◇
渚くんとのいちばん最初の記憶は、小学校一年生の時だ。
入学式の日。僕たちは名前順で隣同士になって、手を繋いで体育館に入場した。その時の写真を、母さんがわざわざプリントして、家のアルバムに大事そうに挟んでいるのを僕は知っている。
そこから僕たちは、同じマンションだったこともあって、よく一緒に遊ぶようになった。学校でも一緒にいたし、家に帰ってからも一緒にいた。
渚くんは昔から人気者だった。
僕は昔から、ちょっと喋るのが苦手で、運動もあまり得意じゃなかった。
でも、たぶん。渚くんが一緒にいてくれたから、僕は変に浮かずにいられたんじゃないかなって、今になって思う。
その頃から、渚くんはずっと僕の憧れだった。
キュキュッ、とバッシュが床を擦る音が響く。
現実に意識を引き戻されて、僕はそっと顔を上げた。
体育館は、試合の熱気に満ちていた。
ボールが弾む重たい音、ベンチから飛ぶ指示、タイムキーパーの笛、観客席のざわめき。それぞれが重なって、熱を持った空気を作っている。
「ナイスディフェンス!」
「一本いける!」
「渚、前!」
バルコニーの方からも声援が飛んでくる。関係者以外は上からの観戦らしく、応援の保護者や生徒たちはそっちに集まっていた。
けれど、見えないという特権のおかげで、僕の居場所は選手たちの控えるベンチのすぐ横だった。本当なら絶対に居られない、特等席だ。
ボールを受けた瞬間に、渚くんの空気が変わる。さっきまでの穏やかな顔なんて嘘みたいに、目つきが鋭くなる。相手を見て、味方を見て、一瞬で判断して走る。ドリブルは低く速く、迷いがない。ディフェンスが詰めてきても、するりと半身でかわして、そのままリング下へ切り込んでいく。
「――っ」
思わず、僕は息を呑んだ。
跳んだ、と思った次の瞬間には、ボールが渚くんの手を離れている。
バシュッ。
ネットがきれいに鳴った。
「うわ、すご……」
僕の声は誰にも届かない。
でも、それでいい。今はもう、そんなことどうでもよかった。
額の汗を手首で乱暴に拭う仕草までかっこいい。声を張って味方に指示を出す顔も、真剣で、少し苦しそうに呼吸している横顔も、全部、目が離せなかった。
「渚、ナイス!」
「次も落ち着いて!」
ベンチから飛ぶ声に、渚くんは短く頷く。
その一つ一つが、なんだか全部、遠い場所の人みたいに眩しい。
でも、僕はこうしてそのすぐそばにいる。
選手たちの荷物が置かれたベンチの端、タオルやドリンクボトルの並ぶ脇で、僕は膝を抱えたままコートを見つめた。
渚くんが走るたび、胸がぎゅっとする。
こんな近くで、渚くんの試合を見られる日が来るなんて思わなかった。
――『ちゃんと観てて欲しい』
さっき言われたその言葉を思い出して、僕は小さく拳を握る。
――見ていてほしいだなんて……。
「渚くん、僕はいつも、ずっと渚くんを見てたよ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
ハーフタイムに入って、選手たちがベンチへ戻ってくる。
渚くんも、手渡された飲み物を口にしながら汗を拭き、ベンチに腰を下ろした。
真剣な顔をしている。集中している。
もちろん、邪魔なんてしちゃいけない。
だけど、それでも、僕は声をかけたくなる。
都合のいいことに、僕の声は渚くんには届かない。だから、これは完全に自己満足だ。
それでも僕は、隣で何度も何度も声をかけた。
「渚くん、すごくかっこよかった」
「さっきのシュート、すごかったね」
「リバウンドからの速攻、めちゃくちゃしびれたよ」
今までだったら、絶対にできない。
