渚くんには僕が見えない



 
渚くんが突然腕を掴まれたのは、神社の境内を出て歩道に戻った、その瞬間だった。僕たちはやっぱり手を繋いでいたから、くん、と一緒に引かれるような感覚がして、驚いて二人して振り返る。

「母さん……」

思わず、そう呟いた。

渚くんの腕を掴んでいたのは、僕の母さんだった。昨日見た時よりも、さらにやつれて見える。髪はちゃんと整えてあるのに、どこか乱れているように見えて、頬も少しこけた気がした。目の下にはうっすら隈ができていて、ずっと眠れていないのかもしれない。

母さんは渚くんの顔を見たあと、すぐに昨日と同じ、期待がしぼんでいくみたいな表情に変わった。

「ごめんなさい……制服だったから、見間違えて……」

そう言って、渚くんの腕をそっと離す。

「ここ、真尋が昔よく遊んでた場所だから……もしかしてって」

やっぱり、母さんには僕が見えていない。

渚くんの前だから、どうにか平静を装おうとしているのはわかった。けれど、声は喉の奥でかすかに震えているし、俯いた横顔には疲れがにじんでいた。

きっと、僕を探していたんだ。

「中……見ましたけど、ここにはいなかったです」

渚くんは少しだけ気まずそうに、そう声をかけた。実際にはそのすぐ隣に僕がいるのだから、渚くんに嘘をつかせてしまっている。

「そう……」

母さんはそれ以上、言葉が続かないみたいだった。暗がりの中でもわかるくらい、顔色が悪い。その様子を見ているだけで、胸の奥がじくじく痛んだ。

「母さん……もう、家に戻って休んで……」

そう伝えたくて口にしても、やっぱり届かない。

僕の歯痒さに気づいてくれたみたいに、代わりに渚くんが声をかける。

「おばさん、今日はもう暗いし、いったん家に戻った方がいいですよ」

「そうね……」

そこで、母さんの足元がふらついた。渚くんがとっさに腕を支える。

「ごめんなさい」

「いえ、送ります」

そのまま、渚くんと母さんと、僕たち三人でマンションへ戻った。

父さんはまだ帰っていなかった。母さんの話では、車で心当たりのある親戚の家を回ったりしているらしい。父さんも母さんも、ほとんど眠れていないのだろう。

家の中は、なんとなく空気まで沈んでいるように感じた。いつもより少しだけ物が出しっぱなしで、きちんとしているはずの家が、うっすら乱れている。

渚くんは部屋の中まで母さんを支えて、ソファに座らせてくれた。

僕はそんな二人を眺めながら、廊下の途中にある自分の部屋をそっと覗き込む。

扉は開いたままだった。

本棚の前や机のあたりには、何かを探した形跡がある。引き出しが少し開いたままだったり、積んであったノートの位置がずれていたりして、母さんが手を入れたのだとすぐにわかった。

少しでも、僕が行きそうな場所の手がかりを見つけようとしてくれたんだろう。



電気の消えた渚くんの部屋のベッドに横になりながら、僕はぼんやりと天井を見つめていた。

頭に浮かぶのは、母さんと父さんのことだ。

僕がちょっと呑気に、渚くんとのことばかり考えているあいだ、ふたりはあんなにやつれるまで僕のことを心配して、必死に探してくれていた。

そのことが申し訳ない。

同時に、今のこの状況が、本当に現実なんだと突きつけられた気がして、急に怖くなる。

胸の奥でざわざわと広がる嫌な気配を押し込めるみたいに、僕はTシャツの胸元をぎゅっと握りしめた。

夜って、怖い。

昼間は、なんだか大丈夫な気がしていた。渚くんがいてくれて、学校に行って、話して、歩いて。そんなふうにしていると、少しだけ普通みたいに思えたのに、こうして暗い部屋で目を閉じきれずにいると、急に何もかもが不安になる。

