渚くんには僕が見えない



渚くんとのいちばん最初の記憶は、小学校一年生の時だ。

入学式の日。僕たちは名前順で隣同士になって、手を繋いで体育館に入場した。その時の写真を、母さんがわざわざプリントして、家のアルバムに大事そうに挟んでいるのを僕は知っている。

そこから僕たちは、同じマンションだったこともあって、よく一緒に遊ぶようになった。学校でも一緒にいたし、家に帰ってからも一緒にいた。

渚くんは昔から人気者だった。
僕は昔から、ちょっと喋るのが苦手で、運動もあまり得意じゃなかった。

でも、たぶん。渚くんが一緒にいてくれたから、僕は変に浮かずにいられたんじゃないかなって、今になって思う。

その頃から、渚くんはずっと僕の憧れだった。

キュキュッ、とバッシュが床を擦る音が響く。

現実に意識を引き戻されて、僕はそっと顔を上げた。

体育館は、試合の熱気に満ちていた。
ボールが弾む重たい音、ベンチから飛ぶ指示、タイムキーパーの笛、観客席のざわめき。それぞれが重なって、熱を持った空気を作っている。

「ナイスディフェンス!」
「一本いける!」
「渚、前!」

バルコニーの方からも声援が飛んでくる。関係者以外は上からの観戦らしく、応援の保護者や生徒たちはそっちに集まっていた。

けれど、見えないという特権のおかげで、僕の居場所は選手たちの控えるベンチのすぐ横だった。本当なら絶対に居られない、特等席だ。

ボールを受けた瞬間に、渚くんの空気が変わる。さっきまでの穏やかな顔なんて嘘みたいに、目つきが鋭くなる。相手を見て、味方を見て、一瞬で判断して走る。ドリブルは低く速く、迷いがない。ディフェンスが詰めてきても、するりと半身でかわして、そのままリング下へ切り込んでいく。

