渚くんには僕が見えない



日枝神社の境内は、相変わらず昼間だというのに薄暗かった。

僕は拝殿の前の石段に腰を下ろし、膝を抱えて「はぁ……」と息を吐く。

渚くんの試合が終わったあと、僕はひとりで、あの日の行動をもう一度たどっていた。

日曜日の校舎には入れなかったから、スタートは校門から、ということになる。
そうして考えてみても、やっぱりあの日、特別変わったことは何もしていない。

まっすぐ家に帰ろうとして、
その途中で、この神社に寄った。

本当に、それくらいだ。

何度思い返してみても、戻る方法なんてさっぱりわからなかった。

「やっぱり、ダメなのかなぁ」

もう戻れない。そんな不安を、あえて声に出して紛らわせてみる。

「でもさぁ、四十九日までまだだいぶあるよ。もう少し待遇良くしてくれてもいいと思うけどなぁ」

神社って、神様がいる場所なんだっけ。
その神様に向けて、僕は少しだけ悪態をついた。

でも、もしかしたら神様は優しいのかもしれない。

僕の願いを、最後に叶えてくれた。

渚くんの試合を見たい。
渚くんともっと話したかった。
それから――

ふっと、触れ合った唇の感触を思い出す。

渚くん、まつげ、長かったなぁ。

今さらみたいに顔が熱くなってきて、誰にも見られていないのに、僕は両手で頬を覆った。

最後に神様が見せてくれた、すごく都合のいい夢。
そんなふうにも思える。

だったら、感謝するべきなんだろうか。

でも、あんなことがあったら、余計に未練が残ってしまう。

渚くんとのこの先を、ほんの少しだけ期待してしまった。
けれど、それももう無理なんだろうな、と思うと、やっぱり気持ちは沈んだ。

その時、ふっと視界の端に何かが引っかかった。

「あれ……」

気になって、僕は石段から立ち上がる。

地面に転がっていたのは、丸みを帯びた小さな石だった。
でも、ただの石にしては形ができすぎている。周囲の石や土の中で、それだけが妙に意思のある輪郭をしていた。

僕はそっと歩み寄る。

拾い上げてみると、それは何かをかたどった小さな像のようだった。狐なのか、狸なのか、猫にも見えなくはない。そもそも上下がどちらなのかもぱっと見ではわからない。けれど、なんとも呑気で、少し気の抜けたような、妙に可愛らしい顔をしている。

その姿を見た瞬間、頭の奥で何かがひっかかった。

――見たことがある。

そんな感覚が、急に胸の内に広がる。

同じような光景を、僕はどこかで見た。
気のせいじゃない。

ざわ、と背筋が粟立った。

その時、ふいに渚くんの言葉が蘇る。

――『もしかしたら、それだけじゃなくて別のきっかけがあるのかもしれないし、真尋が何か忘れてるのかも』

「忘れてる……こと……」

僕はその小さな神像を手のひらに乗せたまま、ゆっくり顔を上げた。

拝殿の脇。
少し奥まったところに、小さな祠が見える。

こんなの、あったっけ。

そう思ったのに、同時に、僕はこれを知っているとも思った。

記憶の底に沈んでいたものが、かすかに、少しずつ輪郭を取り戻していく。

――あの日。

僕は、この祠を見つけたのだ。

歩み寄ると、正面の観音開きの板戸が開いていた。

中には、掌に乗りそうなくらいの小さな神像がいくつも並んでいる。狐にも狛犬にも見える眷属めいた像や、丸みのある石の像が、どれもきちんと正面を向いていた。白木の台の上に整然と置かれ、細い注連縄(しめなわ)や紙垂(しで)まで添えられている。

その列の端だけが、ひとつ分だけ、ぽっかりと空いていた。

僕の目は、そこに吸い寄せられていく。

まるで、ずっと足りなかったピースを元の場所に戻すみたいに、僕は手の中の神像をそこへ置いた。

すると、ぴたりと収まった、という感覚があった。

心なしか、その像の顔つきまで、ほっとしたみたいに見える。

そんなことを思ったら、なんだか少しだけ、良いことをしたような気がした。

「よし」

誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟いて、僕は踵を返す。

数歩歩いてから、ふと立ち止まった。

――これから、どこに行こう。

あとどれくらい時間が残されているのか、もう本当に渚くんからも誰からも見えないままなのか、何ひとつわからない。

とりあえず、渚くんの家にはもう戻れない。
でも、自分の家なら、たぶんまだドアに触れられるかもしれない。

母さんと父さんのことも気になる。
落ち込んでいる二人をそばで見るのは、たぶん苦しい。心が痛くなる。
それでも、残された時間が少ないのかもしれないなら、せめて最後は二人のそばにいたい。

