◇
「次の試合っていつなの?」
前みたいに体育館の戸締まりをして、職員室に鍵を返して、それからまた一緒に帰り道につく。その途中で、僕は渚くんにそう尋ねてみた。
渚くんの左手と、僕の右手は繋がっている。歩幅に合わせて、その手がいつもより少し大きく前後に揺れている気がした。
「今度の日曜日だよ」
渚くんが答える。
「次、地区予選の決勝だから、みんな気合い入っててさ……ごめんね、こんな時なのに練習待たせて」
「え?!」
そんなふうに謝られて、僕は慌てて首を振った。
「ぜんぜん! そんな、謝らないで!」
もともと、僕のこんな状況に渚くんを巻き込んでしまっているのだ。これ以上、渚くんに迷惑かけたくない。それに――
「練習……観てるの、楽しいし。試合も……観に行っちゃおうかなぁ……なんて……」
へへっ、と誤魔化すみたいに笑って、僕は視線を足元へ落とした。
今の僕は誰からも見えないから、人混みに紛れる必要もない。だから、いっそ特等席で見ちゃおうかな、なんてことまで考えていた。けれど、さすがにそれをそのまま口にするのは気が引けて、まずはこんなふうに、少しだけ様子をうかがうみたいに言ってみたのだ。
もし、嫌そうな顔をされたら……その時は、やっぱり気づかれないように、こっそり見に行こう。
そんなことを考えていると、渚くんが、くん、と小さな力で繋いだ手を引いた。
それから前を向いたまま、
「うん、おいでよ」
と、静かに言った。
「え?! い、いいの?」
自分で言い出したくせに、僕は驚いて目を丸くしてしまう。
「うん、いいよ。なんなら、ベンチとかで観ちゃえば?」
「あ……そ、それっ、ちょっと企んでた!」
思わずそう言うと、渚くんはようやくこっちを向いた。
それから少し目を細めて、
「企んでたんだ?」
と、笑う。
うっかり口を滑らせてしまった。
僕は恥ずかしくて、またへへっと誤魔化すように笑った。
咎められているわけじゃない。むしろ、少しだけ揶揄われているみたいな口ぶりだ。変かもしれないけれど、渚くんがそんなふうに僕に構ってくれることが、ただ嬉しくて、胸のあたりがそわそわと落ち着かない。
駅のホームで電車を待つ。
そのあいだに、不意に渚くんが制服のポケットからスマートフォンを取り出して、何か操作しはじめた。
いけないとは思いつつ、僕はさりげなく横目でその画面を覗き込んでしまった。
SNSのメッセージ画面が、ちらりと見える。
可愛らしい絵文字のついた文面の全部までは読み取れなかったけれど、『練習おつかれ様』とか、『バイト終わった』とか、そんな感じのことが書いてあるのはわかった。必要に迫られているわけでもない、ただなんとなく続いていく、他愛のないやり取りだ。さっき女の子たちが話していた、付き合っている人同士みたいな、意味のないメッセージのやり取り。
渚くんは、それに『バイトお疲れ様』とか、『帰り道気をつけてね』だとか、そんなふうに返して、そのままスマートフォンをポケットへ仕舞った。
僕は、少しだけ期待していたのだ。
はしゃいでいるのは清水さんの方ばかりで、渚くんはそこまででもないんじゃないかって。
でも、今の返信は、興味のない相手にするにはやさしすぎる気がした。
というか。
僕には干支のスタンプひとつだったのに、清水さんには「気をつけてね」なんて言うんだ。
「渚くんは……」
そこまで口にして、一度、続きを飲み込む。
でも、少し迷ったあとで、僕はやっぱり言葉を継いだ。
「好きな……人とか、いるの?」
「……え?」
あまりにも唐突に聞こえたのか、渚くんは少し間を置いてから僕の方を向き、首を傾げた。
「あの、ほら……お昼の時、みんなに言われてたから。いい感じの子がいるって」
「お昼……」
記憶をたどるみたいに小さく呟いたあと、渚くんの口から「あ、清水さん?」と名前が出る。
その瞬間、胸の奥がひそかに痛んだ。
でも、それを悟られたくなくて、僕はできるだけ何でもないみたいな声で、
「そうそう」
と明るく頷いてみせた。
そこでちょうど、ホームに電車が滑り込んできた。
僕たちは手を繋いだまま乗り込む。
これで、しばらくのあいだ渚くんは喋れない。
