唐突に、僕は目を覚ました。
眠りが浅くなっていくような前触れもなく、ぱっと意識だけが浮上した感じだった。まぶたを開くと、窓から朝の光が差し込んでいる。渚くんの部屋だ。
眠る前のことは、ちゃんと覚えている。
渚くんに抱きしめてもらって、少しどきどきしながら、それでも泣いてしまって。泣き疲れたせいもあって、そのまま眠りに落ちたのだ。
すごくよく眠れた気がする。
そんなふうに思いながら隣へ目をやると、そこに渚くんの姿はなかった。なんとなく、布団のそのあたりももう冷えている気がする。離れてから、少し時間が経っているのかもしれない。
僕はすっかり冴えた頭のまま、ゆっくりと体を起こす。
その瞬間、理由のない嫌な予感が、すっと背筋をなぞった。
僕はベッドを降りて、自分の荷物の中からスマートフォンを引っ張り出す。画面を点けた途端、「え」と喉の奥で息が詰まった。
あの日と同じだ。
初めて、僕が誰からも見えなくなったのだと気づいた、あの日と。
いつの間にか、僕の最後の記憶からまた数日が過ぎてしまっている。
今日は、日曜日だった。
「なんでこんなっ!」
誰に向かって怒ればいいのかもわからないまま、ひとり叫ぶ。
僕は慌てて服を着替えた。けれど、持ってきているのは制服しかない。日曜日なのに、結局それを着るしかなかった。
渚くんは、僕に気を遣って、部屋のドアを開けたままにしてくれている。
僕は、人のものには触れないので、渚くんの部屋のドアも、自分では開けられないからだ。
廊下には出られた。
でも――じゃあ、ここから渚くんの家の外に出るには、どうしたらいいんだろう。
焦りでどくどくとうるさい心臓を抱えたまま、僕は開け放たれた部屋の出口を見つめた。
僕が意識を失っていた数日間、いったいどうなっていたんだろう。渚くんにとっては、また僕が突然いなくなったみたいになっていたんだろうか。渚くんは前に、僕がいなくなった時、本当に焦ったし心配したと言っていた。だったら今回も、きっと――。
早く、ここにいるって伝えなきゃ。
それに何より、今日は渚くんの大事な試合の日だ。見に行くって言ったのに、このままじゃ間に合わない。
頭を抱えそうになっていると、リビングの方から物音が聞こえた。そっと様子をうかがうと、渚くんのお母さんがいる。洗濯物を抱えて、ちょうどベランダへ続く掃き出し窓を開けたところだった。
ごくりと唾を飲み込む。
――ここから出るしかない。
僕は靴を手に持ったまま、そろそろとそちらへ歩み寄った。渚くんのお母さんの横をすり抜け、開いた掃き出し窓からベランダへ出る。そこで急いで靴を履き、手すりの向こうを覗き込んだ。
渚くんの家は二階だ。
真下には植え込みがある。どうにか、できなくもない気がする。
……でも、ちょっと高いな。
幸い、ベランダの手すりには触れることができた。僕はそこへよじ登る。両手でしっかり手すりを握り、恐る恐る体を外側へ向けた。足先で壁を探りながら、滑るみたいに少しずつ体を下ろしていく。
怖い。
でも、行くしかない。
腕に力を入れてぶら下がるみたいな形になって、最後は思い切って手を離した。
「うわっ」
どさっと植え込みの縁のあたりに着地したものの、勢いを殺しきれず、そのまま尻餅をつく。お尻に鈍い痛みが走って、思わず顔をしかめた。
痛い……けど、骨は大丈夫そう。
僕は慌てて立ち上がり、制服の尻をぱんぱんと払った。
それから一度だけ上を見上げる。ベランダでは、渚くんのお母さんが何も知らないまま洗濯物を干していた。僕はその姿を確認すると、そのまま踵を返して走り出す。
今日の試合の会場は、他校の体育館だ。