でも今はできる。だから僕は、思う存分はしゃいで、そうやって言葉を投げた。
届いていない、はずだった。
なのに、不意に渚くんの視線がこちらを向いた気がした。
そのまま、タオルに顔を半分埋めたまま、目元がわずかに細まって、口角がほんの少しだけ上がったように見える。
勘違いだ、と思う。
たまたまそう見えただけだ。笑いかけられたわけじゃない。
でも、そうだったとしても。
僕は、はっとして制服の胸元をぎゅっと握りしめた。
かっこいい。
たとえば漫画だったら、胸に矢が刺さるみたいなコマが入るんだろうな、なんて、馬鹿みたいなことを考えてしまう。そんなことを思いながら、僕はふふっと笑った。
やがてハーフタイムが終わって、渚くんはまたコートへ戻っていく。
その背中を見送りながら、僕は細く息を吐いた。
なんだか、夢の中にいるみたいだ。
こんなこと、渚くんには言えないけれど。
やっぱり僕はどこかで死んでしまっていて、ここは魂がどこかへ行ってしまう前に見せてもらっている、優しい夢みたいな場所なんじゃないか――そんなことまで考えてしまう。
コートを走る渚くんの姿を見ながら、僕はそっと自分の唇に指で触れた。
さっき、僕をこの場につなぎ止めるみたいにしてくれた、あれ。
あれって、キスって言っていいよね。
その時は必死で、それどころじゃなかった。
でも、こうして思い返すと、急に顔が熱くなってきて、心臓も変なくらいうるさい。
渚くんとキスしたんだ。
そう思ったら、胸の奥がじんわり熱くなった。
僕は、渚くんのことを好きになれたことを、幸せだと思う。
生きていた時間の中で、誰かのことをこんなふうに好きになれたこと。
見ているだけで嬉しくなったり、ちょっと笑ってくれた気がしただけで胸がいっぱいになったり、声を聞くだけで安心したり、触れられただけで泣きそうになったり――そういう気持ちを知れたこと。
それって、きっとすごく幸せなことだ。
渚くんのことを好きになったから、今の僕はこんなにも苦しい。
でも同時に、こんなにも満たされてもいる。
「渚くーん、ファイトー!」
僕は声を張り上げた。
試合はもう大詰めだった。
体育館の空気が、さっきまでとはまるで違う。ボールが床を叩く音も、バッシュがきしむ音も、全部がぴんと張りつめて聞こえる。ベンチから飛ぶ声は短く鋭く、客席のざわめきも、どこか息を詰めたみたいに薄くなっていた。
点差はわずかだった。
相手が攻め込むたび、僕の心臓まで一緒に縮み上がる。
ディフェンスの足音が交差して、ボールが弾かれて、高く跳ねる。誰かの指先に触れたそれを、いちばん早く追ったのは渚くんだった。
「渚くん……!」
渚くんがボールを押さえる。
着地した瞬間には、もう前を向いていた。
速い。
低いドリブルの音が、だん、だん、とリズムを刻む。相手が追いすがる。前に立とうとする選手を、渚くんは半歩の切り返しでかわした。肩が揺れて、視線がぶれた、その一瞬の隙を縫うみたいに、するりと前へ抜ける。
「いけ……っ」
ベンチから声が飛ぶ。
客席がどよめく。
渚くんが跳んだ。
その瞬間だけ、時間が少し伸びたみたいだった。
放たれたボールが、きれいな弧を描いて宙を進む。僕は息を止めたまま、それを見つめる。
――パァン、と試合終了のブザーが鳴る。
その音に重なるように、
――バシュッ。
渚くんのシュートが、ネットを揺らした。
「……っ、やった……!」
一拍遅れて、体育館がわっと沸いた。
客席から歓声が上がる。拍手。名前を呼ぶ声。バルコニーの方では、応援に来ていた生徒たちが立ち上がって、身を乗り出すみたいに手を叩いている。