僕に返事をしたら、電車の中で独り言を言っている変な人になってしまうから。つまり、ここから数分間、ずっと僕のターンだ。
「さっき、清水さん、練習見に来てたよ……渚くんの話してた」
片方の手だけをつないで、僕たちはドア横の壁際に立っていた。向かい合うみたいな位置にいる渚くんは、喋れない代わりに、眉をほんの少しだけ持ち上げる。
僕は、あと何を言いたいんだろう。
清水さんが渚くんの話で盛り上がっていた、なんて伝えて、いったい何になるんだろう。
たぶん、そんなこと自体はどうでもいい。
本当はただ、渚くんがそれをどう思うのか知りたいだけだ。
遠回しに揺さぶって、反応を見たいだけ。
そしてたぶん僕は、こう言ってほしいのだ。
清水さんは本当にただの友達で、なんとも思ってないよ、と。
そこまで考えてしまって、僕は少し俯いて苦笑した。
嫌なやつだな、と思う。
ただ好きでいるだけで済めばいいのに、誰かを押しのけたいような気持ちまで出てきてしまう。そういう自分が居心地悪くて嫌だ。嫌だけど、だからといって簡単に抑えられるものでもなかった。
電車を降りて、人通りの少ない道に出る。
そこでようやく、渚くんが口を開いた。
「連絡来るから返してるだけで、別に好きとかではないよ」
その言葉に、僕はほっとした。
ほっとしてしまったことに、今度は心底、自分で自分に呆れる。
「そっか……」
とだけ答えて、そのあとが続かない。
気づかれてしまっただろうか。
前みたいに、僕がまだ渚くんのことを好きだって。
もしそれが伝わったら、こんなふうに手を繋ぐことだって、渚くんにとっては苦痛になってしまうんじゃないだろうか。
歩きながらそんなことをぐるぐる考えていると、不意に渚くんが僕の名前を呼んだ。
「真尋」
顔を上げると、一度だけ目が合う。
けれど渚くんは、何か言いにくそうに、すぐ視線を逸らしてしまった。
「あのさ……」
少しだけ言葉が詰まる。
僕は黙ったまま、その続きを待った。
「いるよ、好きな人」
その意味を理解した瞬間、僕はまず、どうして今それを言うんだろうと考えた。
さっき僕が聞いたから、その答えとして口にしただけかもしれない。
でも、なんとなく、それだけじゃない気がした。
中学生の頃みたいな、咄嗟の拒絶じゃない。
もっと理性的で、もっとやわらかい、でもちゃんと距離を引くための言葉みたいに聞こえた。
「そ……っか……」
また、言葉に詰まる。
渚くんは、やっぱり僕の気持ちにうすうす気づいているのかもしれない。
だから、こんなふうに牽制したんじゃないか――そんな気がした。
でも、たぶん、確信まではされていない。
だったら、まだ取り繕えるかもしれない。
僕は渚くんのことなんて好きじゃない。
ただの友達だ。
だから気持ち悪がらないで。
手を離さないでほしい。
そんな思いで頭の中がいっぱいのまま、僕は必死に、できるだけ軽く聞こえる声と、何でもないふうに見える言葉を探した。
「へぇ、いいね。僕の知ってる人?」
――大丈夫。
たぶん、今のはうまくできた。
「うん、真尋の知ってる人」
渚くんがそう答える。
誰だろう。
僕の知っている人なら、たぶん同じ学校で、同じ学年だ。けれど、渚くんと特別親しそうな女の子は、あまり思い浮かばなかった。
「でも、ちょっと、うまく喋れなくて」
その言葉に、僕は顔を上げる。
「喋れない?」
「うん。なんか、好きだって思ったら、ちょっとうまくできなくなって」
そっか。
だから、特に親しそうな子の姿が思い浮かばないのかもしれない。うまく喋れないってことは、まだ距離があるんだろう。
「渚くんでも……そんなことあるんだね」
「あるよ」
繋いだ手に、きゅっと少しだけ力がこもった気がした。
「変な態度取ったら、嫌われちゃうんじゃないかなとか……それで……前に失敗したから、余計に怖くて」
その言葉を聞いた途端、胸のあたりがきしむみたいに痛くなった。
嫌われたらどうしよう、とか。
失敗したらどうしよう、とか。
普段の渚くんからは、あまり想像できない不安だった。けれど、僕にはそれが痛いほどよくわかる。わかってしまうからこそ、渚くんがそんなふうに思う相手がいるのだと思い知らされて、その人が羨ましくて仕方なかった。
本当なら、こういう時は友達として、もっと気の利いたことを言うべきなんだと思う。