急に行けと言われて迷わないほど近くはないけれど、場所はわかっている。電車だって、タイミングさえ合わせれば今の僕でもどうにか乗れるはずだ。
とにかく急がなきゃ。
こんな状況でも、走ればちゃんと息は上がる。もともと運動は得意じゃないし、体力もない。僕は荒い息を吐きながら、ひりつく喉へ唾を飲み込んだ。
そうやって駅へ向かっていると、ふと前方に見覚えのある背中が見えた。
日曜日なのに制服姿。
渚くんだ。
ぎりぎりまで上がっていた息のまま、僕は一度だけスマートフォンを確認する。
試合までは、まだ少し時間があるらしい。だから渚くんも、今ちょうど会場へ向かう途中なんだ。
少しだけ呼吸を整えて、僕はまた速度を上げた。
「渚くん!」
声をかけながら、その腕へ手を伸ばす。
触れた。
でも……。
たしかに触れているのに、引き止められない。腕を掴んだはずなのに、手応えだけが薄くて、渚くんの動きを止めることができなかった。
その妙な違和感に、僕ははっと息を呑んだ。
渚くんは振り返らない。
僕に、気づいていない。
「なんで……渚くん……」
すっと血の気が引いていくような心地がする。
渚くんはそのまま、駅の方へ向かって歩き続けていた。
僕は、誰からも見えなくなってしまった。
でも、それでも渚くんだけは僕を見つけられるはずだった。手を繋いでいる間だけなら、ちゃんと。
なのに今は――
頭がぐちゃぐちゃになる。
焦って、僕はもう一度その名前を呼んだ。
「渚くん!」
今度は腕を回して、背後からそのまま渚くんへ抱きつく。
その瞬間だった。
渚くんの足が、路面に縫い止められたみたいにぴたりと止まった。
一歩踏み出しかけていた体が、ぐっと何かに引き留められたみたいに強張る。
「あ……」
低く漏れた息のあと、渚くんが勢いよく振り返った。
「真尋!」
その声と同時に、渚くんの腕がとっさに僕の背中へ回る。
ほどけかけていた僕の抱きつき方を、そのまま抱き返すみたいに、しっかり引き寄せてくれた。
「渚くん……!」
ようやく気づいてもらえた。そのことだけで、胸の奥が一気に熱くなる。
怖かった。さっきまで、確かに触っているのに届いていないみたいで、本当にこのまま渚くんにまで見えなくなってしまうんじゃないかと思った。
渚くんは僕を抱きとめたまま、まだ少し息を詰めた顔で僕を見ている。
「よかった……真尋……いなくなっちゃったのかと思った……」
その顔を、僕は前にも見たことがあった。
神社の境内で、僕が渚くんに抱きついて、とっさに突き飛ばされてしまった時だ。あの時は頭を切って、血が少し派手に出てしまった。たぶんそれで余計にびっくりしたんだと思う。あの時の渚くんも、今みたいな顔をしていた。
不安で、泣き出しそうな顔。
渚くんはいつも落ち着いていて、穏やかで、あまり取り乱さない。だから、こんなふうなのは珍しい気がする。
あの時も、僕は思ったのだ。
渚くん、心配しないで。大丈夫。泣かないでって。
だから、今も同じことを思う。
「渚くん、ごめんね。大丈夫だよ」
不安な僕に渚くんがそう言ってくれたみたいに、今度は僕が安心させてあげたかった。
「なんか、ちょっと眠りすぎちゃったみたいで」
抱き合ったまま、僕はへへっと笑ってみせた。
「眠りすぎちゃったって、三日間も……? その間ずっと俺の部屋にいたの?」
「う、うーん、たぶん?」
今度は僕の方が、渚くんの背中をよしよしと撫でてみる。
「真尋……」
何か言おうとしたところで、不意に渚くんが少しだけ体を離した。
その流れのまま、渚くんの手が僕の手を握ろうと伸びてくる。
でも、その瞬間だった。
はっと渚くんの目が見開く。
それを見て、僕は確信した。
もう、手を繋ぐだけでは駄目なんだ。