ベンチからは部員たちが飛び出していった。コートの中でも外でも、あちこちで声が弾ける。肩をぶつけ合って、抱き合って、背中を叩いて、みんな勝った実感に追いつこうとするみたいに騒いでいた。
渚くんも、チームメイトに取り囲まれていた。肩を掴まれて揺さぶられて、背中を何度も叩かれて、それでも少し照れたみたいに笑っている。さっきまでの張りつめた顔とは違う、勝ったあとの、力の抜けた顔だった。
「すごい……」
僕はただ、それしか言えなかった。
汗だくで、肩で息をしている渚くん。
その姿が眩しくて、胸の奥が熱くて、苦しいくらい嬉しい。
「渚くん、すごい……! かっこいい……!」
誰にも届かない声で、それでも思いきり、そう叫んだ。
「すごい、かっこいい! 感動した! 大好き!」
なんてひどい語彙なんだろう。
自分でも笑ってしまうくらい、それでも思いつく限りの言葉を、僕は飛び跳ねながら渚くんへ投げかけた。
チームメイトに囲まれていた渚くんが、ふと顔を上げる。
ちょうど僕のいるベンチの横に視線が向いた。
目が合った、気がした。
でも、きっと偶然だ。
そう思いながらも、僕は小さく息を呑む。
だって、僕たちは約束したのだ。
渚くんはさりげなく、盛り上がっているみんなの輪から少し離れた。ベンチの脇まで歩いてきて、手に取ったのは、あの黒いロゴの入ったスポーツタオルだった。
みんなに変に思われないように、あくまで自然なふりをしている。
でも、僕にはわかる。ちょっとだけ不自然なくらいに、渚くんはベンチの横で立ち止まり、タオルを手にしたまま、僕を待ってくれていた。
今だ、と思った。
僕は渚くんの方へ歩み寄る。
両手を広げ、そのまま、まだ少し肩で息をしている渚くんへぎゅっと抱きついた。
その瞬間、気づいてしまった。
――違う。
さっきまでは、抱きついた途端に、渚くんの体がちゃんと僕の方へ反応してくれた。驚いたり、抱き返してくれたり、少なくとも「そこに僕がいる」ってわかる動きがあった。
でも今は、ない。
渚くんは立ち尽くしたままだ。
僕の腕の中にちゃんといる。体温もある。汗ばんだシャツの感触も、試合のあとみたいに速い呼吸も伝わってくる。なのに、そのどれもが、僕に向けて返ってこない。
「渚くん……?」
思わず、縋るみたいに名前を呼ぶ。
返事はない。
「僕さっきから、同じことしか言ってないや……でも、かっこよかった……試合、観られて、本当に良かった……」
自分でもわかるくらい、声が少し震えていた。
それでも、もしかしたら、と思ってしまう。歓声で聞こえていないだけかもしれない。まだ気づいていないだけかもしれない。
だから僕は、もう一度呼ぶ。
「渚くん」
その時、歓声の隙間を縫うみたいに、渚くんが小さく「真尋」と呼んだ。
僕は息を呑んだ。
「ここに……いるよ……?」
すぐにそう返した。
抱きついたまま、少しでも伝わるように、ぎゅっと腕に力を込める。
でも、渚くんの視線は僕を捉えていなかった。
僕の少し横を、頼りなくさまようみたいに揺れている。
それを見た瞬間、何かがすとんと胸の中に落ちてくる。
ああ、駄目なんだ。
約束したのに。
ちゃんとここに来たのに。
もう、駄目なんだ。
渚くんの口元が、ぎゅっと引き結ばれる。
それから一度、目を閉じて、深く息を吐いた。
そのまま渚くんは、タオルで顔を覆ってしまう。
僕は、うつむいたその肩を、ただ強く抱きしめた。
「ごめんね……渚くん」
約束したのに、ハイタッチ、できなかった。
「ごめん……ごめんね……大好き、ありがとう」
言葉は何ひとつ届かないまま、僕の口からこぼれていく。
こんなに近くにいるのに。
こうして抱きついているのに。
もう、渚くんには僕が見えない。
