渚くんには僕が見えない



渚くんは人気者だ。

小さい頃から、大人たちには可愛がられてきたし、同い年の男の子にも女の子にも、自然と好かれる。本人はたぶん、そういうつもりなんて全然ないのに、気がつけば周りに人が集まっている。そんな人だ。

少しぼんやりしているところはあるけれど、物腰はやわらかいし、たまにずれたことを言っても、人のことを傷つけるような言い方はしない。見た目がいいだけじゃなくて、そういう中身も含めて、渚くんはやっぱり魅力的なんだと思う。

体育館の横手にある出入口の脇に身を寄せて、中をそっと覗き込みながら、僕はそんなことを改めて考えていた。

すぐ隣では、少し浮き足立ったような女子たちの話し声が聞こえる。
バスケ部の練習を見に来た子たちだ。公式戦のトーナメント中だからか、こんなふうに応援に来る人がけっこういる。
 
もちろん、その子たちに僕の姿は見えていない。だからこそ、僕はこうしてこの場にいられる。とはいえ、女の子たちの輪のすぐそばに立っているのは、なんとなく落ち着かなかった。けれど、コートの中で試合形式の練習が始まった途端、そんなことは本当にどうでもよくなった。

「ナイス!」
「いけるいける!」
「ファイトー!」
「一本ー!」

声が飛び交う。

その先で、渚くんがボールを受け取った。
相手のディフェンスがすぐ前に詰める。けれど、渚くんは慌てる様子もなく、するりと体を入れ替えて一歩抜けた。ドリブルのテンポが変わる。低く、鋭く切り込んで、そのままリング下へ踏み込む。跳んだ、と思った次の瞬間には、もうボールは手を離れていた。

――バシュッ。

ネットが揺れる。

「わっ……!」

思わず、僕も声を上げていた。

でも、誰もこっちを見ない。変に思ったりもしない。だって、僕は見えていないから。

そう思ったら、なんだか急に体が軽くなった。

ああ、そっか。
今なら、思う存分はしゃいでいいんだ。

次のプレーでも、渚くんは目立っていた。
ルーズボールにいちばん早く反応して、床すれすれで拾い上げる。そのまま味方へパスを出して、すぐにゴール下へ走り込んだ。もう一度ボールが戻ってきた時には、相手の隙を突くみたいにふっと体をずらして、そのまま綺麗にシュートを決める。

「かっこいい!」
「渚くん、頑張れ!」
「ひゃー!」

隣の子たちに混ざって、僕も馬鹿みたいに夢中ではしゃいでしまう。
渚くん本人には、この声はたぶん届いていない。けれど、それでもなんだかものすごく満たされた気持ちだった。

練習がいったん休憩に入る。
それを見届けて、僕はほくほくした気分のまま、女の子たちに混ざって体育館の外側にあるコンクリートの段差へ腰を下ろした。

「はぁ、藤堂先輩かっこよすぎてぇ」
「わかるぅ! でも、南先輩もいいよね」

女の子たちはそんなふうに話しながら、スマートフォンをいじったり、鏡を覗き込んでリップクリームを塗り直したりしている。

「僕は渚くんがいいと思うなぁ」

ちょっとふざけた気分で、僕もその会話に混ざってみる。もちろん、聞こえていないからこそできることだ。

好きなものを好きだって、誰かに聞いてほしくなる気持ちは、なんだかよくわかった。黙って胸の中だけで抱えているより、口に出してしまった方が、もっと好きになれるみたいな、そんな感じだ。