「――っ」

思わず、僕は息を呑んだ。

跳んだ、と思った次の瞬間には、ボールが渚くんの手を離れている。

バシュッ。

ネットがきれいに鳴った。

「うわ、すご……」

僕の声は誰にも届かない。
でも、それでいい。今はもう、そんなことどうでもよかった。

額の汗を手首で乱暴に拭う仕草までかっこいい。声を張って味方に指示を出す顔も、真剣で、少し苦しそうに呼吸している横顔も、全部、目が離せなかった。

「渚、ナイス!」
「次も落ち着いて!」

ベンチから飛ぶ声に、渚くんは短く頷く。
その一つ一つが、なんだか全部、遠い場所の人みたいに眩しい。

でも、僕はこうしてそのすぐそばにいる。

選手たちの荷物が置かれたベンチの端、タオルやドリンクボトルの並ぶ脇で、僕は膝を抱えたままコートを見つめた。

渚くんが走るたび、胸がぎゅっとする。

こんな近くで、渚くんの試合を見られる日が来るなんて思わなかった。

――『ちゃんと観てて欲しい』

さっき言われたその言葉を思い出して、僕は小さく拳を握る。

――見ていてほしいだなんて……。

「渚くん、僕はいつも、ずっと渚くんを見てたよ」

誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

ハーフタイムに入って、選手たちがベンチへ戻ってくる。
渚くんも、手渡された飲み物を口にしながら汗を拭き、ベンチに腰を下ろした。

真剣な顔をしている。集中している。
もちろん、邪魔なんてしちゃいけない。

だけど、それでも、僕は声をかけたくなる。

都合のいいことに、僕の声は渚くんには届かない。だから、これは完全に自己満足だ。
それでも僕は、隣で何度も何度も声をかけた。

「渚くん、すごくかっこよかった」
「さっきのシュート、すごかったね」
「リバウンドからの速攻、めちゃくちゃしびれたよ」

今までだったら、絶対にできない。
でも今はできる。だから僕は、思う存分はしゃいで、そうやって言葉を投げた。

届いていない、はずだった。

なのに、不意に渚くんの視線がこちらを向いた気がした。

そのまま、タオルに顔を半分埋めたまま、目元がわずかに細まって、口角がほんの少しだけ上がったように見える。

勘違いだ、と思う。
たまたまそう見えただけだ。笑いかけられたわけじゃない。

でも、そうだったとしても。

僕は、はっとして制服の胸元をぎゅっと握りしめた。

かっこいい。

たとえば漫画だったら、胸に矢が刺さるみたいなコマが入るんだろうな、なんて、馬鹿みたいなことを考えてしまう。そんなことを思いながら、僕はふふっと笑った。

やがてハーフタイムが終わって、渚くんはまたコートへ戻っていく。
その背中を見送りながら、僕は細く息を吐いた。

なんだか、夢の中にいるみたいだ。

こんなこと、渚くんには言えないけれど。
やっぱり僕はどこかで死んでしまっていて、ここは魂がどこかへ行ってしまう前に見せてもらっている、優しい夢みたいな場所なんじゃないか――そんなことまで考えてしまう。

コートを走る渚くんの姿を見ながら、僕はそっと自分の唇に指で触れた。

さっき、僕をこの場につなぎ止めるみたいにしてくれた、あれ。
あれって、キスって言っていいよね。

その時は必死で、それどころじゃなかった。
でも、こうして思い返すと、急に顔が熱くなってきて、心臓も変なくらいうるさい。

渚くんとキスしたんだ。

そう思ったら、胸の奥がじんわり熱くなった。

僕は、渚くんのことを好きになれたことを、幸せだと思う。

生きていた時間の中で、誰かのことをこんなふうに好きになれたこと。
見ているだけで嬉しくなったり、ちょっと笑ってくれた気がしただけで胸がいっぱいになったり、声を聞くだけで安心したり、触れられただけで泣きそうになったり――そういう気持ちを知れたこと。

それって、きっとすごく幸せなことだ。

渚くんのことを好きになったから、今の僕はこんなにも苦しい。
でも同時に、こんなにも満たされてもいる。

「渚くーん、ファイトー!」

僕は声を張り上げた。

試合はもう大詰めだった。

体育館の空気が、さっきまでとはまるで違う。ボールが床を叩く音も、バッシュがきしむ音も、全部がぴんと張りつめて聞こえる。ベンチから飛ぶ声は短く鋭く、客席のざわめきも、どこか息を詰めたみたいに薄くなっていた。

点差はわずかだった。

相手が攻め込むたび、僕の心臓まで一緒に縮み上がる。
ディフェンスの足音が交差して、ボールが弾かれて、高く跳ねる。誰かの指先に触れたそれを、いちばん早く追ったのは渚くんだった。

「渚くん……!」

渚くんがボールを押さえる。
着地した瞬間には、もう前を向いていた。

速い。

低いドリブルの音が、だん、だん、とリズムを刻む。相手が追いすがる。前に立とうとする選手を、渚くんは半歩の切り返しでかわした。肩が揺れて、視線がぶれた、その一瞬の隙を縫うみたいに、するりと前へ抜ける。

「いけ……っ」

ベンチから声が飛ぶ。
客席がどよめく。

渚くんが跳んだ。

その瞬間だけ、時間が少し伸びたみたいだった。

放たれたボールが、きれいな弧を描いて宙を進む。僕は息を止めたまま、それを見つめる。

――パァン、と試合終了のブザーが鳴る。

その音に重なるように、

――バシュッ。

渚くんのシュートが、ネットを揺らした。

「……っ、やった……!」

一拍遅れて、体育館がわっと沸いた。

客席から歓声が上がる。拍手。名前を呼ぶ声。バルコニーの方では、応援に来ていた生徒たちが立ち上がって、身を乗り出すみたいに手を叩いている。

ベンチからは部員たちが飛び出していった。コートの中でも外でも、あちこちで声が弾ける。肩をぶつけ合って、抱き合って、背中を叩いて、みんな勝った実感に追いつこうとするみたいに騒いでいた。