僕は反射みたいに、もう一度ぎゅっと渚くんへ抱きついた。
「なんで……どういうこと……」
不安を押し殺しきれない声が、頭の上から落ちてくる。
「なんか……手だけじゃ駄目になっちゃったみたい……。ご、ごめんね……抱きついちゃって……」
胸元へ耳が触れると、渚くんの心臓の音が聞こえた。
すごく速い。
僕もきっと同じだ。
でも、これはときめきというより、たぶん不安の方が強い。渚くんも、そうなんだと思う。
抱き返してくれた腕に、また強く力がこもる。
「真尋、こないだ話したこと、すぐやってみよう」
「え?」
僕は渚くんの胸の中で顔を上げた。少しでも多く触れていようとしてくれているのか、渚くんの手のひらがそのまま僕の頬を包む。
「再現してみようって言ったでしょ。見えなくなった前の日のこと、今すぐやってみよう」
「でも、今?! 渚くん試合は?」
「それは……いいよ。真尋の方が大事」
「ダメだよ!」
僕はとっさに声を荒らげた。
「僕のせいで、渚くんが大事な試合に出られないなんて、絶対ダメ!」
「ダメじゃないよ!」
渚くんも珍しく声を張った。
車道を挟んだ向こう側の歩道を歩いていた女の人が、少しいぶかしそうにこちらをちらりと見て、そのまま通り過ぎていく。
その視線に気づいたのか、渚くんは一度はっとしたように口をつぐみ、それから自分を落ち着かせるみたいに、深く息を吐いた。
「ダメじゃないよ……」
今度は少し声を抑えて、でもさっきよりもはっきりと続ける。
「だって、変だよ。こんなの。俺からも見えなくなったり、手を握るだけじゃ足りなくなったり、明らかに悪くなってる。このままだと真尋は――」
渚くんはそこで言葉を止めた。その先に、彼が続けようとした言葉が何なのか僕にはわかった。だけど、それを言ってしまうと、渚くん自身にも、僕自身にも、その現実が突きつけられるような心地がするから、きっと口にするのは躊躇ったんだろう。
僕はゆっくりと息を整えた。
怖くないわけじゃない。戻りたい気持ちだって、ちゃんとある。
でも、それと同じくらい、もうどうしようもないのかもしれない、という冷たい考えが胸の底に沈んでいた。
だからこそ、これ以上、渚くんの日常まで壊したくなかった。
「渚くん……」
できるだけ落ち着いた声で名前を呼ぶと、渚くんは続きを待つみたいに小さく頷いた。
「試合、行ってほしい」
渚くんはすぐに首を振った。
「こんな時に、行けるわけないよ」
僕は一度だけ黙る。
でも、そのまま小さく息を吸って、言葉を続けた。
「……でも、行ってほしい」
「真尋」
「僕、見たいんだ」
渚くんの目が、少しだけ揺れた。
「渚くんが試合してるところ。ちゃんと見たい」
何度も、こっそり見に行こうとして、そのたびに諦めて、それでもやっぱり見たかった。
だから今度こそ、渚くんが試合に出ているところを見たい。
――最後かもしれないから。
そんなことを言ったら、たぶん渚くんは悲しむ。だから僕は、それを口にはしなかった。
ただ、もう一度だけ「お願い」と言う。
渚くんはしばらく黙っていた。
それから深く息を吸い込んで、「わかった」と静かに頷いた。
「楽しみ」
なんでもないふりで、にこっと笑う。
でも、そろそろちょっと限界かもしれない。込み上げてきそうなものを抑えきれなくなりそうで、僕はゆっくりと渚くんの体から腕を離した。
その瞬間、ぐいっと手首を引かれた。
「待って」
低い声が落ちてきたかと思った次の瞬間、渚くんの腕が僕の肩を引き寄せる。
「え、渚く――」
言い終わる前に、唇が触れた。
目を見開いたままの僕のすぐ前に、渚くんの長いまつげが見える。