「てか、渚くん、今日もめっちゃ調子よくない?」
「わかる、シュート綺麗すぎ」

女の子たちの声に、僕も心の中で何度も頷く。

そうなんだよ。
渚くん、すごくいい。

さっきの切り返しも速かったし、ジャンプの高さも、なんだか他の人より軽い感じがした。休憩に入る前の最後の一本なんて、打つ前から入る気がしたくらいだ。

「かっこいいよねぇ」

今度は、ちゃんと相槌を打つみたいにわざと口にしてみる。
渚くんは、世界一かっこいいと思う。

「萌香(もえか)、ときめいちゃったんじゃない?」
「えぇ」

そんな女の子たちのやり取りに、僕はふと目を向けた。

萌香、と呼ばれて、隣の子に揶揄うみたいに肘で小突かれている、髪の長い女子生徒。
清水萌香さんだ。

お昼に名前が出ていた。

渚くんと連絡先を交換していて、渚くんのことが好きなんじゃないか、って言われていた子だ。

「どうなの? やりとり続いてるんでしょ?」

他の子にそう尋ねられて、清水さんはスマホを胸に押し当てたまま、何も言わずに照れたような笑みを浮かべ、それから小さくこくりと頷いた。

「やーっ」
「いいなぁ」
「え、なにそれ、もう絶対そうじゃん」

周りの子たちが、わざとその話題を煽るみたいに囃し立てる。

これ、多分、女の子たちの恋バナってやつだ。

聞いちゃいけない気もする。
でも、話題の中心が渚くんなのだから、気にならないわけがない。

――『清水さんとは、ただの友達』

お昼に、渚くんはそう言っていた。
けれど、清水さんの方は、たぶんそんなふうには思っていない。

だって、はにかむみたいに笑っている今の清水さんは、すごく可愛い。僕がそんなことを思うのはちょっと気持ち悪いかもしれないけれど、いかにも『恋する女の子』という感じがした。

「ねぇ、どんなやりとりしてんの?」
「気になるー!」

それは、僕も気になる。

見えていないのをいいことに、僕はさりげなく女の子たちの方へにじり寄るみたいに、座る位置を少しだけずらした。

「えー、別に普通だよぉ」

清水さんは照れたように体をくねらせながら、そう言って話をはぐらかす。
でも、なんとなく、本当は話したいんだろうなというのが伝わってくる。周りの子たちもたぶんそれがわかっていて、「教えてよぉ」とか「気になる!」とか、面白がるように声を重ねていた。

「んー、普通に、勉強の話とかだよ? あとは、おはよう、とか、おやすみとか」

「えぇー!」

急に声のボリュームが上がって、僕はびくっと肩を揺らした。
女の子たちも自分たちで大きすぎたと思ったらしく、少し気まずそうに顔を寄せ合う。

「それってさぁ、もう付き合ってるみたいじゃぁん!」
「毎日連絡取ってるってこと?!」

その問いかけに、清水さんは「うん……」と口元を緩めながら、小さく頷いた。

そのあとは、きゃいきゃいとした声がまた続いた。
渚くんと清水さんのやりとりがどうとか、どっちから送ってるのかとか、そんな話で盛り上がっている。

そのうち、もともと何か予定があったのか、バスケ部の練習はまだ続いているのに、彼女たちはそこで切り上げて帰っていった。
僕は、遠ざかっていく楽しそうな声と背中を、ぼんやり見送る。