渚くんとのいちばん最初の記憶は、小学校一年生の時だ。
入学式の日。僕たちは名前順で隣同士になって、手を繋いで体育館に入場した。その時の写真を、母さんがわざわざプリントして、家のアルバムに大事そうに挟んでいるのを僕は知っている。
そこから僕たちは、同じマンションだったこともあって、よく一緒に遊ぶようになった。学校でも一緒にいたし、家に帰ってからも一緒にいた。
渚くんは昔から人気者だった。
僕は昔から、ちょっと喋るのが苦手で、運動もあまり得意じゃなかった。
でも、たぶん。渚くんが一緒にいてくれたから、僕は変に浮かずにいられたんじゃないかなって、今になって思う。
その頃から、渚くんはずっと僕の憧れだった。
キュキュッ、とバッシュが床を擦る音が響く。
現実に意識を引き戻されて、僕はそっと顔を上げた。
体育館は、試合の熱気に満ちていた。
ボールが弾む重たい音、ベンチから飛ぶ指示、タイムキーパーの笛、観客席のざわめき。それぞれが重なって、熱を持った空気を作っている。
「ナイスディフェンス!」
「一本いける!」
「渚、前!」
バルコニーの方からも声援が飛んでくる。関係者以外は上からの観戦らしく、応援の保護者や生徒たちはそっちに集まっていた。
けれど、見えないという特権のおかげで、僕の居場所は選手たちの控えるベンチのすぐ横だった。本当なら絶対に居られない、特等席だ。
ボールを受けた瞬間に、渚くんの空気が変わる。さっきまでの穏やかな顔なんて嘘みたいに、目つきが鋭くなる。相手を見て、味方を見て、一瞬で判断して走る。ドリブルは低く速く、迷いがない。ディフェンスが詰めてきても、するりと半身でかわして、そのままリング下へ切り込んでいく。
「――っ」
思わず、僕は息を呑んだ。
跳んだ、と思った次の瞬間には、ボールが渚くんの手を離れている。
バシュッ。
ネットがきれいに鳴った。
「うわ、すご……」
僕の声は誰にも届かない。
でも、それでいい。今はもう、そんなことどうでもよかった。
額の汗を手首で乱暴に拭う仕草までかっこいい。声を張って味方に指示を出す顔も、真剣で、少し苦しそうに呼吸している横顔も、全部、目が離せなかった。
「渚、ナイス!」
「次も落ち着いて!」
ベンチから飛ぶ声に、渚くんは短く頷く。
その一つ一つが、なんだか全部、遠い場所の人みたいに眩しい。
でも、僕はこうしてそのすぐそばにいる。
選手たちの荷物が置かれたベンチの端、タオルやドリンクボトルの並ぶ脇で、僕は膝を抱えたままコートを見つめた。
渚くんが走るたび、胸がぎゅっとする。
こんな近くで、渚くんの試合を見られる日が来るなんて思わなかった。
――『ちゃんと観てて欲しい』
さっき言われたその言葉を思い出して、僕は小さく拳を握る。
――見ていてほしいだなんて……。
「渚くん、僕はいつも、ずっと渚くんを見てたよ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
ハーフタイムに入って、選手たちがベンチへ戻ってくる。
渚くんも、手渡された飲み物を口にしながら汗を拭き、ベンチに腰を下ろした。
真剣な顔をしている。集中している。
もちろん、邪魔なんてしちゃいけない。
だけど、それでも、僕は声をかけたくなる。
都合のいいことに、僕の声は渚くんには届かない。だから、これは完全に自己満足だ。
それでも僕は、隣で何度も何度も声をかけた。
「渚くん、すごくかっこよかった」
「さっきのシュート、すごかったね」
「リバウンドからの速攻、めちゃくちゃしびれたよ」
今までだったら、絶対にできない。