励ますとか、背中を押すとか。そういう言葉を。
でも、それが口から出てくるまでに、思ったより時間がかかった。
「渚くんなら、心配ないと思うけどな」
ようやく絞り出した僕の言葉に、渚くんは「そうかなぁ」と語尾を少し伸ばして返した。
「そうだよ。渚くんに好きって言われたらさ、みんな絶対うれしい」
「それはないでしょ」
「うーん、そっか。みんなは言いすぎたかも。絶対、でもないかも」
僕がそう言うと、渚くんがふっと笑った。
「でも、喜ぶ人、多いと思うな……だって……」
渚くんって、かっこいいし、優しいし。
そう続けたかったのに、そこで言葉が詰まる。
口にするだけなら、別に難しくないはずなのに。
でも僕は、その褒め言葉の奥に、自分の気持ちまで透けて見えてしまいそうで、うまく続けられなかった。
「真尋は、どう思うの?」
ぴたりと、渚くんが足を止める。
ちょうどそこは、昔ふたりでよく遊んだ、家の近所の日枝神社の前だった。
「僕……?」
渚くんと同じように立ち止まって、僕は振り返る。
向かい合う形になると、繋いだ手の感触だけが妙にはっきりした。
「うん」
と、渚くんが頷く。
「渚くんに……好きって……言われたら?」
確かめるみたいに、その言葉が口から出た瞬間、しまった、と思った。
やめておけばよかった。
ただの仮定の話のはずなのに、口にしてしまったせいで、脳が勝手にその意味を現実みたいに受け取ってしまう。
僕は唾を飲み込んで、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「あ、あの……」
変に思われる前に、何か言わなきゃ。
軽く。冗談っぽく。気にしてないみたいに。
そう思うのに、うまくできない。
口だけがぱくぱくして、我ながらひどく間抜けだった。
そんな僕に気を遣ってくれたのか、渚くんが
「あ、もしも、の話だから」
と付け足す。
でも、それがなおさら恥ずかしい。
気まずさで歪みそうになる口元を、僕は顎を引いてどうにか隠した。
「わ、わかってるよ。それくらい」
「……ごめん」
「いや、別に……えっと、そうだね……うーん、僕が女の子だったら、渚くんみたいなイケメンに好きって言われたら、うれしいと思うよ!」
少し大袈裟なくらい明るい声を出して、そう答える。
ついでに、誤魔化すみたいに繋いだ手をぶんぶんと振ってみせた。
渚くんは、少しだけ何かを考えるような顔をした。
けれど、すぐに「そっか」とだけ言って、そのまま神社の方へ目を向ける。
「ちょっと、寄ってかない? 必勝祈願しとこうかなって」
渚くんからの誘いに、僕は頷いた。
本当は、渚くんの必勝祈願なら先週もうしている。けれど、何度やったって、やりすぎってことはたぶんないだろう。
日が暮れたあとの境内は薄暗くて、少しだけ不気味だった。
じゃりじゃりと砂を踏むふたり分の足音と、遠くを走る車の音だけが聞こえている。
「真尋のことも……お願いしよっかな」
「え? 僕?」
「うん。早く、解決しますようにって」
「そうだね」
優しいな、渚くん。
僕たちは拝殿の前に並んで立ち止まった。
「それから、真尋のことが解決したらさ……」
そう言いながら、渚くんは鞄の中を探って財布を取り出す。
自分の分だけじゃなく、僕にも百円玉を一枚渡してくれた。
「好きって、言ってみようかな」
――からん。
渚くんが百円玉を賽銭箱に投げ入れる。
それから鈴緒を引いて鈴を鳴らし、手を合わせた。
僕はその姿を、百円玉を握りしめたまま、ただ見つめてしまう。
――好きって、言ってみようかな。
もし、僕のこの、見えない問題が解決したら。
僕は、さっきまで渚くんと繋いでいた手のひらを、そっと持ち上げて眺めた。
解決したら。
こんなふうに手を繋ぐ理由もなくなって、渚くんは、きっと僕ではない誰かの方を向いてしまうんだろうか。
それなら、いっそ……戻らない方がいい、なんて。
そんなことを考えてしまった。
――からん。
僕も、渚くんからもらった百円玉を賽銭箱へ放り入れる。
驚いたけれど、その硬貨はちゃんと音を立てた。僕の手を離れたそれは、神様に僕から渡したから、きちんとそこに存在しているらしい。