けれど、それは一瞬で、すぐに唇が離れた。目の前には、不安げに揺れる渚くんの瞳がある。
「俺、真尋のために試合に出る……!」
ぱちくりと瞬いた僕に対して、渚くんはひどく必死な顔をしていた。
僕は、その言葉にこくんと頷く。
「真尋のために、いっぱいシュート決めるから」
「……うん」
自然に、ふふっと口元がゆるむ。
「絶対勝つから、ちゃんと観てて欲しい」
「うん、絶対勝って……応援してる」
ぎゅっと握った拳を、僕は渚くんの前に突き出した。応援のつもりのポーズだ。
渚くんはそれを見て、力強く頷く。
「試合勝ったらさ、ハイタッチしようね」
「うん、いいね!」
そう頷いてから、僕ははたと気づいた。
「あ……でも、僕、見えないね?」
渚くんも、僕に言われてから気づいたみたいだった。少し考えるように黙り込んで、それから「じゃあ」と小さく言う。僕の体に片腕を回したまま、もう片方の手で鞄の中を探った。
引っ張り出したのは、黒いロゴの入ったスポーツタオルだった。
「俺がこれで顔拭くふりするから、その時に真尋の方から来て。さっきみたいに抱きついてくれたら、その流れでハイタッチできる」
「うん……」
僕は笑ったまま、もう一度頷く。
「……汗、すごいと思うけど……平気?」
「うん、平気」
少しだけ的外れな心配の仕方が、なんだか渚くんらしくて、僕は思わず笑ってしまった。
それから僕たちは、ゆっくり体を離した。
完全に離れてしまう前に、渚くんの指先が一度だけ僕の手を探るみたいに触れる。
僕もそれに合わせるように指を伸ばした。見えていなくても、そこにいるとわかる程度に、かすかに触れ合う。
そのまま僕たちは歩き出す。
同じ方向へ向かいながら、並んでいるようで、少しずれている。
けれど、渚くんの左手がときどき隣を探るみたいに揺れるたび、僕はそこへ自分の右手を寄せた。
眠りが浅くなっていくような前触れもなく、ぱっと意識だけが浮上した感じだった。まぶたを開くと、窓から朝の光が差し込んでいる。渚くんの部屋だ。
眠る前のことは、ちゃんと覚えている。
渚くんに抱きしめてもらって、少しどきどきしながら、それでも泣いてしまって。泣き疲れたせいもあって、そのまま眠りに落ちたのだ。
すごくよく眠れた気がする。
そんなふうに思いながら隣へ目をやると、そこに渚くんの姿はなかった。なんとなく、布団のそのあたりももう冷えている気がする。離れてから、少し時間が経っているのかもしれない。
僕はすっかり冴えた頭のまま、ゆっくりと体を起こす。
その瞬間、理由のない嫌な予感が、すっと背筋をなぞった。
僕はベッドを降りて、自分の荷物の中からスマートフォンを引っ張り出す。画面を点けた途端、「え」と喉の奥で息が詰まった。
あの日と同じだ。
初めて、僕が誰からも見えなくなったのだと気づいた、あの日と。
いつの間にか、僕の最後の記憶からまた数日が過ぎてしまっている。
今日は、日曜日だった。
「なんでこんなっ!」
誰に向かって怒ればいいのかもわからないまま、ひとり叫ぶ。
僕は慌てて服を着替えた。けれど、持ってきているのは制服しかない。日曜日なのに、結局それを着るしかなかった。
渚くんは、僕に気を遣って、部屋のドアを開けたままにしてくれている。
僕は、人のものには触れないので、渚くんの部屋のドアも、自分では開けられないからだ。
廊下には出られた。
でも――じゃあ、ここから渚くんの家の外に出るには、どうしたらいいんだろう。
焦りでどくどくとうるさい心臓を抱えたまま、僕は開け放たれた部屋の出口を見つめた。