渚くんも、チームメイトに取り囲まれていた。肩を掴まれて揺さぶられて、背中を何度も叩かれて、それでも少し照れたみたいに笑っている。さっきまでの張りつめた顔とは違う、勝ったあとの、力の抜けた顔だった。

「すごい……」

僕はただ、それしか言えなかった。

汗だくで、肩で息をしている渚くん。
その姿が眩しくて、胸の奥が熱くて、苦しいくらい嬉しい。

「渚くん、すごい……! かっこいい……!」

誰にも届かない声で、それでも思いきり、そう叫んだ。

「すごい、かっこいい! 感動した! 大好き!」

なんてひどい語彙なんだろう。
自分でも笑ってしまうくらい、それでも思いつく限りの言葉を、僕は飛び跳ねながら渚くんへ投げかけた。

チームメイトに囲まれていた渚くんが、ふと顔を上げる。
ちょうど僕のいるベンチの横に視線が向いた。

目が合った、気がした。

でも、きっと偶然だ。
そう思いながらも、僕は小さく息を呑む。

だって、僕たちは約束したのだ。

渚くんはさりげなく、盛り上がっているみんなの輪から少し離れた。ベンチの脇まで歩いてきて、手に取ったのは、あの黒いロゴの入ったスポーツタオルだった。

みんなに変に思われないように、あくまで自然なふりをしている。
でも、僕にはわかる。ちょっとだけ不自然なくらいに、渚くんはベンチの横で立ち止まり、タオルを手にしたまま、僕を待ってくれていた。

今だ、と思った。

僕は渚くんの方へ歩み寄る。
両手を広げ、そのまま、まだ少し肩で息をしている渚くんへぎゅっと抱きついた。

その瞬間、気づいてしまった。

――違う。

さっきまでは、抱きついた途端に、渚くんの体がちゃんと僕の方へ反応してくれた。驚いたり、抱き返してくれたり、少なくとも「そこに僕がいる」ってわかる動きがあった。

でも今は、ない。

渚くんは立ち尽くしたままだ。

僕の腕の中にちゃんといる。体温もある。汗ばんだシャツの感触も、試合のあとみたいに速い呼吸も伝わってくる。なのに、そのどれもが、僕に向けて返ってこない。

「渚くん……?」

思わず、縋るみたいに名前を呼ぶ。

返事はない。

「僕さっきから、同じことしか言ってないや……でも、かっこよかった……試合、観られて、本当に良かった……」

自分でもわかるくらい、声が少し震えていた。
それでも、もしかしたら、と思ってしまう。歓声で聞こえていないだけかもしれない。まだ気づいていないだけかもしれない。

だから僕は、もう一度呼ぶ。

「渚くん」

その時、歓声の隙間を縫うみたいに、渚くんが小さく「真尋」と呼んだ。

僕は息を呑んだ。

「ここに……いるよ……?」

すぐにそう返した。
抱きついたまま、少しでも伝わるように、ぎゅっと腕に力を込める。

でも、渚くんの視線は僕を捉えていなかった。

僕の少し横を、頼りなくさまようみたいに揺れている。

それを見た瞬間、何かがすとんと胸の中に落ちてくる。

ああ、駄目なんだ。

約束したのに。
ちゃんとここに来たのに。
もう、駄目なんだ。

渚くんの口元が、ぎゅっと引き結ばれる。
それから一度、目を閉じて、深く息を吐いた。

そのまま渚くんは、タオルで顔を覆ってしまう。

僕は、うつむいたその肩を、ただ強く抱きしめた。

「ごめんね……渚くん」

約束したのに、ハイタッチ、できなかった。

「ごめん……ごめんね……大好き、ありがとう」

言葉は何ひとつ届かないまま、僕の口からこぼれていく。
 
こんなに近くにいるのに。
こうして抱きついているのに。
  
もう、渚くんには僕が見えない。