そう決めた、その時だった。

境内を、ふっと強い風が吹き抜けていく。

髪が大きく揺れ、服の裾がはためいて、体じゅうがその風を受けた。

「な、なにっ……あっ……!」

――ずるっ。

スニーカーの裏が地面を擦る。

その感覚に、僕は思わず声を上げた。
ただ風に押されているのとは違う。背中側から、何か強い力で吸い寄せられている。

そう気づいた瞬間、ぞっとして、僕はとっさに身を低くした。両足に力を込めて踏ん張りながら、どうにか首だけを振り返る。

さっきの祠だった。

小さな神像が並んでいた、あの祠。
観音開きの扉の奥が、今は真っ黒に口を開けているように見える。

神像たちはこんな強い風の中でも、その場でかたかたと細かく震えているだけなのに、落ち葉や砂だけが、そこへ向かって吸い込まれていく。

僕は息を呑んだ。

どういうわけか、わかってしまった。

あの黒い穴は、僕を吸い込もうとしている。

僕は、あそこへ連れていかれる。

死ぬのなんて初めてだから、そんなこと本当はわかるはずもない。けれど、あれがこの世のものじゃないことだけは、はっきりしていた。あの世の入り口とか、そういうものなんじゃないかと、頭のどこかが勝手に理解してしまう。

そう思った途端、背筋が冷たくなった。

嫌だ。

あんなところの向こうに、救いみたいなものがある気がしない。
天国とか、そういう優しいものじゃない。地獄というほどはっきりした恐ろしさですらなくて、もっと輪郭のない、底の見えない暗さだった。

何もない場所。

音も、光も、匂いも、温度も、名前も、気持ちも、全部が溶けてなくなってしまうみたいな、果てのない虚ろ。

僕が僕でいられなくなる場所。

そんなものの中へ引きずり込まれるのだと思ったら、全身がぶるっと震えた。

「やだ……!」

叫んでも、風に声がちぎれていく。

足を踏ん張っているのに、ずるずると体が後ろへ滑っていった。地面の砂利が靴の裏で嫌な音を立てて、ふくらはぎが引きつるくらい力を入れても止まらない。

「やだ、やだっ……!」

爪先が、少しずつ祠の方へ削られていく。

だめだ。
このままじゃ、本当に連れていかれる。

僕は半ば転ぶようにしながら、必死で近くの石灯籠へ手を伸ばした。指先が冷たい石肌を捉える。そこへしがみつくように腕に力を込めて、ぎゅっと目をつぶった瞬間、僕の耳に幻聴が飛び込んでくる。

「真尋――!」

渚くんの声だ。

思わず目を開く。強い風に煽られて、乾いた空気が目に刺さる。滲んだ視界の向こう、髪も服も激しく揺らしながら、境内へ駆け込んでくる人影があった。幻聴じゃ……ない。

「あぁっ……」

情けないほど縋るような声が、僕の喉からこぼれる。

「渚くん……」

渚くんだ。

試合のあとに制服へ着替えたのだろう。肩で荒く息をしながら、渚くんは境内の石畳を踏みしめていた。強風がその髪を乱し、シャツの裾をばたばたと打ちつけている。

「なんだこれ……」

渚くんの表情が歪む。
その足元が、ほんの少しだけ後ろへずれた気がして、僕ははっとした。

「渚くん、だめ、来ないで!」

このままだと、渚くんまで一緒にあの黒い中へ引き込まれてしまうかもしれない。

けれど、やっぱり僕の声は届かないみたいだった。
僕の姿も、まだ見えていない。

渚くんは僕を探すように視線をあちこちへ走らせながら、それでも足を踏ん張って、少しずつこちらへ近づいてくる。

「真尋! どこ! いるんでしょ! 答えて!」

「渚くん……」

ぐっと、喉の奥に熱いものがこみ上げた。
渚くんは僕を探しに来てくれた。

「渚くん……ここに、いるよ……」

涙にまじった、ひどく頼りない声がこぼれる。

「真尋!」

「渚くん……」

やっぱり、届かない。

石灯籠にしがみついたまま、僕は空いている方の手を渚くんへ伸ばした。

背後には、あの黒々とした気配がある。
底の見えない、何もかもを飲み込んでしまいそうな場所。

あんなところへ、ひとりで行くのは怖い。

――僕がこの手を伸ばして、渚くんを引っ張れば、一緒に来てくれるんだろうか。

そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎった。

でも、すぐにそれを振り払う。

だめだ。
連れていっちゃいけない。渚くんを。

僕は伸ばした手を、ゆっくり引っ込めた。

風はさらに強くなる。もう石灯籠に掴まっているだけでは、支えきれないほどの力だった。腕が震えて、指先がずるずると滑る。

このままじゃ、渚くんも危ない。

――もう、きっと、その時なんだ。

そう思った。

「渚くん……バイバイ……」

石灯籠を掴んでいた腕から、少しずつ力を抜いていく。

指先が離れる。

一気に体が軽くなって、ぐらりと後ろへ傾いだ。服の裾が大きくはためき、足元の砂がざっと舞い上がる。背中側から強い力で引かれて、僕の体が宙へさらわれるみたいに浮き上がった。