僕が意識を失っていた数日間、いったいどうなっていたんだろう。渚くんにとっては、また僕が突然いなくなったみたいになっていたんだろうか。渚くんは前に、僕がいなくなった時、本当に焦ったし心配したと言っていた。だったら今回も、きっと――。
早く、ここにいるって伝えなきゃ。
それに何より、今日は渚くんの大事な試合の日だ。見に行くって言ったのに、このままじゃ間に合わない。
頭を抱えそうになっていると、リビングの方から物音が聞こえた。そっと様子をうかがうと、渚くんのお母さんがいる。洗濯物を抱えて、ちょうどベランダへ続く掃き出し窓を開けたところだった。
ごくりと唾を飲み込む。
――ここから出るしかない。
僕は靴を手に持ったまま、そろそろとそちらへ歩み寄った。渚くんのお母さんの横をすり抜け、開いた掃き出し窓からベランダへ出る。そこで急いで靴を履き、手すりの向こうを覗き込んだ。
渚くんの家は二階だ。
真下には植え込みがある。どうにか、できなくもない気がする。
……でも、ちょっと高いな。
幸い、ベランダの手すりには触れることができた。僕はそこへよじ登る。両手でしっかり手すりを握り、恐る恐る体を外側へ向けた。足先で壁を探りながら、滑るみたいに少しずつ体を下ろしていく。
怖い。
でも、行くしかない。
腕に力を入れてぶら下がるみたいな形になって、最後は思い切って手を離した。
「うわっ」
どさっと植え込みの縁のあたりに着地したものの、勢いを殺しきれず、そのまま尻餅をつく。お尻に鈍い痛みが走って、思わず顔をしかめた。
痛い……けど、骨は大丈夫そう。
僕は慌てて立ち上がり、制服の尻をぱんぱんと払った。
それから一度だけ上を見上げる。ベランダでは、渚くんのお母さんが何も知らないまま洗濯物を干していた。僕はその姿を確認すると、そのまま踵を返して走り出す。
今日の試合の会場は、他校の体育館だ。
急に行けと言われて迷わないほど近くはないけれど、場所はわかっている。電車だって、タイミングさえ合わせれば今の僕でもどうにか乗れるはずだ。
とにかく急がなきゃ。
こんな状況でも、走ればちゃんと息は上がる。もともと運動は得意じゃないし、体力もない。僕は荒い息を吐きながら、ひりつく喉へ唾を飲み込んだ。
そうやって駅へ向かっていると、ふと前方に見覚えのある背中が見えた。
日曜日なのに制服姿。
渚くんだ。
ぎりぎりまで上がっていた息のまま、僕は一度だけスマートフォンを確認する。
試合までは、まだ少し時間があるらしい。だから渚くんも、今ちょうど会場へ向かう途中なんだ。
少しだけ呼吸を整えて、僕はまた速度を上げた。
「渚くん!」
声をかけながら、その腕へ手を伸ばす。
触れた。
でも……。
たしかに触れているのに、引き止められない。腕を掴んだはずなのに、手応えだけが薄くて、渚くんの動きを止めることができなかった。
その妙な違和感に、僕ははっと息を呑んだ。
渚くんは振り返らない。
僕に、気づいていない。
「なんで……渚くん……」
すっと血の気が引いていくような心地がする。
渚くんはそのまま、駅の方へ向かって歩き続けていた。
僕は、誰からも見えなくなってしまった。
でも、それでも渚くんだけは僕を見つけられるはずだった。手を繋いでいる間だけなら、ちゃんと。
なのに今は――
頭がぐちゃぐちゃになる。
焦って、僕はもう一度その名前を呼んだ。
「渚くん!」
今度は腕を回して、背後からそのまま渚くんへ抱きつく。
その瞬間だった。
渚くんの足が、路面に縫い止められたみたいにぴたりと止まった。
一歩踏み出しかけていた体が、ぐっと何かに引き留められたみたいに強張る。
「あ……」
低く漏れた息のあと、渚くんが勢いよく振り返った。
「真尋!」
その声と同時に、渚くんの腕がとっさに僕の背中へ回る。