「次の試合っていつなの?」
前みたいに体育館の戸締まりをして、職員室に鍵を返して、それからまた一緒に帰り道につく。その途中で、僕は渚くんにそう尋ねてみた。
渚くんの左手と、僕の右手は繋がっている。歩幅に合わせて、その手がいつもより少し大きく前後に揺れている気がした。
「今度の日曜日だよ」
渚くんが答える。
「次、地区予選の決勝だから、みんな気合い入っててさ……ごめんね、こんな時なのに練習待たせて」
「え?!」
そんなふうに謝られて、僕は慌てて首を振った。
「ぜんぜん! そんな、謝らないで!」
もともと、僕のこんな状況に渚くんを巻き込んでしまっているのだ。これ以上、渚くんに迷惑かけたくない。それに――
「練習……観てるの、楽しいし。試合も……観に行っちゃおうかなぁ……なんて……」
へへっ、と誤魔化すみたいに笑って、僕は視線を足元へ落とした。
今の僕は誰からも見えないから、人混みに紛れる必要もない。だから、いっそ特等席で見ちゃおうかな、なんてことまで考えていた。けれど、さすがにそれをそのまま口にするのは気が引けて、まずはこんなふうに、少しだけ様子をうかがうみたいに言ってみたのだ。
もし、嫌そうな顔をされたら……その時は、やっぱり気づかれないように、こっそり見に行こう。
そんなことを考えていると、渚くんが、くん、と小さな力で繋いだ手を引いた。
それから前を向いたまま、
「うん、おいでよ」
と、静かに言った。
「え?! い、いいの?」
自分で言い出したくせに、僕は驚いて目を丸くしてしまう。
「うん、いいよ。なんなら、ベンチとかで観ちゃえば?」
「あ……そ、それっ、ちょっと企んでた!」
思わずそう言うと、渚くんはようやくこっちを向いた。
それから少し目を細めて、
「企んでたんだ?」
と、笑う。
うっかり口を滑らせてしまった。
僕は恥ずかしくて、またへへっと誤魔化すように笑った。
咎められているわけじゃない。むしろ、少しだけ揶揄われているみたいな口ぶりだ。変かもしれないけれど、渚くんがそんなふうに僕に構ってくれることが、ただ嬉しくて、胸のあたりがそわそわと落ち着かない。
駅のホームで電車を待つ。
そのあいだに、不意に渚くんが制服のポケットからスマートフォンを取り出して、何か操作しはじめた。
いけないとは思いつつ、僕はさりげなく横目でその画面を覗き込んでしまった。
SNSのメッセージ画面が、ちらりと見える。
可愛らしい絵文字のついた文面の全部までは読み取れなかったけれど、『練習おつかれ様』とか、『バイト終わった』とか、そんな感じのことが書いてあるのはわかった。必要に迫られているわけでもない、ただなんとなく続いていく、他愛のないやり取りだ。さっき女の子たちが話していた、付き合っている人同士みたいな、意味のないメッセージのやり取り。
渚くんは、それに『バイトお疲れ様』とか、『帰り道気をつけてね』だとか、そんなふうに返して、そのままスマートフォンをポケットへ仕舞った。
僕は、少しだけ期待していたのだ。
はしゃいでいるのは清水さんの方ばかりで、渚くんはそこまででもないんじゃないかって。
でも、今の返信は、興味のない相手にするにはやさしすぎる気がした。
というか。
僕には干支のスタンプひとつだったのに、清水さんには「気をつけてね」なんて言うんだ。
「渚くんは……」
そこまで口にして、一度、続きを飲み込む。
でも、少し迷ったあとで、僕はやっぱり言葉を継いだ。
「好きな……人とか、いるの?」
「……え?」
あまりにも唐突に聞こえたのか、渚くんは少し間を置いてから僕の方を向き、首を傾げた。
「あの、ほら……お昼の時、みんなに言われてたから。いい感じの子がいるって」
「お昼……」
記憶をたどるみたいに小さく呟いたあと、渚くんの口から「あ、清水さん?」と名前が出る。
その瞬間、胸の奥がひそかに痛んだ。
でも、それを悟られたくなくて、僕はできるだけ何でもないみたいな声で、
「そうそう」
と明るく頷いてみせた。
そこでちょうど、ホームに電車が滑り込んできた。
僕たちは手を繋いだまま乗り込む。
これで、しばらくのあいだ渚くんは喋れない。