「真尋!」

鋭い叫びと一緒に、手首へ熱い衝撃が走る。

「……っ!」

渚くんの手だ。

渚くんが僕の腕を掴んでいた。

そのまま勢いで僕の体が前へ引き戻される。黒い穴の方へ持っていかれそうになる力と、渚くんが引く力がぶつかり合って、肩がきしむ。渚くんは僕の腕を掴んだまま、もう片方の手で僕の背中を抱き寄せるように引き込んだ。

「渚くん……!」

胸と胸がぶつかるくらい近くで、渚くんも必死に風へ逆らっている。足を踏ん張り、歯を食いしばって、僕を離すまいと全身に力を入れていた。

「渚くん、離して! 危ないよ!」

僕が叫ぶ。けれど渚くんは首を振る。

「嫌だ! 絶対離さない!」

風がごうごうと耳を塞ぐ。その中でも、渚くんの声だけははっきり聞こえた。

「だめだよ! このままじゃ二人とも――」

「嫌だ!」

渚くんの声が、風を突き破るみたいに強く響く。

その目は、まっすぐ僕を見ていた。
今度こそ、ちゃんと。

「絶対嫌だ!」

腕にさらに力がこもる。僕の体を抱き込むみたいに引き寄せて、渚くんは叫んだ。

「真尋、好きだよ……!」

その言葉に、僕の呼吸が止まる。

「大好きだよ……! だから、俺の前からいなくならないで!」

渚くんの必死の叫びが、胸のいちばん深いところまで突き刺さった。

喉が震える。

それは、僕がずっと心の中で抱えていた言葉だった。ずっと伝えたかったのに、渚くんには言えなかった言葉。見えなくなって、聞こえなくなって、それでももう届かない場所にいると思ったからこそ、ようやく口にできた言葉。

「僕だって……」

渚くんにしがみつく腕に、ぐっと力がこもる。

「僕だって……渚くんが、大好きだよ……!」

風に煽られて、息がうまく吸えない。
それでも、もう止めたくなかった。

いなくなりたくない。
ずっと一緒にいたい。
もっといっぱい話したい。
うまくいかなくなってしまっていたこの数年を、これから少しずつでも取り戻していきたい。

だから、僕はまだ渚くんと――

「渚くんと、一緒にいたい!」

言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に決壊するみたいだった。怖いとか、苦しいとか、そういうものの下に押し込めていた本当の気持ちが、もう隠しきれなくなる。

「離れたくない! 僕は、ここにいたい!」

その叫びとほとんど同時だった。

ごう、と唸っていた風が、ふいに音を失う。

あまりにも唐突で、最初は何が起きたのかわからなかった。
さっきまで全身を引き裂くみたいに吹き荒れていた力が、糸を断ち切られたみたいに、ぴたりと消える。

舞い上がっていた砂が、ぱらぱらと地面に落ちた。
木々の葉の震えも止まり、祠の奥で黒々と口を開けていた闇も、気づけばただの薄暗い影に戻っている。

「……っ」

渚くんも、僕も、しばらく息を止めたまま動けなかった。

渚くんの腕はまだ僕をきつく抱きしめていて、その温度だけが、今ここに起きたことが夢じゃないと教えてくる。

やがて、おそるおそる顔を上げる。

目の前には、渚くんがいた。

風に乱された前髪の隙間から覗く目が、まっすぐ僕を見ている。
探るような視線じゃない。怯えたように彷徨う目でもない。

ちゃんと、僕を捉えていた。

「……真尋」

かすれた声で、渚くんが僕の名前を呼ぶ。

さの手が、確かめるみたいに僕の頬へ触れる。
指先が、こめかみから頬骨のあたりをそっとなぞって、それから少し震えながら輪郭を辿った。

見えてる。
触れられてる。
今、ちゃんと。

そのことが信じられなくて、僕はただ瞬いた。

「……見える……の?」

情けないくらい小さな声でそう聞くと、渚くんは泣きそうな顔で、でもちゃんと笑った。

「見えるよ」

その一言で、全身から力が抜けた。
僕はまた渚くんの胸元に額を押しつける。今度は吸い込まれないようにじゃなく、確かめるために。ここにいていいんだと、そう思うために。

渚くんの腕が、もう一度僕を抱きしめ直した。