ほどけかけていた僕の抱きつき方を、そのまま抱き返すみたいに、しっかり引き寄せてくれた。
「渚くん……!」
ようやく気づいてもらえた。そのことだけで、胸の奥が一気に熱くなる。
怖かった。さっきまで、確かに触っているのに届いていないみたいで、本当にこのまま渚くんにまで見えなくなってしまうんじゃないかと思った。
渚くんは僕を抱きとめたまま、まだ少し息を詰めた顔で僕を見ている。
「よかった……真尋……いなくなっちゃったのかと思った……」
その顔を、僕は前にも見たことがあった。
神社の境内で、僕が渚くんに抱きついて、とっさに突き飛ばされてしまった時だ。あの時は頭を切って、血が少し派手に出てしまった。たぶんそれで余計にびっくりしたんだと思う。あの時の渚くんも、今みたいな顔をしていた。
不安で、泣き出しそうな顔。
渚くんはいつも落ち着いていて、穏やかで、あまり取り乱さない。だから、こんなふうなのは珍しい気がする。
あの時も、僕は思ったのだ。
渚くん、心配しないで。大丈夫。泣かないでって。
だから、今も同じことを思う。
「渚くん、ごめんね。大丈夫だよ」
不安な僕に渚くんがそう言ってくれたみたいに、今度は僕が安心させてあげたかった。
「なんか、ちょっと眠りすぎちゃったみたいで」
抱き合ったまま、僕はへへっと笑ってみせた。
「眠りすぎちゃったって、三日間も……? その間ずっと俺の部屋にいたの?」
「う、うーん、たぶん?」
今度は僕の方が、渚くんの背中をよしよしと撫でてみる。
「真尋……」
何か言おうとしたところで、不意に渚くんが少しだけ体を離した。
その流れのまま、渚くんの手が僕の手を握ろうと伸びてくる。
でも、その瞬間だった。
はっと渚くんの目が見開く。
それを見て、僕は確信した。
もう、手を繋ぐだけでは駄目なんだ。
僕は反射みたいに、もう一度ぎゅっと渚くんへ抱きついた。
「なんで……どういうこと……」
不安を押し殺しきれない声が、頭の上から落ちてくる。
「なんか……手だけじゃ駄目になっちゃったみたい……。ご、ごめんね……抱きついちゃって……」
胸元へ耳が触れると、渚くんの心臓の音が聞こえた。
すごく速い。
僕もきっと同じだ。
でも、これはときめきというより、たぶん不安の方が強い。渚くんも、そうなんだと思う。
抱き返してくれた腕に、また強く力がこもる。
「真尋、こないだ話したこと、すぐやってみよう」
「え?」
僕は渚くんの胸の中で顔を上げた。少しでも多く触れていようとしてくれているのか、渚くんの手のひらがそのまま僕の頬を包む。
「再現してみようって言ったでしょ。見えなくなった前の日のこと、今すぐやってみよう」
「でも、今?! 渚くん試合は?」
「それは……いいよ。真尋の方が大事」
「ダメだよ!」
僕はとっさに声を荒らげた。
「僕のせいで、渚くんが大事な試合に出られないなんて、絶対ダメ!」
「ダメじゃないよ!」
渚くんも珍しく声を張った。
車道を挟んだ向こう側の歩道を歩いていた女の人が、少しいぶかしそうにこちらをちらりと見て、そのまま通り過ぎていく。
その視線に気づいたのか、渚くんは一度はっとしたように口をつぐみ、それから自分を落ち着かせるみたいに、深く息を吐いた。
「ダメじゃないよ……」
今度は少し声を抑えて、でもさっきよりもはっきりと続ける。
「だって、変だよ。こんなの。俺からも見えなくなったり、手を握るだけじゃ足りなくなったり、明らかに悪くなってる。このままだと真尋は――」
渚くんはそこで言葉を止めた。その先に、彼が続けようとした言葉が何なのか僕にはわかった。だけど、それを言ってしまうと、渚くん自身にも、僕自身にも、その現実が突きつけられるような心地がするから、きっと口にするのは躊躇ったんだろう。