でも今はできる。だから僕は、思う存分はしゃいで、そうやって言葉を投げた。
届いていない、はずだった。
なのに、不意に渚くんの視線がこちらを向いた気がした。
そのまま、タオルに顔を半分埋めたまま、目元がわずかに細まって、口角がほんの少しだけ上がったように見える。
勘違いだ、と思う。
たまたまそう見えただけだ。笑いかけられたわけじゃない。
でも、そうだったとしても。
僕は、はっとして制服の胸元をぎゅっと握りしめた。
かっこいい。
たとえば漫画だったら、胸に矢が刺さるみたいなコマが入るんだろうな、なんて、馬鹿みたいなことを考えてしまう。そんなことを思いながら、僕はふふっと笑った。
やがてハーフタイムが終わって、渚くんはまたコートへ戻っていく。
その背中を見送りながら、僕は細く息を吐いた。
なんだか、夢の中にいるみたいだ。
こんなこと、渚くんには言えないけれど。
やっぱり僕はどこかで死んでしまっていて、ここは魂がどこかへ行ってしまう前に見せてもらっている、優しい夢みたいな場所なんじゃないか――そんなことまで考えてしまう。
コートを走る渚くんの姿を見ながら、僕はそっと自分の唇に指で触れた。
さっき、僕をこの場につなぎ止めるみたいにしてくれた、あれ。
あれって、キスって言っていいよね。
その時は必死で、それどころじゃなかった。
でも、こうして思い返すと、急に顔が熱くなってきて、心臓も変なくらいうるさい。
渚くんとキスしたんだ。
そう思ったら、胸の奥がじんわり熱くなった。
僕は、渚くんのことを好きになれたことを、幸せだと思う。
生きていた時間の中で、誰かのことをこんなふうに好きになれたこと。
見ているだけで嬉しくなったり、ちょっと笑ってくれた気がしただけで胸がいっぱいになったり、声を聞くだけで安心したり、触れられただけで泣きそうになったり――そういう気持ちを知れたこと。
それって、きっとすごく幸せなことだ。
渚くんのことを好きになったから、今の僕はこんなにも苦しい。
でも同時に、こんなにも満たされてもいる。
「渚くーん、ファイトー!」
僕は声を張り上げた。
試合はもう大詰めだった。
体育館の空気が、さっきまでとはまるで違う。ボールが床を叩く音も、バッシュがきしむ音も、全部がぴんと張りつめて聞こえる。ベンチから飛ぶ声は短く鋭く、客席のざわめきも、どこか息を詰めたみたいに薄くなっていた。
点差はわずかだった。
相手が攻め込むたび、僕の心臓まで一緒に縮み上がる。
ディフェンスの足音が交差して、ボールが弾かれて、高く跳ねる。誰かの指先に触れたそれを、いちばん早く追ったのは渚くんだった。
「渚くん……!」
渚くんがボールを押さえる。
着地した瞬間には、もう前を向いていた。
速い。
低いドリブルの音が、だん、だん、とリズムを刻む。相手が追いすがる。前に立とうとする選手を、渚くんは半歩の切り返しでかわした。肩が揺れて、視線がぶれた、その一瞬の隙を縫うみたいに、するりと前へ抜ける。
「いけ……っ」
ベンチから声が飛ぶ。
客席がどよめく。
渚くんが跳んだ。
その瞬間だけ、時間が少し伸びたみたいだった。
放たれたボールが、きれいな弧を描いて宙を進む。僕は息を止めたまま、それを見つめる。
――パァン、と試合終了のブザーが鳴る。
その音に重なるように、
――バシュッ。
渚くんのシュートが、ネットを揺らした。
「……っ、やった……!」
一拍遅れて、体育館がわっと沸いた。
客席から歓声が上がる。拍手。名前を呼ぶ声。バルコニーの方では、応援に来ていた生徒たちが立ち上がって、身を乗り出すみたいに手を叩いている。