僕に返事をしたら、電車の中で独り言を言っている変な人になってしまうから。つまり、ここから数分間、ずっと僕のターンだ。
「さっき、清水さん、練習見に来てたよ……渚くんの話してた」
片方の手だけをつないで、僕たちはドア横の壁際に立っていた。向かい合うみたいな位置にいる渚くんは、喋れない代わりに、眉をほんの少しだけ持ち上げる。
僕は、あと何を言いたいんだろう。
清水さんが渚くんの話で盛り上がっていた、なんて伝えて、いったい何になるんだろう。
たぶん、そんなこと自体はどうでもいい。
本当はただ、渚くんがそれをどう思うのか知りたいだけだ。
遠回しに揺さぶって、反応を見たいだけ。
そしてたぶん僕は、こう言ってほしいのだ。
清水さんは本当にただの友達で、なんとも思ってないよ、と。
そこまで考えてしまって、僕は少し俯いて苦笑した。
嫌なやつだな、と思う。
ただ好きでいるだけで済めばいいのに、誰かを押しのけたいような気持ちまで出てきてしまう。そういう自分が居心地悪くて嫌だ。嫌だけど、だからといって簡単に抑えられるものでもなかった。
電車を降りて、人通りの少ない道に出る。
そこでようやく、渚くんが口を開いた。
「連絡来るから返してるだけで、別に好きとかではないよ」
その言葉に、僕はほっとした。
ほっとしてしまったことに、今度は心底、自分で自分に呆れる。
「そっか……」
とだけ答えて、そのあとが続かない。
気づかれてしまっただろうか。
前みたいに、僕がまだ渚くんのことを好きだって。
もしそれが伝わったら、こんなふうに手を繋ぐことだって、渚くんにとっては苦痛になってしまうんじゃないだろうか。
歩きながらそんなことをぐるぐる考えていると、不意に渚くんが僕の名前を呼んだ。
「真尋」
顔を上げると、一度だけ目が合う。
けれど渚くんは、何か言いにくそうに、すぐ視線を逸らしてしまった。
「あのさ……」
少しだけ言葉が詰まる。
僕は黙ったまま、その続きを待った。
「いるよ、好きな人」
その意味を理解した瞬間、僕はまず、どうして今それを言うんだろうと考えた。
さっき僕が聞いたから、その答えとして口にしただけかもしれない。
でも、なんとなく、それだけじゃない気がした。
中学生の頃みたいな、咄嗟の拒絶じゃない。
もっと理性的で、もっとやわらかい、でもちゃんと距離を引くための言葉みたいに聞こえた。
「そ……っか……」
また、言葉に詰まる。
渚くんは、やっぱり僕の気持ちにうすうす気づいているのかもしれない。
だから、こんなふうに牽制したんじゃないか――そんな気がした。
でも、たぶん、確信まではされていない。
だったら、まだ取り繕えるかもしれない。
僕は渚くんのことなんて好きじゃない。
ただの友達だ。
だから気持ち悪がらないで。
手を離さないでほしい。
そんな思いで頭の中がいっぱいのまま、僕は必死に、できるだけ軽く聞こえる声と、何でもないふうに見える言葉を探した。
「へぇ、いいね。僕の知ってる人?」
――大丈夫。
たぶん、今のはうまくできた。
「うん、真尋の知ってる人」
渚くんがそう答える。
誰だろう。
僕の知っている人なら、たぶん同じ学校で、同じ学年だ。けれど、渚くんと特別親しそうな女の子は、あまり思い浮かばなかった。
「でも、ちょっと、うまく喋れなくて」
その言葉に、僕は顔を上げる。
「喋れない?」
「うん。なんか、好きだって思ったら、ちょっとうまくできなくなって」
そっか。
だから、特に親しそうな子の姿が思い浮かばないのかもしれない。うまく喋れないってことは、まだ距離があるんだろう。
「渚くんでも……そんなことあるんだね」
「あるよ」
繋いだ手に、きゅっと少しだけ力がこもった気がした。
「変な態度取ったら、嫌われちゃうんじゃないかなとか……それで……前に失敗したから、余計に怖くて」
その言葉を聞いた途端、胸のあたりがきしむみたいに痛くなった。
嫌われたらどうしよう、とか。
失敗したらどうしよう、とか。
普段の渚くんからは、あまり想像できない不安だった。けれど、僕にはそれが痛いほどよくわかる。わかってしまうからこそ、渚くんがそんなふうに思う相手がいるのだと思い知らされて、その人が羨ましくて仕方なかった。
本当なら、こういう時は友達として、もっと気の利いたことを言うべきなんだと思う。
