所。
そんなものの中へ引きずり込まれるのだと思ったら、全身がぶるっと震えた。
「やだ……!」
叫んでも、風に声がちぎれていく。
足を踏ん張っているのに、ずるずると体が後ろへ滑っていった。地面の砂利が靴の裏で嫌な音を立てて、ふくらはぎが引きつるくらい力を入れても止まらない。
「やだ、やだっ……!」
爪先が、少しずつ祠の方へ削られていく。
だめだ。
このままじゃ、本当に連れていかれる。
僕は半ば転ぶようにしながら、必死で近くの石灯籠へ手を伸ばした。指先が冷たい石肌を捉える。そこへしがみつくように腕に力を込めて、ぎゅっと目をつぶった瞬間、僕の耳に幻聴が飛び込んでくる。
「真尋――!」
渚くんの声だ。
思わず目を開く。強い風に煽られて、乾いた空気が目に刺さる。滲んだ視界の向こう、髪も服も激しく揺らしながら、境内へ駆け込んでくる人影があった。幻聴じゃ……ない。
「あぁっ……」
情けないほど縋るような声が、僕の喉からこぼれる。
「渚くん……」
渚くんだ。
試合のあとに制服へ着替えたのだろう。肩で荒く息をしながら、渚くんは境内の石畳を踏みしめていた。強風がその髪を乱し、シャツの裾をばたばたと打ちつけている。
「なんだこれ……」
渚くんの表情が歪む。
その足元が、ほんの少しだけ後ろへずれた気がして、僕ははっとした。
「渚くん、だめ、来ないで!」
このままだと、渚くんまで一緒にあの黒い中へ引き込まれてしまうかもしれない。
けれど、やっぱり僕の声は届かないみたいだった。
僕の姿も、まだ見えていない。
渚くんは僕を探すように視線をあちこちへ走らせながら、それでも足を踏ん張って、少しずつこちらへ近づいてくる。
「真尋! どこ! いるんでしょ! 答えて!」
「渚くん……」
ぐっと、喉の奥に熱いものがこみ上げた。
渚くんは僕を探しに来てくれた。
「渚くん……ここに、いるよ……」
涙にまじった、ひどく頼りない声がこぼれる。
「真尋!」
「渚くん……」
やっぱり、届かない。
石灯籠にしがみついたまま、僕は空いている方の手を渚くんへ伸ばした。
背後には、あの黒々とした気配がある。
底の見えない、何もかもを飲み込んでしまいそうな場所。
あんなところへ、ひとりで行くのは怖い。
――僕がこの手を伸ばして、渚くんを引っ張れば、一緒に来てくれるんだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎった。
でも、すぐにそれを振り払う。
だめだ。
連れていっちゃいけない。渚くんを。
僕は伸ばした手を、ゆっくり引っ込めた。
風はさらに強くなる。もう石灯籠に掴まっているだけでは、支えきれないほどの力だった。腕が震えて、指先がずるずると滑る。
このままじゃ、渚くんも危ない。
――もう、きっと、その時なんだ。
そう思った。
「渚くん……バイバイ……」
石灯籠を掴んでいた腕から、少しずつ力を抜いていく。
指先が離れる。
一気に体が軽くなって、ぐらりと後ろへ傾いだ。服の裾が大きくはためき、足元の砂がざっと舞い上がる。背中側から強い力で引かれて、僕の体が宙へさらわれるみたいに浮き上がった。
「真尋!」
鋭い叫びと一緒に、手首へ熱い衝撃が走る。
「……っ!」
渚くんの手だ。
渚くんが僕の腕を掴んでいた。
そのまま勢いで僕の体が前へ引き戻される。黒い穴の方へ持っていかれそうになる力と、渚くんが引く力がぶつかり合って、肩がきしむ。渚くんは僕の腕を掴んだまま、もう片方の手で僕の背中を抱き寄せるように引き込んだ。
「渚くん……!」
胸と胸がぶつかるくらい近くで、渚くんも必死に風へ逆らっている。足を踏ん張り、歯を食いしばって、僕を離すまいと全身に力を入れていた。
「渚くん、離して! 危ないよ!」
僕が叫ぶ。けれど渚くんは首を振る。
「嫌だ! 絶対離さない!」
風がごうごうと耳を塞ぐ。その中でも、渚くんの声だけははっきり聞こえた。
「だめだよ! このままじゃ二人とも――」
「嫌だ!」
渚くんの声が、風を突き破るみたいに強く響く。
その目は、まっすぐ僕を見ていた。
今度こそ、ちゃんと。
「絶対嫌だ!」
腕にさらに力がこもる。僕の体を抱き込むみたいに引き寄せて、渚くんは叫んだ。
「真尋、好きだよ……!」
その言葉に、僕の呼吸が止まる。
「大好きだよ……! だから、俺の前からいなくならないで!」
渚くんの必死の叫びが、胸のいちばん深いところまで突き刺さった。
喉が震える。
それは、僕がずっと心の中で抱えていた言葉だった。ずっと伝えたかったのに、渚くんには言えなかった言葉。見えなくなって、聞こえなくなって、それでももう届かない場所にいると思ったからこそ、ようやく口にできた言葉。
「僕だって……」
渚くんにしがみつく腕に、ぐっと力がこもる。
「僕だって……渚くんが、大好きだよ……!」
風に煽られて、息がうまく吸えない。
それでも、もう止めたくなかった。
いなくなりたくない。
ずっと一緒にいたい。
もっといっぱい話したい。
うまくいかなくなってしまっていたこの数年を、これから少しずつでも取り戻していきたい。
だから、僕はまだ渚くんと――
「渚くんと、一緒にいたい!」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に決壊するみたいだった。怖いとか、苦しいとか、そういうものの下に押し込めていた本当の気持ちが、もう隠しきれなくなる。
「離れたくない! 僕は、ここにいたい!」
その叫びとほとんど同時だった。
ごう、と唸っていた風が、ふいに音を失う。
あまりにも唐突で、最初は何が起きたのかわからなかった。
さっきまで全身を引き裂くみたいに吹き荒れていた力が、糸を断ち切られたみたいに、ぴたりと消える。
舞い上がっていた砂が、ぱらぱらと地面に落ちた。
木々の葉の震えも止まり、祠の奥で黒々と口を開けていた闇も、気づけばただの薄暗い影に戻っている。
「……っ」
渚くんも、僕も、しばらく息を止めたまま動けなかった。
渚くんの腕はまだ僕をきつく抱きしめていて、その温度だけが、今ここに起きたことが夢じゃないと教えてくる。
やがて、おそるおそる顔を上げる。
目の前には、渚くんがいた。
風に乱された前髪の隙間から覗く目が、まっすぐ僕を見ている。
探るような視線じゃない。怯えたように彷徨う目でもない。
ちゃんと、僕を捉えていた。
「……真尋」
かすれた声で、渚くんが僕の名前を呼ぶ。
さの手が、確かめるみたいに僕の頬へ触れる。
指先が、こめかみから頬骨のあたりをそっとなぞって、それから少し震えながら輪郭を辿った。
見えてる。
触れられてる。
今、ちゃんと。
そのことが信じられなくて、僕はただ瞬いた。
「……見える……の?」
情けないくらい小さな声でそう聞くと、渚くんは泣きそうな顔で、でもちゃんと笑った。
「見えるよ」
その一言で、全身から力が抜けた。
僕はまた渚くんの胸元に額を押しつける。今度は吸い込まれないようにじゃなく、確かめるために。ここにいていいんだと、そう思うために。
渚くんの腕が、もう一度僕を抱きしめ直した。