僕はそっと顔を動かして、隣を向いた。

狭いベッドに二人で並んでいる。昨日もそうだったけれど、渚くんはずっと壁の方を向いていて、僕には背中を向けたままだ。

その気持ちはわかるけど、少し寂しい。

僕は、狭いから、という言い訳みたいに、手の甲でそっと渚くんの背中に触れた。

ぴくっ、と、渚くんの肩が小さく揺れる。

少しだけ間があってから、渚くんが寝返りを打った。今度はちゃんと、僕の方を向く。

そのまま探るみたいに手を伸ばしてきて、僕の手を握ってくれた。

これで、僕は渚くんに見てもらえる。

「寝れない?」

そう聞かれて、僕は首を縦とも横ともつかない向きに曖昧に揺らした。

渚くんの視線が、Tシャツの胸元を握ったままの僕の手へ落ちる。

「そのシャツ、大きすぎた?」

僕は小さく目を瞬いた。

このシャツは、渚くんが僕に貸してくれたものだ。

「ちょっと……おっきいかも」

「ごめん……。ぶかぶかなの、可愛いなって思って……他のにする?」

「んーん、大丈夫だよ。ありがとう」

顔が近くて恥ずかしいこともあって、僕はTシャツの襟を引っ張って、その中に口元を隠した。渚くんの匂いがする。

「母さん……眠れたかなぁ」

ぽつりとこぼした僕の肩に、渚くんが布団を掛け直してくれた。

「さっき、うちの親が食事差し入れしてたよ。ちゃんと食べてくれたって……」

「そっか……」

渚くんのお母さんとうちの母さんは、もともと少し交流がある。だから気にかけてくれているんだろう。

本当にありがたい。
ありがたいけど、僕のこの状況は、いろんな人に心配と迷惑をかけてしまっている。

「なんか、申し訳ないな……」

「真尋のせいじゃないんだし、仕方ないよ」

そうだけど。
でも、やっぱり申し訳ない。

「渚くん……僕さ……」

きゅっと、繋いだ手を握り直す。
少しだけ言葉に詰まりながら、それでも僕はそのまま続けた。

「僕……実は、ちょっと浮かれてた」

「え?」

暗がりの中で、向かい合った渚くんの眉がわずかに持ち上がる。

「その……渚くんと、前みたいにいっぱい話せるから……」

そう言うと、渚くんは気まずそうに視線を少し伏せた。

あ、失敗したかも。
変な言い方だったかな。

そう思って、胸のあたりが少し焦る。

「ほ、ほら。僕たちって、最近なんかちょっと距離あったでしょ? だから……」

責めてるわけじゃない。
変な意味もない。
そういうふうに聞こえてほしくて、慌てて言葉を足す。

けれど、渚くんは小さく

「ごめん……」

とこぼした。

何に対してのごめんなのか、すぐにはよくわからなかった。
でも、やっぱり僕は少し伝え方を間違えてしまったらしい。肩から、しょんぼりと力が抜ける。

「なんか、俺……真尋とうまく話せなくなって……」

そんなふうに、渚くんに言い訳みたいなことを言わせてしまった。

そのことへの罪悪感と、言葉そのものの意味とで、胸が鈍く痛む。

「仕方ないよ……」

もう、この話は終わらせようと思って、僕はそう言った。

仕方ない。
だって、僕たちは大きくなるにつれて、だんだんいる場所も違ってきたし、渚くんが僕とは話が合わないって思うのだって、たぶん仕方のないことなんだと思う。

「でも……」

ふっと、渚くんが視線を上げる。
その流れで、もう片方の手も伸ばして、僕の手を包み込むみたいに握り直した。

「真尋がいなくなって、本当に焦った。すごく心配してた」

その真剣な眼差しに、胸がぎゅっと詰まる。

僕が誰からも見えなくなって、焦って渚くんの腕を必死に掴んだ、あの時のことを思い出した。あの表情を知っているから、今の言葉がただの慰めじゃなくて、本当にそう思ってくれていたんだとわかる。

「いなくなってから、すごく後悔した。もっとちゃんと、いっぱい話せばよかったって。真尋はずっとここにいるって思ってたから……いつだって、その気になれば話せるって思ってたから」

そうだ。
僕も、同じだった。

なんとなく渚くんに避けられている気がして、怖くて、はっきり拒絶される前に自分から一歩引いていた。そうしているうちに、僕たちはなんとなく噛み合わなくなってしまった。

本当は、またたくさん話したかった。
でも、今はきっとその時じゃない、いつか、いつか――そんなふうに、ずっと先延ばしにしてきたんだ。

だから、僕も渚くんと同じだ。

こんな状況になって、ようやく自分が思っていたことを口にできた。
渚くんと、もっと話したかったって。

「ちゃんと、元に戻るにはどうしたらいいか……一緒に考えよう」

渚くんのその言葉に、僕は喉の奥を詰まらせながら、それでもたしかに、こくんと頷いた。

「あの……ね、渚くん」

元に戻るにはどうしたらいいのか。
そもそも、僕のこの状況は一体なんなのか。

わけのわからない現実から、僕はどこか少し目を逸らしていたのかもしれない。
でも、心のどこかでは、ずっとぼんやり思っていたことがある。

はっきり考えるのは怖かったし、口にするのはもっと怖かった。

けれど、渚くんに手を握ってもらったまま、僕はその考えをとうとう言葉にした。

「もしかして……僕って、死んじゃったのかな……」

ぐっと、渚くんが息を呑む気配が伝わってきた。

その反応で、わかってしまう。
渚くんもきっと、どこかでは僕と同じことを考えていたのだ。

「僕は幽霊で、何か未練みたいなものがあって、この世に留まってる……とか」

へへ、と無理に笑って、少しだけ冗談めかしてみる。
でも、どうしたって手は震えてしまう。

映画とか、ドラマとか、漫画とか。
死んだ人が幽霊になって現れる話なんて、いくらでも見たことがある。そういう設定は、なんとなく今の僕の状況にすごく当てはまる気がした。