励ますとか、背中を押すとか。そういう言葉を。
でも、それが口から出てくるまでに、思ったより時間がかかった。
「渚くんなら、心配ないと思うけどな」
ようやく絞り出した僕の言葉に、渚くんは「そうかなぁ」と語尾を少し伸ばして返した。
「そうだよ。渚くんに好きって言われたらさ、みんな絶対うれしい」
「それはないでしょ」
「うーん、そっか。みんなは言いすぎたかも。絶対、でもないかも」
僕がそう言うと、渚くんがふっと笑った。
「でも、喜ぶ人、多いと思うな……だって……」
渚くんって、かっこいいし、優しいし。
そう続けたかったのに、そこで言葉が詰まる。
口にするだけなら、別に難しくないはずなのに。
でも僕は、その褒め言葉の奥に、自分の気持ちまで透けて見えてしまいそうで、うまく続けられなかった。
「真尋は、どう思うの?」
ぴたりと、渚くんが足を止める。
ちょうどそこは、昔ふたりでよく遊んだ、家の近所の日枝神社の前だった。
「僕……?」
渚くんと同じように立ち止まって、僕は振り返る。
向かい合う形になると、繋いだ手の感触だけが妙にはっきりした。
「うん」
と、渚くんが頷く。
「渚くんに……好きって……言われたら?」
確かめるみたいに、その言葉が口から出た瞬間、しまった、と思った。
やめておけばよかった。
ただの仮定の話のはずなのに、口にしてしまったせいで、脳が勝手にその意味を現実みたいに受け取ってしまう。
僕は唾を飲み込んで、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「あ、あの……」
変に思われる前に、何か言わなきゃ。
軽く。冗談っぽく。気にしてないみたいに。
そう思うのに、うまくできない。
口だけがぱくぱくして、我ながらひどく間抜けだった。
そんな僕に気を遣ってくれたのか、渚くんが
「あ、もしも、の話だから」
と付け足す。
でも、それがなおさら恥ずかしい。
気まずさで歪みそうになる口元を、僕は顎を引いてどうにか隠した。
「わ、わかってるよ。それくらい」
「……ごめん」
「いや、別に……えっと、そうだね……うーん、僕が女の子だったら、渚くんみたいなイケメンに好きって言われたら、うれしいと思うよ!」
少し大袈裟なくらい明るい声を出して、そう答える。
ついでに、誤魔化すみたいに繋いだ手をぶんぶんと振ってみせた。
渚くんは、少しだけ何かを考えるような顔をした。
けれど、すぐに「そっか」とだけ言って、そのまま神社の方へ目を向ける。
「ちょっと、寄ってかない? 必勝祈願しとこうかなって」
渚くんからの誘いに、僕は頷いた。
本当は、渚くんの必勝祈願なら先週もうしている。けれど、何度やったって、やりすぎってことはたぶんないだろう。
日が暮れたあとの境内は薄暗くて、少しだけ不気味だった。
じゃりじゃりと砂を踏むふたり分の足音と、遠くを走る車の音だけが聞こえている。
「真尋のことも……お願いしよっかな」
「え? 僕?」
「うん。早く、解決しますようにって」
「そうだね」
優しいな、渚くん。
僕たちは拝殿の前に並んで立ち止まった。
「それから、真尋のことが解決したらさ……」
そう言いながら、渚くんは鞄の中を探って財布を取り出す。
自分の分だけじゃなく、僕にも百円玉を一枚渡してくれた。
「好きって、言ってみようかな」
――からん。
渚くんが百円玉を賽銭箱に投げ入れる。
それから鈴緒を引いて鈴を鳴らし、手を合わせた。
僕はその姿を、百円玉を握りしめたまま、ただ見つめてしまう。
――好きって、言ってみようかな。
もし、僕のこの、見えない問題が解決したら。
僕は、さっきまで渚くんと繋いでいた手のひらを、そっと持ち上げて眺めた。
解決したら。
こんなふうに手を繋ぐ理由もなくなって、渚くんは、きっと僕ではない誰かの方を向いてしまうんだろうか。
それなら、いっそ……戻らない方がいい、なんて。
そんなことを考えてしまった。
――からん。
僕も、渚くんからもらった百円玉を賽銭箱へ放り入れる。
驚いたけれど、その硬貨はちゃんと音を立てた。僕の手を離れたそれは、神様に僕から渡したから、きちんとそこに存在しているらしい。