そのタイミングで、コーチの呼びかけが飛んだ。
練習が再開される。

体育館の床をシューズが擦る音。
ボールが跳ねる音。
部員たちの掛け声。

僕はまた、渚くんの姿を目で追った。

普段は爽やかでやわらかい雰囲気なのに、バスケをしている時の渚くんは、汗だくで、表情も真剣で、やっぱりすごくかっこいい。

「いいなぁ……」

さっき、照れたように笑っていた清水さんの顔を思い出して、そんな言葉が勝手に口からこぼれた。

僕は昨日、渚くんから直接「おやすみ」をもらったし、今朝は直接「おはよう」ももらった。

清水さんの話を聞きながら、内心ではそんなふうに、ちょっとだけくだらない優越感に浸っていたけれど、こうしてひとりで思い返してみると、なんだか少し虚しいだけだ。

僕はポケットからスマートフォンを取り出して、渚くんとのトーク画面を開いた。

そこにあるのは、もう何か月も前の新年の挨拶と、それにぽつんと返ってきた干支のスタンプひとつだけ。

本当の僕と渚くんは、たぶんずっとあの時のまま止まっている。

今、渚くんが僕を気にかけてくれるのは、僕が誰からも見えなくなってしまったからだ。
そうじゃなかったら、僕はもう渚くんから「おはよう」も「おやすみ」ももらえない。

そう思うと、清水さんが羨ましかった。

可愛くて、明るくて、ちゃんと自分の気持ちを前に進められそうなあの子が。

渚くんは「友達」だと言っていた。
けれど、そういう関係が、いつか恋に変わることだって、じゅうぶんありえるのだ。




全体練習が終わったあとも、渚くんはいつものように一人残って、シュート練習を続けていた。

体育館の隅、渚くんの荷物が置かれているあたりで、僕は膝を抱えたままその姿を眺めている。何本目かのシュートを打ち終えた渚くんは、膝に手をついて「ふぅ」と息を吐き、タオルで額の汗を拭った。

僕はなんとなく立ち上がって、そばのカゴに入ったボールへ手を伸ばしてみる。
でも、それは僕のものじゃない。やっぱり触れることはできなかった。

「渚くん、パス!」

ふざけて小走りしながら、そんなふうに声をかけてみる。

もちろん、渚くんには届かない。
渚くんはそのままカゴからボールを取り、数回ドリブルしてから、自然な流れでシュート体勢に入る。

「すごい、ナイッシュー!」

僕の声は届かない。

それが気楽だとも思うし、悲しいとも、寂しいとも思う。
自分の気持ちがひとつじゃないことに、僕は少し戸惑っていた。

「もう一本打ってみて」
「うわぁっ、惜しい!」

何かを誤魔化すみたいに、そんなふうに声をかけて、飛び跳ねたり、拍手したりする。
また渚くんがシュートを打って、パシュッと小気味のいい音が響く。

「すごいなぁ、渚くん」

僕は、渚くんとゴールとで三角形を描くみたいな位置にしゃがみ込んだ。

「かっこいいなぁ」

今、目の前でシュートを打つ渚くん。
小さい頃の渚くん。中学生の頃の渚くん。喋ってくれなくなった頃の渚くん。昨日の渚くんと、今日の渚くんを順番に思い出す。

僕は、渚くんが好きだ。

友達として、とか。
憧れ、とか。
もう、そういうのではないってことは、ずいぶん前から気づいている。

渚くんが好きで、だから渚くんにも僕のことを好きになってもらいたい、そう思ってしまう種類の好きだ。

でも、たぶん、それは叶わない。

そう思った途端、急に悲しくなった。
込み上げてきた涙を、膝を抱えた腕に押しつけるようにして拭う。

僕は男で、渚くんも男だ。
僕のこの気持ちが、たぶん少数派なんだってことくらいはわかっている。

もしかしたら、渚くんは僕の気持ちに気づいてしまったのかもしれない。

ちょっと鈍い人ではあるけれど、あれだけ一緒にいたのだ。
それに、あの頃の僕は渚くんへの気持ちに浮かれて、ちゃんと隠せていなかったような気もする。

だから、抱きついた僕を、渚くんは突き飛ばしたんじゃないだろうか。

あれは、単に身体がぶつかるのを避けるみたいな反応じゃなくて、もっと心理的な、咄嗟の拒絶だったのかもしれない。

それでも。

渚くんは、僕がこんなふうになってしまったから、放っておけなくて、優しいから世話を焼いてくれている。

「真尋?」

練習を終えるつもりらしい渚くんが、ボールを片づけて、タオルで汗を拭きながら僕の名前を呼ぶ。

僕は、その少し後ろに立っていた。
でも渚くんは、まだ僕に気づいていない。

前の方へ手を伸ばして、探るみたいな仕草をしている。
僕を探してる。渚くんが、僕を。

この気持ちは、何なんだろう。

意地悪したいわけじゃない。
でも、すぐにはその手を握らなかった。

もっと、もっと……探してほしい。

そんなふうに思ってしまう、このよくわからない気持ちは、何なんだろう。

「真尋ってば! どこ!」

――パシッ。

僕は、その手を握った。

途端に姿が見えるようになったのか、渚くんはほっとしたみたいに表情を緩める。

「ごめん、向こうの方にいた」

そんな風にちょっとだけ嘘をついた。