むしろ、もうそれ以外の仮説が思い浮かばないくらいだった。

一週間前のあの夜、僕は何かの理由で死んでしまって、体から魂だけが投げ出された。
それでも渚くんとまた話したい、そんな未練があったから、渚くんにだけ僕が見えているのかもしれない。

「あ、あと、なんだっけ……もしかしたら四十九日? が、過ぎたら……僕は――」

「真尋」

小さいけれど、はっきりした声で名前を呼ばれて、僕はそこで言葉を止めた。

「大丈夫だよ。真尋」

何が、という言葉が喉まで上がったのに、うまく声にならなかった。呼吸が頼りなく揺れている。そこでようやく気づく。僕は、泣いていた。

怖くて震える僕の手を、渚くんがしっかり握り返してくれる。

「俺は真尋のことが見えるし、真尋に触れてる。幽霊だったら、こんなふうに触れたりしないでしょ」

「そう……だけど……」

「大丈夫だよ、心配しないで」

「でも――」

言い切る前に、渚くんの腕が背中へ回った。
そのまま僕の体を包み込むみたいに引き寄せられて、僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を、渚くんの胸元へ押しつける。

あたたかい手のひらが、よしよしと子どもを宥めるみたいに、背中をゆっくり撫でてくれた。

「怖い……」

そう言うと、渚くんの腕にぎゅっと力がこもる。

「大丈夫。真尋はちゃんとここにいる。きっと戻れる」

とん、とん、と一定のリズムで、背中を手のひらが叩く。

僕は「うん、うん……」と何度も頷きながら、それでもなかなか涙を止められなかった。

やっと震えが少し落ち着いてきたころ、渚くんが胸元から僕の顔をゆっくり離して、覗き込む。

「明日さ、一緒に試してみよ?」

少し恥ずかしくて、僕は手のひらで涙を拭いながら、「試す?」と聞き返した。

「うん。ほら、探し物とかする時って、その時の状況を再現してみたりするじゃん。ああいう感じで」

「再現って……見えなくなる前にやったことを、もう一回やってみるってこと?」

「そう」

渚くんは頷いた。

「真尋、その日のこと覚えてる?」

その日。

僕が誰からも見えていないと気づいたのは一昨日の学校でのことだ。けれど記憶をたどると、たぶんその朝にはもう、僕は誰にも見えていなかった。眠りから覚めた、あの瞬間から。

その前の記憶。
それは、いつもの日常だったように思う。何か特別変わったことをした覚えはない。

「ちょっと、思い出してみる……」

「うん」

朝起きて、いつも通り学校に行った。
それで、たしか体育館で鼻血を出して、そのあと保健室で休んでいたら放課後になった。

「それで、普通に帰って……いつも通り」

「帰りにどこか寄ったりした?」

帰り……どこかに……。

「あ」

僕の声に、少し驚いたのか、ぴくっと渚くんが揺れる。

「行った。神社」

「日枝神社……?」

「そう。そこで……」

ふっと思い出して、少し恥ずかしくなって言葉に詰まる。
でも、渚くんの続きを待つみたいな視線に促されて、僕はそのまま言葉を続けた。

「渚くんの必勝祈願して、それで、お守り買った」

そのお守りに思い当たったのか、渚くんは、ああ、というように少し眉を上げる。

「でも、今日もお参りしたのに、何も変わってないよね」

僕がそう言うと、渚くんは少し考え込むように、うーんと低く唸った。

「もしかしたら、それだけじゃなくて別のきっかけがあるのかもしれないし、真尋が何か忘れてるのかも」

「忘れてる……」

他に何かあったかな、と僕は必死に記憶を辿る。

「とにかく、初めからやり直してみようよ。そしたら、やりながらきっと思い出すんじゃないかな」

「そうだね」

渚くんの提案に、僕は頷いた。

とにかく、この不安な状況のまま、何もしないでいる方が嫌だった。少しでも可能性のある方法に、今は縋っていたかった。

「とりあえず、今日はもう寝よう?」

そう言って、渚くんは僕の目元を軽く指先で撫でた。涙を拭うというより、もう泣いていないか確かめたかったみたいな、そんな触れ方だった。

「うん……おやすみ、渚くん」

こっちを向いたまま腕を回されているこの状況を、渚くんはどうするつもりなんだろう。そんなことをぼんやり思いながら、僕はそう言った。

渚くんは、もう壁の方を向かなかった。

僕を腕の中に抱えたまま、「おやすみ」と返して、ゆっくり目を閉じていった。