僕はゆっくりと息を整えた。
怖くないわけじゃない。戻りたい気持ちだって、ちゃんとある。
でも、それと同じくらい、もうどうしようもないのかもしれない、という冷たい考えが胸の底に沈んでいた。
だからこそ、これ以上、渚くんの日常まで壊したくなかった。
「渚くん……」
できるだけ落ち着いた声で名前を呼ぶと、渚くんは続きを待つみたいに小さく頷いた。
「試合、行ってほしい」
渚くんはすぐに首を振った。
「こんな時に、行けるわけないよ」
僕は一度だけ黙る。
でも、そのまま小さく息を吸って、言葉を続けた。
「……でも、行ってほしい」
「真尋」
「僕、見たいんだ」
渚くんの目が、少しだけ揺れた。
「渚くんが試合してるところ。ちゃんと見たい」
何度も、こっそり見に行こうとして、そのたびに諦めて、それでもやっぱり見たかった。
だから今度こそ、渚くんが試合に出ているところを見たい。
――最後かもしれないから。
そんなことを言ったら、たぶん渚くんは悲しむ。だから僕は、それを口にはしなかった。
ただ、もう一度だけ「お願い」と言う。
渚くんはしばらく黙っていた。
それから深く息を吸い込んで、「わかった」と静かに頷いた。
「楽しみ」
なんでもないふりで、にこっと笑う。
でも、そろそろちょっと限界かもしれない。込み上げてきそうなものを抑えきれなくなりそうで、僕はゆっくりと渚くんの体から腕を離した。
その瞬間、ぐいっと手首を引かれた。
「待って」
低い声が落ちてきたかと思った次の瞬間、渚くんの腕が僕の肩を引き寄せる。
「え、渚く――」
言い終わる前に、唇が触れた。
目を見開いたままの僕のすぐ前に、渚くんの長いまつげが見える。
けれど、それは一瞬で、すぐに唇が離れた。目の前には、不安げに揺れる渚くんの瞳がある。
「俺、真尋のために試合に出る……!」
ぱちくりと瞬いた僕に対して、渚くんはひどく必死な顔をしていた。
僕は、その言葉にこくんと頷く。
「真尋のために、いっぱいシュート決めるから」
「……うん」
自然に、ふふっと口元がゆるむ。
「絶対勝つから、ちゃんと観てて欲しい」
「うん、絶対勝って……応援してる」
ぎゅっと握った拳を、僕は渚くんの前に突き出した。応援のつもりのポーズだ。
渚くんはそれを見て、力強く頷く。
「試合勝ったらさ、ハイタッチしようね」
「うん、いいね!」
そう頷いてから、僕ははたと気づいた。
「あ……でも、僕、見えないね?」
渚くんも、僕に言われてから気づいたみたいだった。少し考えるように黙り込んで、それから「じゃあ」と小さく言う。僕の体に片腕を回したまま、もう片方の手で鞄の中を探った。
引っ張り出したのは、黒いロゴの入ったスポーツタオルだった。
「俺がこれで顔拭くふりするから、その時に真尋の方から来て。さっきみたいに抱きついてくれたら、その流れでハイタッチできる」
「うん……」
僕は笑ったまま、もう一度頷く。
「……汗、すごいと思うけど……平気?」
「うん、平気」
少しだけ的外れな心配の仕方が、なんだか渚くんらしくて、僕は思わず笑ってしまった。
それから僕たちは、ゆっくり体を離した。
完全に離れてしまう前に、渚くんの指先が一度だけ僕の手を探るみたいに触れる。
僕もそれに合わせるように指を伸ばした。見えていなくても、そこにいるとわかる程度に、かすかに触れ合う。
そのまま僕たちは歩き出す。
同じ方向へ向かいながら、並んでいるようで、少しずれている。
けれど、渚くんの左手がときどき隣を探るみたいに揺れるたび、僕はそこへ自分の右手を寄せた。