ベンチからは部員たちが飛び出していった。コートの中でも外でも、あちこちで声が弾ける。肩をぶつけ合って、抱き合って、背中を叩いて、みんな勝った実感に追いつこうとするみたいに騒いでいた。
渚くんも、チームメイトに取り囲まれていた。肩を掴まれて揺さぶられて、背中を何度も叩かれて、それでも少し照れたみたいに笑っている。さっきまでの張りつめた顔とは違う、勝ったあとの、力の抜けた顔だった。
「すごい……」
僕はただ、それしか言えなかった。
汗だくで、肩で息をしている渚くん。
その姿が眩しくて、胸の奥が熱くて、苦しいくらい嬉しい。
「渚くん、すごい……! かっこいい……!」
誰にも届かない声で、それでも思いきり、そう叫んだ。
「すごい、かっこいい! 感動した! 大好き!」
なんてひどい語彙なんだろう。
自分でも笑ってしまうくらい、それでも思いつく限りの言葉を、僕は飛び跳ねながら渚くんへ投げかけた。
チームメイトに囲まれていた渚くんが、ふと顔を上げる。
ちょうど僕のいるベンチの横に視線が向いた。
目が合った、気がした。
でも、きっと偶然だ。
そう思いながらも、僕は小さく息を呑む。
だって、僕たちは約束したのだ。
渚くんはさりげなく、盛り上がっているみんなの輪から少し離れた。ベンチの脇まで歩いてきて、手に取ったのは、あの黒いロゴの入ったスポーツタオルだった。
みんなに変に思われないように、あくまで自然なふりをしている。
でも、僕にはわかる。ちょっとだけ不自然なくらいに、渚くんはベンチの横で立ち止まり、タオルを手にしたまま、僕を待ってくれていた。
今だ、と思った。
僕は渚くんの方へ歩み寄る。
両手を広げ、そのまま、まだ少し肩で息をしている渚くんへぎゅっと抱きついた。
その瞬間、気づいてしまった。
――違う。
さっきまでは、抱きついた途端に、渚くんの体がちゃんと僕の方へ反応してくれた。驚いたり、抱き返してくれたり、少なくとも「そこに僕がいる」ってわかる動きがあった。
でも今は、ない。
渚くんは立ち尽くしたままだ。
僕の腕の中にちゃんといる。体温もある。汗ばんだシャツの感触も、試合のあとみたいに速い呼吸も伝わってくる。なのに、そのどれもが、僕に向けて返ってこない。
「渚くん……?」
思わず、縋るみたいに名前を呼ぶ。
返事はない。
「僕さっきから、同じことしか言ってないや……でも、かっこよかった……試合、観られて、本当に良かった……」
自分でもわかるくらい、声が少し震えていた。
それでも、もしかしたら、と思ってしまう。歓声で聞こえていないだけかもしれない。まだ気づいていないだけかもしれない。
だから僕は、もう一度呼ぶ。
「渚くん」
その時、歓声の隙間を縫うみたいに、渚くんが小さく「真尋」と呼んだ。
僕は息を呑んだ。
「ここに……いるよ……?」
すぐにそう返した。
抱きついたまま、少しでも伝わるように、ぎゅっと腕に力を込める。
でも、渚くんの視線は僕を捉えていなかった。
僕の少し横を、頼りなくさまようみたいに揺れている。
それを見た瞬間、何かがすとんと胸の中に落ちてくる。
ああ、駄目なんだ。
約束したのに。
ちゃんとここに来たのに。
もう、駄目なんだ。
渚くんの口元が、ぎゅっと引き結ばれる。
それから一度、目を閉じて、深く息を吐いた。
そのまま渚くんは、タオルで顔を覆ってしまう。
僕は、うつむいたその肩を、ただ強く抱きしめた。
「ごめんね……渚くん」
約束したのに、ハイタッチ、できなかった。
「ごめん……ごめんね……大好き、ありがとう」
言葉は何ひとつ届かないまま、僕の口からこぼれていく。
こんなに近くにいるのに。
こうして抱きついているのに。
もう、渚くんには僕が見えない。


